旧約の義人たちは死後に陰府に降ることについて語っている
「わたしの人生は過ぎ去りわたしの計画も心の願いも失われた。夜は昼となり暗黒の後に光が近づくと人は言うがわたしは陰府に自分のための家を求めその暗黒に寝床を整えた。墓穴に向かって『あなたはわたしの父』と言い蛆虫に向かって『わたしの母、姉妹』と言う。どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている」(ヨブ. 17:11-16)(ヘブライ語 שְׁאוֹל בֵּיתִי —「陰府はわたしの家」、ギリシア語 ᾅδης μου ὁ οἶκος —「ハデスはわたしの家」)
「息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた」(創. 37:35)(ヘブライ語 שְׁאֹלָה —「陰府へ」、ギリシア語 εἰς ᾅδου —「ハデスへ」)
「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。生きているものは、少なくとも知っている自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく彼らの名は忘れられる」(コヘ. 9:3-5)
「心に留めてくださいわたしがどれだけ続くものであるかをあなたが人の子らをすべていかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものがひとりでもあるでしょうか」(詩. 89:48-49)(ヘブライ語 מִיַּד־שְׁאוֹל —「陰府の手から」)
キリストの復活の後の天の現実の変化
キリスト以前には、永眠した義人たちの魂が天で神と共にある生に達していなかったことを確かめるには、キリスト以前の天の現実の描写と、キリストの復活の後の描写とを比べることができます。
キリスト以前には、天の現実は山の上で預言者モーセに示されました。預言者が、見た像に従って地上の神殿(幕屋、聖所)を造るためです:
「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。<…> あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」(出. 25:8-9,40)
「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(ヘブ. 9:24)
旧約の神殿の構造と像を調べると、キリストのいけにえの前には、天には神(見えない仕方で)と聖なる天使たちだけがいることが分かります(王上. 6:29)。
キリストの復活と昇天の後、その人性において見える神が天に座しておられ(エフェ. 1:20-21; 黙. 3:21)、そこには天使たちが今もとどまり(黙. 8:3; 黙. 15:6)、義人たちの魂も現れます(黙. 6:9-11; 黙. 14:1,3-5)。この新しい天の現実を、わたしたちは神学者ヨハネの黙示録に見ます。
このように、新しい天の現実においては、神と天使たちのほかに、キリストの復活の前にはそこにいなかった義人たちの魂も現れるのです。
旧約 — 神殿には神と天使たちだけ
キリストのいけにえの前、旧約において神は預言者モーセに山の上で神殿を示し、地上ではすべてを示された像に従って作るよう命じられます(出. 25:8-9,40; ヘブ. 9:24)。結局モーセは神殿を造りますが、そこでは神はまったく描かれておらず、神の現れる場所(契約の箱の蓋)の周りには天使の像が置かれ、すべての壁と垂れ幕にも天使の像があります。
見えない神
神の命令によって建てられた旧約の神殿には、神の像はありませんでした。神は見えない方だったからです。最も大切な場所には聖なる物を納めた契約の箱だけが置かれ、その蓋の上、二体のケルビムの間で神は御自身を現し、語られました:
「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出. 25:22)
聖なる天使たち
神殿は至る所、天使(ケルビム)の像で満たされていました:
「打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う」(出. 25:18-20)
「ソロモンはオリーブ材で二体のケルビムを作り、内陣に据えた。その高さは十アンマであった。<…> ソロモンはこのケルビムを神殿の奥に置いた。二体のケルビムはそれぞれ翼を広げ、一方のケルビムの翼が一方の壁に触れ、もう一方のケルビムの翼も、もう一方の壁に触れていた。また、それぞれの内側に向かった翼は接し合っていた」(王上. 6:23,27)
「彼は、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で垂れ幕を作ったが、それにもケルビムの縫い取りを施した」(代下. 3:14)(1マカ. 1:22)
「神殿の周囲の壁面はすべて、内側の部屋も外側の部屋も、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていた」(王上. 6:29)
神殿の構造について詳しく:エルサレムの神殿
新約 — 神殿には神、天使たち、義人たちの魂
神の子の受肉と死に対する勝利の後、わたしたちは別の天の現実を見ます。それは神学者ヨハネによって黙示録に描かれています。第一に、神は見える方となり、玉座に着かれます。第二に、今や天で神に仕えているのは天使たちだけでなく、聖なる義人たちの多くの魂でもあります。
キリスト
「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マコ. 16:19)
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェ. 1:20-21)
「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」(黙. 3:21)
聖なる天使たち
「また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである」(黙. 8:3)
「そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた」(黙. 15:6)
聖なる義人たちの魂
「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた」(黙. 6:9-11)
「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。<…> 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」(黙. 14:1,3-5)
天から降って来た御子のほかには、天に上った者はだれもいない
「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハ. 3:13)
「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。<…> ダビデは天に昇りませんでした」(使. 2:29,34)
「わたしの魂を陰府に捨てておかず」 — ダビデについて言われたのではない
ダビデ王が詩編(詩. 16:10)で語った、魂は陰府に捨てておかれず、肉は朽ち果てることがないという預言は、ダビデについてではなく、キリストについてのものです。したがって、ダビデ王の肉は朽ち果て、彼の魂はキリストが陰府に降られるまで陰府に捨てておかれたのです。
「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。<…> 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。<…> そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。<…> ダビデは天に昇りませんでした」(使. 2:27,29,31,34)(ビザンティン本文(多数派写本)では「彼の魂(ἡ ψυχὴ αὐτοῦ)は陰府に捨てておかれず、彼の肉は朽ち果てることがない」となっています。)
キリストは陰府に降って宣べ伝え、御自身が出て来られ、義人たちを陰府から連れ出された
陰府でキリストは、世界的な洪水の時からそこにいた霊(魂)たちに宣べ伝えられました:
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」(1ペト. 3:18-20)
「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(1ペト. 4:5-6)
義人たちは陰府に捕らわれていたが、キリストはこの捕囚を打ち破られた
「そこで、『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」(エフェ. 4:8-9)(「低い所、地上に」は、ギリシア語原文では εἰς τὰ κατώτερα μέρη τῆς γῆς —「地の低い所に」です。ビザンティン本文(多数派写本)では「まず(πρῶτον)地の低い所に降りておられた」となっています。)
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(黙. 1:17-18)
旧約のすべての義人は約束されたものを受けず、新約の義人たちを除いては完全な者とされなかった
彼らは天のものを待ち望み、求めましたが、それを受けませんでした:
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。<…> 信仰によって、アベルは <…> 信仰によって、エノクは <…> ノアは <…> アブラハムは <…> 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も <…> この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。信仰によって、アブラハムは <…> イサクは <…> ヨセフは <…> モーセは <…> これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。<…> ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(ヘブ. 11:1-2,4-5,7-11,13-17,20-23,32,39-40)
キリストのいけにえは、信じる義人たちを以前に犯された罪から解き放つ
「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(ロマ. 3:19-27)