エピグラフ
«「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。» (詩. 50:7)
使徒は一同の前でキリストを神と呼んでいます。キリストはその信仰を是認されました (ヨハ. 20:28-29)
これは最も議論の余地のない箇所です。使徒がキリストを真の神として信じていることを確信するために必要なすべてがここにあり、そこにいた使徒たちの誰一人として彼に反論せず、キリスト御自身がこの信仰を是認されています。ここでは「θεὸς」(神)という言葉に定冠詞「ὁ」さえ付いています。つまり、キリストを神として信じることに対する反対者たちの異論はすべて取り除かれています。この聖句は、キリストがまさに最高の意味における神として呼ばれていることを理解させてくれます。
«トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」» (ヨハ. 20:28-29)
«ἀπεκρίθη Θωμᾶς καὶ εἶπεν αὐτῷ, Ὁ κύριός μου καὶ ὁ θεός μου. λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, Ὅτι ἑώρακάς με πεπίστευκας; μακάριοι οἱ μὴ ἰδόντες καὶ πιστεύσαντες» (ヨハ. 20:28-29)
これに対して、キリストの神性についての教えに反対する人々は、「これは使徒が単に興奮し過ぎて、驚きのあまり叫んだだけだ」という、説得力に欠ける言葉で反論するのみです。しかし、これは書かれていることに反します。なぜなら、トマスがこれらの言葉をキリスト御自身に向けて述べたと明確に書かれているからです。「彼に(αὐτῷ)答えて(ἀπεκρίθη)言った(εἶπεν)」とあり、つまり「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、文面上、明らかにキリストへの呼びかけなのです。
このようにキリストに呼びかける形で、使徒を誰も訂正せず、キリスト御自身が「あなたは信じた」と言って、その信仰を是認されました。彼がキリストの復活を信じたことは明らかですが、この信仰を得て、彼は自分がどのような信仰を得たかをすぐに示しています。すなわち、キリストを神として信じる信仰です。ここでは批評家たちの文法上の要求もすべて満たされており、この言葉は使徒によって、キリストと使徒たちの前で述べられ、誰も反論せず、キリストがさらに是認しています。もしこれが信じない人々を納得させないなら、いったい何が彼らを納得させることができるというのでしょうか?
キリスト — 万物の上にいます神 (ロマ. 9:5)
キリストが最高の意味で神と呼ばれている、直接的で明確な聖句:
「先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」 (ロマ. 9:5)
«ὧν οἱ πατέρες, καὶ ἐξ ὧν ὁ Χριστὸς τὸ κατὰ σάρκα· ὁ ὢν[1] ἐπὶ πάντων θεὸς εὐλογητὸς εἰς τοὺς αἰῶνας, ἀμήν» (ロマ. 9:5)
キリストを神として信じることの反対者たちは、θεὸς(神)という語に冠詞がないことから、ここでのキリストは最高の意味での神(固有の性質としての神)ではなく、あるいは「神」という語がそもそもキリストに掛かっていないと反論するかもしれません。
しかし、これは不当な反論です。なぜなら、定冠詞は、一つの人格を指し示すすべての属性の前に一度だけ置かれているからです:「ὁ ὢν ἐπὶ πάντων θεὸς」(万物の上にいます神)。とはいえ、最も厳しい批評家でさえ納得するよう、以下ではさらに別の例も考察することにしましょう。
キリスト — 真実の神 (1ヨハ. 5:20)
«わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス‧キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。» (1ヨハ. 5:20)
«οἴδαμεν δὲ ὅτι ὁ υἱὸς τοῦ θεοῦ ἥκει, καὶ δέδωκεν ἡμῖν διάνοιαν ἵνα γινώσκομεν τὸν ἀληθινόν· καὶ ἐσμὲν ἐν τῷ ἀληθινῷ, ἐν τῷ υἱῷ αὐτοῦ Ἰησοῦ Χριστῷ. οὗτός ἐστιν ὁ ἀληθινὸς θεὸς καὶ ζωὴ αἰώνιος» (1ヨハ. 5:20)
使徒ヨハネが「この方こそ」(οὗτός ἐστιν)と書くとき、この指示代名詞が指すのは、直前に出てきた「その御子イエス・キリスト」(Ἰησοῦ Χριστῷ)という御名です。これが最も近い先行詞です。「θεὸς」(神)の前に冠詞「ὁ」があることは、これが今まさに語られていた人格、すなわちイエス・キリストの属性を指し示す、明確な特性であることを強調しています。文法的にも論理的にも、ここでは「この方[イエス・キリスト]こそ、真実の神、永遠の命です」と述べられているのです。
神たるキリストは御自身の血をもって教会を獲られた (使. 20:28)
この聖句はキリストの神性を示しています。ここで「神」と呼ばれている方が、御自身の血によって教会を獲られたからです。神性には血がありません。血があるのは、受肉した御子のみです。御自身の血をもって教会を獲られた「神」と呼ばれているのは、まさに御子なのです。
ギリシア語原文には「御子」という言葉はなく、「神はご自身の血(τοῦ αἵματος τοῦ ἰδίου)をもって教会を買い取られた」と書かれています。
«どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。» (使. 20:28)
«προσέχετε ἑαυτοῖς καὶ παντὶ τῷ ποιμνίῳ, ἐν ᾧ ὑμᾶς τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον ἔθετο ἐπισκόπους, ποιμαίνειν τὴν ἐκκλησίαν τοῦ θεοῦ, ἣν περιεποιήσατο διὰ τοῦ αἵματος τοῦ ἰδίου» (使. 20:28)
かつて誰にも見えなかった神が、肉に現れ、御自身を示された (1テモ. 3:15-16)
「キリストは肉において現れ」という句は、新共同訳ではこのように記されていますが、ギリシャ語原文ではここに「キリスト」という語はなく、代わりに「その方」(Ὃς)という関係代名詞が置かれています。しかし、この関係代名詞は神を指しています。なぜなら、その直前で「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」と神について語られているからです。そして、その後に続く文で、ここで神と呼ばれているのがイエス・キリストに他ならないことが明らかになります。なぜなら、肉に現れ、それによって天使たちに示されたのは、父ではなく御子、すなわちイエス・キリストであり(父なる神は依然として見えず)、栄光のうちに昇天されたのも御子だからです。
(ビザンティン本文(多数派写本)では、ここは θεὸς ἐφανερώθη ἐν σαρκί —「神は肉において現れ」で、ロシア語の宗務院訳もこの読みに従っています。)
«行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。» (1テモ. 3:15-16)
«ἐὰν δὲ βραδύνω, ἵνα εἰδῇς πῶς δεῖ ἐν οἴκῳ θεοῦ ἀναστρέφεσθαι, ἥτις ἐστὶν ἐκκλησία θεοῦ ζῶντος, στῦλος καὶ ἑδραίωμα τῆς ἀληθείας. καὶ ὁμολογουμένως μέγα ἐστὶν τὸ τῆς εὐσεβείας μυστήριον· Ὃς ἐφανερώθη ἐν σαρκί, ἐδικαιώθη ἐν πνεύματι, ὤφθη ἀγγέλοις, ἐκηρύχθη ἐν ἔθνεσιν, ἐπιστεύθη ἐν κόσμῳ, ἀνελήμφθη ἐν δόξῃ» (1テモ. 3:15-16)
神また主イエス・キリスト (2テモ. 4:1、2ペト. 1:1)
この聖句では、イエスが神またキリスト(「キリスト」はギリシャ語で「油注がれた者」を意味し、待望された世界の救い主の称号です(使. 2:36))と呼ばれています。ロシア語訳聖書(シノド訳)では「神と主イエス・キリストの御前に」と記されていますが、ギリシャ語原文では少し異なり、文字通りには「神とイエス・キリストの御前に」(τοῦ θεοῦ καὶ Χριστοῦ Ἰησοῦ)と書かれています。
ここで、これは神とイエス・キリストという二人の位格について述べているのだと反論する人もいるかもしれません。しかし、この反論は不当です。なぜなら、両方の語が一つの冠詞「τοῦ」(属格の定冠詞)を共有しているからです。つまり、両方の語が同じ一つの位格、すなわちイエスを指し示しているのです。さらに、続く「τοῦ μέλλοντος」(来たりて裁くべき)という分詞が単数形であることも、先行する記述が単一の位格についてであることを補強しています。
«神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト‧イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。» (2テモ. 4:1)
«Διαμαρτύρομαι ἐνώπιον τοῦ θεοῦ καὶ Χριστοῦ Ἰησοῦ, τοῦ μέλλοντος κρίνειν ζῶντας καὶ νεκρούς, καὶ τὴν ἐπιφάνειαν αὐτοῦ καὶ τὴν βασιλείαν αὐτοῦ·» (2テモ. 4:1)
例えば、同じく一つの定冠詞で繋がれた類似の文法構造があります:
«わたしたちの主イエス‧キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス‧キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、» (1ペト. 1:3)
«Εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, ὁ κατὰ τὸ πολὺ αὐτοῦ ἔλεος ἀναγεννήσας ἡμᾶς εἰς ἐλπίδα ζῶσαν δι᾿ ἀναστάσεως Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐκ νεκρῶν» (1ペト. 1:3)
ここでは「神と父」(θεὸς καὶ πατήρ)という二つの語が、一つの共通の冠詞「ὁ」(主格の定冠詞)を持っており、それゆえ、この二つの語は異なる二つの位格ではなく、同じ一つの位格を指し示しています。
この同じ文法規則が、以下の構造にも当てはまり、ここでキリストは神と呼ばれています:
«イエス‧キリストの僕であり、使徒であるシメオン‧ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス‧キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。» (2ペト. 1:1)
«Συμεὼν Πέτρος δοῦλος καὶ ἀπόστολος Ἰησοῦ Χριστοῦ τοῖς ἰσότιμον ἡμῖν λαχοῦσιν πίστιν ἐν δικαιοσύνῃ τοῦ θεοῦ ἡμῶν καὶ σωτῆρος Ἰησοῦ Χριστοῦ·» (2ペト. 1:1)
福音記者ルカはキリストを神と呼んでいる (ルカ. 8:39)
福音記者ルカが記した聖句を考察しましょう。引用の前半はイエス・キリストの言葉であり、後半は語り手である福音記者ルカ自身の言葉です。キリストは、いやされた人に、神がその人にしてくださったことを話して聞かせるようにと命じて送り出されます。ところが福音記者ルカは、いやされた人がイエスがしてくださったことを言い広めた、と記しています。つまり福音記者ルカの理解では、ここでイエスと神は同じ方なのです:
«「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。» (ルカ. 8:39)
«Ὑπόστρεφε εἰς τὸν οἶκόν σου, καὶ διηγοῦ ὅσα σοι ἐποίησεν ὁ θεός. καὶ ἀπῆλθεν καθ᾿ ὅλην τὴν πόλιν κηρύσσων ὅσα ἐποίησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς» (ルカ. 8:39)
キリストを神と信じる信仰の反対者たちは、福音記者ルカはいやされた人の行動を描写したにすぎない、と反論するかもしれません。イエスは神がしてくださったことを話すように命じたのに、いやされた人はそれを誤解し、神がしてくださったことではなく、イエスがしてくださったことを話し始めたのだ、というのです。しかし、ここで理解しておくべきことがあります。キリストを神と信じる信仰の反対者たちは、福音記者ルカもキリストの神性に反対していた、つまりルカもキリストを神と考えていなかったと見なしています。もしそうなら、福音記者は、いやされた人がイエスに命じられたのとはまったく違うことをしたという誤りを、必ず何らかの形で指摘したはずです。少なくとも「しかし」などの逆接の言葉を用いて、「イエスは帰って神がしてくださったことを話すように言われた。しかし彼は行って、イエスがしてくださったことを言い広めた」と書いたでしょう。さらにありそうなのは、いやされた人が誤ってイエスを神と考えたので、神のことではなくイエスのことを言い広めたのだ、とはっきり書くことです。これは些細なことではなく、信仰の土台に関わることなのです。
しかし福音記者は、何の対比も用いていません。同じ構文を繰り返しているのです。「神が…なさった…イエスが…してくださった」(ギリシア語原文では、どちらも同じ動詞 ἐποίησεν —「行った」です)。これは、福音記者がキリストの神性を信じていたことを示す重みのある証拠です。
キリストの内には満ちあふれる神性が宿っている (コロ. 2:6,9)
この聖句は、もちろんさまざまに解釈されうるものですが、ほかの聖句に加えて注目に値します:
«あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。<…> キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており» (コロ. 2:6,9)
«Ὡς οὖν παρελάβετε τὸν Χριστὸν Ἰησοῦν τὸν κύριον, ἐν αὐτῷ περιπατεῖτε, <...> ὅτι ἐν αὐτῷ κατοικεῖ πᾶν τὸ πλήρωμα τῆς θεότητος σωματικῶς» (コロ. 2:6,9)
(「見える形をとって」は、ギリシア語原文では σωματικῶς —「体をとって」です。)
使徒たちは人々にキリストを神として宣べ伝えている (使. 17:3,23)
«「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。<…> 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。» (使. 17:3,23)
(「伝えている」と「お知らせしましょう」は、ギリシア語原文ではどちらも同じ動詞 καταγγέλλω —「宣べ伝える」です。パウロは、テサロニケで宣べ伝えているイエスと、アテネで「知られざる神」として宣べ伝える方とを、同じ言葉で語っています。)
神が受肉された (ヨハ. 1:1-18)
使徒ヨハネは「言」を神と呼び、それから、その言が肉となったことを示しています。洗礼者ヨハネが指し示したのは、まさにこの肉となった言であり、彼が指し示したのはイエス・キリストでした:
«初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。<…> 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」<…> いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。» (ヨハ. 1:1-3,14-15,18)
使徒はここで、キリストを単に父の子とではなく、独り子と呼んでいます。それは、キリストのように父の子である者はほかにだれもいない、という意味です。初子(最初に生まれた者)ではなく、独り子(ただ一人の子)なのです。ほかに子はいません。
キリストを神とする教えの反対者たちは、ほかの二箇所ではキリストが「長子」とも呼ばれている、と反論するでしょう:
«神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。» (ロマ. 8:29)
«更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。» (ヘブ. 1:6)
これに対しては、こう言うべきです。キリストが長子と呼ばれるのは、死者の中から最初に復活されたからです。後で再び死ぬような復活ではなく(そのような復活なら、以前にも預言者たちが死者をよみがえらせています)、死に打ち勝つ方として、変容した姿で、永遠に生きるために復活し(ロマ. 6:9)、永遠に支配するために栄光のうちに天に上げられたのです。キリストの前に、このように復活した者はだれもいません。キリストが最初にこのように復活された、すなわち死者の中から最初に生まれた方、初穂となられたのです:
«また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。» (コロ. 1:18)
«更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に» (黙. 1:4-6)(新共同訳では、5節の内容が4節に含められています。「死者の中から最初に復活した方」は、ギリシア語原文では ὁ πρωτότοκος τῶν νεκρῶν —「死者の中からの長子」です。)
«つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。» (使. 26:23)
そのほかの引用:キリスト — 神の独り子
詩編で神について言われたことが、御子について言われている (ヘブ. 1:8-12)
使徒パウロは、預言的な詩編をキリストに当てはめ、それらは御子について言われたのだと言っています:
御子は神である。
御子が天と地の基を据えた。
神である御子に、神が油を注いだ(ギリシア語 Χριστός —「油注がれた者」)。
«一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ(אֱלֹהִים、エロヒム)、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ(אֱלֹהִים、エロヒム)、あなたの神(אֱלֹהֶיךָ、エロヘハ)は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」[詩. 45:7-8 の引用] また、こうも言われています。「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。」» (ヘブ. 1:8-12)
キリストを神と信じる信仰の反対者たちは、これに対して、ここで神は一般的なヘブライ語の「エロヒム」と呼ばれているにすぎない、この語は真の神にも偽りの神々にも用いられた、と反論するでしょう。彼らは、神がテトラグラマトン、すなわちヘブライ語の四文字 יְהוָֽה(YHWH、ヤハウェと読まれる)で示されることを求めるでしょう。使徒が引用している二つ目の詩編(詩. 102:26-28)は、彼らのこの要求を満たしています。この詩編全体が神(יְהוָֽה、YHWH)への呼びかけであり、神は20節と23節で יְהוָֽה という名で呼ばれています(詩. 102:20,23)。詩編の表題そのものも「祈り。心挫けて、主(יְ֝הוָ֗ה、YHWH)の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」です(詩. 102:1)。このように、使徒が引用している言葉を含むこの詩編全体が神への祈りであり、そこで神は、彼らが求めるとおり、ヤハウェと呼ばれています。ところが使徒は、これは御子について言われたのだと言います。つまり、ヤハウェとは御子、イエス・キリストなのです。(ロシア語の宗務院訳など七十人訳の番号では、詩. 44:7-8、101:26-28 です。)
神は救い主、イエス・キリストは救い主 (テト. 1:3-4)
«わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。» (テト. 1:3-4)
«また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。» (テト. 2:13)
イエスは旧約の神と同じ神である (マタ. 23:34、エレ. 7:21,25)
キリストを神と信じる信仰の反対者たちは、使徒たちがキリストを文字どおり神と呼んでいることを示されると、「神と呼ばれるだけでは足りない」と反論します。預言者モーセも神と呼ばれたではないか、というのです:
«主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。» (出. 7:1)(「神の代わりとし」は、ヘブライ語原文では נְתַתִּיךָ אֱלֹהִים לְפַרְעֹה —「あなたをファラオに対して神とした」です。)
«καὶ εἶπεν κύριος πρὸς Μωυσῆν λέγων Ἰδοὺ δέδωκά σε θεὸν Φαραω, καὶ Ααρων ὁ ἀδελφός σου ἔσται σου προφήτης·» (出. 7:1、七十人訳)
第一に、ここでは、批判者たち自身が先に求めていた条件、すなわち「神」という語に冠詞があること、が満たされていません。ここには冠詞がありません。実際、本文から分かるように、預言者モーセはファラオに対して、与えられた役割を担うにすぎません。モーセが本性によって神であり、神性を自分自身の変わらない性質として持っていることを示すものは、ここには何もありません。そのうえ、批判者たちが私たちの論拠に対して求める第二の条件も満たされていません。ヘブライ語本文でも、ここにあるのは一般的な語 «אֱלֹהִ֖ים»(エロヒム)であって、テトラグラマトン YHWH ではありません。つまり、ここでは最高の意味での真の神について語られているのではないのです。
第二に、イエス・キリストこそがまさにその真の神、すなわち創造主、ヤハウェ、父祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の神であることは、使徒たちのほかの言葉から確かめることができます。たとえば、キリスト御自身が、イスラエルに預言者たちを遣わしたのは御自分だと言われますが、旧約では、すべての預言者を遣わしたのは神ヤハウェだと言われています。このことからも、キリストが受肉された神ヤハウェであることが直接導かれます。このほかの例も以下に挙げます。
預言者を遣わしたのは神だけである。そして預言者を遣わしたのはキリストである
キリスト御自身が、イスラエルに預言者たちを遣わしたのは御自分だと言われます:
«だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。» (マタ. 23:34)
神は御自分で(仲介者を通さずに)預言者たちに語りかけ、彼らを遣わされます:
«イスラエルの神、万軍の主(יְהוָ֥ה、YHWH、ヤハウェ — 注)はこう言われる。<…> お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。» (エレ. 7:21,25; 35:15; 44:4)
«神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」» (出. 3:12)
«到来するその日は、と万軍の主は言われる。<…> 見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。» (マラ. 3:19,23)(ほかの翻訳では4:1,5。)
«主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。…」» (士. 6:8)
«主はそのアマツヤに対して怒りに燃え、預言者を遣わされた。…» (代下. 25:15)
«サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして…」» (サム上. 15:1)
«主はナタンをダビデのもとに遣わされた。» (サム下. 12:1)
«主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示された» (サム下. 12:24-25)(「預言者ナタンを通してそのことを示された」は、ヘブライ語原文では וַיִּשְׁלַח בְּיַד־נָתָן הַנָּבִיא —「預言者ナタンの手によって遣わした」です。)
«わたしは、わが僕、預言者たちを、お前たちのもとに遣わしたが、お前たちは彼らを迎えて殺し、その体を切り刻んだ。わたしは彼らの血について復讐する。」これは主の言葉。» (3エズ. 1:32)
ユダヤ人は預言者モーセの時代に荒れ野でキリストを試みた (1コリ. 10:9、詩. 95:6-9)
«また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。» (1コリ. 10:9)
荒れ野でユダヤ人が試みたのは、まさに神、創造主でした。つまり、キリストこそ、彼らが試みたその神なのです:
«わたしたちを造られた方主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。» (詩. 95:6-9)(ほかの翻訳では詩. 94:6-9。)
古代の写本[1]
1. ユダ. 5 は、今日の本文では次のとおりです。「あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです」(ユダ. 5)。しかし、使徒ユダの手紙を含む最古のパピルス p72(3世紀)では、この箇所は異なっています。「すべてを知っているあなたがたに思い出してほしい。神キリスト(Theos Christos)が、一度民をエジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです」。(最新の校訂本文 NA28 でも、ここは Ἰησοῦς —「イエスが」となっています。)
2. コロ. 2:2 の終わりは、ビザンティン本文(多数派写本)やロシア語の宗務院訳では「神であり父である方と、キリストとの秘められた計画を知るために」(τοῦ μυστηρίου τοῦ θεοῦ καὶ πατρὸς καὶ τοῦ Χριστοῦ)となっています。しかし、使徒パウロの手紙の本文を伝える最古のパピルス p46(2世紀末)では、「神キリスト(tou Theou Christou)の秘められた計画を知るために」と書かれています。新共同訳も「神の秘められた計画であるキリスト」と、この古い読みに近い本文に従っています(コロ. 2:2)。
3. 2ペト. 1:2 は、今日の本文では「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」です(2ペト. 1:2)。ところが、この手紙の最古の写本では、この箇所は「神イエス(tou Theou Iesou)、わたしたちの主を知ることによって…」となっています。
4. ヨハ. 1:18 は、ビザンティン本文(多数派写本)やロシア語の宗務院訳では「父のふところにいる独り子(ὁ μονογενὴς υἱός)」です。しかし、ヨハネによる福音書の最も初期の写本であるパピルス p75(3世紀半ば)と p66(2世紀末)では、「独り子である神(μονογενὴς θεός)、父のふところにいる方」と読まれます。リヨンの聖エイレナイオスも、この箇所を同じ形で引用しています。新共同訳もこの古い読みに従って「父のふところにいる独り子である神」と訳しています(ヨハ. 1:18)。
キリストは二つの世界、神の世界と人の世界に住まう方
神と人の両方に手を置くような仲介者はいません。これらの世界は互いに触れ合っておらず、何によっても、だれによっても結ばれていないからです:
«あの方とわたしの間を調停してくれる者仲裁する者がいるなら» (ヨブ. 9:33)(ヘブライ語原文では לֹא יֵשׁ־בֵּינֵינוּ מוֹכִיחַ יָשֵׁת יָדוֹ עַל־שְׁנֵינוּ —「わたしたちの間には、わたしたち二人の上に手を置く仲裁者がいない」です。)
イエス・キリスト(造られない神であり、造られた人でもある方)は、御自身によってこれらの世界を結ばれます:
«神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。» (1テモ. 2:5)
旧約との並行箇所
キリストは、神とまったく同じように、王の王、主の主である
預言者たちは神を「主の主」と呼んでいます:
«神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。» (詩. 136:2-3)(ほかの翻訳では詩. 135:2-3。)
使徒たちは神を「主の主」「王の王」と呼んでいます:
«神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。» (1テモ. 6:15-16)
使徒たちはイエス・キリストを「主の主」「王の王」と呼んでいます:
«この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。» (黙. 17:14)
«この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。» (黙. 19:16)
キリストは、神と同じように、全能者である
神は全能者です:
キリストは全能者です:
«神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」» (黙. 1:8)
«御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。» (ヘブ. 1:3)
同じ書の後の箇所では、神が全能者と呼ばれています:
«彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。» (黙. 15:3)
キリストは「在る者」(ヘブライ語でヤハウェ)である
キリストは、旧約で神が呼ばれていたのと同じように(ヤハウェ、在る者)、御自分を呼んでおられます:
«彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。» (ヨハ. 8:25)(ギリシア語原文では Τὴν ἀρχὴν ὅ τι καὶ λαλῶ ὑμῖν で、解釈が分かれる箇所です。ロシア語の宗務院訳と教会スラヴ語訳は「初めから在る者である、あなたがたに言っているとおり」と訳しています。同じ章でイエスは、「わたしはある」(ἐγώ εἰμι)とも言われています:ヨハ. 8:24,28,58。)
神はすべての聖なる者と共に来られる。キリストも同じである
神(ヘブライ語 יהוה)はすべての聖なる者と共に来られます:
«わが神なる主は、聖なる御使いたちと共にあなたのもとに来られる。» (ゼカ. 14:5)(ヘブライ語原文では וּבָא יְהוָה אֱלֹהַי כָּל־קְדֹשִׁים עִמָּךְ —「わが神、主は来られる。すべての聖なる者があなたと共に」です。)
«アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。» (ユダ. 1:14)
キリストはすべての聖なる者と共に来られます:
«わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき» (1テサ. 3:13)
«人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき» (マタ. 25:31)(ビザンティン本文(多数派写本)では「聖なる天使たちを皆」(πάντες οἱ ἅγιοι ἄγγελοι)です。)
創造主であり審判者である方 — 神
創造主であり審判者である方 — 神
«大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」» (黙. 14:7)
ムスリム(イスラム教徒)の方々にとっても有益な知識
«ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。» (イザ. 9:5)
«エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。» (ミカ. 5:1)
«あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」» (ヨハ. 8:56-58)
«イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。» (ルカ. 10:18)
«舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。» (マタ. 14:33)
«イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」» (マコ. 2:5-7)
«このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。» (ヨハ. 5:18)
«すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。» (ヨハ. 5:21)
«二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたし*もその中にいるのである。» (マタ. 18:20)
*イエス・キリスト