序
聖なる義人たちと天使たちは、神々としてではなく、神の友として崇敬されます。それ自体として崇敬されるのではなく、神にあずかっているゆえに、彼らの内に宿る神の恵みのゆえに崇敬されるのです(記事:人は神の神殿である)。聖書によれば、誉れは神にだけ帰されるのではありません。人々は神にだけひれ伏すのではありません。神御自身が、神から来る栄光を求めるようわたしたちを招かれました。神は義人たちに栄光を与えると約束し、実際に栄光を与えられました。そして教会は、神に倣って、神の聖なる友たちに栄光を帰しているのです。
神は聖人たちを通して、その生涯の間にも、またその遺体(王下. 13:21)、身の回りの品(使. 19:12)、像(使. 5:15-16)を通しても恵みを送られます。それゆえ、これらもすべて崇敬されます。詳しくはそれぞれの記事で:
誉れは神にだけ帰されるのではない
神への誉れ
「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのか」(マラ. 1:6)
祭司への誉れ
「主を畏れ、祭司を尊べ。規定に従って、祭司にその分け前を納めよ」(シラ. 7:31)
敬虔なキリスト者への誉れ
「ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください」(1コリ. 16:17-18)(ギリシア語 ἐπιγινώσκετε —「認めよ、しかるべく敬え」)
妻への誉れ
「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(1ペト. 3:7)
父と母への誉れ
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出. 20:12)
老人への誉れ
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ. 19:32)
やもめへの誉れ
「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」(1テモ. 5:3)(「大事にしてあげなさい」は、ギリシア語原文では τίμα —「敬いなさい」です。)
国家の権力者への誉れ
「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(1ペト. 2:17)
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。<…> すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ロマ. 13:1,7)
すべての人への誉れ
「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(1ペト. 2:17)
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ロマ. 12:10)
聖人たちにひれ伏すこと
十戒の第二の戒め(出. 20:4-5; 申. 5:8-9)は、偽りの神々(偶像)を拝むことを禁じています。偽りの神々は本当は神ではなく、その神性は作り事であり、空想であり、偽りです。
聖人たちは実在しており、神の友であって、神々として拝まれるのではありません。聖人たちにひれ伏すことは、神の友として、神の僕(天使)として、神の母として、彼らへの敬意を表すことです。天使、人、物へのこのようなひれ伏しは聖書の中に見られ、偶像礼拝ではありません。偶像礼拝とは偽りの神々を拝むこと、偽りを拝むことだからです。義人たちは、人には人として、天使には天使として、預言者には預言者として、物には物として、絶えずひれ伏しています。これらのどの場合も、彼らは神としてひれ伏しているのではありません。
天使たちの姿をとった神にひれ伏す
神は現れましたが、三人の天使は、あるがままの神、世界が造られる前からある神ではありません。つまり、これは神の像(ギリシア語で εἰκόνα[イコン])であり、アブラハムは神のイコンの前にひれ伏しているのです。
「主は[像の姿で]マムレの樫の木の所でアブラハムに現れた(七十人訳ギリシア語 θεὸς —「神」、ヘブライ語 יְהוָ֔ה —「ヤハウェ」)。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して」(創. 18:1-2)
天使にひれ伏す
「彼は答えた。『いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。』ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、『わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか』と言うと」(ヨシュ. 5:14)
預言者にひれ伏す
「エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した」(王下. 2:15)
神殿にひれ伏す
「しかしわたしは、深い慈しみをいただいてあなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏しあなたを畏れ敬います」(詩. 5:8)(七十人訳ギリシア語 προσκυνήσω πρὸς ναὸν ἅγιόν σου —「あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します」)
神の足台(神殿)にひれ伏す
「我らの神、主をあがめよ。その足台(足を載せる台 — 注)に向かってひれ伏せ。主は聖なる方」(詩. 99:5)(七十人訳ギリシア語 προσκυνεῖτε τῷ ὑποποδίῳ τῶν ποδῶν αὐτοῦ, ὅτι ἅγιός ἐστιν —「その御足の足台にひれ伏せ。それは聖なるものだからである」)
「わたしたちは主のいます所に行き御足を置かれる所に向かって伏し拝もう」(詩. 132:7)
契約の箱の前にひれ伏す
「ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった」(ヨシュ. 7:6)
杖にひれ伏す
杖に:「『では、誓ってくれ』と言ったので、ヨセフは誓った。イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した」(創. 47:31)。新共同訳の「感謝を表した」は、ヘブライ語原文では וַיִּשְׁתַּחוּ —「ひれ伏した」です。七十人訳では杖に(ギリシア語 προσεκύνησεν Ισραηλ ἐπὶ τὸ ἄκρον τῆς ῥάβδου αὐτοῦ —「イスラエルは自分の杖の先にひれ伏した」)となっています。ヘブ. 11:21も参照(新共同訳「杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」。ギリシア語原文は προσεκύνησεν ἐπὶ τὸ ἄκρον τῆς ῥάβδου αὐτοῦ —「その杖の先にひれ伏した」で、「寄りかかって」「神を」という語はありません)。
さらに多くの例(ロシア語):ひれ伏し(伏拝)
なぜ黙示録で天使は、自分ではなく神を拝むよう命じるのか
使徒ヨハネの幻の中では、神が目に見える形ですぐ近くにおられるので、そのような状況で、あたかも天使がそこで最も重要な者であるかのように天使に敬意を示すのは奇妙なことでしょう。この場合、天使は神を拝むよう呼びかけているのです。
「わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。『やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ』」(黙. 19:10)
「すると、天使はわたしに言った。『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ』」(黙. 22:9)
別の場合には、天使は預言者ヌンの子ヨシュアのひれ伏しを受け入れています。
「彼は答えた。『いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。』ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、『わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか』と言うと」(ヨシュ. 5:14)
聖人たちは誉れの内にある
「さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです」(2テモ. 2:20-21)(「貴いこと」は、ギリシア語原文では εἰς τιμήν —「誉れのために」です。)
「すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」(ロマ. 2:10)
主は義人たちに栄光を与えると約束された
「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」(サム上. 2:30)(七十人訳ギリシア語 τοὺς δοξάζοντάς με δοξάσω —「わたしに栄光を帰す者に、わたしは栄光を与える」)
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(ヨハ. 12:26)(「大切にしてくださる」は、ギリシア語原文では τιμήσει —「誉れを与える」です。)
「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。<…> あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハ. 17:20,22)
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。<…> 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ロマ. 8:29-30)
栄光を与えることは、とりわけ、祈りがかなえられることと行いとによってなされます。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハ. 14:13-14)
そして結局、栄光を受けるのは父ですが、子によってです。つまり、子もまた栄光を受けられるのです。
神からの栄光を求めること
「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」(ヨハ. 5:44)(ギリシア語 δόξαν —「栄光」)
「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(ロマ. 2:5-8)
聖人たちの栄光
「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブ. 2:10)
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリ. 3:18)
「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」(ロマ. 2:9-10)
「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ」(詩. 148:14)
教会は義人たちに栄光を帰す
「誉れ高き人々をたたえよう、我々の歴代の先祖たちを。主は大いなる栄光を現し、世の初めからその威光を示された」(シラ. 44:1-2)
「しかし慈悲深い先祖たちの正しい行いは忘れ去られることはなかった。彼らの子らのもとに、良き遺産、孫たちが残る。彼らの子孫は契約を守り、先祖たちに倣ってその子供たちも契約を守る。彼らの子孫はとこしえに続き、その栄光は消え去ることがない。先祖たちのなきがらは安らかに葬られ、その名はいつまでも生き続ける。諸国の民はこの先祖たちの知恵を物語り、神の民は先祖たちをほめたたえる」(シラ. 44:10-15)(「神の民は先祖たちをほめたたえる」は、ギリシア語原文では τὸν ἔπαινον ἐξαγγέλλει ἐκκλησία —「教会は彼らの賛美を告げ知らせる」です。)
わたしたちより前の人々の行いと信仰を忘れず、それに倣う必要
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ. 13:7)
「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」(1コリ. 4:16)
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(フィリ. 3:17)
聖人たちの間での生活を慕い求める
「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』この地の聖なる人々わたしの愛する尊い人々に申します」(詩. 16:2-3)(3節のヘブライ語本文は「地にいる聖なる人々、彼らこそ尊い人々、わたしの喜びはすべて彼らにある」とも読むことができ、七十人訳もそのような意味に訳しています。)
黙示録の獣は聖人たちを冒瀆する
獣は天に住む者たちを冒瀆する
「そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した」(黙. 13:6)
天には義人たちの魂と天使たちが住んでいる
「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊」(ヘブ. 12:22-23)
反論への応答
教会はどうしてだれが聖人であるかを知るのか。人間が神に代わって決めているのではないか
答えは「聖人への祈り」の項を参照してください。
神は御自分の栄光をだれにも与えない
「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さずわたしの栄誉を偶像に与えることはしない」(イザ. 42:8)
ここで語られているのは偶像、すなわち偽りの神々のことです。神御自身が人々に栄光を与えることを示す引用は、上に数多く挙げました。