現代トルコの領域、まさにその首都アンカラのある場所に、古代にはガラティアが位置していました。この名は、紀元前3世紀にこの地に侵入し占領したケルト諸部族(ガリア人またはガラティア人)の連合に由来します。ギリシャ人と混交したこれらのケルト人の子孫は、1世紀に使徒パウロからキリスト教の宣教を聞きました。こうしてここにキリストの教会が生まれたのです。
しかし、使徒が彼らのもとを去った後、これらのキリスト者は、自分たちはキリスト者だと称しながらも誤った考えを広めている他の宣教師たちに耳を傾けるようになりました。これを憂慮した使徒パウロは、ガラティアのキリスト教共同体に手紙を送りました。それが新約聖書に含まれる「ガラティア人への手紙」として知られているものです。この手紙によって彼は状況を正し、彼らが受け入れたその意見がなぜ深く誤っており、危険であり、キリスト者にとって許容できないものであるかを詳細に説明しています。
その終わりに彼は付け加えています。「あなたがたを惑わしている者たちが、いなくされてしまえばよいのに」(ガラティア 5:12)。
そしてここに、多くの現代人には非常にそぐわない真実、すなわちキリストの教会には意見の複数主義は存在しないということが見て取れます。教義上の問題に関して、あなたはこう考えてもよく、私は別に考えてもよく、また彼はさらに別の自分なりの考え方をしてもよいなどということはないのです。いいえ。キリストの信仰の教義に関する事柄においては、原則を重んじることが重要です。なぜなら、問題は好みの問題ではなく、真理と虚偽の問題だからです。同じ使徒が別の箇所で、キリスト者には「一つの主、一つの信仰」(エフェソ 4:5)があり、互いに矛盾する多くの異なる信仰があるのではないと言っている通りです。救いに導くのは真理のみであり、虚偽は破滅に導きます。それゆえ、使徒によれば、これらの惑わす者たちとその意見は容認できないばかりか、彼ら自身がキリスト教共同体から排除されるべきなのです。
そしてここで、隠者テオファン聖人が説明しているように、教会による破門宣告(アナテマ)の実践の背後にあるのと同じ考えが表現されています。アナテマの宣告とは、自分の誤った解釈や誤った考えによってキリスト者を惑わす異端者たちを、キリストの真理に従いたいと願う人々から遠ざけること、すなわち同じく排除することに他ならないのです。
疑問が生じます。なぜ使徒パウロ自身がこれらの人々に破門を宣告しなかったのでしょうか。教父たちはこう説明します。それによって彼は、第一に、ガラティア人たちが彼からの戒めを受け入れて、自分たちの環境から偽教師たちを自ら追い出すだろうという信頼を彼らに示しているのです。そして第二に、もし使徒パウロが命令し、彼らがそれに従ったなら、彼らは何か外的なこととして従ったでしょう。しかし彼が、それは単なる自分の願いではなく、キリストの教会においてあるべき姿であると理解させたとき、彼らは自ら心から、そして自発的にこれらの異端者たちを追い出すのです。彼はその決定を彼らに委ねています。
なぜなら、外的な権威が私たちに「追い出しなさい」と命じる場合、自分はその騒ぐ者を追い出した上位者よりも慈悲深いと考えて、追い出された者と何とかして交わりを続けるという誘惑が起こり得るからです。しかし、あなた自身が「この人とはキリストにある兄弟として交わらない」と決断するなら、そのような誘惑の余地はもはや残されません。
また注目すべきは、使徒パウロはガラティア人たち自身には、彼らに言われたことがなぜ真実ではないかを詳しく説明して書いたのに、彼らの騒ぐ者たち、すなわちこれらの偽教師たちには何も書かなかったということです。彼は騒ぐ者たち自身を戒めたり正そうとしたりはしません。使徒自身が言っている通り、「異端の者には、一度目と二度目の戒めの後で、関わってはいけません。あなたがたは、そのような人が真理から外れて罪を犯していることを知っているからです」(テトス 3:10)のであり、言葉で説得できるものではないのです。
さらに続けて、使徒は「異端に身を委ねる者は神の国を受け継がない」(ガラティア 5:19)と言っています。そしてこれはその後の教会の歴史全体、特に、なぜ教父たちが自分の命や公共の平穏への脅威を顧みず、それほどまでに妥協せずに異端と戦ったのかを説明する極めて重要な言葉です。なぜなら、これは単なる言葉の違いではなく、真理と虚偽の問題だからです。そしてまさに、虚偽は救いではなく破滅に導くからこそ、教父たちは使徒パウロと同様に、教会の子供たちをさまざまな異端から守るためにあらゆる努力を払ったのです。
ですから、これを心に留めて、私たちも正教を大切にし、信仰を学び、偽教師たちを避け、自分自身が神の国を受け継がない者の一人とならないように気をつけましょう。