イエス・キリストに祈ってよいのか
もちろん、よいのです。しかしこの戒めを、わたしたちは聖書からではなく、聖伝から受けています。
聖書だけに基づいて、イエス・キリストに祈らなければならないと主張できるか
聖書には、イエス・キリストに祈れという戒めはありません。ただし、ヨハ. 14:14 にはある示唆があります(ギリシア語本文 ἐάν τι αἰτήσητέ με —「もしわたしに何かを願うなら」。新共同訳もこのように訳しています:「わたしの名によってわたしに何かを願うならば」)。
イエス・キリストは父に祈られ(マコ. 14:36; ルカ. 22:42)、「主の祈り」を与えられました(マタ. 6:9; ルカ. 11:2)。つまり、父に祈ることを教えられたのです。
聖伝なしに、聖書だけに基づいて(もちろん聖書についての自分の理解に基づいて)信仰を築く人々も、イエス・キリストへの祈りを否定することはできません。そこで彼らは、イエス・キリストに祈る実例があるのだから、キリストに祈ってよいのだと言います。しかし、その実例を示すことさえしばしば難しいのです。非常にまれだからですが、もちろん実例はあります。たとえば:
「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて(ἐπικαλούμενον)、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った」(使. 7:59)
反論
「わたしの名によって願う」
プロテスタントは、戒めはこの節にあると指摘して反論します。
「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハ. 14:14)
しかし、同じ告別の説教の中で、主イエス・キリストは父に願うよう教えておられます。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハ. 16:23)