キリスト者は自分たちを神の僕、文字どおりには奴隷(ギリシア語 δοῦλοι)と呼びます。キリストなる神の御心を行おうと努めているからです。キリスト者はキリストに仕え、キリストの奴隷であり、自分の意志をキリストに従わせます。しかもそれを自発的に行います。キリストは、その奴隷であることが恥ではないような方です。世界の造り主の奴隷であることも恥ではありません。そしてキリスト者が目指すキリストの国においては、王の王の従順な奴隷であることは、むしろ誉れなのです。(訳注:新共同訳は δοῦλος を多くの場合「僕」と訳していますが、ところどころで「奴隷」とも訳しています。)
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(ルカ. 12:37)
キリストは御自分の僕と名乗るよう命じておられる
「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ. 17:10)
「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」(ヨハ. 13:13)
「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」(ヨハ. 15:20)
使徒たちはキリストの僕であるよう命じている
「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い」(エフェ. 6:5-6)
「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」(1コリ. 7:22)
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(1ペト. 2:16)
使徒たちは自分をキリストの僕と呼んでいる
「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」(ガラ. 1:10)
「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです」(テト. 1:1)
「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ」(ユダ. 1:1)
「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」(ヤコ. 1:1)
「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」(2ペト. 1:1)
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(ロマ. 1:1)
「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」(コロ. 4:12)
生神女は自分を主のはしためと呼んでいる
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った」(ルカ. 1:38)
旧約において神は信者たちを御自分の僕と呼ばれた
「それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしの僕らは糧を得るがお前たちは飢える。見よ、わたしの僕らは飲むことができるがお前たちは渇く。見よ、わたしの僕らは喜び祝うがお前たちは恥を受ける。見よ、わたしの僕らは心の喜びに声をあげるがお前たちは心の痛みに叫びをあげ魂を砕かれて泣き叫ぶ」(イザ. 65:13-14)
「ヤコブから子孫をユダからわたしの山々を継ぐ者を引き出そう。わたしの選んだ者らがそれを継ぎわたしの僕らがそこに住むであろう」(イザ. 65:9)
預言者たちと信者たちは自分を神の僕と呼んだ
「わたしはあなたの僕、あなたのはしための子、弱く、はかない命の人間です。裁きと律法とをまだわきまえていません」(知. 9:5)
「そこでわたしは反論した。『天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない』」(ネヘ. 2:20)
「彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です」(ネヘ. 1:10)
「そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません』」(サム上. 1:11)
「僕たちよ、主をほめたたえよ。主をほめ歌い、世々限りなくあがめよ」(ダニ. 3:85、七十人訳。三人の若者の歌。ギリシア語からの訳:εὐλογεῖτε, δοῦλοι, τὸν κύριον。この箇所は新共同訳のダニエル書にはありません)
「すると彼らは、こう答えました。『わたしどもは天地を創造された主の僕です』」(2エズ. 6:12)(新共同訳では「エズラ記(ギリシア語)」。)
主人を愛する奴隷もいた
「自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。<…> もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、『わたしはあなたのもとから出て行きたくありません』と言うならば」(申. 15:13,16)