コンスタンティノポリ第二全地公会百五十人の諸聖父の信経
我信ず一の神父・全能者・天と地・見ゆると見えざる萬物を造りし主を。
又信ず一の主イイススハリストス・神の独生の子・萬世の前に父より生まれ・光よりの光・真の神よりの真の神・生まれし者にて造られしに非ず、父と一体にして萬物彼に造られ我ら人々の為め又我らの救ひの為に天より降り、聖神及び童貞女マリアより身を取り人と為り我らの為にポンティイピラトの時十字架に釘うたれ苦を受け葬られ第三日に聖書に應ふて復活し天に升り父の右に坐し光栄を顕はして生ける者と死せし者を審判する為に還た来り其国終りなからんを。
又信ず聖神・主・生を施す者、父より出て父及び子と共に拝まれ讃められ預言者を以て嘗て言いしを。
又信ず一の聖なる公なる使徒の教会を。
我認む一の洗礼以て罪の赦しを得るを。
我望む死者の復活並に来世の生命を。
アミン。
(洗礼のとき告白する最も基本的な信経です)431年のエペソ全地公会議(第三回)・第六回全地公会議で「コンスタンチノポリスでの第二回全地公会議の信経」として承認された信経。第二回全地公会議(381年)はカパドキア三教父やエルサレムのキリロス等が中心になり、聖霊論を軸として第一回全地公会議での議論をさらに深めました。この信経のベースは原ニケア信経と思われるが、大幅に増補改定されていてそのまま使用されてはいません。エルサレムのキリロスも有力な起草者候補です。 この信経は洗礼の時だけではなく、東方正教会の奉神礼・礼拝の中ではしばしば唱えられ、歌われ、信仰生活の中で血肉化されていきます。
その他の重要なテキスト
ニケア第一全地公会三百十八人の諸聖父の信経
我信ず一の神・父・全能者見ゆると見えざる萬物を造りし主を。 また信ず一の主イイススハリストス・神の独生の子・父より即ち父の本体より生まれ・神よりの神・光よりの光・真の神よりの真の神、生まれし者にて造られしに非ず父と一体にして天に在り及び地に在るの萬物彼に造られ我ら人々の為め又我らの救ひの為に降り身を藉りて人と為り苦を受けて第三日に復活し天に升り父の右に座し生ける者と死せし者を審判する為に還た来たらんとするを。 凡そ神の子に就て存在せざりし時在りと云ひ或は生まれざりし前に在らざりしと云ひ或は無より生じたりと云ひ或は他の位(イポスタス)若くは本体より出でたりと云ひ或は神の子は変化し若くは変易すと云ふ者は公けなる使徒の教会之を「アナフェマ」に処す。
325年ニケアにおける第一回全地公会議にて採択。聖アタナシオスの奮闘により公会議はアリオスの異端を打ち破り、父と子は「同一本質」であると解明し、至聖三者(三位一体)の真理を擁護した。
カルケドン定理議定書
我等諸聖父に循て皆異口同音に同一の子・我等の主イイススハリストスを神性に於て完全にして人性に於て完全なる者即ち真の神及び霊魂と肉身より成る真の人、神性に由ては父と一躰、人性に由ては我等と一躰にして罪の外悉く我等と同じく、世の前に神性に由て父より生まれ其末日に於いて我等の為又吾人の救ひの為に人性に由て童貞生神女マリアより生まれたる者と認め、同一のハリストス主・独生子をニ性に於いて混ぜず変ぜず分れず離れずして認識せられ(相合するに由てニ性の区別を失はず乃ち各性固有の性質を一位に合したる者)ニ位に裂かれず分れざる者と認め同一の子・神の独生の言・主イイススハリストスを昔、預言者が彼れの事を言ひし如く又主イイススハリストスの自ら我等に教へし如く又我等の諸父の我等に伝ふるが如く認むべきを教へん。
451年カルケドン第四回全地公会議は、エウテュケス等の異端を退け、アレクサンドリア総主教パパ・キリロス、ローマ総主教パパ・レオの教説を確認して、イエス・キリストは真の人であり、真の神であることを宣言した。
コンスタンティノポリ第六回全地公会百七十人の諸聖父の定理(我等の主イイススハリストスに二個の意旨及び作用ある事)
我等諸聖父の教えに循ひイイススハリストスに於いて二個本性の意旨若くは希望及び二個本性の作用は相離れず変ぜず分れず混ぜずして存するを宣伝す、即ち此の二個本性の希望は相反せず決して不虔なる異端者の唱ふるが如くなるべからず乃ち其人性の希望は其の申請の全能なる希望に順ひ反せず抗せず寧ろ之に隷属する者なり。
第六回全地公会議にて681年に採択された信経。この公会議は「キリスト単意説」(実はカルケドンで論破された「キリスト単性論」のヴァリエーション)の誤りを明確にし、カルケドンで確認された真理を擁護・発展させた。表神者(証聖者)聖マクシモスの貢献によりイエス・キリストの中での神的意志と人的意志の調和と浸透が明らかにされた。また、在任中に異端説を唱えたローマのパパ・ホノリウス等を破門した。
聖像(イコン)に関する定理議定書
書に依り又は書を以てせずして我等の為に制定されたる教会の伝を我等悉く新説を附会せずして遵守せん、画く所の聖像は福音伝ふる所の記事に附合し且我等をして神言の藉身の真実にして想像的に非ざるを信ぜしめ彼と同様の利益あるものなるを以て其伝の一なり。 盖し彼れの此れに指示する所彼れ必ず此れに説明すればなり。 されば我等は王の途を歩む者の如く我等の諸聖父の神出の教と公教会の伝とに循ひ(盖し此教は教会に在ます聖神の教えたるを知るなり)極めて確実に且つ最も精密の調査を遂げて議定すること次の如し。 神の聖堂に聖なる器物及び祭服に壁に板に家に途に尊貴にして生命を施す十字架の象と等く顔料を以て書かれ美石及び其他適宜の物を以て製造せらるる尊貴にして且つ聖なるの象即ち我等の主・救主イイススハリストス及び無てんの女宰・我等の生神女・並に尊貴まる使徒及び諸聖人克肖者の像を置くべし。 盖し屡々聖像の象を見るに由りて之に注目する者は其原像を想起して之を愛し接吻と敬拝とを以て之を尊敬するの念を起すべし但し此叩拝は我等の信ずる所に依るに当に惟一の神性に帰すべき真の拝神に非ず乃ち尊貴にして生命を施す十字架の象と聖福音経及び其 他の聖物に対し薫香及び点燭を以て敬意を表するの例に倣ひ尊敬することにして即ち古時の敬虔なる慣例に行はれたる如し。 葢し像に施す所の尊敬は其原像に移るものにして聖像に叩拝する者は之に畫かれたる者に叩拝するなり。 是れ蓋し我が諸聖父の教の確かむる所にして地の極より極に至るまで福音を受けたる公教会の伝なり。
ローマ(ビザンチン)皇帝によるイコノスクラスム(聖像破壊:表面的にはあたかも偶像崇拝に反対しているかに見えるが、根底にはキリストが人間性を取られたことの否定、肉体や物質的な物に対する軽視等、初代教会より受け継いだ真理への否定が潜んでいる)に対し、聖像(イコン)についての教会の教えを明らかにした。
ネオケサリアの奇跡者聖グリゴリイの信経
神、活言、睿智、自存の能、永在者の像の父は惟一なり是れ則ち完全者の完全なる父、独生子の父なり。
主、一者よりの一者、神よりの神、神性の象(かたち)と表(あらわし)、活言、萬物の合成を維持する睿智、萬物を堅立する能力は惟一なり是れ真父の真子無形者の無形者、不朽者の不朽者、不死者の不死者、永在者の永在者なり。
聖神、神より出て子に由りて人々に顕われし者は惟一なり、是れ則ち生物の原因たる生命、聖なる源泉、成聖を与うるの聖者なり、萬物の上にあり万物の中にある神父と萬物を貫く神子とは彼に由て顕わる。
完全なる三者は光栄と永遠と国とに於ては相分れず相離れざるなり、故に三者の中造られし者も事うる者も前にあらずして後に入るか如く来り就く者もなし、父も子もなくしてありし時なく、聖神なくしてありし時なし、然れども三者は化せず変せず恒に同一なり。
聖大アファナシイの信経
・・・公会は即ち斯の如し。・・・三者なる唯一の神と唯一なる三者、其個位(イポスタシ)の混ぜず其本体の分れざる者を尊敬すべき事なり、蓋父の個位、別に子の個位、別に聖神の個位、別なり。然れども父と子と聖神の神性惟一、其光栄相均しく其尊厳同じく永遠なり、父の如く子も然り、聖神も亦然り・・・
・・・即ち父は神、子は神、聖神も亦神なり、然れども三の神に非ずして惟一の神なり・・・
父は何者にも創造せられたるに非ず、造成せられたるに非ず。子は創造せられたるに非ず、造成せられたるに非ず、乃ち父より生れたり。聖神は創造せられたるに非ず、造成せられたるに非ず、又生れたるに非ず、乃ち父より出ず・・・
而して此三者に前后の区別なく多少の差別なし。乃ち三位相全うして皆偕に永遠且同等なり。
我等信じ且認む。主イイスス・ハリストス、神の子・神と人、は実に諸世の先に父の本体より生まれたる神なり、また実に時に於て母の本体より生れたる人なり、完全の神にして有智の霊と人体より成れる完全の人なり、神なりまた人なるもハリストスは二に非ず一なり、・・・二性相混したるに非ず個位惟一なりと、・・・我等信じ且認むるは是れ則ち正教なり。
教会は、上記の「信経」や「定理議定書」の他に、公会の審査を経てはいないものの、奇跡者グリゴリイの信経と、聖大アファナシイの名による信経も信仰の規範として尊重してきました。