貧困にあえぐ者は、乞い求める。陥罪して生きづらくなった人間も、神に祈るものである。
祈りとは、陥罪した人間が回心して神を仰ぐことである。悔い改めながら泣き、罪にやられてうめきながら思いの丈を神に打ち明けることである。
ついに心が泣き声をあげたとき、悔い改め始めたことが分かる。心の泣き声こそ、悔改しはじめた最初の動きであり、それが祈りの声となって頭に届く。すると、頭もこの泣き声に感化されて、何事も祈るようにして思いめぐらすようになる。
真の恵みは、神からしか得られない。ゆえに神との交わりを可能にする祈りこそ、百徳を生む母であり、百徳を司る長である(階梯者聖イオアン、エジプトの聖マカリイ)。いつも神と共にあろうとして祈りつづけていれば、恵みの源である神から徳を賜わるようになる。
人は、祈りながら神へ向かう道を歩む。常に正しく祈っていれば、さまざまな祈りの心境を少しずつ知り、どれくらいこの道を克服できたか分かる。
正しく祈れる人になりなさい。正しく祈れるようになったら、絶えず祈る人になりなさい。そうすれば、救われやすくなるだろう。いつでも正しく祈っていれば、しかるべき時にこれだと実感できるかたちで神から救いを賜わるであろう。
正しく祈るには、おのれの至らなさを痛感し、打ち砕かれた心境で祈ることである。聖神によって心が新しくなる日までは、痛悔以外にふさわしい心境があると思ってはならない。だいたい罪人の分際で、どうやって痛悔以外の心境を持てようか。相も変わらず悔改をくりかえしながら神に赦しを乞い、しつこい慾から解放してくださいと嘆願している身分ではないか。
イスラエル人は、モイセイの律法により、献げ物をしてよいのは神に指定されたただ一つの場所しかなかった。ハリスティアニンも属神的な律法により、献げ物をしてよい属神的場所はただ一つしかない。なかんずく献げ物の中の献げ物である祈りは、へりくだった心境なくして献げてはならないのである(聖大ピメン、アルファベット順聖師父言行録)。
神は、われわれの祈りを必要とするようなお方ではない。われわれが願う以前から、何が必要なのかすべてご存じである。どこまでも慈しみ深いため、何ひとつ神に求めてこない人々にさえ豊かに恩恵を与えておられる。むしろ祈りを必要としているのは、われわれ自身なのだ。祈ればこそ、神に結ばれるからである。祈らずにいれば神からどんどん遠のくばかりだが、逆に、祈れば祈るほど神に近づいてゆく。
人は、祈ることで生命の源に与るのである。祈るのを止めてしまえば、気づかぬうちに霊たましいを殺してしまう。ちょうど空気を吸いこむことで身体的生命を維持しているように、聖神を浴びることで霊的生命を維持している。まさに祈っている最中に、その聖なる神秘的な空気(聖神)を吸いこんでいるのである。
起床時には、何はさておき神を思い起こしなさい。まだ何の印象も浴びていない思いの初物を神に献じることだ。いっぽう眠りという「死の象り」に入っていく就寝時には、意識あるかぎり永世を思い、そこで君臨されておられる神を思うようにしなさい。
どういう段取りで祈ると神に喜ばれるのだろうか。ある修道士は天使から次のように教わった。「祈るときには、まず神を讃えなさい。これまで受けてきた数えきれない恵みに感謝しなさい。感謝し終えたら、心から痛悔して罪を告解しなさい。そのうえで、心身に必要なものをお願いしてもよい。ただし、重々慎んでお願いし、その願望の実現については御旨に委ねなさい」と(階梯者聖イオアン)。
人が祈るのは、信じているからである。「われ信ず、ゆえに(慈悲深い神に祈願して)言えり」(聖詠 105 : 1)と書いてあるとおりである。まさに「祈りなさい、そうすれば聴き入れてあげよう」と約束してくださった神の言葉を信じているからである。
主は「およそ祈祷の時に求むるところは、これを得んと信ぜよ、しからばなんじらに成らん」(マルコ 11 : 24)と告げられた。ゆえに、あらゆる疑念や二心をかなぐり捨て、主に密着して辛抱強く祈りつづけなさい。主は「つねに祈祷して倦むべからず」とお命じになった(ルカ 18 : 1)。つまり、祈祷することの窮屈さに負けるな、という。われわれは自由に思いめぐらしてきたせいで、特に最初のうちは頭を祈祷文の中に閉じこめるのが窮屈で耐えがたい。
しかし、絶えず祈って神の憐れみの門を叩く者は幸いである。おのれの「仇」(ルカ 18 : 3)(襲ってくる罪)を列挙して神に訴え出て、疲れない神を疲れさせてしまうような人は幸いである。そのような人は、しかるべき時が来たときに、浄化して無慾になったわが身を喜ぶであろう。
たしかに、すぐに願いが聴き入れられることもある。しかし、救主は「久しく忍ぶ」こともある、とおっしゃった(ルカ 18 : 7)。つまり、すぐに願いを叶えないこともある、ということである。われわれには、願いが叶わずに疲れきって弱さを実感することも欠かせないからである。さもなくば、へりくだることはできない。神に聴き入れてもらえなくて自力で頑張っているとき、人は自分がいかに弱い存在か思い知る。
そもそも「神と対話できる」という恵みよりも、大いなる恵みなどあろうか。ゆえに、祈って手に入れたいと思っている事柄よりも、よほど祈祷自体のほうが恵みとしてはずっと大きいことがある。そのような場合には、神はあえて憐れんでしまって人の祈願を叶えることなどせず、あえて人が祈りつづけるままにさせておく。下手にちっぽけな願いを叶えることで、つい人が祈りをやめてもっと大きな恵みを失ってしまわないようにするためである。
また、願いが叶うと弊害が生じるような場合にも、神は願いを叶えてくださらない。さらに、聖なる御旨に反するような願い事や、神の考え抜かれた裁定に逆らうような願いも叶えてくださらない。
モイセイは、神を見たほどの偉人であったにもかかわらず、あるとき御旨に反して約束の地に入らせてほしいと祈った際には聴き入れてもらえなかった(申命 3 : 26)。聖ダウィドは、あるとき斎をして灰を被るほど深く痛悔し、どうか息子の命を病から救ってくださいと泣いて祈ったにもかかわらず、どうしても聴き入れてもらえなかった(サムイル下 12章)。だから、あなたも神に願いを叶えてもらえないときには、それは何らかの理由で叶えてもらえないわけだから、慎み深く至聖なる御旨に従いなさい。
聖使徒イアコフは、世を愛する人々が身勝手に地上の幸福を祈願しているさまを見てこう告げた。「求むれども、受けず、なんじらの慾のために費やさんとして、みだりに求むるがゆえなり」イアコフ 4 : 3)と。
ぜひとも王にお目にかかりたいと思ったときには、念には念を入れて準備するものだ。うっかり対話中に反感を買うような発言や挙動をしてしまわないよう、どういう心境を保っているべきか事前に研究しておく。どんなふうに語れば王に喜ばれて気に入ってもらえるか、あらかじめ内容を練っておく。なるべく自分の存在に気づいてもらえるよう、見た目にもしっかり注意を払う。だとするならば、諸王の王(神)の前に立つ時には、なおさら然るべく準備すべきではないか。しかも祈りをとおして、神ご自身と対話しようとしているのである。
聖書には、「人は目に映るところを見るが、主は心を見る」(サムエル上 16 : 7)と書いてある。まさにそのとおりなのだが、ともすると人はとる姿勢によって心境も変わる。ゆえに祈祷時には、一段と敬虔な姿勢を保つようにすべきである。断罪された罪人のごとく顔を下げ、あえて天は仰がないこと。手は垂らしたり、現行犯みたいに後ろ手を組まれたようにして立つこと。そのようにして、敵にやられて致命傷を負った戦士のごとく、激痛にくるしむ病人のごとく、哀れな泣き声で祈祷文を唱えるとよい。
たしかに「主は心を見」ておられる。主は、心の奥に秘めた微妙な思いを見抜かれ、われわれの過去も未来もすべて見抜いておられる。どこにでもおられる以上、ご不在となられるような場所はない。だから、祈るときは御前に立ったつもりで立つこと。まさしく神の御前に立っているのだ。わが現世と永世の運命を決める審判者の前に立ち、全権の主宰の前に立っているのだ。ゆえに、あとで褒められるようにして立て。無礼な立ち方をしたせいで、現世や永世で罰せられることのないようにせよ。
神に祈るときは、この世の事柄や心配事をきれいさっぱり忘れること。いかに素晴らしいアイディアが祈祷中に浮かんできても、それがいかに欠かせない重要な名案であっても、そんなものにいちいち惑わされていてはならない。神のものは神に返すこと。現世でなすべき事柄は、それを行うのにふさわしい時が与えられるものだ。神に祈っているその頭で、この世の問題など考えてはならない。
まずは心の中で、神への畏れという香炉を焚き、祈る以前に聖なる敬虔さを示しなさい。「主よ、次から次へと罪ばかり犯して怒らせてしまいました。こちらで認識できなかった罪まで含めて、すべてはご存じのとおりです」と。そうへりくだって審判者をなだめること。ずけずけと不遜な態度で主を怒らせないように気をつけよ。主は側近の至浄なる天軍にでさえ、かしこまって慎み深く立てと望まれているのだから(聖詠 88 : 8)。
あなたの心のまとっている衣は、真っ白で純朴であれ。そこに煩わしいものは一切あってはならない。邪念とか見栄とか偽善とか見せかけとか、おべっかとか特権意識とか淫慾とか、そういう暗くて臭いしみがつかないようにせよ。心がそういうしみで傷んだ衣をまとっていると、ファリセイ(偽善者)の祈りしか出てこない。
真珠や金銀やダイヤモンドをまとうのではなく、貞潔と謙遜をまとうようにせよ。そして、属神的知恵からくる温柔の涙で身を飾れ。属神的知恵からくる温柔の涙を賜るまでは、痛悔の涙を流すこと。要は、幼子や天使のように悪意を持たないことである。そういった純朴さこそ、もっとも高価な装飾品に他ならない。そのような純朴さで飾った心は、諸王の王の目に留まるや憐れんで顧みてもらえるだろう。
どんなにひどい侮辱を受けたとしても、例外なく赦すこと。これが上手に祈れるようになるコツである。救主は、こうお命じになった。「立ちて祈祷するとき、もし人を憾むことあらば、これを免せ、天にいますなんじらの父もなんじらの過ちを免さんためなり。なんじらもし人に免さずば、天にいますなんじらの父もなんじらの過ちを免さざらん」(マルコ 11 : 25~26)と。シリアの聖イサアクも「怨念を抱いたまま祈るのは、石の上に種を蒔くようなものである」と述べている(89訓話)。
適度に飲食を控えていれば体が軽くなり、頭も清まって明晰になって祈りやすくなる。しかし食べ放題・飲み放題していれば体が重くなって心も頑固になり、胃からのぼってくる蒸気やガスのせいで頭もぼーっとする。食べすぎたり呑みすぎたりしていると、いざ祈ろうとしても眠気や怠惰に襲われてしまい、次々とふしだらな妄想が浮かんできて、とても傷感の心なんぞ持てやしない。
もちろん斎のしすぎも、食べすぎと同じくらい、あるいはそれ以上によろしくない(聖カッシアン)。お腹が空きすぎて体力が落ちれば、しかるべき気力でしかるべく祈りつづけることもできなくなる。
どれくらいたくさん祈ればよいのだろうか。それは、その人の生活様式と心身の力量による。公正に裁かれる神の天秤を見よ。ありあまる財産から神殿に献げた富者の大金よりも、やもめが投じた2レプタのほうが高く評価されたではないか。祈りについても同じように捉えるべきであろう。自分の力量を弁えてどれくらい祈るべきか決めること。修行の偉大な教師であるシリアの聖イサアクも、「体が疲れきっているのに体力以上の仕事を強いたりすれば、霊的にどんどん暗くなって大いに戸惑うことになる」(85訓話)と教えている。この知恵に富んだ訓戒を忘れてはならない。
健康でがっしりした体格の人は、それ相応の祈りが求められる。同じ聖イサアクは、「汗もかかず心も痛めていない祈りなど、流産した胎児と何ら変わらない。そういう祈りは霊たましいの抜けた祈りだからだ」と教えている(11訓話)。
あなたは激務に追われる仕事人だろうか。あるいは、修道院で任務を負って好きなだけ祈れない修道士だろうか。戸惑ってはならない。やるべき仕事を良心にそって適切にこなしていれば、それによって熱切に祈りやすくなり、量のかわりに質を得る。神に喜ばれるように働いて得られる良心の安らぎほど、祈りの上達を促してくれるものは他にない。
福音書の戒めを守っていれば、清い心境で祈りやすくなって傷感を抱きやすくなる。いっぽう真っ当な心境で祈っていれば、それはそれで福音書の戒めどおり考えたり思ったり行動したりしやすくなる。
行動でも心でも隣人を思いやり、こと淫らなことを思ったり感じたりしないようにせよ。そうやって心を清めていけば、しっかりと祈れるようになる(シリヤの聖イサアク 56~57訓話)。そうした思いやりと心の清さによって祈りが翼を得(聖詠 54 : 7)、天に昇りやすくなるのだ。「思いやり」と「心の清さ」がないと、どんなに祈っても地から這いあがれない。どうあがいても肉の思いから抜け出られず、まるで網や罠にかかった鳥のように飛び立てないのである。肉の思いに汚されて戸惑い、とても祈れる状態ではなくなってしまうのである。
祈りのコツは、注意力である(新神学者聖シメオン)。霊たましいのない体が死んでいるように、注意力のない祈りも死んでいる。だらだら祈りを唱えていれば無駄口と化し、そうやって祈る者は「いたずらに神の名を口にする者」とみなされる。
ゆっくりと祈祷文を唱えなさい。あちこちに思いを馳せないよう、祈祷文の語句の意味だけを思うようにしなさい。自由に世界中に思いを馳せることに慣れてしまった知性にとって、これほど窮屈で耐えがたい道もない。しかし、この道を歩んでいけば注意力がつく。注意力という大いなる恵みを味わった人は、ひたすらこの道を歩み、いつか喜んで思いを集中させられるようになるだろう。
どんなに苦しくても祈りの修行に耐えていけば、最初にうける恩寵として注意力を授かる(『フィロカリア』第8巻、クサントプルのカリスト及びイグナティ、24章、67頁)。
この「恩寵による注意力」を授かる日までは、みずから注意するしかない。恩寵による注意力を授かりたいと本気で思っていることを、めいっぱい自力で注意する姿で立証すべきなのだ。自力で注意しているあいだは、どうしても邪念や妄想に襲われて揺れ動いてしまう。だが、ひとたび恩寵による注意力を授かれば、もはやどっしりとして揺れ動くことがない。
祈るとき、思いが散らないよう自戒しなさい。妄想することを忌み嫌い、信仰の力で心配事をかなぐり捨て、「神を畏れろ」と自分自身に言い聞かせていれば注意力がつきやすくなる。
祈るときは、しっかり現実に立って物事を見ているべきである。いかに魅惑的で美しくみえる夢想であろうとも、しょせん頭が勝手にこしらえた代物にすぎない。そんなふうに夢見ていると神の真実から離れ、妄想を真実と思いこむようになる。だから、祈祷時は夢想するな、と禁じられているのである。
祈祷中は、どんなイメージも追い払い、何が何でも目に見えるものを思い描いてはいけない。なにせ、どうやっても思い描きようのない目に見えない神の前に立っているのだ。祈祷中にイメージを受けいれたが最後、それがぶ厚い幕となって知性と神のあいだに壁を作り、すっかり遮断されてしまう。かの表信者聖メレティが、「祈祷中に何も見ていない者こそ、神を見ているのだ」と述べたとおりである(表信者聖メレティ「祈りについて」)。
万が一、祈祷中にハリストスが見えた気がしたり、天使とか聖人を思い描いてしまったりしたときには、断じてそのイメージを現実として受け入れてはならない。一切心を向けてはならず、その相手と語り合ってはいけない(『フィロカリア』第7巻、シナイの克肖者グリゴリイ「迷妄について。非常にためになる章」、154頁)。さもなくば、必ず幻想に騙され、これまで多くの人が被害に遭ってきたように重度の精神病に陥ってしまうだろう。人は、聖神によって生まれ変わる日までは、聖なる霊と交わることなどできない。まだ堕ちた霊の領域下にあり、悪霊に捕らわれた分際のため、悪霊しか見ることができないのである。もしも思い上がって自分をひとかどの者と思いこんだりした日には、悪鬼が光の天使やハリストスの姿をまとって現れ、霊たましいをズタズタに滅ぼしにくるだろう。
聖なる教会が聖なるイコンを認定したのは、なにも信徒に夢想させるためではなく、敬虔な事柄や感覚を思い起こさせるためであった。救主のイコンの前に立つときは、主ご本人の前にいるかのようにして立て。ハリストスは神性においてどこにでもおられるだけでなく、イコンをもってイコンのあるところに臨在しておられるからだ。神の母のイコンの前に立つときは、至聖なる童貞女ご本人の前にいるかのようにして立て。それでいて決して目に見えるイメージを思い浮かべないようにせよ。つまり、「主のおられるところにおり、主の前に立とうとする」のと、「主を思い浮かべる」のとでは、雲泥の差があるのだ。主がここにおられるのだと実感していれば、敬虔な畏怖心が湧いてきて救われやすくなるのだが、主や聖人の姿を思い浮かべていれば、何となく物質的に想像するようになり、自分自身のことを見誤ってひとかどの者と思いこんでしまう。すると、偽りの状態に入り、自分自身を騙した状態に陥るのである。
神の臨在を実感できる状態は、高度な状態である。その状態に入ることができた暁には、もはや祈らせまいとしてくる邪念を軽くあしらえる。神の臨在をありありと感じていればこそ、わが身のはかなさをより強く感じられるだろう。神の臨在をありありと感じているからこそ、一段と自戒できるだろう。そして、そのようにしてごく小さな罪も犯すまいと身を守れるだろう。注意深く祈りつづけている者は、神の臨在を感じられるようになる。また、聖なるイコンの前に慎み深く立ちつづける者も、神の臨在を感じやすくなる。
注意深く祈祷文を唱えていれば、その霊感を帯びた言葉が心底まで届いて心を貧しくし、いうなれば心を(傷めつけて刺し)貫き、傷感の情をもたらしてくれる。しかるに、気を散らしたまま祈祷文を唱えているならば、せっかくの祈祷文も心のうわべをなぞるだけで、何の印象ももたらさない。
注意力と傷感は聖神から受ける賜である、という。階梯者聖イオアンも「あちこち思いを馳せる知性を止めることができるのは、聖神だけだ」と言ったし、大いに福なる神父も「われわれが傷感の情を抱いたとき、その傍には神がおられる」と述べたほどである(サロフの修道司祭セラフィム《訳注、サロフの聖セラフィム》)。
いつの日か、ついに注意深く祈って傷感しつづける日々を送れるようになったとき、「神゜の貧しき者は福さいわいなり」とか「泣く者は福さいわいなり」という心境に達したといえる。すでに慾の鎖をたくさん断ち切り、属神的自由の芳香を嗅ぎ、自分自身のうちに救いの担保を持っている。
逸れることなく「真の祈り」という狭い道を歩みつづけよ。そうすれば、やがて聖なる安息を味わい、神秘的な安息日スボタに至るだろう。その日には、もはや地上の労苦を負うまでもない。もちろん闘うまでも修行するまでもない。ただ福なる無慾のうちにあって気も散らず、清い祈りで神の前に立つ。そして、限りない神の慈しみを信じて神のうちに安らぎながら、至聖なる御旨にすべて委ねるのである。
だいぶ注意深く祈れるようになったな、と思ったとき、祈りの修行が順調なことに気づくだろう。ときたま、ふと祈祷文に没頭している自分自身に気づく。じきに、その状態がどんどん長引いて常態化していく。祈祷文に没入するようになり、頭で唱えている祈祷文に心の思いも重なる。すると、突如として「注意力」が「傷感の情」と結びつき、人は祈りの神殿となり、神の聖殿となるのだ。
静かに、へりくだって神に祈祷を献ささげよ。燃えさかる炎のごとく祈ってはいけない。祈祷の神秘的な聖務者になって初めて、神の幕屋に入ることができ、神の幕屋から「聖なる火」をいただいて祈りの香炉を満たすようになるだろう。穢れた火(つまり、向こう見ずに興奮している物質的な情熱)は、至聖なる神に献げてはならないと言われている。
いっぽう神の幕屋からいただいてきた「聖なる火」とは、まさに真のハリスティアニンが聖神から受ける「聖なる愛」のことである(ロマ 5 : 5)。血の煮えたぎるような情熱をもって祈ろうとする者は、自己過信しておのれを欺いており、神に仕えているつもりで実際には神を怒らせている。
祈りのうちに、楽しみを求めてはならない。そんな楽しみは罪人の身の上にはそぐわない。罪人のくせに楽しみたいなどと思うことこそ、すでに自分自身を欺いている証拠である。むしろ、死んで化石となった自分の霊たましいをよみがえらせる道を探すことだ。どれだけたくさん罪を犯してきたか、どれほど深く陥罪してしまった身か。そういう惨状を痛感し、しかと見届けて潔く悟るようにせよ。そう悟ったとき、正しく祈ってきたからこその心境に至るだろう。真の悔改である。神の前で慟哭し、とつぜん目から鱗が落ちて見えるようになった霊的惨状の中から祈り叫ぶだろう。まさに牢屋から、墓から、地獄から、祈り叫ぶようになるだろう。
人は悔い改めればこそ、祈るのだ。また、祈ればこそ、その何倍にも悔い改めるのだ。
祈りによる楽しみというのは、神に選ばれて聖神によって生まれ変わった聖人にのみ許される特権である。いっぽう見栄と肉欲の虜となった者は、自ら楽しみをこしらえようとする。なんと悲惨な自己欺瞞に陥っていることか。肉の暮らしに埋没していると、盲目のまま思い上がって自分自身を騙し、しかも騙されている身に気づかぬまま、よくそういう楽しみをこしらえてしまうのである。
祈って悔改しつづけていれば、良心が軽くなって心も安らぐ。隣人とも、自分の人生とも和解し、憐れみの目で人々を見て同情を寄せるようになる。そのうえ慾を抑え、世への関心が薄れて神に服従し、邪念や罪深い執着に襲われても勝ちやすくなる。
そうなってきた気がしたら、すでに救われる希望を持てたのだから満足せよ。時期尚早に、高尚な属神的心境や祈祷による感動を求めるな。実際、そういうものはわれわれが思い描いているようなものではない。聖神の働きをうけて得られる高度な祈祷的心境は、とても肉の知性に理解できる代物ではないのである(シリアの聖イサアク、55訓話)。
何よりも、思いを尽くし、霊たましいを尽くし、力を尽くして祈ることを学びなさい。え、どうすればいいのですか、と訊くかもしれない。こればかりは体験せずに知ることはできない。とにかく注意深く祈るようにせよ。そうすれば、福なる体験をもってその問いへの答えを見出すだろう。
朽ちゆく物事ばかり考えてきた智者にとっては、祈りの修行がかったるく、つまらなく無意味なものにしか見えない。祈ることに慣れるには、かなり苦労するだろう。しかるに、ひとたび慣れてしまえば、その習慣から属神的慰安を得られるようになるだろう。
先述したとおり、祈りこそ百徳の母である。母を得よ! 母を得れば、その子供たちもあなたの心に入ってきて、あなたの心を神の聖所にしてくれるだろう。
何をするにしても、取り掛かる前に神に祈りを献げよ。祈ることで、これから始める業に神の祝福を呼びこみ、自分の行動を戒めるのである。何事につけても「まずは祈ってから始めることにしよう」と自戒していれば、神の戒めに反する行為をせずに済むだろう。
何を語るにせよ行うにせよ、まずは「主よ、本当にこれで良いのでしょうか。どうか助けて福を降してください」と祈ってから始めるならば、神に導かれながら日々を送る人になるだろう。そうやって祈ることは難しいことではない。知性よりもすばしこいものはない、と聖大ワルサノフィも述べている。必要に迫られるたびに神に思いを馳せることほど、楽にできるものはない(回答 216)。
壁にぶち当たったならば、そういう時こそより多く神に祈るようにせよ。というよりか、自分の知恵なんぞ頼らずに、すぐに祈りに走りつけ。そんな貧弱で空っぽな思考力に頼っても叶わないことのほうが多いではないか。ひ弱な理性で考えあぐねたり予測したりするよりは、よほど信じて祈って全能の神にすがりついて克服する力を乞うたほうが確実だ。
愚かにも手当たり次第に祈願して、神を怒らせてはならない。諸王の王に対してくだらないものを求めるならば、相手の尊厳を貶めてしまう。イズライリ人は、荒野で神から賜った奇蹟を忘れ、この胃袋を満たしてくれなどと願い出た。すると「食のなおその口にある時、神の怒りはかれらに臨」んだという(聖詠 77 : 30~31)。
神の偉大さに見合った願い事を打ち明けよ。ソロモンは神に知恵を乞い、知恵だけでなくその他の恵みもふんだんに得た。エリセイは聖神の恩寵を師の倍も乞い、その願いが聴き入れられないことはなかった。
現世の朽ちる幸福を祈願したりした日には、天の王にひんしゅくを買うだろう。主の側近である天使や天使首が、あなたの祈り求めているものを見ている。地上の者が地上のものを棄てて天上のものを求めるのを見ては驚嘆し、逆に天上のものを棄てて地上の朽ちるものを求めるのを見ては悲しんでいる。
われわれは「悪意において幼子となれ」(コリンフ前 14 : 20)と戒められているのであって、知性において幼子となれ、と言われているのではない。俗世間の知恵を働かせると立派なことを考えているように見えるが、そういう知恵は祈祷中には要らない。かといって、愚か者になって祈れと言っているわけではない。そうではなく、むしろへりくだって完徳の知恵を持ち、澄みきった属神的知恵を持って祈るべきなのだ。しばしば祈祷中に、言葉ではなく言葉を超えた沈黙のうちに、属神的知恵が湧いてきたことが分かる。とつぜん言葉にならない前代未聞の事柄を属神的に理解し、一段と神のご臨在をありありと感じたとき、人は考えるのを止めて祈りの沈黙に包まれる。はてしなく偉大な神性を目の前にしたとき、ひ弱な受造物は言葉を失うのである。
そもそも主が「異邦人のようにくどくど述べるな」と戒めたのは(マトフェイ 6 : 7~8)、異邦人が祈るときに地上の福楽をあれもこれも欲しがり、流暢にすらすら祈っていれば人の耳や神経に作用するがごとく神にも作用すると勘違いしていたからである。主は、そのような祈りを裁いたものの、異端者の主張するように長い祈り自体を裁いたわけではなかった。なにせ、主ご自身が長く祈られ、長い祈りを成聖されたからである。「終夜よもすがら(つまり徹夜して)神に祈れり」(ルカ 6 : 12)と、福音書に書いてあるとおりである。
聖人たちの祈りが長かったのは、くどくど述べていたからではない。むしろ祈り出すなり、次から次へと属神的感覚に満たされていたのである。そういう感覚にどっぷり満たされていたからこそ、いわば時間が消し去られ、もはや時間というものが永遠へと変容していたのである。
祈祷という至福の修行がうまくいった暁には、もはや聖詠や祈祷書の中のさまざまな思いは心境にそぐわないものとなる。むしろ税吏の祈りや簡潔な一句こそ、言葉にできない思いの丈をより的確に言い表してくれるものとなる。聖人といわれる人たちは、そのような一句で祈りながら、しばしば何時間も何日間も何年間も過ごし、あれこれ思いめぐらすまでもなく祈祷に没頭していたのである(特に祈りを極めたサロフの修道司祭セラフィム(訳注。サロフの聖セラフィム)などは、千日千夜、ひたすら石の上で「神よ、われ罪人を憐れめよ」と嘆願していたという)。
異端者は、得てして異邦人と大差ない祈祷文をこしらえるものである。妙に口上手くて情熱的に出しゃばってくるわけだ。さほど悔改の念もなく、肉欲に漬かったまま神の子と結ばれようと全力を尽くす。身の丈を弁えていないので聖神とは縁遠い。暗くて邪悪な精神に、嘘でもって滅ぼしてくる悪鬼に冒されているのである。
祈りに専念するのは偉大なことである。聖使徒は、祈祷と伝教に専念するために隣人の身体的需要を満たそうとするのを辞めた。まさに「神の言ことば舍おきて、食卓のことを務むるは、よろしからず。(中略)われらは専ら祈祷と伝教とを務めん」(使徒 6 : 2, 4)と断言したのである。つまり祈って神と語らい、その神のことを隣人に伝えることを選び、三位一体の神について、人となられた神言かみことばについて全力で伝教したのである。
祈りほど、優れた知的作業はない。祈って清く考えられるようになって気が散らなくなれば、それは生まれもった知的状態の極みである。そのうえ、さらに清く祈れるようになって神のもとにある心境になれば、それはすでに超自然の知的状態に入っている(『階梯』28訓話)。
超自然の状態に入れるのは聖人のみである。聖人は、古いアダムを脱ぎ捨てて新しいアダム(主イイスス・ハリストス)を着、聖神の力で生まれ変わった。まさに「(霊たましいの)顔の覆いを除かれて、主の光栄を観」られるようになり、聖神の働きをうけて主と同じ姿に変容し、「光栄より光栄に進む」身になったのである(コリンフ後 3 : 18)。なぜ聖人が祈祷中により多く神の啓示を受けたのかと言えば、祈祷中こそ神との交わりにふさわしい清い心境だったからである16訓話)。現に、聖使徒パウェルも祈祷中に天から降りてくる布を見たし(使徒 10 : 11)、百人隊長コルニリイも祈祷中に天使が来たのを見た(使徒 10 : 3)。さらに、イエルサリムの神殿で祈っていた使徒パウェルには主ご自身が現れ、いざイエルサリムを去って「往ゆけ、われなんじを遠く異邦民に遣つかわさん」(使徒 22 : 21)とまで命じられたのである。
われわれは「悔改せよ」に加え、「祈りなさい」とも命じられている。祈りつづけていけば悔改と同じように神の国へ行きつき、「衷うちにある神の国」に入れるという。
悔改せよ、けだし天国は近づけり(マトフェイ 4 : 17)。神の国はなんじらの衷うちに在り(ルカ 17 : 21)。求めよ、しからばなんじらに与えられん、尋ねよ、しからば遇あわん、門を叩けよ、しからばなんじらのために啓かれん。けだしおよそ求むる者は得、尋ぬる者は遇あい、門を叩く者には啓かれん。(中略)天にいます父は、これに求むる者に、聖神を与えざらんや。神は、昼夜かれに(罪の病と悪鬼に侵されて)呼ぶところのその選びたる者を、久しく忍ぶとも、ついに援たすけざらんや。われなんじらに語つぐ、すみやかにかれらに援たす(ルカ 18 : 7~8)。
衷うちにある天国」へ入るということは、すなわち聖神の力でその天国を耕していく、ということだ。
本当に救われたいと思うのであれば、どんどん祈りなさい。まさに、おびただしい数の弟子に囲まれた救主を追いかけなさい。ハナアン(カナン) マトフェイ 15 : 22~28)。なかなか祈りが聴き入られないからといって、肩を落としてはならない。どんなに悔しくても、甘んじて耐え抜くこと。なにせ試練をうけて切羽詰まらないことには、なかなか上手に祈れるようにはならないからである。いかなる逆境にぶち当たろうとも、信じてへりくだって祈りつづけていれば、必ず主に癒してもらえる日がくる。あなたの「悪霊にひどく苦しめられた娘」を、すなわち、あなたの慾にまみれた心を癒してもらえる日がくる。そのとき、もはやあなたは邪念や病的感性が癒され、執着心も失せて無慾になり、罪深いことではなく神聖なることを思い、肉的な事柄ではなく属神的な事柄を見つづけるようになるだろう。アミン。