古代の聖父や教会の著述家の著作

トボリスクの聖イオアン、17世紀

(1651-1715)

ひ ま わ り、第一編  神の聖旨を認識して之に従うべき事

一、二つの基礎的知識

 神聖にして最高なる叡智者として我等イイスス・ハリストスが世に伝え給うた神の教えの初めは、彼を信ずる者が萬事に於いて自己の言行を主の聖旨に従わしむることである。我等の救世主は地上生活の全生涯を通じて、あるいは教訓を以ってある行為を以って、あるいは直接な言葉を以って、あるいは比喩を用いてこの事を教えられた。そして彼自らこれを実行して吾等が各々其の力に応じて従うべき基督教徒の生活の模範を遺し給うたのである。

 主のこの教訓を説明する為に、我等は神学者と共に二つの基礎智識を有する事が必要てある。

其の一・・・珠等基督教徒の生活の向上あるいは進歩は我等が如何に自己の意志を神の聖旨に従わしむるかに因って定まるものである。神の旨に従うことが熱烈であればある程信者の楕神生活は向上し、充実し且つまた種々なる善き実を結ぶのである。

 基督に従う者の完全なる人格は、神と人とに対する愛を基礎として居る事は人々の知る処で聖書の中にこれを立証する記事を到る処に発見する事が出来る。「爾心を尽し霊を尽し意を尽し主爾の神を愛せよ、これ誡の第一にして大なる者なり。第二はこれに同じき者即ち爾の隣を愛すること己の如くせよ。この二の誠には悉くの律法と預言者と繋がれり」(馬太福音第二十二章の三七~四〇) 「今は信望愛この三の者存す。其の中に最大なる者は愛なり」(コリンフ前書十三章の十三節) 「凡そ此等の上に愛を衣よ、是、完備の総綱なり」 (コロサイ書三章の十四節)。

神の誠を行うとは他の言を以って云うならば、神と人とに対しての我等の行為は愛よカ生ずるものでなくてはならないと言うことである。我等の意志を神の聖旨に従わしむる事も要するにこの事を意味するものである。

「神の欲し給う処は余もこれを欲する。神の望み給わざる事は余も亦これを望まない!」これほど強い愛は他に存しないのである。福イエロニム及びその他の智者も斯くの如く考えている。

其のニ・・・神は全能なる萬有の創造者であり摂理者である。天地間何事も(罪の外)神の旨なくして行わるる事は一もない。故に善も所謂悪も幸も不幸も総て感謝して神の御手から受けなければならない。偶然の機会と言うことは厳密なる意味で存するものでない。偶然にある幸運に会うとか偶然に期待しない困難に遭遇すると言う様な考えは異教徒の創造であって、基督教の神学は絶対にこれを否認している。善も所謂悪も生命も死も貧も富も皆神より出づるものである。この事は事実を目撃する程らかに聖書の内に説明されている。

ニ、ベルナルドの金言

哲人ベルナルドの金言に、「神の聖旨を尋ねる事は危険でないのみならず敬虔な事である、余の常に万事に於いて何処に於いても守らなければならないものは神の聖旨である。故に敬神の念を以ってこれ探知することは余の当然努力しなければならない事である。」と言うのがある。

 神は斯く望み給うと確実に認められて居ることを自ら知る事を希望しない人があり、又神は斯く欲し給わずと言うことが明らかであるに関わらず、神に逆った事を望む人が有るとするならば、彼程の愚者はあるまい。これを他の言でを以って云い表わすならば「神よ!余に関する事のみは爾の聖旨でなく余の意志の通りになる事を望みます。余の事は余自ら速やかに萬事漏れなく配慮します。何事も神の永在の摂理に委托する事は危険であるし強固でもない」と神に対して敢て暴言を吐く者があるとするならば、我等は彼を狂人に近い恥知らずの無神論と称するであろう。しかし実際に於いて我等は言を以ってこそこのような暴言を吐露する事を恥とするけれども、自己の現実の生活はこの人と同じ状態にあることがある。この悲しむべき事実が、吾等の堕落し易い、また幾多の困難に遭遇しなければならない近い原因なのである。我等は自己のお世辞者となっている。自ら欺いた生活をして欲望の奴隷となっているのである。

 ベルナルドは「余は諸子が大いなる注意を以って傾聴されん事を望む、諸子の為に最大の雲益となる事は、神の聖旨の疑う余地のない程明白な時には、我等の意志もそれに服従しなければならないと言う事であると認む」と言って居る。特に聖書に明記されてある事、あるいは聖神の奥密なる内感によって吾等の心中にかくかく行わざるべからずと示し給う事は(例えば神と隣人に対する愛、謙遜、貞潔、従順等)皆何等の美わくなきものにして、神の嘉し給う事なるが故に、我等は心から熱心にこれを愛さなければならない。大いに努力してこれを我有の徳としなければならない。これに反して、神の聖旨に逆う事であると疑なく知れて居る事(例えば淫行、高慢、不満、不平、忍耐なき事等)は皆これを避けこれを憎み厭うべきである。然し確実に認められ難き事に関しては、我等の意志も確定的にこれを扱うべきでない。ただ聖旨に委ねて主の定め給う所に従うべきてある。尚短かき言を以って言うならば、神の嘉し給う事が明白てあることに対しては疑うべきでない。疑わしき事を確実な事として受けてはならない。疑わしい事に確定的な判断を下してはならないと同様に、他人が其の件に就いて批評する事を攻撃すべさではない。

 かようにして吾等は「爾の律法を愛する者に大なる平安あり」(第百十八聖詠の百六十九節)と言う聖言の意義を悟ることが出来るのである。故に神はかく望み給うと確認せらるる事は我等の為にもまた望ましいのである。神の聖旨に逆う事であると認められる事は、それが我等の心には望まぜしき事であっても、我等は断然これを拒絶しなければならない。しかし前者にも後者にも属しない中間的の事が現実の生活には常に多い、神に嘉せられるべき事であるか、聖旨に反する事であるか、不明な事がある。其の様な場合には我等も亦中間的な態度をとって其の事に当らなければならい。大なる努力を用うべきでないが、それかと言って全く拒絶すべきでもない。

 以上の有益なる教訓は多くの場合に於いて吾等の心中から全ての疑雲を遠けて、吾等が当然進むべき道を明示するのである。

 自己の行為の選択に迷う時、左の如さ意味の言を祈祷をする様な心情を以って、幾度となく反復する事が非常に有益である。「主よ爾に走り附く、我に爾の旨を行なうを教え給え、爾は我の神なればなり」(第百四十二聖詠の九節十節)「主よ!爾は余に何を為すべきを命じ給うや」 (使徒行実九ノ六参照)

三、主の判きは大なる渕の如し

我等の一生涯の中には実に不可思議な事が多くある。到底忍ぷべからぎる難難に遭遇して神の愛から全く忘れられたのではないかと思われる事があるかと思えば、其の事が他の大なる幸福の原因となり時を過きて見ればそれによって神の愛の懐に抱かれる感謝を知る事となる事がある。我等の心のままよと喜んで居る其の事が蹉跌の石となる事もある。聖王ダウイドは「主よ爾の義は神の山の如く、爾の判は大なる淵の如し」(第三十五聖詠ノ七節)と云い、シラフの子は「誰か神の大なる業を探る者あらん。誰か彼の大いなる力を量る者あらん。誰か彼の慈燐を云い現すわすを得る者あらんや」(シラフの子の書十八ノ三、四)と呼んでいる神は無限の愛である故に、若し人の為めに有益でないならば、如何なる悪事も地上に行なわれる事を許し給わないであろう。然し神の聖業は寄異である。神は罪なきイオシフに対して、兄弟等の妬の増大する事を許された。然しかくされたのは、如何なる恩恵を与うる為であったか?両親、兄弟、親族のみならず全埃及を餓死から救う為めではなかったか。不虔なるサウルが温柔にして無きずなるダウイドを苦しめることを神は許された。然し其れはダウイド自身と全猶太国の利益の為めではなかったか。然り唯だ彼等のみならず、ダウイドの裔なるイイスス・ハリストに因って全人類の利益の為めであった。

 無実の罪に讒言せられた予言者ダニイルを激しく怒らせた獅子の穴に投ぜられる事を神は許し給うた。然し其れは彼と彼の友人等に最高の光栄を与えん為であった。余は旧約から幾多の実話を物語る事を止めて新約の例を示そう。

 ハリセイ等と猶太民の長老等は妬によって神の独生の子イイスス・ハリストスを十字架に釘した。然しこの事は全人類の救となったのである。この様に衆等の為めには暫時の間、塞ざされ隠れて居る所謂悪と思わるゝ事も、神は其の許し給う総ての事から偉大なる神の光栄と富と、個人と人類全体に対する神の恩愛が生じ現われるのである。斯くの如き事に因って、神の愛、恩寵、全能、予知、摂理の道等が我等に啓示されるのである。

 神の至上の叡知と義との光は斯くの如き道を以って吾等を照し給うて、注意深き人々をして幾多の善行に進歩せしめ給うのである。これに因って彼等は艱難多き幾多の苦業をも大いに努力して励み、光栄の冠を主より受けるのである。ああ神の聖業は奇異なる哉! 善から善を生ぜしめることは大なることではないが悪を善に向ける事は驚くべき事である。諺に「静かな海では誰でも般長になれる」と云うことがある。風は順風、船は丈夫、海は静かで加うるに水夫は自分の仕事を知り、目前に見えて居る港に向って行くには大した智慧も要しない。然し暴風は狂い船は破れ、波はすさまじい音を立てて甲板と船の内部に侵入し来る時、あるいは暗夜海賊船に囲まれ、船員は少ない上に、十分に武装されておらない時には全くこれと異なっている。然も船長の配慮に依って無事にその難から逃れたとすれば、其の時こそ実に嘆賞すべき般長の智慧と経験とは実証せられた事になるのである。

 神の世界を治め給う摂理の法にもこれに類することがある。我等の考には好結果に導くまいと思われることから、神は表現すべからざる叡智と正義とを以ってこれを最善の終局に導き給うのである。不義を行なうことを許し、苦しい運命を味わしめ給う事があるが、これに因って彼は罪人を改悔に導き、尊敬すペき神の友と変化せしめ給うことである。有徳な聖者に多難の生活を許し給う事があるが、其れに上って彼の名誉は更に大きくなり、彼の徳義的力も更に強い者と夜るのである。大罪人の憎むべき不法不潔の生活を見て、多くの人は敬虔と善行に進歩し、我等の見方によれば亡びの淵に沈んでしまった人が、反って其れに依って日覚めて救われる事がある。

 イオシフの為めには鎖と牢獄は最大の名誉を受けることとなり、サウルの悪心はダウイドに王冠を与え、獅子の洞穴に投ぜられた事は予言者ダニイルの為めには更に大いなる尊敬に入れられる事となり、ハリストスは十字架より改悔せし盗賊と共に天国に入力給うた。

 ああ深い哉、神の智慧!

四、注意の方向転換

 我等の生涯は春日の如き幸福な日のみ続くものでない、心底から動揺されなければならない様な誘惑と艱難に屡々遭遇するのである。 数多き生活の悩みの中に人の最も忍び難き不愉快な事は、故なくして、あるいは故あって、他人から侮辱や迫害を被らなければならない事である。かかる場合に冷静と平安とを保持することは容易な事ではない。多くの場合相互間に種々なる不愉快な出来事が生ずるものである。彼は私に忍ぷべからざる侮辱を加えた。彼の頑迷な心が憎らしい。彼は私を非常に危険在位置に陥れた。等々激しい語を以って天地に絶叫する。斯くの如きに行き詰った心理状態から救われる為めに、唯-の方法が此処にある。

 それは自分の注意の方向転換をすることである。斯かる時我々は総ての場合に直接我等に侮辱を加え、あるいは迫害する者にのみ注意して憎悪の念を制し得ないのであるが、彼等に斯くの如き行動を為すことを許し給うた神の事を忘却しているのである。心の激昂を静め、内眼を神と自己の良心に向けて深く熟考せよ。自己反省が探刻であればある程、この注意の方向転換は暴風の時港を発見せし船の如き喜ばしき結果を吾等の心に生ずるものである。如何に加害者の心が頑迷惨酷であっても、また彼の行為が確に犯罪として罰せられなければならない性質のものであっても、若し神の聖旨が許し給わないならば、我等に何等の危害をも加うる事が出来得ないではないか。若し己に神が許し給う事であるならは、其れは我等に苦しき事であるとしても聖にして讃美せらるべき神の義なる摂理である。我等寧ろ沈黙して神の聖旨に服従すべきではないか?

「若し我等に与えられる何等かの艱難から我等自身の為に何等かの有益な事が生じないならば神は他人が我等に危害を加える事を為対に許し給わない」と云う確信を常に心中に抱いている必要がある。そうして如何なる事が有っても他人の悪意に対して悪意を以って報いてはならないのである。其れは我等の限りある智慧の為めには、或る時の来るまで不可解の事てあっても何かの善にして正しき目的の為めに神の許し給う事であるからである。

 聖人等は常に以上の規則を固く守られた。彼等は何の理由て誰が彼等を侮辱するかを敢て問題にしなかった。彼等は何時も其の心を、義なる神に向けて、其の摂理の正しき事を謙遜に認めたのである。総ての不幸及び艱難を見て、自己の罪の懲罰あるいは彼等を改悔せしめん為め、我は彼等をして更に多くの報賞を受けしめんが為めに、神の許し給うたものであることを彼等は信じた。故に彼等は敵の侮辱は恩恵てあり、敵は彼等の恩者であると言ったのである。 「吾等は侮辱する者は吾等の恩者であって、彼等は少しも吾等に対して陥仮しない。目前で我等を賞讃するものは更に危険である。彼等の世辞は吾等の徳行の上達に障害を与える」と云う様な語を多くの聖者の口から聞くことが出来る。

 しかしこの判断は巧に激浪から救われる聖者の秘術であるが、聖人がこの様に考えるからと言っても、侮辱を加えた者あるいは危害を加えた者が実際善行を行なった事になるかというと、決してそうではない。

 これは明白な真理であるが、左に譬を以って説明することにする。

 神が罪人の犯行あるいは暴言を敢て人に吐く事を摂理の法に依り許し給う事があっても、これに依って罪人の悪行が善行となるものてはない。神は犯罪者の悪意志あるいは犯罪に賛同せられるのではない。神の大愛は其れより尚善き結果を得んがために悪意志の発現を許し給うのである。換言すれば罪人の犯罪は、悪よカ善を生ぜしむる動機を神に与うるのである。例えば一人の悪人が他の一人の貧民に対して常に敵意を抱いて居たとする。彼は遂に憎悪の念禁じ難く、貧者の小屋に放火した。小屋は灰燼に帰した。この時他の有徳の富者が彼の不幸に同情して、彼に以前の小屋とは比較の出来ない住みよい家を造ってやった。この場合に於いて、焼尽された小屋が低価であっても、有徳家が同情した事も、放火犯人の罪を減少する事にはならないのである。彼は確かに放火罪として訴えられるべき犯罪者である。貧者の為めには、火災に遭遇した事は非常に心配な事で不幸事であった。神はこれを許し給うた。然し彼の禍は讃美せらるべき神の摂理に依りて幸福に変じた。福の奥妙なる聖業には、吾等の有限の智識に達し難いこれに類した事が幾多ある。  福アウグスティンは、教主の受難の事をこれと同じ様に説明している。「不法に主を売り渡したイウダ基督の敵、彼等は皆不義不虔の徒である。然し父なる神は、我等萬人の救の為めに、其の独生の子を死に渡されて殺される事を許し給うた。」不義なる人々に依って神の子の殺害されることすら敢て許し給うた神の摂理の奥妙なる目的は人の救であったのである。我等は万事斯くの如く、正しき判断をしなければならない。如何をる侮辱危害も我等自ら己を害さない限り少しも有害なものでない。

 事件の二方面 -即ち加害者と摂理に依りて彼の言行を許し給う神- とを分離して考査しなければならない。神が罪人の悪行を許し給う事に驚く勿れ。彼等の行為に対して神は最高の叡智者として義判を以ってこれを許し給うのである。然も数を以って、量を以って度を以って許し給うのてある。神の定制に正しからざる事なきが故に、我等は少しも躊躇せずして彼に信服すべさではないか。 

五、神 の 鞭

 神は屡々其の正しき審判に依って、義人には忍耐を教え罪人には改悔を教えあるいは其の頑迷なる悔なき心を懲罰する為めに「主の武器」の意味にて、暴君や惨酷なる地の諸侯を用いられることがある。

 この場合、彼等は無意識に神の手となり、武器となって、神の審判を行なうのである。天災地変も亦同じく斯くの如き性質の者である。歴史上に有名な暴君ナウホドノツソル、アッティーラ、タメルランの如きは実にこの種の厳しい神の鞭であった。ローマの皇帝の名誉と其の領土の拡張の為めに猶太を攻めた。然し彼等が自国の光栄の為めに戦ったと思ったのは誤であった。テイートはイエルサリム城の陥落の後、自ら城壁を巡閲し、無数の猶太人の屍、血に染んだ残害された不具者、切断された四肢が累々として充たされて居る壕の惨状を目撃して、天を仰ぎ手を挙げて息苦しく嘆息して絶叫した。「慈愛深き神よ!これは私の仕事ではありません!」実際彼等は悔なき頑迷なる神殺の民に対する、神の義怒の武器となったのであった。吾等の不法不義の為めに、神が許し給う他の種々なる正しき懲罰は、これと同じく見て飜然己に帰り、痛悔を以って神の義怒より救われなくてはならない。

 福アウグスティンの言に美しい言がある。「我等の敵を怖れる必要はない、彼は神より許を受けただけより吾等に危険を加うる事は出来ないのではないか。その意のままに欲するだけ罰する事を能くし給う神を畏れよ!」と。

 此処に聖使徒パウエルの教訓を記憶する事が最も適当であると思う。「吾が子よ、主の懲戒を軽んず勿れ、又彼に責められる時心を喪う勿れ、蓋主は其の愛する者を懲し凡そ納るゝ所の子を鞭つと。爾等若し懲戒を忍ばゞ神は子の如く爾等を待つなり。蓋子にして父の懲さゞる者あらんや。爾等若し衆の与る所の懲戒に遭わずば乃私生の子にして嫡子にあらず、又我等は肉体の父よ懲されて彼等を敬えり。况んや我等益々諸神の父に従いて生を得べからざらんや。-総ての懲戒は今は喜びに非ずして悲なりと思わる。然れども後にはこれに由りて練達せし者に義の平安夜る果を結ばしむるなり。故に爾等衰えたる手、弱りたる膝を健にし、爾等の足を以って直き径を行け、跂者の迷うなくして寧ろ癒されん為なり、努めて衆人と和睦し亦聖潔に非ざれば、人、主を見るを得ず」(エウレイ書十二章五~十四)

六、正当防衛

 七、主の聖旨を悟る方法

 八、隠れたる真珠

第二編 聖旨の実践躬行

 一、最高の幸福を受くべき心の準備

 ニ、暗に照る二つの光=エピクテトとセネカ

 三、大候ボールジヤ

 四、神の子の従順

 五、善き基督者の特質

第三編 神の聖旨を実行する事に因って生ずる善き結果に就いて

 一、

 ニ、

 三、

第四編 神意遵奉の障害を如何にして排徐すべきか

 一、

 ニ、

 三、臨終の病者への教訓

Примечания

  • この『ひまわり』は、トボリスクの主教、成聖者 聖イオアン・マクシモビッチ(1715年没)の原著にる。

  • 修道司祭アントニイ日比七平師が抄訳し、日比師発行の雑誌『ぱんだね』に掲載したものを、トリホン井澤兄がまとめ、それをさらに、長司祭イアコフ日比義夫師が改訂・発行したものである。

  • 底本には、イアコフ日比神父様の許可を頂き、神父様による改訂版を用いた。  

https://www.orthodox-jp.com/pandane/cyril/himawari/index.html

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Опубликовано пользователем: Rodion Vlasov
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