1。恩恵
(問) 私たちが神の恩恵(恩寵)をうけるにはどんな方法がありますか。
(答) 私たちは神の恩寵を二つの特殊な方法でうけます。
聖機密
教会の祈祷
2。聖機密
(問) 聖機密とは何ですか。
(答) 聖機密とは聖神の見える形と見えない形の賜こおいて人々に分与される方法です。それらの事を機密(秘蹟,礼典)と呼びます。というのは祈りを通して聖神の神秘な神聖なはかりきれない力の形のもとに見られるのです。
(問) 聖機密を行うのは誰ですか。
(答) すべての機密は直接こあるいは間接に私たちの主なる基督彼自身に依つて行われておりました。私たちは聖堂め中に、つまり聖使徒の教えや書き物の中に、あるいは聖伝(聖伝承)の中に見る事がでさます。
(問) 機密はどのように分れておりますか。
(答) すべての機密は二つの部分から成つております。
見える部分‥‥形式につかわれるところの祈り,器物,儀式。
見えない部分‥‥機密をうける人の上に降る特別の恩寵。
(問) 機密の特徴は何ですか。
(答) すべての機密は次のような特徴をもつております。
それらは主教達や司祭達を通して教会に依ってのみ行われるものです。
見える事物が使われる事。例えば(洗礼の水傅膏機密の油など)。
言葉や祈りや儀式の一定した形式がある事。
洗礼は教会に入る手段(方法)である以上,他のすへての聖機密は洗礼をうけた基督者だけになされるべきものです。
(間) 聖機密にはどんなものがありますか。
(答) 七つの聖機密があります。
洗礼
傅膏
痛悔
聖体
神品
婚配
聖傅
洗礼機密
最初の機密は洗礼です。洗礼を通して一人の基督者になります。つまり正教会の会員の一人になるのです。洗礼機密は次のような聖書の中で、基督が次のように命ぜられている事こ依つて行われます。”爾等往きて萬民に教を伝えて,彼等に父と子と聖神との名に因りて洗を授け”(マトフェイ28の19)。
(問)どのようにして洗礼は行われますか。
(答) 洗礼は三度水に沈む事と主教あるいは司祭が次のような言葉をとなえる事に依つて行われます。”神の僕(某)は洗を領く父及子及聖神の名に因るアミン”
(問) 洗礼の効果はどの上うなものですか.
(答) 洗礼を通して,一人の人は原罪を許され、潔められ、あるいほその時までおかした他の罪をも許され、潔められます。洗礼をうけた人(受託者)は精神生活に再び生まれかわつたのです。
(間) 洗礼機密は誰が行う事ができますか。
(答) 主教あるいは司祭のみが洗礼の機密を行う権限があります。もしも主教や司祭がいなくて、ある人が死の危険にさらされている時、男女の別なく機密の最初の部分、つまり三回きれいな水の中で人を浸水(潅水)をし、”神の僕(某)は洗を領く父及子及聖神の名に因るアミン”′ととなえて機密を行う事ができます。もしも人がこのような緊急によつて、洗礼をうけたい時、神父(あるいは主教)は摂行洗礼を行います。この摂行洗礼は死に瀕した人のみにだけ行われます。それはその人が原罪を潔められないで死ぬ事のないためです。
(問) 誰が洗礼を受けなければなりませんか。
(答) すべての人が洗礼を必要とします。というのはどんな人でも原罪を背負つて生まれてくるからです。人々は洗礼だけを通してこの原罪を潔める事ができます機密を受けなかつた大人達、生後間もない乳子は洗礼を受けなけれはなりません。
(問) 人はどの上うな状態において洗礼機密を受けなけれはなりませんか。
(答) 洗礼を受ける人がもしも悪事から正しい事を区別できる年令ならは、彼のおかした罪を悔いて基督と彼の教えを信じなければなりません。
(問) なぜ幼児が洗礼を受けるのですか。幼児は原罪をもつて生まれ、そして聖神の祝福なししで死の危険にさらされないために洗礼を受けます。彼等は自作罪がないので痛侮の必要がありません。基督の信仰に従つて、幼児は彼等の両親と代父母の信仰の上に洗礼を受けるのです。
(間) 代父母とは何の事ですか。
(答) 代父母とは洗礼に保護者となる成人の正教徒達です。もしもある幼児が洗礼を受けれは、代父母はその子供の代りに信経を読む事こよつて信仰の告白をします。代父母は保護者となつてあげる者達の精神的両親です。この理由に依つて本当の両親達は自分の子供達の代父母こなる事ができません。代父母は神の前に告白し、受洗者が正教徒の信仰に生きる事を保証します。このために正教会以外の他の宗教の人(あるいは他の教派の人)を代父母にする事はできません。
教会は次のような条件をそなえた人々に代父母になつてくれるように望んでおります。
代父母になる十分な年令は,代父は普通15オ以上、代母は13オ以上でなけれはなりません。
正教の良き信者である事。正教会の教えの知識をもつている事。基督者として立派に生活している事。
精神的両親の義務をもつて行ける事ができる事。それ故に修道士、修道女など修道院に住む者、外国に住む人もあるいは牢獄こある者は代父母になる事ができません。
教会は一人の代父、あるいほ代母、又は結婚した者を代父母とする事を望んでおります。もしも一人の代父(母)の時は、彼あるいは彼女が洗礼を受ける者と同じ性の者でなけれはなりません。
(間) いつ子供達は洗礼を受けなけれはなりませんか。
(答) 幼児の洗礼には定まつた時期がありません。それにもかかわらず、教会はもしも幼児が病弱であつた時洗礼は生後のすぐ後に行わなければならない事を義務ずけております。もしも乳児が健康であった時は,一番良い時として生後八日目こすすめております。もしもある理由によつて洗礼がこの時期内に行われない時は、後ほどにのはしても良いが、教会は数ケ月、あるいは数年の間洗礼をさずけないでおく事を禁止しております。というのは、幼児の救いが危放にさらされたり、神の恩寵の祝福を彼から遠ざけないためです。洗礼の日と時間には教会として定まつた規則はありません。日本では聖体礼儀が行われる前こ洗礼がさずけられます。しかし、いついかなる時に行なつてもかまいません。
(問) 洗礼はどこで行われるべきですか。
(答) 病気あるいは緊急の場合以外は教会でなされるべきです。教会において祈祷は教会の入口あるいは洗礼室で行われ、教会の真中や宝座の前で行われるべきではありません。というのは洗礼を受ける人はまだ正教徒でないからです。
(問) 洗礼は繰り返す事ができますか。
(答) いいえ、でさません。機密は一度だけしか行われません。というのは、それは一つの主、一つの信仰、一つの洗礼という事からです。この精神的再生は自然の誕生のようにたった一度だけ行われるのです。もしも正教会で洗礼を受けないで他の教会で洗礼を受けた人は、司祭はもしもその人が以前に聖三者の名によつて洗礼を受けていたかどうかを調べてその上で洗礼を考えます。もしもその人が以前に有効な洗礼を受けていたならば、改宗の祈祷をし、もしもそうでないならば、新たに洗礼を受けなければなりません。
(問) 洗礼の特徴は何ですか。
(答) 洗礼の祈祷はその光栄ある全機密の重要なものとして明らかに定められております。最初に悪魔の放棄が行われ、引き続いて基督との配合が行われます。この後に、水の成聖(祝福)が行われ、司祭は神に彼がこの機密を行うに価値あるものとなる事を祈ります。水は基督の時から用いられております。”誠に爾に語ぐ、人若し水及び神より生れずば,神の国に入るを得ず”(イオアン3の5)。世界は水によつてすべてを洗い去つた洪水のように水に依って潔められるのです。水の祝福の後に、人は前顔、胸、両手,雨足,雨耳などに聖油をつけます。この傅膏(聖油をづける事)は私たちに旧約聖書の傅膏を思わせ、基督の体が葬りの前に香ばしき油をつけられた事を思いおこします。この祈祷の最も重要な部分は、洗礼を受ける人の三度の浸水と聖三者の名をとなえる事です。三度の浸水は、私たちの信仰の基礎が聖三者にある事を象り、またあるいは墓の中に三日間基督が横たわつていた事を思わせます。水から上る事は、主基督の復活を意味します。この理由によつて正教会は三度の浸水をする事を放棄できません。灌水に依る洗礼は病者あるいは十分に水がない所の大人あるいは他の事情こ依る者にだけ行われます。正しい形はすべての人が三度の浸水式に依つて洗礼を受ける事です。
傅膏機密
聖膏(聖油)に依る傅膏は洗礼を受けた基督者が聖神の賜を自らの精神生活に役立たせるために受けるところの機密です。
(間) いつ傅膏機密は行われますか。
(答) 聖膏こよる傅膏は洗礼の後、直に行われます。つまり司祭が定められた祈祷文を誦して心の祝福のために前額や目や鼻やロや耳などの五感こ祝福し、油をつけるのです。また心の祝福のために胸や良き仕事をするためにその出入を祝福するために手や足に油をつけます。油をつける度に司祭は”聖神の恩賜の徴”ととなえます。傅膏機密は常に洗礼と一掛こ行われます。それ故に多くの人は新しく洗礼を受けた人が同時に二つの機密を受けている事に気がつきません。
(間) 傅膏機密の源は何ですか。
(答) 傅膏機密は聖使徒連が新しく洗礼を受けた者の上に手をのせて彼らに新しい基督者の信仰が豊なる事を祝福した事から始まつております。後に、新しく洗礼を受ける者が増えて、聖使徒達の後継者である主教がそれぞれの者に達する事ができなくなつてきたので、按手礼が傅膏に依つて代えられる事となつたのです。福音記者聖イオアンは”爾等は聖なる者より傅膏せられて,知らざる所なし””且爾等が彼より受けし所の傅膏は爾等に居るなり”(イオアン第一公書2の20~27)。
(間) 停育とは何ですか。
(答) 司祭は傅膏機密を主教の代表者として行ないます。そうなので主教は聖膏を司祭に与える人です。聖膏(聖油)というのはオリーブ油を沢山の芳香のある植物とまぜたもので,受難週間の最初の三日間の間に特別な祈祷をもつて作られるものです。多くの種類の香ばしい植物は、主教に依つて聖膏をつける準備をなし、聖神を受ける新しい受洗者への賜物として特徴あるものです。聖膏が準備され祝福された後に、主教はそれを各司祭にくばります。司祭は聖膏を祝福できません。ただ、主教の居る教会法的に正しい司祭だけが傅膏機密を行う事ができます。それ故、正教全の教会法に依ると、どの主教管区にも属しないいわゆる独立した司祭はこの機密を行う権がありません(独立した司祭とは今日の世界情勢に依りどの教区にも属さない司祭です。例えは,ロシア革命や第二次世界大戦のために世界中に散つた司祭はどこの主教管区にも属さないでおる者がいます)。
(問) 聖膏が信者達につけられるのは諸祭日においてですか。
(答) いいえ、違います。聖膏は聖傅機密執行のため、あるいは主教に依つてアンチミンス(代案)を祝福するため、あるいは新しい教会の成聖式(新築)の祈祷の時だけに使われます。聖膏が諸祭日に信者に司祭達に依つてぬられるという考えは間違つております。これらの場合には、信者は祝福された単なる一時的の聖油をぬられるのです(その祭日のために特別祝福された油の事で聖膏ではありません)。大低は、これらの事が祭日あるいは聖人の聖像のランパートカ(聖像の前にある火をともしている小さな器の油は植物牲であり、その油は祭日やあるいは特定な日にぬられる油として使用される事を言う)からとつて使われます。また、各日曜目に信者達にぬられるという考えも間違つております。正教会の習慣によれば、この油をぬる事は、この油を信者の額にぬる事は大低聖人の日や教会の成聖式や主教の訪問をうけた時や主の諸祭日などに行われます。もしもそれが更に度々行われるというならは、その意味を失う事になるでしよう。
(問) 傅膏機密の特徴は何でしようか。
(答) 子供(幼児)あるいは人が洗礼を受けた後、傅膏機密はすぐ後に続いて行われます。定まつた祈りがとなえられた後、司祭は新しく洗礼を受けた人と代父母と共に洗礼盤と聖福音経が置かれている机の囲りを次のような讃歌を歌いながら環ります。”基督に於て洗を領けし者ほ基督を衣たり、アリルイヤ”。洗礼盤を環る事は新しい信者がその教会の中に受け入れられたという教会の喜びを意味します。司祭が聖膏をぬつた体の部分をスポンジで拭い落した後で,使徒経と福音経が読まれます。初代の教会に於ては初代の基督者の多くが大人であつたので、この拭い落しは後の日になつて行われました。それというのは、ぬられた聖膏が汚れ得る事がないように守る事がでさたからです。続いて他の祈りが誦された後に、新しく洗礼を受けた人の頭髪を切ります。その祈りは”神の僕(婢)剪髪せらる、父と子と聖神の名に因りてなり、今も何時も世々に、アミン”この頭髪を切る事は、新しく洗礼を受けた人の神の命令への服従を意味します。祈祷の後には、新しく洗礼を受けた人は御聖体をうけ正教会の真実の会員として充実するのです。
痛悔機密
痛悔は人が司祭に対して自分の心からの事を告白し,罪の許しを基督者として受ける機密を言います。
(問) 司祭が私たちの罪を許す事ができますか。
(答) 罪を許す権は主基督のみに属します。彼まこの力を聖使徒達に与える事を望みました。聖使徒達は,また一方にこの権を主教や司祭に伝え,基督白身に依つて定められたと同じように権をもつているのです。主基督は福音書の中で言つております。”我誠に爾等に語ぐ,凡そ爾等が地に縛る者は,天にも縛られ,爾等が地に釈く者は,天にも釈かれん”(マトフェイ18の18)。人として司祭は誰の罪をも許す事はできません。けれども,主の代理者としてあるいは彼の後継者として司祭は権をもち,告白されたこれらの罪を許す義務があります.許しは司祭からきませんが.主から来ます。基督者は神の前に罪を告白します。司祭は単なる証者であり道具にすざません。彼は主基督からこの代理を受けたところの大使とも言うべき人であります。罪を縛つたり,解いたりする司祭の権はこの代理の上に全く基礎を置いているのです。正教会では更にこれを強調して,すべての司祭が告白を開く権をもっておりません。たゞ,主教からこの代理を受けた司祭のみが行う事ができるのです。この代理は普通司祭になった時に,その司祭に主教の特別な祈りに依つて考えられるめです。
(問) しかしながらもしも司祭自らが罪人であつたならば,どうしたら良いのでしょうか。
(答) もちろん,司祭は基督者の生活を通して,その例が期待された希望に満ちたものである事が望ましいのですが,司祭は人間でありますので,やはり過ちをおかします。人の罪を縛つたり解いたりする権は,司祭連の値する人格に依る事よりも、むしろ弱き魂を度々ためす神の権に依るものです。それ故に,罪の告白の許しは,司祭の生活となんのかかわりあいもないものですが,むしろ,彼の聖なる招きである使命をもつた司祭が望ましいのです。
(問) どんな人が痛悔機密に行くべきですか。
(答) 普通,善悪の分別がつくようになつたすべての正教徒(7オ頃)が痛侮こ行くべきです。罪なき人は誰もいないからです。聖イオアンは言つております。”若し我等罪なしと言はば,則自ら欺きて、真実は我等の中に在らず。若し我等の罪を認めば、則彼は信且義にして,我等の罪を赦し,我等を悉くの不義より潔めん”(イオアン第ー公書1の8~9)。
(問) 痛悔には何度行かねばなりませんか。
(答) 正教会においては,その人が必要を感じる度毎に痛悔に行く事を自由にしております。少なくとも全部の基督者は最低年に4回は斎の諸週間に行くべきです。最悪の場合でさえも大斎には必ず一度行くべきです。一年に一度の痛梅に行かないような人は良き正教徒とは申されません。教会の掟に従わないからです。いつでも誰かが病気の時は,その人は司祭に痛悔を行い,聖体をうけ,そうする事によつて万一の場合にそなえるのです。これは死に自分を準備するはかりでなく,痛悔と領聖を通して,病める人が恩恵をうけ,自分の精神的,身体的病いを克服するカを受けるのです。ある人が病気で痛悔も領聖も受ける事ができなくなる迄まつているという事は間違つております。そのような時は,司祭のそこにいる事は,病める人が自分は死めのではないかと恐れるはかりです。痛悔はどめような正教会の司祭に依っても聞かれますが,できるならば自分の痛悔神父の所に行く事が望ましいのです。
(問) 痛悔はどこで聞かれますか。
(答) 痛悔は主の家である教会で聞かれます。病気の場合だけはどこでもかまいません。
(問) ー変にいく人もの人が痛悔を受けるのは可能ですか。
(答) 正教会では一グループの人が公に痛悔したり、心のうちで痛悔するという痛悔の仕方(public Confession)というのは禁じられております。各々一人の人が司祭の前こ行つて自分の罪を口答で正確こはつきりと告白しなけれはなりません。特殊の場合を除いたほか(例えば身体障害者)すべて口頭で罪を告白しなければ許されない事になております。
(問) 痛悔のためにはどのような事を準備しなければなりませんか
(答) 良き痛悔を行うためには,次のような事に注意しなければなりません。
自分の良心を注意深くし,すべての罪を思い起す事。
犯した罪を悔いる事。
罪を行わないように決心する事。
主の救いの力を信じる事。
あなたの隣人に対して犯したすべての罪を許してもらい,彼の罪をも許してあげる事。
(間) 司祭に対してどのような罪を告白すべきですか。
(答) すべての罪が告白されなければなりません。告白しないところの罪は許されません。私たちが知つているにもかかわらず告白しなけれは,それらの罪は増々深くなるでしよう。私たちの罪のよき基準として次のようにわけられます。
神に対する罪
あなたの隣人に対する罪
あなた自身に対する罪
(問) 神に反する罪にはどのようなものがありますか。
(答) 神こ反する罪には次のようなものがあります。
神の名をみだりに用いる事。
神の掟こ反する事。
神への不信仰。
私たちの罪に対する神の許しにあまりにも期待する事。
信仰の真実に対して反するような態度をとる事。
希望を失う事。
(間) 隣人に反する罪にはどのようなものがありますか。
(答) 自分自身に対する罪の事を主罪と申します。というのは,それらは他の罪をも生む事になるからです。いくつかの例をあげますと,高慢,貧欲,怨み,呪い怒り,怠り,無駄事などです。
(間) 司祭が聞いた告白を,その司祭が他人に告げるような事があるという時がありませんか。
(答) ある人は恥ずかしいために痛梅に行きません。しかし,もうすでに罪を犯していながら痛梅に行くというのがはずかしいと言うのはありえるでしようか。ある人には言います。痛悔に行かないのは司祭が自分の痛悔した事を他人に告げられたら大変であるという事を言います。しかし,正教会の司祭はどんな人でも告白された罪を他人に告げる事は許されておりません。教会法ではこれを堅く禁じております。もしも司祭が告白の秘密を破るような事があれは,永久に司祭としての聖職を失わなけれはなりません。司祭は一般社会あるいは法的権威の場所でさえも,他人の罪についてはたとえ尋ねられても話す事はできません。正教会に於ては,決して痛悔はスパイの道具や宗教裁判所こよっても告白を強いる事はありません。それ故に,司祭は罪の告白の細部こ亘つたり,名前を開いたり,住所を聞いたりされる必要はありません。司祭は人に罪の犯した事を思い起させる一般的質問を尋ね,決して私的な事こ入るべきではありません。罪を告白した人に対して司祭はその人を非難したり,ないがしろにする事なく,正しく彼を導くよう努めなければなりません。
(問) 許しにはどのような事が与えられますか。
(答) 痛侮を行なつた者はその許しとして一つの苦行をなして,自分の行なつた罪の精神的な薬,あるいは精神的な忠言をうけ,正しい道に進まなければなりません(それを教会の懲罰あるいはエピテミヤと言う時があります)。司祭は痛梅レた人に基督者として正しい生活をするように導き,場合によつては暫くの問は領聖を禁止し,あるいはそれに似たような制限を与えます。どんな事があつても,それが教会の罰になつたりあるいは強制されたりする事なく,神の許しと神との和平の表現とならなければなりません。
聖体機密
聖体機密は罪の許しを受けた基督者がパンとプドウ酒の形のもとに尊体,尊血を受ける事です。更にそれは基督との和平となり,私たちの精神的生活の充実を意味します。この機密は最後の晩餐の時に,主自らがバンとブドウ酒をとって使徒達に与え言われました。”取りて食へ,是れ我の體なり。皆之を飲め,是れ我の新約の血,衆くの人の為に流さるる者,罪の赦を得るを致す”(マトフェイ26の26~28)。
(問) 私たちの主の尊体,尊血にバンとブドウ酒が変化するのはいつどのようにして行われるのでしようか。
(答) この変化は聖体礼儀中に行われます。聖体礼儀の最初の部分(奉献礼儀プロスコミデヤ)に司祭はバンの部分と水をまぜたブドウ洒を準備し定められた祈りをします。この準備された聖祭品を奉献台から宝座に移すのを大聖入と申します。プロスコミアヤは基督がお生れになつた洞穴を象り.大聖入によつて奉献台から宝座に移される事はゴルゴファの道を意味しております。大聖入の間こ基督の右側に葬られた盗賊が永遠の生命に入る言葉を思い起します。”主よ,爾の国に来らん時,我を記憶し給え”(ルカ23の42)。聖祭品の置かれた宝座はこの時より主の墓として象られます。アンチミンスはその墓そのものを示します。聖祭品はつまりパンとブドウ酒は聖歌隊が”主や,爾を崇め歌い・・”を歌う時,尊体,尊血に変化します。司祭はこの時,聖変化の祈りをします。これは最も大切で,最も荘厳な一瞬です。この時、信者は皆跪きます。この素晴しき驚異の事についてのこの聖変化ほ私たちの思慮では悟る事はできません。私たちはバンとプドウ洒を見,味わいますが,主の尊体尊血はその爵中に臨在しておるのです。
(間) どのパンとブドウ酒が聖体礼儀に使われますか。
(答) 私たちの家庭で使うような発酵したパンが正教会では使われます。というのは最后の晩餐の時にそのテーブルで使われたものは発酵バンだつたのです。ブドウ酒は純粋でまざりけのないものが使われます。ローマカトリック教会では無酵のバン(ウェハウス),つまり種なしパンを使います。これはユダヤ教の習慣で初代教会の慣習ではありませんでした。バンは純粋の小麦粉で作られプロスフォラと呼はれます。そのバンの上には十字架に印した四隅にIΣ,ⅩΣ,NI,KA,というギリシャ文字を刻みます。これは基督は勝利するという意味です。
(問) 領聖はいつ行われますか。
(答) 聖体礼儀の終りの方に王門が開かれ,司祭が聖爵をもつて現われます。”神をおそるる心と信とをもつて近づき来たれ”。聖体を受ける信者は前に出て来て聖体聖血をスプーンで受けます。
(問) 聖体を受けるために人はどのように準備しなければなりませんか。
(答) 聖体を受ける基督者は最初こ痛悔を受け司祭から許しをうけてから受けます。この準備は痛梅機密の祈り,告白,斎を必要とするので,正教会でほ普通の時に誰にでも聖体を与えるという事はしません。聖体機密の厳粛と神聖さはきちんとした準備なしでは感じられないのです。
(問) 聖体機密はどこで受けますか。
(答) 聖体機密は教会で準備したところの者に依つて受けられます。そして定められた祈りをしなけれはなりません。御聖体が受けられるのは教会の外こ,家か病院ですが,病気の人や病弱の人のみに限られております。これらのために使われる御聖体は聖大木曜日に特別に準備されたもので,常時に宝座の上の聖櫃の中におさめられています。御聖体は主教か司祭のみに依つて与えられます。
(問) 御聖体を受けられない人は誰ですか。
(答) 洗礼を受けないで傅膏も受けない人々(正教徒でない人),あるいは定められた通りに準備をしなかつたり,痛悔抱密を受けなかつたり,今何がおきているかさつはりわからないような病者や,精神的に異常な人々は受ける事ができません。
(問) 領聖の効果は何ですか。
(答) 私たちの主の尊体,尊血を受ける者は神秘のうちい彼と結合し,多くの賜を受けます。主自身が言いました”我が體を食ひ,我が血を飲む者,我に居り,我も彼に居るなり”(イオアン6の54)
神品機密
神品繊密はそれに達する人があつて召され,祈りを通して主教に依つて抜手の礼が行われ,神の言を説教する祝福が与えられて,聖諸機密を執行し,教会の諸祈祷を行ない,自分の牧群を救いに導く事を意味します。この機密は救主こ依つて設けられ,使徒達に命ぜられました。”父が我を遺しし如く,我も亦爾等を遺す”(イオアン20の21)。最初の基督教の司祭達ほ使徒達でした。使徒達はこの恵みを主の命令に依つて自分達の後援者である主教や司祭に伝えたのであります。聖使徒パウエルは言っております。”故に爾等自ら慎み,亦全群を慎め,乃聖神爾等を其中に立てて,監督と為し,主神が己の血を以て獲たる教会を牧せしむ”(行実20の28)。
(間) 司祭の使命と権限は何がありますか。
(答) 司祭には三つの権限があります。
教権。司祭と主数は基督に依つて命じられた事を他人に伝えなければなりません。”爾等往きて,萬民に教えを傳えよ”(マトフェイ28の19)。
聖機密を執行する権と他人を祝福する権。この権は基督に依つて与えられた。”憫等此を行ひて,我を記念せよ”(ルカ22の19)。
司牧権。この権は主に依つて与えられました”爾等に聴く者は我に聴く,爾等を拒む者は我を拒む,我を拒む者は我を遣しし者を拒むなり”(ルカ10の16)。
(問) 司祭や牧者の義務は何ですか。
(答) 司祭の権限の他に義務もあります。他人を教え得る事ができるためには,司祭は自ら学はなけれはなりません。聖書を知る事。教会史を知る事。教理を知る事。教会法。規定,規則などを知る事。しかもこれらすべての上に,彼の生活が善なるものでなけれはなりません。それは他人こ対する影響が強いからです。信者を聖機密や諸祈祷を通して精神的に高めるには,司祭は教会の祈祷を良く知り,青葉と動作の意味を知り自己を殺した謙遜な気持で祈祷をしなけれはなりません。司祭が指導者であるためには,忍耐強く,理解力があって彼の住んでいる所の人々の社会を良く知っていなけれはなりません。
(問) 聖職者の候補者として必要なものは何ですか。
(答) 自分の機密執行の事を完全に理解し行うために,聖職者への候補者は学術的あるいは実務的な事を神学校で学はなければなりません。神学校にほ聖職者養成の神学校,神科大学あるいは総合大学の神学部などがあります。自己の使命と教会の規則について良く知つている主教はこれらの事を知らない人を司祭こ叙聖しません。もしも候補者が町の司祭や伝道者である事を欲するならは上記のような神学を勉強する学校へ行かなければなりません。また学術的な勉強の他に侯補者は他の条件もそなえていなけれはなりません。
聖職者としての使命観-→神こ仕える愛。
正教徒である事。
道徳的に立派で罪罰の経歴がない事。
身体的にも精神的にも健康な者。手,足,目耳,指など身体的障害の人は司祭になれません。たとえこれらが自然の事故であつたとしてもこれらが信者を惑わさないためです。
司祭になるには少なくとも21才,主教になるに30才でなければなりません。
もしも補祭や司祭になる事を希望する人は叙聖の前に結婚しなけれはなりません。あるいはもしも主教になるような時があれは,修道の書いをたてなけれはなりません。聖職者は再婚できません。彼は叙聖前に一度だけ結婚が許されているのです。
(間) 神品(聖職者)の階級にはどのようなものがありますか。
(答) 三階級あります。
1.主教職‥‥これは使徒継承を通して使徒達から直接こ伝えられてきたものです。この継承は使徒達の時代から今日に至る迄,按手礼によつて伝え続けられました。主教は次の三つの権力をもつております。
A.教える事。
B.祈祷を執行する事。
C.指導する事。
主教職は更にその治める教区の大小から種々の名称をもって呼ばれております。それは総主教,府主教,大主教,主教です。
2.司祭戯‥‥主教から諸権限を受け継ぎます。主教だけが司祭を叙聖する事ができます。主教に依つてならないところの司祭は正教会では司祭と呼ばれません。首司祭,長司祭,司祭などの名誉称号があります。
5.輔祭職‥‥輔祭職は主教に依って按手され司祭と主教の職を助けるためにおかれたものです。主教職こ与かるにはこの輔祭職から始まつて司祭職に至り主教になります。輔祭は機密執行はできません。名誉的に長輔祭という名称があります。
(問) 神品職の諸階級こはどのようにしてなりますか。
(答) 神品職の諸階級は叙聖式を通して受けます。言葉”叙聖”は按手の意味をもち,主教は自分の手を叙聖されるべき司祭や輔祭の頭上にのせます。主教叙聖には少なくとも二人以上の主教を必要とします。叙聖式は聖体礼儀中に行われます。輔祭は聖変化の後すぐに司祭はへルウイムの歌の後すぐに,主教は聖体礼儀の始めにそれぞれの叙聖式が行われます。叙聖式の間,新しく叙聖された者はその諸階級こ従つて祭服を着せられます。その一つ一つが着せられる時,主教はアクシオス(彼は適当である)と言い,続いて司祭団がアクシオスを唱え,更に聖歌隊がアクシオスを唱えます。正教会においては,叙聖式において,その使命観からすべての会衆の出席する所で行われ,秘密裡こなされるものではありません。
(問) 神品機密は繰り返す事ができますか。
(答) この機密は繰り返す事ができません。
婚配機密
結婚ま男女の由由意志に依つて共に住み,信仰に基礎を置いた生活を神の恵みと祝福を受けて行われる事を言うのです。
何故,結婚において女性は男性と結ばれますか。
1.神がアダムとエワに命じて言った如く人類を保ち続けるためです。”生めよ,増えよ,地に満盈よ”(創世記1の27~28)。
2.より良き,より価値ある生活のために互いに住むためです.
5.罪情なき清らかな生活をし,不浄な関係をさけるためです。
4.神の畏敬のうちに子供達を育て.隣人を愛するためです。
(間) 聖書は結婚についてどのように述へていますか。
(答) 旧約,新約において共に男女の結婚に依る結びつきは祝福されております。神が人(男)を造つた後に”人独なるは善らず我彼に適ふ助者を彼の為に造らん” (創世記2の18)。このようにしてその妻エワを造つたのです。神は続けて言われました”是故に人は其父母を離れて其妻に好合ひ二人一體となるへし”(創世記2の24)イウデアの律法と習慣とに依ると,結婚式は宗教的道徳的義務として考えられ,結婚の義務に従わない者はきぴしく罰せられたのであります。私たちの主自らもこの結婚こついての古い碇を守り,旧約聖書における神の言葉をとつてファリセイ人に話しております。”彼答へで言へり,爾等元始に人を造りし者は,之を男女に造れりと読まざりしか。又言へり,是の故に人は其父母を離れ,其妻に着きて,二の者一體と為らん,然らば彼等は既に二人に非ず,乃一體なり,故に神の遇せし者は,人之を分つ可からす”(マトフェイ19の4~6)。基督は自分の最初の奇跡をガリレヤのカナの結婚の宴で行いました。聖パウニルは エフェス人に達する書の中で妻と夫の役割について言つております”婦よ,己の夫に順ふこと,主に於けるが知くせよ,蓋夫は婦の首たること,基督が教会の首たるが如し,彼は亦體の救主なり。乃教会の基督に順ふが如く,斯く婦も凡の事に於て夫に順ふべし。夫よ,その婦を愛すること,基督が教会を愛するが如くせよ,彼は己を此が為に給てたり”(エフエス5の22~25)。聖師父達も結婚について多くを述べております。フェサロニカのシメオンは”私たちは結婚が神に依って結はれた事をおぼえよ”と言っております。
(問) 結婚のためにどのような事を準備しなければなりませんか。
(答) 結婚は生活のための義務ですから正教会はその信者に対して結婚前に二人の結ばれた生活について真剣に考える事を望み,互いに知つて幸福に共に生きられる事を望んでおります。結婚の決心がついた後に二人は司祭の所へ行き,結婚式の日を定め,このために精神的助言を受けます。二人共正教会の信者である事と結婚の前には罪を悔いて領聖を行うべきです。このような事によつて,二人は潔められた霊の結婚生活に入り幸福を正教信仰のもとに約束されるのです。
(問) 結婚の法的条件は何ですか.
(答)
1. 結婚適齢期である事。
2. 役所よりの結婚証明書を準備する事。
3. 再婚の場合は初婚の事がわかる書斬を準備する事。(例えば配偶者の死亡証明書,離婚証明書,前の結婚の諸書類など)。
4. 洗礼証明書(ことに外の教区からの結婚者)
5. 法的に結婚の許されている証明書(徴兵の場合など)。
6. 結婚式許行の予告(結婚式前に三回聖堂で予告してその結婚について意義を申し立てる機会を与える)。
7. 婚配機密における証者となる仲人の必要。
(間) 結婚の障害となるものはどんなものですか
(答) 次のような場合正教会では司祭が結婚をあげる事を禁止しております。
1. ある等親間では結婚が禁止されております。そのうち最も大切な親等舶係は次の通りです。
イ)両親は自分の子供達,孫,曾孫と結婚できません。
ロ)婚姻に依つてできた親戚関係の結婚は禁止されております。
ハ)叔父,叔母は甥,姪と結婚できません。
エ)義両親は養子(女)と結婚できません。あるいは養子女関係でも禁止されております。
ホ)いとこ同志の結婚も禁止されております。
へ)洗礼に依る代父母同志,あるいは代子と結.婚できません。
教会が親族結婚を禁止しているのはそのような結婚に依つて生れてさた子供たちが普通でないからであります。親成同志の結婚が禁止されているのは(代父母,代子の関係も同様)精神的義務が満たされないからであります。
2.精神病者。
3.性的欠陥のある者。
4.修道の誓いをたてた者,聖職者に叙聖された者。
5.犯罪者(服没中の者)。
6.やもめは自分の配偶者の死後6ケ月以上たたなけれは結婚できません。
(問) 結婚が禁止されている日がありますが,それはいつですか。
(答) 斎(断食,禁食)の日,水曜日,金曜日,降誕祭の斎,四旬祭,聖使徒ペトルバウエルの斎,就寝祭の斎,授洗者聖イオアンの斬首の日(8月29日),十字架挙栄祭(9月14日),大斎前の乾酪週間です。結婚が斎の諸日に禁止されているという事は,これらの日々が痛侮(告悔),祈り,斎の意味などの精神的なものなので結婚のような陽気な事を避けるためです。
また特別な祭日,降誕祭から1月7日迄,復活日から聖フオマの主日迄,五旬祭と主なる主日です。
(問) 結婚の仲人にほ紡がなりますか。
(答) これらの人々は責任ある理解と実行にすぐれた成人が艮いのです。できるならは結婚している人の方が良いのです。彼等は正教信仰の人であると同時に,結婚への勝者(証人)となり,若いこれらの人々が正教の信仰に生きる事を助けなけれはなりません。日本の場合,仲人は非正教徒でもよろしいです。
(問) 聘定式とは何ですか.
(答) 聘定式とは結婚する男女の自由意志による約束をいいます。正教会では特別の祈藤が式のためにあります。それは大低結婚の前日かあるいは結婚式の直 前に行われます。聘定式の間,司祭は結婚する二人の指輪を交換します。指輪は結婚する二人の不死の愛を象徴しております。
(問) 婚配機密(結婚式)はどのように行われますか。
(答) 男と女が神の前で結ばれて,共に生むという事は非常に重要な意味をもつております。教会は司祭によつて行われる美しい儀式をそのために設けております。結婚する二人は聖堂の中に仲人や家族や友人達と共に入つて来ます。そこで司祭が式を行います。最も重要な瞬間は”神の僕(某)神の婢(某)に婚配せらる父と子と聖神の名によりてなり”と言つて司祭が結婚者の頭上に栄冠をのせる事であります。この栄冠は王と王女を意味し,貞潔の戦いに勝つた事を象徴します。使徒経と福音経が読まれます。司祭は結婚者に三度ずつ杯でブドウ酒を飲ませ,喜びも悲しみも共に分ちあう事を象っております。最後に結婚者と仲人は祭台の回りを”イザイヤ祝へよ‥,聖なる致命者‥,基督神や…”と歌いつつ環ります。この祭台を環る事は主基督とその聖人とを共に結婚者の精神的結びとその喜びを象徴しております。
(間) 結婚式は繰り返す事ができますか。
(答) 結婚式は再婚,三婚など配偶者のどちらかが亡くなつたり,離婚をした場合に行われますが,教会によつてその理由を認めてもらわなければいけません。これらの結婚式は最初と同じではありません。それは喜びの祈りというよりは悔い改めの祈りの方が強いのです.第四婚は教会に依つて許可されておりません。もしも司祭が第四婚を行う事があれは教会から退かなければなりません。
(間) 離婚は許されておりますか。
(答) いいえ、許しておりません。正教会は主なる基督の言つている言葉を守ります”神の合せし者は,人之を分つ可からず”(マトフエイ19の6)。また聖使徒パウェルは申します”己に婚姻せし者こ命ず,是れ我に非ず,乃主の命なり,妻は夫に離るべからず,若し離れたらば,嫁がずして居るべし,或は其夫と和ぐベし,夫も亦其妻と別る可からず”(コリンフ前書7の10~11)。それにもかかわらず,正教会では特別な場合において離婚を許しております。
1.姦淫。
2.配偶者釘一人が基督教の信仰を拾てた場合。
3.配偶者の一人が修道の背いをたてるのを決心した時。
4.性的不能者。
5.配偶者の-一人が失踪した時。
教会は無実の人に限つて今あげたケース内で離婚を認めます。再婚が離婚した者に依って行われる時,主教から祝福を,特別な許可を受けなけれはなりません。また離婚の場合,主教あるいは教会のその筋の機関がこのケースを慎重に扱い調査をなして善否を決めます。結婚した二人が不和であつたり,問題を持つていても正教会では離婚を許可しません。これらの問題は結婚する以前に解決していなけれはならない問題だからです。
(間) 教会は他の信仰者と結婚するのをどう考えておりますか。
(答) 正教徒が非正教徒と結婚する事は原則として禁止しております。ですから正教会よ正教の信仰ある者のみが教会で結婚します。日本におけるこのような問題は只今研究中です。しかし次のような事を助言する事はできます。
1.正教徒が非正数徒と結婚する時,その非正教徒を正教会に導く事。
2.正教徒が非正教徒と結婚する時,その正教徒の信仰が非正教徒の配偶者によつてみだされないという約束をする事。
5.正教徒は結婚する非正教徒と彼等の子供が正教会の信仰で洗礼を受け,結婚する事などを教会は勧めております。
聖傅機密
聖傅は聖神の恵みを通して精神的,身体的病を癒やし,魂を堅固にするためであります。聖神は司祭の祈りを通して降ってきます。聖イアコフは書札の中で言つています。"爾等の中に病む者あらば,教会の長老等を招くべし,彼等主の名に依りて,彼に油をつけて彼の為に祈祷すべし”(イアコフ公書5の14)。
(間) いつどのようにして聖傅機密は行われますか。
(答) 聖傅機密は要望に依つていつでも行われます。教会の中でも家庭においても,病院においても患者のおる所で行われます。古代の教会においては,七人の司祭が聖傅機密を行いました。これは聖神の七つの賜を象どり,七つの書札と七つの福音書を読みました。現在では七人の司祭をもつ事はむずかしいので,二三人の司祭によつて行われます。聖傅機密は非常に美しい感動的な祈祷の一つです。七人の司祭が小麦粉,純粋なオリーブ油,十字架,福音書,油をつけるための七本の筆が教会の中のテーブルの上こおかれ,特別な祈りと聖歌が歌われ,七つの福音と七つの書札が読まれ病める人は聖にせられた油に依つて七回つけられます。
(問) 病気でない者に聖傅機密を行う事ができますか。
(答) 原則として病者のみに限られておりますが,しかし精神的病のために,信仰を固める意味でぬられる事もあります。
3。諸祈祷習慣
聖堂成聖式
教会が建てられる時,その土地と壁と土台になる所の土地が祝福されます。教会が完成した後,もつとも荘厳な祈祷の一つに依つて成聖されます。十字行が新しい教会の囲りに行われ,不朽体が宝座の中に安置され,壁は聖膏をもつてぬられます。土地と教会の祝福の祈祷は主教に依つてなされます。同時に教会は聖なる器物を成聖し燭台などもこの時に祝福されます。
聖水式
聖水の祝福は正教会で度々行われます。聖水は司祭が信者を祝福し,新しい家種々の器物などを祝福します。聖水式は二つあります。小聖水式と大聖水式です。大聖水式は神現祭(洗礼祭}の日に主の洗礼を記憶した特別の祈祷をもつて行われます。祝福された水で司祭は信者の家を訪問し,彼等を祝福します。同様に神現祭には人々を祝福します。彼等は聖水を家にもつて行き,神の助けを必要とする時にそれを使います。小聖水式は必要に応じていつでも行われます。たとえば新築した家の祝福,お墓,種々の器物などにです。
教会器物の祝福
教会で使われる器物は,使用される前に祝福されなければなりません。
新築した家と器物の祝福
新しい家に住む時,最初に祝福を受けます。このほか,農場や穀物や井戸や生産物の祝福も受けます。
誕生における祈祷
婦人が出産する前に痛海と聖体機密を受け精神的に準備します。出産後は8日目に洗礼と名命式を行います。洗礼の後,40日目に母親は教会へやって来て,彼女の産後の祈りを神の前に行つて潔めてもらいます。その時から聖体を受ける事ができ,聖神の恵みを受けます。
必要に応じての諸祈藤
教会ではあらゆる必要に応じて祈蒔をする事があります.生神女に対する祈り,諸里人に対する祈り,感謝の祈り(モレーづン)などすべて教会にあります。
臨終,埋葬,その後め諸習慣
正教会では死者の葬りに対して常に重要な注意をむけております。死者の事について次のような事に注意しましょう。
死南前の臨終者に対して正教会は痛悔機密と領聖を行ないます。家族の人はこれら二つの機密を受ける事なくして死ぬような事がないように注意しなけれはなりません。ある人々はこれらの機密を緊急の場合しか与えないと考えているのは誤まつております。領聖は生きる事を強めるはかりでなく,死に面した者をも救うのであります。それ故どのような時でも人は病気の時に一番最初にしなけれはならないものの一つは痛悔と領聖の機密を受ける事であります。
人が死んだ後,教会は悲しみの鐘を鳴らします。これは他の人々に死を知らせ,各々が「神はこの人を許し給うよう」祈ります。正教会の習慣に依ると納棺を自宅で,教会で,葬儀場で行います。棺を置く時,頭を東に向けて(東を向いて立つた人が床に倒れた位置の事)置きます。それは誠の光,基督が東から来た事を意味します。聖像あるいは十字架は亡くなつた人の胸の上に置き,離れた魂を求める悪魔から守るためです。棺の頭の所の灯は基督と光が福音に依つてこの世こもたらされた事を象徴し,生ける者と死せし者をこの世の終りまで導く事です。死体が準備された後に,正教会は家庭においてその夜にリティヤ(死者の祈祷)を捧げます。この祈祷は埋葬祈祷を簡略化したものです。
埋葬は死後第3日日に行われます。その時の事情において祈祷は葬儀場あるいは教会で行われます。通常,死者は教会に運ばれて,彼が生前に祈つていた場所で永遠の旅こ出るのが普通です。教区の会員でなかつた所の者はその教会に運んでくる事はあまりありません。埋葬式の最も大切な部分は司祭が”諸の霊神と諸の肉体との神‥”と祈る時であります。棺が閉される前に死者に最後の救罪の祝文が与えられます。それは死者への生命の愛について象り、離れた者への許しとなります。
正教徒の埋葬式は常に墓地で行われます。司祭は墓の所で救罪の祝文を求みます。原則として火葬は禁止されております。土は十字の形をもつて棺の上に投げられ,土から来た者が再び土に帰る事を意味しております。
棺が閉じられる前に,あるいは墓の所で,司祭はブドウ酒と油を一緒こ混ぜたもの,あるいは香炉から灰を身体の上に注ぎます。ブドウ酒は人の身体をめぐる血を意味し,私たちの希望が死者の復活におかれている事を意味します。灰は”塵と灰になるという”聖書の言葉を意味しております。
信者と幼児と司祭と修道土の埋葬祈祷はそれぞれ違います。
光明適間と復活祭と聖フオマの日曜日の間,埋葬式は復活の喜びを表わす復活祭の聖歌が始んどで栴成されております。
埋葬の時間は定められておりません。通常その地方の習惧などに従います。
一般の埋葬式は日曜日,あるいは諸祭日には行われません。それというのは喜びの日々だからであります。
自殺あるいは正教会に依つて破門されたところの者未信者は教会に依つて葬る事はでさません。
死後の諸惧習と祈蒔
人が死んで葬られた時,その者は永遠の安らぎの場こ行つたのであります。主の再臨迄死者は教会で祈祷する者に依つて,つまり生きている者の祈りに依つて助けられます。ですから死んだ後にも生者は死者のために祈祷をします。それは大体三つのグループに分けられます。
十字架を塞の上にたてる事。
パエヒダ。
死者のためめ聖体礼儀。
十字架を墓の上にたてる事は葬りの後,最初にしなければならない事です。墓における十字架は死に勝つた十字架の基督の勝利を意味しております。死者の魂は常に十字架の加護のもとにあります。墓石としての十字架をたてる時は司祭の祈りが必要とされています。
パニヒダとは死者記憶の祈祷の事で,終夜あるいは奉事の祈祷の意味で,初代教会の正教徒が終夜死者の墓上で祈つた事から由来しております。新永眠者又は永眠者こ対して行なう死者記憶の祈祷の日は
イ) 永眠後5日日(苑より復活した鼻音を記念します)。
ロ) 9日日(九つの楷歓の天使と共に天鼠にある事を意味します)。
ハ) 20日日。
ニ) 40日日(昇天した基督に依り,魂の天国こ救われる事を意味します).
ホ) 1年忌。
バニヒダには死者の記憶のために糖飯を用意します。糖飯は料理した小麦とハチミツを混ぜて作ります。小麦の代りに米でもよろしいです。料理した小麦(米)は死者の死の後の復活を意味します。小麦の粒ま最初に士にうめられ,それから芽が出て実を結びます。同様に人も初めに葬られ,それから後に永遠に復活するのです。古き時代にほ糖飯は大抵貧しい者に与えられ,この日のために恵みの行為が死者の記憶になされた事を意味します。
死者のための聖体礼儀とはパニヒダや死者の記憶以外に信者は死んだ者の名をもって聖体礼儀を行う事があります。遺家族の希望に依つてなされる場合が多いのです。
4。正教徒の義務
正教会の規定
聖なる教会では新しく正教徒になられた方,又古くから正教徒である方に神が霊能(ちから)を賜い,この厳しい世の生活の中で全ての凶悪から正教徒を守るために,又益々優ぐれた栄えある生活,平和な生活に導くために次のような正教会の規定を守られて,教会の変の家庭の一員となられる事を勧め実行される事をすすめています。これは正教徒としての最低線である事も御承知下さい。
凡そ主日(日曜)及び諸祭日はよろしく聖堂(或いは教会)に参りて聖書を開き,祈祷すべし。
正教会に定められたる斎期(ものいみ)を守るべし
痛悔(告白又はざんげ)は年に四回するを例とす。至って少なきも毎年一次なすべし。
聖体を受ける事も亦同じく毎年至って少なきも一次なすべし。
正教会の諸祭日
祭日一覧表
定祭日(祭日の一定しているもの)諸習慣メモ
降誕祭(クリスマス) 一月七日
割礼祭 一月十四日 ヨルカ
洗礼祭(神現祭) 一月十九日 水の十字架,聖水
迎接条 二月十五日
生神女福音祭 四月七日
聖ニコライ記憶祭 五月二十二日
聖使徒べトル・パウェル祭七月十二日 果物を献じる
顕栄祭(変容祭) 八月十九日
生神女就寝祭 八月二十八日
前駆授洗イオアン致命祭 九月十一日
生神女誕生祭 九月二十一日
挙栄聖架祭 九月二十七日
生神女守護条 十月十四日
生神女進堂祭 十二月四日
不定祭日(祭日の一定していないもの)
復活祭 昇天祭 五旬祭
斎について
正教会の斎
降誕斎 11月28日から1月7日迄
大斎と受難週間 40日間
聖べトル・パウェル斎 6月21日から7月12日迄
就寝の斎 8月14日から8月28日迄
天主経
天に在す我等の父よ。願は爾の名は聖とせられ。爾の国は来り。爾の旨は天に行はるるが如く,地にも行はれん。我が日用の糧を今日我等に輿へ給へ。我等に債ある者を我等免すが如く,我等の債を免し給へ。我等を誘に導かず,猶我等を凶悪より救いひ給へ。蓋国と権能と光栄は爾こ世々に帰す。「アミン」
真福九端
神の貧しき者は福なり,天国は彼等の有なればなり。
泣く者は福なり,彼等慰を得んとすればなり。
温柔なる者は福なり,彼等地を嗣がんとすればなり。
義に飢え渇く者は福なり,彼等飽くを得んとすればなり。
矜恤ある者は福なり,彼等矜恤を得んとすればなり。
心の清き者は福なり,彼等神を見んとすれはなり。
和平を行う者は福なり,彼等神の子と名づけられんとすればなり。
義の為に窘逐せらるる者は福なり,天国は彼等の有なればなり。
人我の為に爾等を詬り,窘逐し,爾等の事を譌りて諸の悪しき言を言わん時は,爾等福なり,喜び楽めよ,天には爾等の賞多ければなり。
十戒
我は爾の主神なり,我の外に何物をの神と為す勿れ。
偶像及び凡そ上は天に在る者,下は地に在る者,土の中水の中に在る者の何の形状をも作る勿れ,之を拝む勿れ之に事うる勿れ。
妄に爾の主神の名を口にあぐる勿れ。
安息日を憶えて之を聖とすべし,六日の間労きて爾の一切の業を為すべし。
爾の父母を敬え,吉祥爾に及び且地に爾の生命長からん為なり。
殺す勿れ。
淫する勿れ。
盗む勿れ。
隣人に対して虚妄の証拠を立つる勿れ。
隣人の妻を願う勿れ,隣人の居宅,田園,僕婢,牛,驢等一切の家畜,並に凡そ隣人の物を貧る勿れ。
罪について
(問) 罪とは何ですか。
(答) 罪とは神の律法と教会の律法に不服従する事です。
(問) 罪にはどのようにして陥りますか。
(答) 考える事をもつて,言葉をもつて,行いをもつての三つです。
(問) なぜ神は人が罪を犯す事を許しているのですか。
(答) 全能の神は人が罪を行つている事を簡単に止める事ができますが,そのようにすれば人の自由意志は失われるでしょう。神は人に善悪を知る知識を与えました。人は自分の自由意志に依つて神の意志に適う事ができますが,神の言葉に従わぬ事もあります。聖書に次のような言葉があります“善を行ふを知りて,之を行はざる者は罪あり”(イアコフ公書4の17)。“神は各人に,其行いに循ひて報いん”(ロマ2の6)。
(問) どのような種頻の罪がありますか。
(答)
1.原罪・・・・アダムから受け継ぎ,洗礼に依つて洗われる所のもの。
2.自作罪・・・誕生の後に私たちの犯したもの。
自作弛こは三つの棟類があります.
イ)主罪・・・誇り,不潔,羨み,嫉妬,貧欲,怒り,怠惰など。
ロ)聖神に反する罪。
a. 信仰の真実に対しての背反。
b. 神の書に対する軽蔑。
c. 神の助けに希望をもたぬ事。
d. 神の恩恵の否定。
e. 正教の信仰を捨てる事。
ハ)天に叫ぷ罪・・・意志に放る殺人,貧者への圧力,労働者への支払いの滞納,両親に対する不行為。
(問) 罪に対する正教徒の義務は何ですか.
(答) 正教徒は罪を避けなければなりません。信者はそれと戦つて良き事をするよう努力しなければなりません。誘惑やあるいは弱さのために,もし人が罪を犯す事があれば,彼は痛悔して告白し,領聖をしなければなりません。
(問) 罪と戦うにはどのようにしたらよろしいでしようか。
(答) 罪を避け良き事をするために人は次のような原則を守らなけれはなりません。
1.私祈祷。
2.公祈祷。
5.諸機密と司祭の諸祈祷。
4.宗教的,精神的書籍の読書。
5.誘惑への原因となるものを避ける事。
6. 肉体の欲を征服する斎を守る事。
7. 良き事を他人に行う事。
正教徒の完徳
もしも正教徒がより聖なる生活と基督者としての完全を得ようと望むならば,つまり自分の全生涯を主の仕事のために捧げようとするならば,教会が完徳について教えております。つまりこれらの完徳は修道的生活を望む者に対して設けられたものです。完徳は主基督に従う事に依って勇気づけてくれるもので,完徳を更に早く得る事を人は自由意志に依つて望まなけれはなりません。これらの完徳は修道士と修道女に対して次のような事を望みます。
1.自由に依る清貧。
2.貞潔あるいは肉体的喜びの全体的破棄
五 従順。
すべての正教徒がこれらの完徳に進む事はできません。しかし基督者としての完全な生活を得るために,次のような基督の教えに従わなけれはなりません。“人若し我に従はんと欲せば,己を舎て,日々其十字架を負ひて,我に従へ”(ルカ9の25)。
自分自身に対する義務
基督者は神からの賜物として,魂と身体との生命を受けました。賜物として人は魂と身体を慮らなけれはなりません。これらの義務は自分自身に対する義務として知られています
(問) 自分自身に対する義務の主なものはどんなものがありますか。
(答)
1.人々のうちに於て自分の尊厳を保つ事。
2.神から受けた賜物を使い増す事。
3.謙遜なると同時に高饅でない事。
4.身体を清潔にし,良く整えておく事。なぜならば,身体は魂の家だからです。
5.自殺に依つて自分の生命を断たない事。それを私達に与えて下さった神だけがそれを召しあげる事ができます。
6.柔和のうちに世間の品物を使う事。余つた物を他人に分け与える事。
隣人に対する義務
(問) 鱗人に対する義務こはどのようなものがありますか。
(答)私たちの隣人に対する義務で最初で最も重要なものは隣人を愛する事です。主は他人への愛の上に神の愛をおきました。偽善者ファリセイが主に尋ねました“師よ,律法の中に何の誡か大なる。基督えに謂えり爾心を尽し,霊を尽し,意を尽して,主爾の神を愛せよ。此れ誡の第一にして大なる者なり。第二は是に同じき者,即爾の隣を愛すること己の如くせよ”(マトフェイ22の36~39)。また聖イオアンは言いました“人若し我神を愛すと言ひて,その兄弟を悪まば,偽る者なり,蓋見る所の兄弟を愛せざる者は,焉ぞ見ざる所の神を愛するを得ん。神を愛する者は,亦其兄弟を愛すべし”(イオアン第一公書4の20~21)。
(問) 私たちは自分たちの敵を愛すべきでしようか。
(答) 主基督はそれに答えておられます“爾の隣を愛し爾の敵を憎めと言えるありを聞けり。然ども我爾等に語ぐ,粛等の敵を愛し,爾等を詛ふ者を祝福し,爾等を憎む者に善を為し,爾等を虐げ,爾等を窘逐する者の為に祈れ”(マトフエイ5の43~46)。
(問) 私たちの隣人とは誰ですか。
(答) 聖書に依ると隣人とは神に依って造られたすべての人々を言います。社会的地位,貧富の差,年齢,人種の差別はありません。“爾等皆基督に在りて一なり” (ガラティヤ3の28)と聖バウェルは言つております。
(間) 隣人に対する義務はどのようにして果したら良いでしようか。
(答)
1.身体的行動において。
イ)飢える者を養い,渇く者を飽かしむ事。
ロ)裸なる者に着せる事。
ハ)旅人や知らない人に宿を与え,食物を与える事。
ニ)寡婦や孤児を助ける事。
ホ)病者を尋ねる事。
へ)囚人を尋ねる事。
ト)死者を葬る事。
2.精神的行動において
イ)教育する事。
ロ)疑う者を導く事。
ハ)罪人を善に向わしめる事。
エ)悲しむる者,憂いる者を慰める事。
ホ)過ちを許す事。
へ)忍耐する事。
ト)他の生者や死者のために祈る事。
信者の心得
聖書と宗教書を教会の定めた章節目こそつて毎日読む事。
教会の諸祈祷に出席する事。
教会への奉仕をすすんでする事。
教会への拝げ物,献金などを怠らぬ事。
朝,目が醒めた時,十字架の印をして一日を神に捧げる朝の祈りから始める事。
夜には夕の祈りをなし,その日をかえり見て神こ感謝し神のお守を穎います。
日中,仕事や食事の前終に祈りをする事。
教会の定めた禁食を守る事。
できるだけ領聖をする事。
正教会の教育を自分や子供に受けさせる事。
死者の記憶を行なう事。
十字架を印する時,心を用いる事。
聖職者を尊敬する事。
祭服の色
諸祈祷の祭服の色は六つあって,教会暦の祝日に依つてかわります。
白(金)色・・喜びと神性(聖性)などを示し降誕祭や復活祭その他の主の主日に用いられます。
青色・・聖生神女マリヤ,天使,致命女などの祝日に用いられます。
赤色・・聖神の愛の炎を,あるいは致命などを示し,聖神降臨祭,致命者の祭日などに用いられます。
紫色・・痛悔,償い,苦しみなどを示し,降誕祭や大斎などに用いられます。
緑色・・希望を示し,神現祭や聖神降臨後の諸主日に用いられます。
黒色・・主の苦しみを示します(黒色の祭服は元来,正教会でなかつたもので,中世期こ西方教会から入つてきたものです)。
正教会の聖職者(神品階級)
修道者・独身者 | 妻帯者 | 尊称 |
総主教(PATRIARCH)府主教(METROPOLITE)大主教(ARCHBISHOP)主教(BISHOP) | ナシ | 聖下座下座下座下 |
掌院(ARCHMANDRITE)長司祭(ARCHPRIEST)司祭(PRIEST) | 首司祭長司祭司祭 | 尊師、神父、尊父 |
長輔祭(ARCHDEACON)輔祭(DEACON)副輔祭(SUBDEACON) | 長輔祭輔祭副輔祭 | 尊師 |
誦経者(READER)堂役(ALTAR BOY)修道士、女(MONK,NUN) | 誦経者堂役 | 特になし |