古代の聖父や教会の著述家の著作

クロンウェシタトのイ オ ア ン 神 父、19世紀

(1829–1908)

クロンウェシタトのイオアン神父目次

は じ め に

クロンウェシタトのイオアン神父ニコライウスキー著1948年ミュンヘンにて発行露国アルハンゲリスク県ニヒチェフスキイ郡スール村の誦経者の子であって,1855年ペトルブルグ神学大学卒業後,クロンウェシタト軍港町のアンドレイ聖堂の司祭に叙聖されたのが聖職者の始まりであった。

 この港は主都に近く,以前は犯罪の流刑所であった関揉もあって,町の住民の性質は良くなく,酒のみ,盗賊窪乱,貧乏,博打など,いろいろな犯罪が盛んに行われた町姿であった。

 このようなありさまの町に任命されて来た若い神父イオアンはこの現実を目の前に見て,どのようにしてこの町に自分の聖職の任務を遂行してゆくべきかと,静かに祈って決意をされたのであった。

 何よりも先ず祈り,聖体礼儀での熱祷をすべきだと考えたので,かれは最初の聖体礼儀を執行したあと,第一声を掲げて言われた「私が司祭として与えられたこの地における神の使命は,主ハリストスに対する愛,並びに兄弟である皆さんに対する愛,ただこれだけである。愛程偉大なものはない。弱いものを強くし,ほろびようとするものをおこし,小さなものを大いなるものとする,これが福音の教えようとする純な愛の性質である」と。

 以来神父はこの第一声の実行に努力され,毎日貧民,頑迷なもの,溺れているもの,病んでいるものを訪問して金と物を与えつつ,霊の開発に努力されるのであった。

 浅はかな人達による嘲笑や攻撃はたえなかった。家族のものも神父があまりに施してしまうので苦情を言う,同寸の司祭からも「司祭たるものは祈祷と説教をしていればそれで良いのではないか,自分の給料や着ているものまでも施さなくてもよいのだ。アンドレイ聖堂の周りには神父の赴任するまでは乞食が10人しかいなかったのに,神父が来るようになってむやみに施すので,今は100人もの乞食が集まるようになった。ここの貧乏人は先天的なものなのだから放っておけば良いのだ。それに施すということは乞食を製造することだ」などの悪口がとんだ程である。

 そこで教会は神父への給料を神父に渡さないで,神父の奥様に渡すようになった。しかしイオアン神父はこのような周囲の状況に落胆したり憤慨することもなく,ただ主の命ずる愛の実行に努力して,うむところを知らなかった。

 祈りと愛,あらゆる嘲罵,苦難への忍耐はおもむろに勝利の光を出し始めた。施しに与かろうとして聖堂の入口に待つ多くの貧者等はおいおい神父の真剣な熱誠な祈祷の声に耳を傾けるようになり,その言ばがかれらの心に入るようになって来た。

 神父は重要な祈りの言ばを読む時には,必ず人々の方に白かって一句一句明瞭に,よく分かるように読まれた。この祈りと説教と愛の行いとは遂に人間の堕落に勝ち,迷い.さまよい,はろびつつある人々を神の祝福を受けるのにふさわしい人と化してゆかれたのである。

 神父は言われる「ク港の何処に私のおらない所,おらない時があったか」「私は常に皆さんのために祈っております。特に無血祭のなかで自分と皆さんの罪の赦しを一心に祈っております」と。

 神父の祈りと愛の行いはク港からおいおい全露に響きわたり,ついには全世界に散在する正教徒の問にイオアン・クロンウェシタトの愛称のもとに,信徒の信仰の心を燃やしたのである。

神父と労働の家

神父のク港就任17年間の祈りと愛の行いはついに貧民乞食の心を生かすようになったとはいえ,かれらには家がなく,職はなく,衣服はないといった具合で,ここにおいて神父の着手した第一の事業は労働の家の設立であった。それは家なきものに家を,職なきものに職をということを主眼とした職業教育,孤児院,無料宿泊所,治療所,図書室,その日の食なきもののためには,パン製造所,なお多くの貧者乞食のための支出を賄うのがこの労働の家の仕事であった。

 そして多くの乞食を救い,貧者を生きるようにされた光景は当時の露国としてはまことに類例のない光景であった。

 ◎ある婦人が日曜の聖体礼儀に家族連れでやって釆た祈祷後十字架接吻の時,携えて来た金一封を神父に渡した。すると神父はそれをそのまま他の婦人に渡した,このことを見ていた当の婦人は,静かに神父に近づいて「神父さん,あの中にとは3000ループリのお金が入っていたのですよ」と言うと,神父は「それがちょうどあの婦人に必要なお金なのですよ」と言われた。

 ◎ある家に神父が招かれて祈祷を終わると,主婦は神父に献金の封筒を差し上げた。すると神父が申されるのには「この封筒をあなたが明朝街道に出て,第一番目に会ったひとにあげて下さい」と言われた。主婦は明早朝街道に出かけ,どのような貧しい人に会うのかと歩いていると,第一番目に会った人は将校であった。このような人ではないと思って通り過ぎたのであったが,ほかを見ても人の姿はなし,第一番に会ったのがあの将校だからと思って,将校のあとを追い,昨日のイオアン神父の話をすると,その将校は眼より大きな涙を流して感謝して,その封筒をいただくのであった。

 ◎ある日曜の祈祷後.十字架接吻こ来た一商人に神父こ献金皿の上に積まれた多くの札をつかんで,その商人に与えられた。武人は驚いて「私は貧乏人ではありません。財産もあり,献金もできるものです」と固辞すると神父は「この金はあなたに必要な金ですから持って帰りなきい」と言われるのであった。

 この商人は不思議に思って帰途についた。家に帰ってみると.家も倉庫も品物も全部焼けてしまっていた。もし神父より与えられたお金がなかったならば乞食になってしまうところであった。

 ◎イオアン神父は実業学校の教会科目の先生であったある時よくよく古びたリヤサを着て教室に出た。生徒が「神父さん,どうしてそんなにひどいリヤサを着て来られたのですか」と問うと,神父はこれに答えて「追剥さ〔盗られたのですよ」と。そこで一つの疑問が起こる,たぜ神父には追剥の予知,予見ができなかったのかということ,その答えは福音吾に見られるとおり,悪魔が主ハリストスの事業を破らんとして,主を試みたように,悪魔は神父の祈りと温柔とを破らんとしてそのようなことをするのを神が許されたのである。

 神父は言う「主は人を罪のために罰する場合と,まプ人の信仰を試みるために罰する場合とがある」と。

神父の祈り(その1)

当時ク港アンドレイ聖堂には神父の祈祷に参加して,公衆痛悔に与らんものと,全露から多数の信徒が押寄せて来て,日曜毎に7000人(この聖堂には7000人で一ばい)以上ということで,神父は初代教会の例にならい,信者に強制することなく,自由に心の底から一切の罪を神の前に認めて,赦しを乞う方法をとられるのであった。 この痛悔のようすをある婦人が記している。私の近くに老人と二人の青年がいたが,老人は謙遜なようすであったのに,青年達は笑っているのであった。神父の痛悔に関する言ばの進むに従って,この人達は真面目となり,視線は神父に集注し,ついにこの二人は共に膝をかがめて,両手を瀕にあて泣いて伏拝するのであった。

 ◎またある人は自ら記して,1895年私は自分の用事でク港に行ったが,聖堂は何時も通り過ぎということであったが,ある時聖堂の前を通ると,ちょうどイオアン神父の説教の時であった。ちょっと立ちどまって,神父の言ばに耳を傾けると「ハリストスわれらの内にあり」との言ばであった,私の心にハリストスわれらの内にあり,など私に何の用があろうか,信仰に縁の遠くなった私の救いには何の関係もない。

 説教を終わって神父は聖爵を持って出て来られ「神を畏れる心と信を以て近づさ来たれ」と言われるのであった。この時私は畏れを感じ,10数年も痛悔をしなかった心中に悲しみを覚え,自分の霊の空しさに涙が出て釆た。そして祈祷の終るまで聖堂の中にとどまっていた。ところが神父が至聖所から出て来られて,私に近づき「あなたは不幸です,痛わしい,主はあなたの罪を赦される」と言われるのであった。私はこの言ばを聞いて,自分の罪を痛悔し,2日間滞在して幸福な信者となって家に帰ったのである。

 大いなる牧者である神父のもとに,あらゆる人々が祈祷に参加するのではあったが,しかし神の助けと生活の安定とを与えられるとはかぎらなかった。主神に真実な疑いのない信仰を以て近づくもののみであった。「汝の信によりて,汝に与えらる」との聖書のことばの通りである。

 聖体礼儀について神父は記して言う「聖体のさかれて後,羔(聖体)をのせた聖孟,聖血の入れた聖爵を司祭が手にもって立った時,あの放蕩息子が父の膝下に伏したように伏して,自分と総ての人々の罪のために泣いて赦しを祈る。すると主はこの機密において,われらに近づき,御自らを飲食物として,この汚れたわれらの天性の中に降り給うのであって,実に驚くべき,畏るべきことなのである。」と教えられる。

神父の祈り(その2)

長司祭ウラジミル(1948年存命中)師はイオアン神父の奉神礼に就いて記して言う。私は1906年1月18日モスクワのアンテオフ聖堂において,イオアン神父と共に祈祷することの幸福に浴した。当時78才のこの老神父は少し前かがみで聖堂に入って来られた。神父の顔は挨拶の心で呼吸しておられた。

 「神父さん方,兄弟よ,さあ主にお祈りをいたしましよう」「今日の記憶の聖致命者プラトンに専敬を捧げましよう」と言って,自ら朝の領聖規定を読まれた。

 規定が終わって入堂式も終わって3人の司祭が宝座の両側に立つ,第4の司祭が聖体準備を終わると老神父は宝座の前に立たれた。驚くべし,かれが宝座の前にあることは恰も燭台にローソクが立っているように不動の姿せい,至聖所は全く聖気に満たされ,地上総ての雑念はわれらの心中から消えさる。

 時課が終わると神父は感動すべき大声を発して「天の王慰むるもの」「至と高きには光栄神に帰し」等の挙手の祈りの後「父と子と聖神の国は崇め讃めらる」と高らかに唱せられる。修道院の聖歌隊の静かな,厳かな聖歌が堂に満つ。天上の美は一段一段とそそがれる。この進行につれて78才の神父の顔は一段一段と輝いて来る。祈りの熱と共にかれも青年のように血色を帯びて来る。

 かれの眼は祈樽中大方閉じられている。しかし時としてにわかに救主ハリストスの聖像に向かって開かれる。へルビムの歌の時,神父の眼は生,死者の記憶をした献祭の上に注がれて良く祈られる。それは全霜国より来た記憶を請われた総ての霊の子のために祈られるのである。 領聖詞が始まる。聖爵の前に総ては直立し,総てが敬けんに総ての霊は聖事の一点に集注して,領聖が終わる。聖体礼儀が終わり,神父は主日の福音から簡単な教話をされた。

 狐には穴あり,空の鳥には巣がある,されど人の子には頭を枕するところなし,ということについて「穴及び巣とは人々が自己の欲望にとらわれている罪悪の状態である。このような心の内に主ハリストスは頭を枕されない,改悔しなさい。心を清めなさい。ハリストスを宿すに適した心の準備を常にしなさい,と神父は説教を終わって至聖所に入り,そこで祭服を脱がれた。驚いたことに祭服の白い下着の背中は汗でびしょぬれである。ああ実にかれの涙とこの汗こそかれの熱祷のしるしである。

 大いなる牧者,熱誠なる祈祷者の称はここから発せられるのだと思われる。

神父の奇跡と病者平癒について

 神父の祈りによって病者の癒されたことと,奇跡の数では全霜でよく知られたものとして,スールスキイ氏著「ク港のイオアン神父」という本があり,その中で300件以上の事実が記されているが,ここには紙面がないので転載することができない,この著者の妻が医者に見離されていたのを神父の祈りによって癒された経験を持っていること,この書が印刷されて発表されると,各地方に散在している露人より,病者の平癒,奇跡などに閑した234通の手紙を受け取ることとなったという。そしてその何れもが神父の祈りと,各人の深い信仰に由来しないものはないと記してある。以下少しこうした事実の主なものを記して見る。

(1)あるユダヤ人が重病で苦しんでいた。医術ではどうしようもなかった時,同居していた正教徒の婦人が神父にあらかじめユダヤ人の病者であることを告げて,平癒の祈りを依頼した。神父はただちに返事を出されて「ユダヤ人もわれらも神様は同じである。行って病者と共に祈りましょう」と言ってやって来られて,神父は病者と共に祈り始められたが,その声は大きく,いちいち力がこもっていた。神父の祈りは病者に非常に大きな印象を与え,その時より病は回復に向かい,間もなく全快した。この時よりこのユダヤ人は正教の熱心な信者となった。

(2)ペテルブルグの城下である金持ちが自分の領地で教会堂の御祭りをして,神父を招いて盛大な宴会を催した。この時の来客中には多くの不信者がいた。

 この地に数年問てんかんを患った娘を持った一人の貧しい婦人がいた。イオアン神父のおいでになることを聞いて,かの女は誰が何を言おうと,止めようと聞かないで,断然娘を携えて神父の祝福を受けようと決心して,非常に困難であったが,遂に娘を神父のおられる会場まで連れて釆た。神父は病娘に目を止め,直ちに席を立って娘のもとに行かれた。

 すると病者は強く打たれたように地に倒れて,人間の声でないような異様な叫び声をあげるのであった。

 不信者の客のささやきが聞こえる「さあ悪魔追放の喜劇でも始まるのかね」との嘲声,神父は病者に近づき,かの女の頑に手を載せ,静かに言われた「父と子と聖神の御名によりて,健かになるべし」と。病人は数回異様な叫び声をあげて,静かになった。数分の後神父は娘の手を取って,自分の食卓の所に連れて来て食べるものをあたえられた。母は感謝と喜びに溢れて娘の手を引いて帰って行った。それ以来再びてんかんは起こらなかった。

 不信の知識階級の御客さん達は驚いて嘲笑することを止めるのであった。

(3)ある夫婦は結婚して長く子供ができないので,医師にみてもらったところ,不妊症だから子供ができないのは当然だと言われた。しかしどうしても子供が欲しいので,イオアン神父のもとに「子供の賜るように祈って下さい」との手紙を書いた。神父から間もなく返事が来た。「固く信じて神様に祈りなさい,必ず息子を賜るからイオアン」と記してあった。果たしてこの夫婦にただ独りの男の子が生まれて健全に育った。

(4)1895年5才になる男の子がヂフチリヤにかかった。この当時ロシヤにはまだ血清が無かったので医師はなおる望みはないと言った。そこで母は早速イオアン神父に電報をうち「子供のために祈られたい,まさに死せんとす」と電報をうったのは夕方であった。

 夜分になると子供の意識が回復し,寝台のそばに母のいるのに気がついて,「お母さん,私の所に神父が釆て私に十字架をかいて,泣かないように」と言われました。翌朝,医者がやって来て,子供のようすを見て驚いて言われた「これはまことに奇跡です」と。

(5)1884年7月,一人の将校がある葬式に参列し帽子をかぶらないで,墓までおくった。この日は非常に暑かった。将校は家に帰るとその晩に倒れて,人事不省になってしまった。医者がいろいろ手を早くしてみたけれども,どうにも良くならない,そこでこの妻はペトログラドにいる自分の姉に電報でイオアン神父の所に行って,祈祷をしてもらうように頼んだ,姉は直ぐイオアン神父のもとに電報を携えて行くと,神父はその電報の名を見て「ペートル,ああ,これは良い人です」と言って祈祷を始められた。それがちょうど4時であった,その日その時から倒れた将校は回復し始め,1週間後には全快したのであった。永遠の記憶のかわりにかれの心の中には永遠の命がわきあがったのである。

(6)1945年8月ある家族は撤退しなければならなくなり,その家族には大きな子供が4人と小さい子供が2人いた。臨時の交通機関でエリバ川まで行ったのであったが,その川には橋がなく親子8人は川岸でもう進退きわまったと思って,落胆してそこに集まっていた。日は暮れてくるし,夜の静寂は心にしみわたって,父はたまりかねて神に祈り始めると共にイオアン神父の名を呼んで祈りの助けを熱願されるのであった。

 祈りを終わってしばらくすると子供が小船が見えると叫び出し,一同は「助けて下さい」と小船に向かって叫ぶのであった。やがて小船は近ずいてきたが,見ると2人の人が乗っており,この家族の嘆願は入れられてその夜の2時に再びかれらがやって釆て川を渡してくれたのであった。それからは徒歩で行かねばならなかったが,村の人達は同情と援助を与えてくれるのであった。ただある村だけがかれらを泊めてくれる家がなくて,因っていると,全く見知らない英国人がやって釆て,自動車に乗せて隣村まで送ってくれたのであった。

(7)ある村の小学校の先生が自分の兄弟の妻の妹と恋仲になった。教会の規則ではこの2人の結婚は許されない。そこでこの先生は2人でシベリヤにかけおちし,そこで夫婦になろうと決心した。そのことをイオアン神父に手紙で知らせると,神父から間もなく返事が釆た「シベリヤに行きなさい」と,そして100ループリの金が入れてあった。しかしこの100ループリではただ1人の汽車賃でしかない。そこでかれは先ず自分1人だけで先に行き,働いて金を得たあとでかの女を呼ぶということにして旅だった。シベリヤに落付いてから,この先生は別の娘にあって,結婚し辛福な生活をうちたてたのであった。神父の祈りによる神の聖旨は別であったのである。

(8)1人の母が産後の病気で床につき,ついに絶望となってしまったので,親戚に電報をうった。皆が集まって釆たが,病人の妖がやって来ると,すぐ「イオアン神父に電報をうったのか」と問う,まだだと聞くや直ぐ自分で電報をうつためにでかけ「死にかかっているアレキサンドラのため祈りたのむ」と打電したのであった。これは夕方のことであったが,病人は高熱でうわどとを言うようなことであった。それが段々静かになって顔色が青ざめて,動かなくなった。取りかこんでいる人達はもう終わって,死んでしまったと思った。

 夜が過ぎ,朝が釆た。そこへイオアン神父からの返電が釆た。「祈っているイオアン」と。電報を受けとって数分たっと,病人が目を覚まし「お茶をください」と言い,皆驚き喜ぶのであった。数日を経て全快したのであったが,ただ医者だけはどうしてなおってしまったのか理解することができなかった。

(9)クロンウェシタツトのイオアン神父の著者スールスキイは自分の体験として次のようにのべている。1936年私は神経分裂症にかかった。医者は精神病者として,サナトリウムに送ったのである。そこで私は何を言い,何をしたのか全然知らない。その年6月29日払の母は神父を連れてサナトリウムにやって釆た。

 私の子供が缶詰の缶で怪我をしたことから,私に話かけながら,ついに私が膝をかがめ祈ることまでに成功した。そこには神父と母と私と3人であったが,神父は私の頑に聖イオアサトベルゴロウスキイの不朽体のついている覆いと,イオアン神父から贈られたハンカチを載せて祈られた。祈祷の後に私は叫んだ「暗い愚かなものが私をおいて,去った」と。しかしその日はどのようにして過ごしたのか記憶がない。

 夜になって私の胸に右のようなものがあって,どうしても取り除くことができなかった。私は神父の読まれた祈祷の言ばを想い起こして,祈り始めた。朝になってこの右のようなものが私から取られ,私は初めてせいせいし,頭もはっきりして来て私が病院にいることに気がついた。私は庭に出ようとしたが,私の付き添いは私にそれを許さないばかしか,直ちに私が自由になれないような上衣を私に着せるのであった。巡回の医者がやって釆て私が静かにしているようすを見て,私にいろいろ話しかけてきた。私はいちいちそれに正確に答えた。そこで医者は私から上衣を脱がせるように言われるのであった。私は健康を回復したのである。

 このはか私には危険な心臓の動き(どうき)があった。また足の具合も悪いのであったが,それもよくなったのである。

 イオアサト聖人とイオアン神父とは私を救ってくれたのである。毎年6月30日に私は主神全能者に感謝の祈りを捧げ,また毎日イオアサトとイオアン神父の祈祷によって,私が神のみ旨を行ない,神の光栄を現すことのできるよう祈っております。

(10)1947年8月,1人の熱心な信仰を持っていた家族の主婦が突然心臓まひで倒れた。招かれた医者は手当てをして,1時間後には良くなるでしょうと言って帰ったくこの時間を経過したが良くなるどころではなく,益々悪化し,死の迫るのを感じさせられた。

 そこで病人はイオアン神父に心を向けて祈祷を切に願うのであった。そしてイオアン神父より贈られた写真を心臓の上にのせて熱心に祈るのであった。15分ばかりすると良くなり始め,ついに全快の喜びを得,それ以来常にイオアン神父の代救を求めながらこの世をおくったのである。

(11)1人の大金持ちのユダヤ人の1人娘が,重病の床に臥し,あらゆる専門医にかかったが,生きられないことが決定的となった。父はユダヤ人の博士に「何とか娘を助ける方法はないものか」と嘆願するのであった。

 医者は笑いながら「今評判のイオアン神父にでも頼んでみたらどうだね」と言った。この言葉は父の心を捕らえた。父はイオアン神父に娘平癒,懇願の電報をうった。

 神父は電報を受け取り,次の祈りをもって神に願うのであった。「主よ汝はわが汝をいかに信ずるかを知り給う。病者の癒されることはわが名誉に非ずして,汝の光栄のため,傲慢な嘲笑者をくじくため,他の人々を汝に向かわせるがためである」と。病娘は癒された。そこで全家族は熱心な正教徒となった。

(12)熱い恋仲の若い男女が,イオアン神父の所に相談にやって釆た。かれらは互いに愛し合っていたが,その両親が同意しない。そこでこうした事情を神父に話してその苦しい心を解いてもらいたいと思った。

 神父はこの2人の結婚に祝福され「家に帰っても従来通り相愛しなさい。そうして両親に私があなた方の結婚に祝福されたと言いなさい」と。この時人が入って釆て小さい書留小荷物を神父に手渡した。それは伯爵夫人からのものであった。神父はこの小荷物を手にして言うのであった。「さあ,お帰りなさいこれはあなた方の新生活に対する私からの贈り物です」と。この小包みの中には莫大なものが入っていた。両親は神父の祝福と聞いて2人の結婚を承諾したのであった。

(13)若い婦人が子宮内膜炎と顔面および右の手足まひという病にかかった。モスコウから専門の博士を呼んで診てもらったが,どうにもならなかった。死期が迫ってきたので親戚に電報をうった。病人の伯父さんがやって来て,病人の絶望的な状態を見ると,イオアン神父のもとに打電する決心をした。しかしほかの親戚は最早遅いのではないか,病人の意識はなくなっているのだから,神父への電報は無駄だと言うのであった。それでも伯父は出て行って電報をうった。

 3時間後に次の返電が釆た。「病めるソフィヤ,ク港に来るべし,かれと共に祈らん,イオアン」と。皆はこの電報を見て驚いた。ただ病人は目が覚め大変良くなったことを感じ,それからは急速度に画復に向かい間もなくついに全快した。全快後直ちにかの女はイオアン神父のもとに行って感謝の祈りを捧げた。その後20年生のぴて,最後は風をひいてこの世を去ったのである。

(14)モスコウのある家で神父を祈祷のために招いた。この時18才で口頭結核で声が出なくなってしまった娘が連れてこられた。イオアン神父は娘に向かい「主は汝を癒すと信ずるか」と問われた。娘は決然として頭を下げながらその信仰を著わすのであった。

 その時,神父は集まった総ての人々に向かって「汝らの信によりて,汝らに与えらる。もし主イイスス・ハリストスの名によりて,2,3人集まるところに主その中にある」と言われた後,病人の喉に聖油を塗られ,聖水を飲ませた。病人は1時に良くなったことを感じ,間もなく全快したのである。

(15)1898年ティフリス町において11才の少女の癒されたこと。軽い熱ではあったが,長く病床にあり,いよいよ休も衰弱してきたので,名医の来診を求めたが回復の見込みはないとのことであった。

 信仰の深い父はいよいよ最後の決心を固めて,イオアン神父に電報をうつのであった。当時この町からペトログラドまでの電報は6時間を要するのであった。父が打電したのが午後4時であった。これが神父の所に届くのは凡そ10時すぎになるはずである。

 少女の母は看護疲れで椅子に掛けて,居眠りをしていたが,ふと何かに感じて日を覚まし,娘の顔を見るとまことにすがすがしいようすをしているのに気がついて「ナターシャ,どうしたね」と言うと,娘は「お母さん,お母さん,私は何んだか大変良くなりましたよ」と喜ばしい声をあげながら,枕を持って立とうとした。しかし弱りきった体にはそれはでさなかった。

 このように娘の突然良くなったのを見て,母は神父への電報のことを考えて時計を見ると丁度11時であった。母は娘の胸に耳を当てて鳴る音を聞いたが,それが既に静まっていた。父を呼んで熱を計ってみたら,37度に下がっている。娘は食事をして眠った。

 翌朝7時30分にかかりつけの医者が釆た。父は戸を開けて迎え入れ「ティホン先生は何を見るでしょうか,ナターシャは寝台ではなく,机に向かって腰掛けています。あなたの来るのを待っていたのです」「冗談を言いなさるなよ,アレキサンドル」と「いやさ,早く行って娘をょく診断して下さい,先生」ドクトルは娘を丁寧に診察した後,主ハリストスの聖像に眼を向けて「ナデジタさん,アレキサンドルさん,私は奇跡をみました。ナターシャを救うことはただ奇跡のみであることを断言します」と。

 以上でかかる実例を打ちきる。この記事を終わるに当って,イオアン神父の言ばを加えましよう。神父自ら言う「私は人間です。ただ神の恵みと真実と義とは絶えず私に働いております。神はあるものを憐れみ,慰め,あるものを罰し,悲しめます。それは神のみ心に反する各人の心の働きによるのであって,主は人の心の動きに応じて,かれらの内に憐れみと真実と義とを現わし給うのである。かれが私におけるが如くに,総ての人にもそのようにされるのであり,私は奇跡を行うことはできない。私は常に祈る,そうしてしばしば病人の真剣な信仰は,かれのいやさるるのをみるのである」と。

 換言すれば真実の信仰をもって主神のもとに来るもののみがイオアン神父の祈祷によって癒されたということになる。そしてイオアン神父は敵が欲するように少しも自分に功を帰するようなことはしない。だから神父に病者の祈祷を求めると「主神に祈りなさい,主は健康と病の瀬です。命と死の源です。一切は神の御旨の内にある」と言われる。

イオアン神父の洞見と予言

 イオアン神父は洞見の賜を与えられた。それは人間的先見とは異なる。洞見とは総ての自分の行為の内に神の摂理とみ旨を見る人に与えられる神の賜である。神はわれら罪人に罪の赦しと,神の佑助について絶えず真剣に祈る人々にのみこの賜は与えられるので,人間の総ての不幸と喜びの内に,神のみ旨を観る所の人々に与えられるものである。

 霊的洞見の賜は人の総ての罪を見,悪を判断するが.誰をも裁かない。上より輝かされた人は,イオアン神父の言うとおりただ愛に徹することができるのみである。

 神父は常に祈りの内にあるが.祈りを行わないでどのような相談にのることもなかった。神父は言う「私は新聞を読む。しかし.しばしば失われた時代を悲しむ。そこには余計なことが記され,無益なことが行われている。

 私は毎朝規定(カノン)を読む。この内には無限の深い内容が含まれている。その日の聖者の記憶,その生活その功績に養なわれて,少しづつ教会生活と記憶とに馴れ,少しづつ教会に尊ばれる心情に徹せられて,霊は輝き,自らをあざむくことを止めて,罪との戦いに力が出て来る。誰でもこのカノンを読む習慣をつけるなら,その霊はおもむろに高く上がり,力より力に進む,また特に私は旧新約聖書を読む,これなくしては生きることはできない。そこには人の霊の生活の法則が展開されている。人の霊的復興,悪より善への転向など総てのことか指示されている。以下少しく神父の洞見, これより生ずる予言の事実についてのべよう。

(1)1893年ワルソウの聖堂新築の献金募集が開始された時, このことを知った神父は言われた「私は悲しみをもってこの聖堂の新築を見ます。この工事完了の後露国に多くの血が流れ,多くの臨時政府ができる。ポーランドもそういうことになる。しかし私は露国の復興をも見る。ただしそれはワルソウ聖堂破壊後,多くの年を経てのあとである。

(2)ク港の市長の家へ神父はしばしば行かれた。そこに夫をもった娘がいた。その夫は海軍の士官であった。この士官は妻の家へ行くことを好まなかった。それはそこに行ってあの山師(イオアン神父のこと)に会うことがいやだと言っていた。

 その内にこの士官は精神分裂症にかかった。そこで妻はしばしばイオアン神父にきてくれるようにたのんだ。しかし紳父は決して行こうとしなかった。そしてかれはその内に自分のところに来ると言われた。やがて凡そ1年もたってしまった。11月の朝,にわかに病士官は立ちあがって服装を整え,付き添いの水兵と直ちにドウム教会の早朝の聖体礼儀に行くことを命じたのである。そこではイオアン神父の祈祷が行われるので,教会は多くの人達がイオアン神父の来着を待っていた。

 神父は到着すると直ちに聖所に入られ,その病士官のために祭台を用意して,かれをその前に膝まずかせ,かれの頭こエビタラヒリと福音書と十字架と聖爵をのせ,かれは痛悔して,領聖したのである。かれは家に帰り,ぐっすり寝こんだ。かれが眼を覚ました時に,自分の所で祈祷を始められたイオアン神父の姿を見た。この祈祷の中で士官は泣いた。祈り終わった神父は士官の妻に「今は私自らあなたの所に来た,夫はあなたのところに帰った。父の子として」と言うのであった。その後この士官は丈夫になって,少将にまで進級した。

(3)イオアン神父に会いたいと切望していた若い士官がモスコウで神父の聖体礼儀のあることを知って,聖堂に来ていた。聖体礼儀が終わり,宝座から祭台に聖爵が移されると,そのまま神父は聖所に降りて釆られ,その若い士官の所に来られて,かれの手に接吻された。

 士官はとまどった。人々はあの士官は司祭ででもあるのであろうかと言っている。士官はただ驚いてほはえんでいた。しばらくたって,この士官は叙聖されて司祭となり,また修道士となって,オプチナの荒野に苦業されワルソウの修道院の父となられた。

(4)神父がある家に祈祷に招かれた。その時多くの客の内に1人の大学生がいた。かれは常に宗教的信仰に軽蔑の眼を持っていたので,神父の祈祷に参加することを好まず,神父が来られる前にこの家の台所にいて,祈祷の終わるのを待っていた。神父はやって来るとすぐ祈祷を始められた。

 終わって衆人の十字架への接吻がすむと,神父はそのまま十字架を持って台所に入って行き,そこにいた大学生に「何故祈祷に来ないのか,遠からずあなたも衆人に十字架の接吻を与えることになる」と言われた。はたして数年を過ぎてこの大学生は司祭の列に叙聖された。

(5)或る村の司祭が,イオアン神父が近くの停車場を通過する事を知り,ほかの司祭と連れだって停車場へ馬車をとばした。ところが駅は既に付近の人達でいっばいであった。やむをえず遠くに止って見物をしていた。汽車は駅に進行して果た。神父は車両から外に出て皆に祝福された。この時何人か全く分からないが1人の男が多くの人垣を押し分けて神父に近づき神父の祝福を求めたがどうしたことか神父はこの男に祝福をあたえなかった。後で分かったことだが,この男は甚だしく不道徳な人であったということである。

 いよいよ汽車は発車ということになり,村の2人の司祭はついにイオアン神父に近づくことができず,残念そうに「何か記念になるものがほしかったのだが」と話し合っていると,イオアン神父は汽車の窓から顔を出し,2枚のハンケチを投げ, 2人の司祭の方を指して「あの神父さんに上げて下さい」と叫び,汽車はそのまま進行して行った。

(6)ある貧しい家で4人の子供をのこして夫が死んだ。妻はその日の生活から困りだし,ある家に働きに出ようと決心した。それがかなえられないなら子供達と共に死のうと思ってその家に頼みに行ったが, ことわられてしまった。失望落胆して歩いていると,乞食の一団がいてガヤガヤしているのに出会った。そこには十字架が立っている。

 この時イオアン神父ではないかなとの思いが頭の中を走った。乞食の集まりのいた家に行くと香の薫りが家から出ている。はたしてイオアン神父であった。この婦人が人の集まりの中に入ると,神父は直ぐにこの娘人に眼を向け,群衆を通じてこの寡婦にお金を与えられた。それは丁度借金を返して,当分の間生活することのできるお金であった。そして間もなく役場から子供達を孤児院に収容し,母はその孤児院の労働者として雇われるという通知を受け取った。

(7)1人の修道司祭が書いている。私は大いなる祈績者イオアン長司祭を深く尊敬している。1903年私はセルビヤのラウレルにいたが,間もなく私の希望していたペテルブルグに来ることができた。この時市を離れたオラニエンブルグでイオアン神父の祈橿に参加することのできる喜びをえた。祈祷が終わった後,私はイオアン神父に自分の希望を話した「私は最早セルビヤへは帰らないで,ロシヤに留まりたい,セルビヤでは自分の命に危険がありますから」と言った。その時神父は「あなたはそれでも修道土か,死を恐れているのか」と言われました。「私は死を恐れませんが,未だ歳は若いし,人様のためにも,神様のためにも何もしていませんから」と,洞見者は「セルビヤではあなたが必要です。あなたを待っている。主は汝と共にする。私もあなたのために祈る」と言われた。

 別れて都に帰るとコンスタンチノーブルから「速やかにセルビヤに帰るべし」との電報が来ていた。私は直ちに帰った。多少の危険はあったが,イオアン神父の予言の通り主はわが命を守り給うた。

 1907年私はロシヤに帰って女修道院の司祭に任命された。毎日多くの信者が痛悔に集まって釆た。晩祷にこのような大衆の痛悔をして,明日の祈祷の準備には到底たえられなかった。疲れきって自分の僧坊に帰り,明日の聖体礼儀の祈祷はできないと通知をして,ペットに入ると間もなく深い眠りに入った。すると夢を見た。イオアン神父が私を呼んで「一緒に祈祷をしましょう」と「私は準備をしておりません」「準備が何です」「さあ行きましょう」と連れられて聖堂に行き「兄弟よ,あなたは敵に降るのか,敵はあなたをくらまさんことを欲しているのだ,あなたはできるのか,できないのか,天使はあなたに代わって勤めるのだ,決して主の奉事を捨ててはいけない」と言われて,私の手に接吻をされた。それが丁度2時,私は目が覚めたのである。喜びと満足とを以て修道院に行き.祈祷の鐘をならし,祈祷の準備をして,特別の感動を以て聖体礼儀を行った。

 その後再び神父に会いこのことを話して感謝を申し上げたら,その時神父は私に「決して暗い心に負けてはいけない,自分で勤めに当たれないと思う時には天使が代って勤めてくれるということを記憶して,勤めを止めてはいけない」と申されました。

(8)1907年ロシヤの運命を予言された。ロシヤ帝国は変動する。無神者とアナルヒストが整理されず.数多き罪悪が清められないならば,滅亡することであろう。神の義判は触神者や不法のために,この国を地の面より解放するであろう。至る所に人変動や生命, 財産への恐怖がみなぎり,第一に政治が薄弱化する。不幸なるかな祖国。何時良くなるのであろうか,それは唯 総ての人々か改悔して,神と教会と祖国に対して強い関心をよせるようになった時だけである。

 またドイツ人やポーランド人フイン人らが露国と教会に対して何を考えているのであろうか,かれらは神の教を,奉神礼を,聖使徒の定めを,全地公会を,地方公会を徹底的に破壊せんとしている。

 神父は晩年をペテルブルグのレウシンスキイ修道院でおくられた。そこで人々に何かって改悔の伝道をしきりに叫ばれた。「皆さん悔改めなさい。恐るべき時は近づいた。自ら考えることもできないような恐るべき時が」80才になる修道士が「神父さんそれは何時ですか」との問いに「私とあなたはその時まで生きませんよ」ただ神父は修士に手で示して「独裁者が地より取られる時, その時アンテハリストは来る」と。

 神父は15年前に自分の死を予言していた。その時のことばに「壁が屋根の下に落ちる時,私は既に無しと。1908年12月18日(露暦)かれは問うて「今日は何日ですか」「18日」と答えると「スワラ・ポ一グ,今2日でわれは万事を終わらん」と,12月20日7時40分,最後の息を引き取る。時に聖堂の璧は屋根の下に崩れ落ちた。

イオアン神父の教会及び聖務者についての言葉

 神の教会とは,永遠に破られざる光栄なる神の家である。教会とは地獄の門にて汚されざる真理の柱およぴその固めである。教会の奉神礼は神の家としての教会の姿である。教会は建築技師イイスス・ハリストスの奇異にして,叡智なる建物である。聖人はこの建物の霊的住人である。痛悔と救いの方法は一切この中に備わっている。総ての理解,総ての救いの言葉,総ての熱心,総ての方法総ての実験はそのなかに納められている。教会の内にわれらは改悔と救いとを学ぶことができるのである。

 教会は神と人との具体的結合の場である。地上における神の国である。教会は人々に人間の出生,価値及び陥罪によって大いなる不幸を招来したことを指示しつつ,毎日数え清めつつ救しょくを準備している。教会に行かれよ,このことを実地に体験することができるであろう。

 世の中にあってわれわれは罪の中に死につつある。教会にあっては改悔によって生かされつつある。世にあっては悲しみ,悶え,病みわづらう。教会においては癒され慰められ,元気を与えられる。

 世にあっては欲の暗やみを歩みつつ,何をなし,何処に行くべきかを知らない,何となればその日(心の)は罪のためにくらまされているからである。教会においては心の日は輝かされて,明らかに光を見ることができる。世においてわれわれの心身は無力に陥る。教会においては心身の健康を得る。教会から赦しと命と力と聖と,正義と光と慰安と霊の勇気と喜びとが発出する。地上の教会においてかくも豊かな天上の福楽を賜う神に光栄と感謝とを奉る。

 教会において赦罪の機密が行われる。そこで霊の汚れは清められて,神と和合し,真実の霊的命が得られる。主はそこで幾度か私に罪の清めを賜わられた。教会なくして私に神の賜を楽しむことはできない。命の賜,平和と喜びの賜,物質の幸福は皆そこにある。神の子イイススよ,光栄は汝に帰す。汝はわが罪の清め,正しく言えばわがことに非ずして全世界の罪のきよめであられる。以上が教会についてのイオアン神父の教の一節なのである。次に聖務者について1907年(死の前年)神父は司祭に対して言われた。「現代の信仰と道徳風習の堕落は牧場に対する牧者,概して聖務者の冷淡に関係する。主は主教,司祭の行為,かれらの聖務,牧者としての活動を見ておられる。主は聖務者が熱誠を欠き,不真面目であることを警戒しつつ真剣に勤め働くことを要請されておられる。

 司祭の勤めは仲保すること,機密の執行,霊的治理,聖成することにある。司祭は人を地より天にまで昇らせる。司祭が聖体機密を行う時に主ハリストス御自らは至聖なる休血を以て司祭と本質的に体合される。またこの機密により人々を神と結ばしめて,神と人との仲保者となる。また神父は「ハリストスにおけるわが生活」の書中に司祭について述べておられる。司祭。何と至高なる顔であるか.かれの言葉は常に主と共にある。神父は常に主のことばにおいて答えられている。何を求め,何を祈るにもその言葉は主と共にあって,そしてその答えはまた主御自らなされるのである。司祭の心の中に知らずして欲念を蔵する時に,いかに不潔にして下等なるかな,司祭の心中には常にイイスス・ハリストスがおらねばならない司祭は天使であって,常人ではない,総てのこの世の生活は自分から遠ざけねばならない。主イイススよ汝の司祭は義を着。自分の高い使命を常に思い,この世の悪魔とのつなに捕えられず,自分の心中よりこの世の悲しみ,へつらい,富など心中に湧き来る欲念を避けねばならない。

 王の司祭は悲しむ信者の誤った悲しみを信の慰めを以て慰め,人間の思想によって幸福なりとする誤った喜びを正し,死後における大いなる幸福を理解せしめ,永遠の不幸より救わねばならない。司祭は実に人類の親友である。慰安の天使であり,聖神慰めるものの機関である。

 神言はいう「神(しん)をけすなかれ」この言葉は総ての信者,特に司祭と子供教育者の常に記憶すべき言葉である。神と人とに対する高尚な勤めに自分の心の熱が必要である。信仰と愛と努力と熱と,うまざる力を以て自分の仕事を行ない,どんなに小さなつまらないと思われることでも怠け,冷淡にかえて,努力と熱を以てしない時には必ず何の効果もあがらないのである。自分に託された牧群の慮りへの回答は主の前にあるのである。                   (終わり)

Примечания

  • 1948年ミュンヘンで発行された、ニコライウスキーの聖イオアンに関する著述の抄訳です。

  • 元々は、めぐみ社より長司祭アキラ大沢 正神父の翻訳で刊行されました。 その後大沢神父版に基づいて長司祭イアコフ日比神父様により、改訂新版が出版されました。 めぐみ社版を参照しつつ改訂新版を底本とします。 

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Опубликовано пользователем: Rodion Vlasov
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