神はすべての人が救われることを望んでおられる
「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモ. 2:3-4)
「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(ロマ. 2:4-8)
救いは強制によって起こるのではなく、求める者に開かれる
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブ. 11:6)
「わたしは主に求め主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き辱めに顔を伏せることはない」(詩. 34:5-6)
「わたしを愛する人をわたしも愛しわたしを捜し求める人はわたしを見いだす」(箴. 8:17)
「主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたをとこしえに拒み続けられる」(代上. 28:9)
「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(ロマ. 2:4-8)
神は罪人の滅びを悲しみ、できるだけ多くの罪人を救おうとされる
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。<…> それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。<…> それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ」(エゼ. 18:23,25,30)
「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼ. 33:11)
「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』」(ルカ. 5:31-32)
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(2ペト. 3:9)(ギリシア語原文では μὴ βουλόμενός τινας ἀπολέσθαι —「だれも滅びることを望まず」です。)
人が滅びるのは、自分の意志を神に向けようとしないためである
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタ. 23:37)(ギリシア語原文では ἠθέλησα … καὶ οὐκ ἠθελήσατε —「わたしは望んだ……しかしあなたがたは望まなかった」です。)
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハ. 3:19-21)
「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(ロマ. 2:4-8)
神は、前もって知っておられた(すなわち、彼らが選ぶことをあらかじめ知っておられた)者たちを救いへと予定された
予定は、人の行いとかかわりなく起こるのではありません。神は時間の外におられるので、人の行いをあらかじめ知っておられ、まさにこの知(予知)に基づいて予定されるのです。これが鍵となる点です。予定は行き当たりばったりに起こるのではなく、まさに一人一人の行いを考慮して起こります。神は時間の外におられるので、その行いがなされる前に知っておられるのです。
「神は前もって知っておられた者たちを(ギリシア語 προέγνω —「あらかじめ知った」)、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ロマ. 8:29-30)
「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」(1ペト. 1:1-2)(「あらかじめ立てられた御計画」は、ギリシア語原文では κατὰ πρόγνωσιν θεοῦ πατρός —「父なる神の予知に従って」です。)
「人間は皆、大地からのもの、アダムは土から造られた。主は、あふれるばかりの知識によって、人々に違いをつくり、それぞれに、異なった道を歩ませられた」(シラ. 33:10-11)
「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」(使. 13:48)
人の運命は神の御手の中にある
(ロシア語の宗務院訳では、ギリシア語 κρίματα やヘブライ語 מִשְׁפָּט —「裁き、定め」— がしばしば「運命」と訳されています。新共同訳はこの語を「裁き」「定め」と訳しています。)
「恵みの御業は神の山々のようあなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる」(詩. 36:7)
「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか」(箴. 20:24)
「支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である」(箴. 29:26)
「陶器職人がその手にある粘土を、思うままに形づくるように、造り主は御手の内にある人間を、思うままに裁かれる」(シラ. 33:13)
「これもまた万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので大いなることを成し遂げられる」(イザ. 28:29)
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ロマ. 11:33)
神はイエス・キリストの十字架の苦しみを予定された
「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(使. 4:27-28)
神は使徒パウロを前もって選ばれた
「アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです』」(使. 22:14)(「お選びになった」は、ギリシア語原文では προεχειρίσατο —「前もって定めた、前もって任命した」です。)
反論への応答
神がすべての人を救いたいと望みながら、すべての人が救われないのなら、神は全能ではない
愛は自由な感情です。強制して愛させることはできません。神は、御自分の被造物が神を愛することができるよう望んでおられ、それゆえ、神を自由に選ぶことも選ばないことも、神を愛することも憎むこともできる可能性を被造物に与えておられます。
神はすべての人を救うことができるでしょうか。できます。神はすべての人が救われることを望んでおられるでしょうか。望んでおられます。ただし、ある状態において、すなわち神への愛を持っている状態においてです。神は、神を憎む者たちを、神と共にある永遠の命へと無理に定めることを望まれません。それゆえ、神は望まないことをなさらないのです。これは神を全能でない者とするでしょうか。いいえ。神はだれにも愛することを強制しようとは望まれないからです。
愛である神は、人々に、神を自由に愛することも憎むこともできる可能性を与えることがおできになるでしょうか。おできになります。そして、もし選択の自由を与えることができないのなら、神は全能と言えるでしょうか。