旧約聖書における十字架の予型
十字架 — 勝利と和解の道具
「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(コロ. 2:13-15)(「キリストの勝利の列に従えて」は、ギリシア語原文では θριαμβεύσας αὐτοὺς ἐν αὐτῷ —「それ(十字架)によって、あるいは御自身において、彼らに凱旋して」です。)
「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ. 2:16)
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ. 1:20)
十字架は祭壇であり、偉大な聖なるものである
主イエス・キリストは、十字架という祭壇の上で、御自身をいけにえとして献げられました。
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(ヘブ. 9:28)
このことを裏付けるのが、十字架上のキリストのいけにえの旧約における予型、すなわちイサクの献供です。アブラハム(父)がイサク(独り子)をいけにえとして献げます。
「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」(創. 22:2)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ. 3:16)
イサクは、自分がその上で献げられることになるものを、山へ運び上げます。
「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った」(創. 22:6)
「こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた」(ヨハ. 19:16-18)
アブラハムはイサクを祭壇の上に置いた
「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」(ヤコ. 2:21)
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(使. 2:23)
十字架の上で、祭壇の上でのように、人類の救いが成し遂げられます。
「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ. 2:16)
祭壇は至聖なるものである
「七日の間、祭壇のために罪の贖いの儀式を行って、聖別すれば、祭壇は神聖なものとなる。祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる」(出. 29:37)(「神聖なもの」と訳されている語は、ヘブライ語原文では קֹדֶשׁ קָדָשִׁים —「至聖なるもの(聖の聖)」です。)
福音書
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』」(マコ. 10:21)(ビザンティン本文(多数派写本)では、最後の言葉は「十字架を負って、わたしに従いなさい」〔ἄρας τὸν σταυρόν〕です。正教会の教会スラヴ語訳やロシア語訳もこの読みに従っています。)
「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(マコ. 8:34)
「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタ. 10:38)
「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(マタ. 16:24)
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(ルカ. 9:23)
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ. 14:27)
「言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い』」(マタ. 27:40)
「『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」(マタ. 27:42)
「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マコ. 15:30)
「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マコ. 15:32)
使徒
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(ヘブ. 12:2)
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラ. 6:14)
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(1コリ. 1:17)
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリ. 1:18)
「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(ガラ. 6:12)
「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」(ガラ. 5:11)
「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ. 2:16)
「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」(フィリ. 3:18)
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ. 1:20)
「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロ. 2:14)