I. 神と私たち
幸福
1. 「いかに人は誤っていることでしょう―― 幸福を自分の外に求めるとは。異国や旅行、富や名声、大きな所有地や快楽、享楽や虚しい物事に、それらは結局は苦さをもたらすのに。 私たちの心の外に幸福の塔を築くことは、絶えず地震に見舞われる場所に家を建てるようなものです。 幸福は私たち自身の内にあり、これを悟った人は幸いです …幸福とは清い心です。なぜなら、そのような心は神の御座となるからです。 主は清い心を持つ者についてこう言われます。『わたしは彼らの中に住み、彼らの中を歩む。そして彼らにとって神となり、彼らはわたしの民となる』(第二コリント6:16)。 彼らに何がなお欠けることがありましょうか。 何も、実に何もありません! なぜなら彼らは自分の心の中に、最大の善である神ご自身を持っているからです!」(聖ネクタリオス・エギナ司教。『幸福への道』
2. 「神を愛する魂は、神において、また神のみにおいて安息を持ちます… 世の中で人々が歩むすべての道において、彼らは神への希望に近づくまでは、平和を見いだすことはありません」(聖イサアク・シリア人。『言葉』56、89)。
真理
3. 「真理とは、思想ではなく、言葉ではなく、物事の関係ではなく、法則でもありません。 真理とは人格です。 それはすべての存在に浸透し、すべてに生命を与える存在です… もしあなたが愛をもって、愛のために真理を求めるなら、真理はあなたが耐えうる限り、焼かれずに済むほどに、その御顔の光をあなたに示してくれるでしょう」(聖ニコライ・セルビア人。 『善と悪についての想い』)。
4. 「別のキリストや別の真理はありません… 波の色は変わるが、波そのものは変わらない… 同じように、真理は様々な言葉で表現されるが、その本質においては同じままである。なぜなら、それ自身の性質によって、真理は一つだからです。 真理はそれ自体においては分割できないが、傲慢な賢者たちの口においてのみ分割されるのです」(聖エフレム・シリア人)。
5. 「真理とは何か。 ――それは神人キリストとその福音である。 そして、偽りとは、キリストでないものすべて、キリストの福音にないものすべて、福音に反するものすべてである。 それゆえ、キリストへの信仰は「正義の奉仕」(2コリ. 3:9)なのである。 キリストに仕えない者は、偽りに仕える者である。 すべての偽りが罪であるように、すべての罪は偽りである」 (聖ユスティン・ポポヴィチ、1ヨハ. 5:17)。
神は私たちにどのように接しておられるのか。
6. 「神は私たちを、父、母、友、あるいは他の誰かが愛しうる以上に、いや、私たち自身が自分を愛しうる以上にさえも、もっと深く愛しておられます」(聖イオアン・クリュソストモス)。」
7. 「ある修道士が私に語ったところによると、彼が重病を患っていたとき、彼の母が父にこう言ったそうです。『なんと私たちの子が苦しんでいることでしょう。 もしそのことで彼の苦しみを和らげられるなら、私は喜んで自分を切り刻んでもらっても構わない。』 これこそが主の人間への愛です。 主は人々をそれほど深く憐れみたもうたので、実の母のように、いやそれ以上に、彼らのために苦しみたいと願われたのです。 しかし、この偉大な愛を、聖霊の恵みなしに理解できる者は誰もいません」(聖シルアン・アトンスキー。著作、IХ.10)。
8. 「主はすべての人を愛しておられますが、御自身を求める者をなお一層愛してくださいます… 主はその選びたる者たちに、これほどまでに大きな恩寵をお与えになるのです。彼らが愛をもって全地、全世界を包み込み、その魂が、すべての人が救われ、主の栄光を見ることを願う熱望に燃えるほどに」(アトスの聖シルアン。著作、IX.8)。
神についてどう知るのか?
9. 「エジプトのピラミッドについての知識を得るには、人はそれらのピラミッドの至近にいた者たちを信じるか、あるいは自らそのそばに赴くかのいずれかである。第三の道はない。 同様に、人は神についての知識を得ることもできる。すなわち、神の至近に立ち、また立っている者たちを信じるか、あるいは自らそのような神への近しさに至るよう努めるかのいずれかである」(聖ニコライ・セルビア。 善と悪についての考察)。
10. 「蜜の甘さは、言葉によってよりもむしろ 味覚そのものによって、蜜を味わったことのない者に説明されうるものである。 それと同じく、神の善さも、もし私たちが主の善さを自らの経験によって悟ることができないならば、教えの中で明確に伝えられるものではない」(聖大ワシリイ。 詩篇講解、29)。
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