聖書の引用

異言の賜物(ほかの国々の言葉を語る賜物)

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(訳注:新共同訳は、使徒言行録2章では γλῶσσα(舌、言語)を「ほかの国々の言葉」と訳し、コリントの信徒への手紙一12-14章では同じ語を「異言」と訳しています。しかしギリシア語原文では、どちらも同じ γλῶσσαι —「言葉、言語」です。)

神はバベルで言葉を混乱させられた

バベルの塔の建設は、比喩的には、神なしに自分の力で天に達しようとする試みです。それが言葉の混乱と、互いの言葉が分からなくなることを招きました:

「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(創. 11:4-9)

神は教会において言葉の混乱を克服された

教会が形づくられ、聖霊が降った日に、神は使徒たちに外国の言葉を理解する賜物をお与えになります:

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使. 2:1-4)(ギリシア語原文では λαλεῖν ἑτέραις γλώσσαις —「ほかの言葉(異言)で語る」です。)

異言とは外国の言葉である

ほかの土地から来た人々は、ガリラヤの人々(使徒たち)が外国の言葉を話せることに驚きました:

「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」(使. 2:5-12)

すべての人が異言の賜物を持っているのではない

  1. すべての人がほかの言葉を知る賜物を受けるのではありません。

  2. 異言の賜物を受ける人々は、さまざまな言葉を知ります。

  3. 異言の賜物を含むすべての賜物は、働きの益となるために与えられます。

「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

ある人には“霊”によって知恵の言葉、

ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、

ある人にはその同じ“霊”によって信仰、

ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、

ある人には奇跡を行う力、

ある人には預言する力、

ある人には霊を見分ける力、

ある人には種々の(!)異言を語る力、

ある人には異言を解釈する力が与えられています」(1コリ. 12:4-10)

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。(ギリシア語 γένη γλωσσῶν —「種々の言葉」)

皆が使徒であろうか。

皆が預言者であろうか。

皆が教師であろうか。

皆が奇跡を行う者であろうか。

皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。

皆が異言を語るだろうか。

皆がそれを解釈するだろうか。

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(1コリ. 12:28-31)

使徒がすべての人に宣べ伝えるには、ギリシア語の知識だけでは足りなかった

ローマの千人隊長は、使徒が最も広く用いられていた言葉であるギリシア語さえ知っていることに驚いています。つまり、ギリシア語が広く用いられていた(共通語であった)としても、だれもがそれを理解していたわけではないのです。

民全体から知られ尊敬されていた律法の教師ガマリエルのもとで学び(使. 22:3)、ファリサイ派で最高法院の議員であり(使. 5:34)、ギリシアの哲学者や著作家を引用する(使. 17:28 [1]; テト. 1:12 [2])高い教養を持った使徒パウロが、ローマの千人隊長にギリシア語で話しかけます。千人隊長は、使徒パウロがギリシア語を知っていることに驚きます:

「千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。<…> パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、『ひと言お話ししてもよいでしょうか』と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。『ギリシア語が話せるのか』」(使. 21:33,37)

ローマの千人隊長は、ユダヤ人がローマ帝国で最も広く用いられていた言葉を知っていることに驚いています。それが驚きとなりうるのは、それがまれなことである場合だけです。このように教養ある人がギリシア語を知っていることさえ驚きであるなら、多くが普通の漁師で、無学な普通の人であったほかの使徒たち(使. 4:13)が生まれつきギリシア語を知っていたなどとは、なおさら言えません。しかし問題は、至る所で宣べ伝えるために宣教者(使徒)が言葉を知らなければならないということだけではありません。聞く人もギリシア語を知っていなければならないのです。

このように、ギリシア語の知識だけでは足りませんでした。それゆえ、イエス・キリストの生涯、復活、教えの生きた証人である使徒たちには、キリストについてのこの証しを、彼らの信仰と共にすべての国の民に伝えることができるよう、言葉の知識を含む超自然的な賜物が必要だったのです。

異言を語る人の言うことがだれにも分からなければ、何の益もない

「だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。<…> 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。<…> さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」(1コリ. 14:6,9-13,16-17)

解釈する者がいなければ、教会で異言を語ってはならない

「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。<…> 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように」(1コリ. 14:27-28,33)

そして、預言者たちの務めは宣教でした:

「ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ」(使. 15:32)

異言よりも預言(宣教と解釈)の賜物を求めるようにとの呼びかけ

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。<…> わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません」(1コリ. 14:1-5,39)

異言はやむ

「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(1コリ. 13:8)

愛は最も大いなる賜物であり、それを求めなければならない

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。<…> それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリ. 13:1-2,13)

使徒たちが与えなかった違った霊

「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」(2コリ. 11:4)

今日の宣教者は言葉を学ぶ

古代において、使徒たちと最初のキリスト者たちは、まだごく小さかった教会が広く広がり、すべての国の民に宣べ伝えることができるよう、特別な必要から外国の言葉を知る賜物を受けました。しかし今日、宣教者は言葉を学ばなければなりません。つまり労苦しなければならないのです。そして今ではそのためのあらゆる手段があります。欠けているのは、望む心だけかもしれません。

キリストを信じる人々の団体(カリスマ派やペンテコステ派)の中には、異言とその解釈の賜物を持っていると主張する人々がいますが、彼らが外国に行くと、外国人には彼らの言うことが分かりません。それでそのような宣教者たちは、母国語で話し続けるか、教科書や教師の助けを借りて普通の方法で言葉を学ばなければなりません。

わたしたちの時代には、この賜物はほとんど見られません。正教会には20世紀の聖人、アトスの克肖者パイシオスがいます。彼は母国語(ギリシア語)以外の言葉を学んだことがなく、異言の賜物を持っていると主張したこともありませんでしたが、外国人が彼のもとを訪れたとき、通訳なしに、あるときはフランス語で、またあるときは英語で彼と語り合うことができました。

批判への応答

コリントの信徒への手紙一14章の本文についてのさまざまな問い

コリントの信徒への手紙の14章については多くの問いが出されるので、単に章全体を順に見ていくのが理にかなっています。これは別の記事(ロシア語)で行われています。

異言がやむのは来るべき世においてだけなのか

正教徒は、ペンテコステ派やカリスマ派の人々に対して、異言はやむ(1コリ. 13:8)、すなわちこの賜物は終わるという使徒パウロの言葉を指摘します。もちろん、この賜物が完全に消えるわけではありません。正教においては、外国の言葉を語る賜物を持っていたごく少数の現代の聖人が知られているからです。しかし全体としては、最初のキリスト者たちに見られるような大規模な現象は、もはやないでしょう。

これに対して新しいプロテスタントのペンテコステ派の人々は、異言がやむのはキリストの来臨の後、来るべき世においてだけだと答えます。彼らのうちのある人々は、この意見の根拠を、「完全なものが来たとき」(1コリ. 13:10)についての次の言葉に見ています。

この本文をより広い文脈の中で見てみましょう:

「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリ. 13:8-13)

使徒は、「完全なものが来たとき」には「部分的なもの」は廃れると言いました。では部分的なものとは何でしょうか。知識です。この文で使徒は、「知識は廃れよう」という自分の難しい表現を説明し始めたのです。使徒が今伝えなければならないのは、知識そのものが廃れる(つまり、何も知らなくなる)のではなく、今持っているこの部分的な知識が廃れて、完全な知識が来る、という考えです。まさにこの考えを、使徒はさらに展開しています。

  1. 使徒は、今すでに知識は一部分あり、ほかの知識は預言によって一部分示されると言います。

  2. 「一部分」ではなく、完全な知識が与えられる時が来ます。

  3. 今、知識は、おぼろな鏡を通して見るように、ぼんやりと受け取られています。

使徒がここで語っているのは知識のことであって、異言の賜物のことではありません。キリスト者たちは外国の言葉を一部分だけ知っていたのではありません。そうでなければ、ほかの部族や国の民に福音を完全に伝えることはできなかったでしょう。彼らは異言の賜物を完全に持っていました。五旬祭のためにエルサレムに来た人々が驚いたのは、まさに、使徒たちが自分たちの言葉で語るのを聞いたことでした(使. 2:5-12)。それは一部分ではありませんでした。一部分であったのは知識であり、知識だけでした。使徒がその先で論じているのも、まさに知識についてなのです。

では、異言の賜物はいつやむのでしょうか。厳密に言えば、ここには書かれていません。ただ、やむと言われているだけです。そして、彼らから20世紀後に生きているわたしたちは、振り返って、これらの言葉がかなり早く成就したことを見ることができます。宣教が広く広がり、キリスト者が非常に多くなったので、今では異言の賜物がそれほど特別に必要ではなくなったときです。特別に必要なのは愛であって、異言の賜物ではありません。それゆえ、それ以来、言葉は学ばれるようになったのです。

愛だけは永遠においてもやまないという言葉は、終わるものが永遠において終わるということを示しているのではありません。ほかのものはすべていつでも終わりうるのであって、永遠については、愛はそこでも終わらないと言われているだけです。愛が永遠であり、来るべき世においてもやまないということについては、議論の余地はありえません。

人々は聖書のこの数行を、ペンテコステ派の人々が理解するように理解していたでしょうか。

たとえば4世紀の金口イオアンは、異言の賜物がやむことは来るべき世ではなく、この世において語られていると考えていました。

聖金口イオアン(347頃-407)

さて、あらゆる仕方で愛が非常に大いなるものであることを示した後、使徒は再び、もう一つの最も重要な点から、新たな比較によって愛の尊さを高めて、こう言う。「しかし預言は廃れ、異言はやむ」。もしこの二つが信仰のためにもたらされたのなら、信仰が至る所に蒔かれたときには、これらを用いることは今後は余計なことになる。しかし互いに愛し合うことはやまず、むしろ、この世においても来るべき世においても、さらに進んでいく。そしてそのときには今よりもいっそう進むのである。この世には、わたしたちの愛を弱める多くのものがあるからである。富、仕事、体の情欲、魂の乱れ。しかしかの世には、そのようなものは何もない。預言と異言が廃れることは驚くに当たらないとしても、知識が廃れるということは、ある人々を当惑させるかもしれない。使徒はこれも付け加えているからである。「知識は廃れよう」。では何か。わたしたちは無知のうちに生きることになるのか。決してそうではない。むしろそのときこそ、わたしたちの知識は強められるのである。それゆえ使徒は、「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とも言った。それゆえ、注意して見れば分かるように、知識が預言や異言と同じように廃れると思わないように、「知識は廃れよう」と言った後、使徒は黙っていないで、それが廃れる仕方をも付け加え、すぐにこう続けている。「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」。したがって、廃れるのは知識ではなく、わたしたちの知識が一部分であるという状態なのである。わたしたちはそれだけでなく、はるかに多くを知るようになるからである。

(「コリントの信徒への第一の手紙講話」第34講話、英語。英訳からの訳)

ほかの引用:異言についての聖師父の引用(ロシア語)

人々の異言と天使たちの異言

異言とはほかの国の民の外国語であるという引用を示されると、新しいプロテスタントの人々はそれに同意しますが、それに答えて別の引用を示し、天使の言葉の賜物もあるのだと言います:

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(1コリ. 13:1)

しかしこの意見は誤っています。天使は体を持たない霊だからです。天使には発声器官も、舌も、肺も、声帯もありません。空気の振動を生み出し、捉えることによって交わるために、大気(空気)を必要としないのです。したがって、声帯によって発せられるどんな人間の音も、天使の言葉ではありえません。天使には肉と骨の体がないのと同じように(ルカ. 24:39)、声帯もないからです。

では、使徒が天使の言葉について語るとき、何を意味しているのでしょうか。これは単なる修辞であり、一方を極端に強調して、それを他方によって引き下げるためのものです。使徒はただ、愛のない賜物は空しい音にすぎないことを示しているのです。コリントの人々は、ほかの国の民の言葉を話すことがすでに特別なことだと考えていたので、使徒はさらに高く上ることにしました。たとえ天使の言葉で語ることができたとしても、愛がなければ何の益にもならない、と。

これは使徒の修辞にすぎません。このことについては、聖金口イオアンにも読むことができます。

聖金口イオアン(347頃-407)

さて、使徒はここで「天使たちの異言」と言っているが、天使に体を与えているのではない。その意味はこうである。「たとえ天使たちが互いに語り合うのが常であるように語ったとしても、これ(愛)がなければ、わたしは無であり、むしろ重荷であり迷惑である」。こうして(もう一つの例を挙げれば)、使徒が「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずく」(フィリ 2:10)と言うとき、天使にひざや骨があると考えてこれらのことを言っているのではない。決してそうではない。わたしたちの間の習わしによって、彼らの熱烈な礼拝を描き出そうとしているのである。同じようにここでも、使徒が「舌(言葉)」と呼ぶのは、肉の器官のことではなく、わたしたちの間で知られている仕方によって、彼らの互いの交わりを示そうとしているのである。

(「コリントの信徒への第一の手紙講話」第32講話、英語。英訳からの訳)

キロスの福者テオドリトス(386頃-457)

天使たちの言葉とは、感覚で捉えられるものではなく、ある霊的な言葉のことである。天使たちはそれによって万物の神を賛美し、互いに語り合う。イザヤは天使たちが歌うのを聞き、エゼキエル、またダニエル、ゼカリヤ、ミカは天使たちが語り合うのを聞いた。神的な使徒はこれを誇張して表現し、愛の優越を示そうとしたのである。

(「コリントの信徒への第一の手紙注解」13章、ロシア語。ロシア語からの訳)

キリスト御自身も同じような修辞、すなわち一方を極端に強調して、それを他方によって引き下げる修辞を用いられました:

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ. 16:26)(マコ. 8:36)(「命」は、ギリシア語原文では ψυχή —「魂」です。)

このように、人が天使の言葉を語る賜物を持つということは問題になりません。人は自分の肉によって交わりますが、天使には肉がないからです。天使の言葉についてのこの言及は、修辞にすぎないのです。

元ペンテコステ派牧師の証言

ペンテコステ派の共同体の元牧師で、後に正教に改宗したパーヴェルは、短い音声メッセージ(11分)の中で、ペンテコステ派における「異言」についての自分の感覚と経験を語っています。彼はかつての経験を、正教において得た経験と比べています:

音声ファイル(ロシア語):https://disk.yandex.ru/d/hHzrMNPi_lVy2w

Примечания

  1. ↑ キリキアのアラトスの『天象譜』、またゼノンの弟子クレアンテス(参照、ロシア語)。

  2. ↑ クレタのエピメニデス(参照、ロシア語)。

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Опубликовано пользователем: Rodion Vlasov
Создание страницы: 2026-10-25, обновление: 2026-10-25
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