祈りは長くてもよい
いつも祈れという戒め
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサ. 5:16-18)
「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェ. 6:18)
主イエス・キリストは並外れて長く祈られた
夜通し祈られました。
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ. 6:12)
夕方からほとんど朝まで祈られました。夜は4つの部分、すなわち4つの夜回りに分けられます。第4の夜回りは夜の最後の部分で、ほとんど朝です。キリストはほとんど夜通し祈られたのです。
「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。<…> 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(マタ. 14:23,25)(「夜が明けるころ」は、ギリシア語原文では τετάρτῃ φυλακῇ τῆς νυκτὸς —「夜の第四の見張りの時」です。)
祈りが始まって一時間後に、キリストは使徒たちを起こしに来られ、それがさらに二度繰り返されました。およそ3時間祈られたと考えることができます。
「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。<…> 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、<…> それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。』<…> 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる』」(マコ. 14:32,35,37,39-41)
たとえ
祈りの型である「主の祈り」を与えた後、主はすぐに、祈りにおける粘り強さと忍耐についてのたとえを付け加えられました。
「また、弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう』」(ルカ. 11:5-8)
やもめと裁判官のたとえ:
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」』それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか』」(ルカ. 18:1-7)
祈りは短くてもよい
絶え間ない粘り強い祈りの必要についてのやもめと裁判官のたとえの後、主は、御自分に喜ばれた徴税人の短い祈りについてのたとえを話されます。ただし、福音記者が説明するとおり、このたとえそのものは、自分の義をむなしく確信している人々についてのものです。最後に、キリストは、徴税人がどのようにして神に喜ばれたかを直接指し示しておられます。自分自身と自分の義を低く見ることによってです。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(ルカ. 18:9-14)
反論への応答
くどくどと述べるな
マタイによる福音書では、「主の祈り」の前に、祈りの中で多くを語りすぎてはならないというキリストの言葉が記されています。
「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタ. 6:7)
これは、余計なことを言わないこと、神がすでに知っておられる地上の必要について細々と願わないことの必要について語っています。主御自身も長く祈られ、時には御自分の祈りを繰り返されました。
「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」(マコ. 14:39)
こちらも参照:祈り:空しい多弁のないこと