神様はこの世界を創造し、その中で天使と人間を創造されました。では、彼らは他の被造物と何が違うのでしょうか。それは、神様が天使と人間に理性と自由をお与えになったという点です。その結果、彼らの前には、愛の高みへと昇るか、あるいは自己愛の深淵へと堕ちるか、聖性の道を歩むか、それとも罪の道を歩むかという可能性が開かれました。
では、罪の道はどこから始まるのでしょうか。その根源をたどっていくと、天使や人間が神様よりも自分自身を愛し始める時に、罪が始まることが分かります。同様に、聖性は、天使や人間が自分自身よりも神様を愛する時に始まります。罪人は自分のために他者を犠牲にしますが、聖人は他者のために自分自身を犠牲にします。もし自分の利益を相手の利益よりも優先させない限り、人を殺すことは不可能です。そして、もし相手の利益を自分の利益よりも優先させない限り、最後の一片のパンを相手に与えることも不可能です。このように、あらゆる偉業の中にこの自己犠牲が見られると同時に、あらゆる犯罪の中にも「反・自己犠牲」、すなわち自分自身の利益や欲望を、他の人々や神様の利益や欲望よりも優先させるという態度が見られます。
なぜ神様は天使と人間に自由をお与えになったのでしょうか。それは、天使と人間が愛することができるようになるためです。自由なくして愛はなく、愛は不可能だからです。だからこそ、「無理やりに愛を強いることはできない」と言われるのです。もし自分が愛しているのに、相手から愛されていないとしたら、どうすればいいのでしょうか。愛することを強制することは不可能です。まさにそのため、神様は天使と人間に自由をお与えになり、彼らが自ら進んで神様を愛することができるようにし、そして愛することによって神様と結びつき、神様に似た者となることができるようにされたのです。
これこそが、私たちに対する創造主のご計画です。すなわち、私たち一人ひとりが神様を愛することによって、聖なる者となることです。しかし、私たち全員がそれを選ぶわけではありません。そして、このことはすでに最も初期の時代に起こりました。一匹の天使、すなわちサタナが、そしてその後、他の何人かの天使たちが、自己愛という汚物溜めへと堕ちたのです。彼らは皆、善良な者として創造されましたが、悪を選び取ったのです。その後、サタナの唆しによって、最初の人間たち、すなわち私たちの先祖であるアダムとエヴァも神様から離れ落ちました。
罪とは沼地の泥沼のようなものです。そこに堕ちた者は、自分自身では決して這い上がることができません。泥沼にはまった人を、自分自身で救い出すことはできません。彼には、掴まって這い上がるための何か、あるいは、彼のところに来て手を取り、引き上げてくれる誰かが必要です。それがなければ、彼が何をしようと試みても、泥沼は彼をますます深くのみ込んでいくだけです。
そこで、主はこの破滅的な罪の泥沼から私たちを引き上げるために来てくださることを決意されました。神ご自身が来られ、十字架上のご自身の犠牲によって私たちを救ってくださいました。