キリストは教会の根である
「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして(ἐρριζωμένοι)造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」(コロ. 2:6-7)
「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(黙. 22:16)(「ひこばえ」と訳されている語は、ギリシア語原文では ῥίζα —「根」です。ἐγώ εἰμι ἡ ῥίζα —「わたしは根である」。)
キリストはまた、枝を養うぶどうの木である
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ. 15:1-6)
キリストはまた、教会の頭である
「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」(コロ. 1:18)
「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェ. 1:22-23)
「頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」(コロ. 2:19)
イスラエルの一部(枝)は、キリスト(根)から離れ落ちた
イスラエルの一部は離れ落ち、異邦の諸民族が根(キリスト)に接ぎ木されました。切り離されたユダヤ人は、根の切り離された部分ではなく、折り取られた枝と呼ばれています。
「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(ロマ. 11:16-18)
「イザヤも大胆に、『わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています。しかし、イスラエルについては、『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています」(ロマ. 10:20-21)
「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。<…> しかし、神は彼に何と告げているか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。<…> では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです」(ロマ. 11:1,4-5,7)
折り取られた枝(イスラエルの一部)の代わりに、新しい枝(ほかのすべての民族)が根に接ぎ木される
「エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。彼らは他の神々に心を寄せ主にねたみを起こさせいとうべきことを行って、主を怒らせた。彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ新しく現れ、先祖も知らなかった無縁の神々に犠牲をささげた。お前は自分を産み出した岩を思わず産みの苦しみをされた神を忘れた。主はこれを見て御自分の息子、娘への憤りのゆえに彼らを退けて、言われた。わたしは、わたしの顔を隠して彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代真実のない子らだ。彼らは神ならぬものをもってわたしのねたみを引き起こしむなしいものをもってわたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし愚かな国をもって彼らの怒りを燃えたたせる」(申. 32:15-21)
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。主はこう言われる。太陽を置いて昼の光とし月と星の軌道を定めて夜の光とし海をかき立て、波を騒がせる方その御名は万軍の主。これらの定めがわたしの前から退くことがあろうとも、と主は言われる。イスラエルの子孫は永遠に絶えることなく、わたしの民である。主はこう言われる。もし、上においては、天が測られ下においては、地の基が究められるならわたしがイスラエルのすべての子孫を彼らのあらゆる行いのゆえに拒むこともありえようと主は言われる」(エレ. 31:31-37)
「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(ロマ. 11:16-18)
「わたしに尋ねようとしない者にもわたしは、尋ね出される者となりわたしを求めようとしない者にも見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいると言った」(イザ. 65:1)
「わたしは彼女を地に蒔きロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみロ・アンミ(わが民でない者)に向かって『あなたはアンミ(わが民)』と言う。彼は、『わが神よ』とこたえる」(ホセ. 2:25)
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。『わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる』」(ロマ. 9:24-26)
教会では、もはや民族は問題にならない
使徒は ロマ. 11:16-18 で、一方の極端、すなわちユダヤ人を軽んじ、彼らの上に自分を高めることを打ち砕いています。もう一方の極端は、彼らの前にひれ伏すことです。その中間の道は、教会には民族の区別がないということです。教会では皆が互いに兄弟であり、教会に加わる人は皆、民族にかかわらず、また神がどこで、どのような者として生まれるように定められたかにかかわらず、兄弟となります。
「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロ. 3:11)
教会では、ユダヤ人と異邦人の間に区別はない
「議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした』」(使. 15:7-9)
「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。<…> それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。<…> 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」(エフェ. 2:13-16,18,20)
イスラエルの民は、救い主がこの世に来られるために選ばれた。この目的は果たされた
アブラハムの子とは、信じる者たちである
「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(ガラ. 3:6-10)
ユダヤ人とは、外見上ではなく、霊的に(内面で)そうである者である
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(ロマ. 2:28-29)
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラ. 6:15)(ビザンティン本文(多数派写本)では、この節は「キリスト・イエスにあっては(ἐν γὰρ Χριστῷ Ἰησοῦ)、割礼も無割礼も何の力もなく」と始まります。)
すべての民族から立てられる新約の祭司職についての預言
旧約の教会では、祭司はユダヤ人の中から、レビ族の中から、アロンの家系の中からだけ立てられました。しかし新約の教会では、ユダヤ人(アロンの家系)からだけでなく、すべての民族から祭司が立てられます。
「わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる」(イザ. 66:18-21)