第57訓話 世を離れ、知性を乱す万事から離れることについて
何ともありがたいことに、神から授かった道は2つある。そのいずれかを進めば、扉が開いて救いの知識に与ることができる。まさに自然界をみて造物主を知るという道と、聖書を読んで神を知るという道である。本当にその通りであることを確信したいだろうか。自分自身のうちに留まれ。そうすれば滅びることはない。もし自分の外にあるものでこの事実を確信したければ、いくらでもまっすぐ真実へ導いてくれる教師や証人がいる。
頭の中をかき乱していれば忘れっぽくなる。そのような状態で叡智の扉を開くことなどできない。やがておとずれる死が、いかに避けがたい共通の現実であるか悟れば、世から離れようと決意するときに死以外の教師はいらない。人はもともと神から受造物を観察せよという法則を授かっている。文章による法則を授かったのは陥罪後のことにすぎない。
すすんで慾の原因となるものから離れなければ、ついつい罪にのまれてしまう。酒や女、富や健康などが慾の原因だ。しかしそれら自体が罪なのではなく、単に人は生まれつきそれらによって罪深い慾に傾きやすいという意味である。だから人間たるもの、慾の原因をなすものには十分気をつけるべし。いつも弱さを自覚していれば、ゆずれない一線を越えることはないだろう。世間は貧困を厭うが、神は思い上がりや高慢な霊たましいを厭う。人はだれしも財力に一目置くが、神は謙遜な霊たましいを重視する。
善なる修行を始めようと思い立ったら、あらかじめ試練が襲ってくるのに備え、真実を疑わないことだ。というのは人が熱い信仰をもって良い生活を始めるや、敵は次々に太刀打ちできそうにない試練をこしらえて脅しをかけ、その善意をつぶして神を喜ばす行いを諦めさせようと仕向けてくるからである。その権限があるからそう仕向けてくるわけではなく(もし権限があるとしたら誰一人として何の善行もできやしないだろう)、ひとえに神が敵にそれを許されるからだ。まさに義人イオフに起こった史実のとおりである。よって、徳行ゆえに降りかかってくる試練を迎え撃つべく雄々しく身構えよ。しっかりと身構えた上で善行に取りかかることだ。試練を迎え撃つ心構えを持てないのであれば、徳の修行に向かうのは控えておけ。
善い方向性で修行していれば神が助けてくださる。この点を疑う者は自分の影すらも怖がり、あり余るほど満たされている状況下でも飢えに苦しみ、静かな環境下でも嵐に見舞われる。だが神を信頼している者は、心がしっかりしていて揺らがない。だれの目から見てもあきらかに立派であり、いかなる敵にもあっぱれと評される。
神の戒めは世界中の宝よりも優れている。人は神の戒めを守っていれば内面に神を見つける。いつも神を思って穏やかであれば、神に主導してもらえる。御旨を行いたいと渇望していれば道案内に天使が与えられる。罪を犯すまいと注意していれば危険な道もつまずかずに歩みつづけ、闇に覆われても目前と内面に光を見出す。罪を恐れていれば主に守られて歩み、転びかけたときにも主に憐れんでもらえる。自分の罪を微々たるものとみなすならば以前よりもひどい罪に陥り、七倍の罰を受けることになるだろう。
つつましく憐れみを施し、最後の審判のときに憐れんでもらえ。善い気質を損ねてしまったのならば、もう一度その気質を取り戻せ。もしや神に銀貨という借りを作ってしまっただろうか。銀貨の代わりに真珠を返せとは言われない。たとえば貞潔を失ったのであれば、淫行をつづけながら喜捨をしても意味がない。戒めを破った者は、身体の聖性を求められているからだ。暴利を貪っておいて斎で償おうとする奴があるか。犯した罪を他の手段で償おうとしてはならない。罪を犯したのならば、その行為を断ち切るか慈善を行うことで償うことができるだろう。犯した罪とは関係のない分野で闘ったところで何になる。聖エフレム〔正しくはアンティオケアの聖イサアク〕も、収穫時の暑さを凌ぐために冬着を着込む奴があるか、と問いただした。だれでも自分で蒔いたものを刈りとるのだ。そしてどんな疾患も、その疾患に効く薬で治すものである。もしかして嫉妬に駆られてしまっただろうか。だとしたら、なにゆえに睡魔と闘おうとする。まだ罪が小さく熟していないうちに撲滅せよ。大きくなって熟してからでは遅い。取るに足らない傷だと思えるうちに気を抜くな。なぜなら後々になってその傷が非人間的な君主となって立ちはだかり、打ちのめされて奴隷のごとく手足を縛られてしまうからだ。しかし慾が芽生えたときにすぐに抵抗しておけば、ほどなくその慾を支配できるようになる。
傷つけられてやり返せるのに、そこをあえてやり返さず喜んで耐えることができたとき、それは神を信じて癒された証拠である。ふりそそぐ非難にもへりくだって耐えつづければ完徳に達し、聖天使を驚嘆せしめるだろう。というのも、これほど高度で難しい徳行もないからだ。
試練を受けても変わらずにいられるようになるまでは、しっかり者になれたなどと自負するな。自分を過信することなく常に鍛えよ。正しい信仰を身につけて、敵を退治することだ。頭がいいとか、腕前があるぞとか思うな。神の許しによって、本能の弱さにやられてしまわないためだ。実際にやられれば、自分の弱さを悟ることになる。積み上げてきた知識を信用するな。敵に悪用されて罠に嵌ってしまわないとも限らない。話すときは柔和に語れ。そうすれば赤っ恥をかくことはない。優しい口調で話をすれば、だれもが友人になるだろう。いかなるときにも自分の行ないを自慢するな。後で恥をかかないためだ。自慢すると、その自慢した点が神の力で変えられてしまう。まさに自慢した点が貶められることによって、謙遜の道を学ぶようになるためである。だから、先を見通す神に万事を委ね、この人生で変わらないものがあるなどと過信しないことだ。
そのように心構えをしてから、つねに神に目を向けよ。なぜなら人間はみな神の摂理に守られているのにそれが見えず、ただ罪から身を清めていつも神を思う者、それも神のことしか眼中にない者にしか目にできないからである。なかんずく神のために大きな試練に立ち向かってゆくとき、神の摂理が啓けてくる。というのも試練に立ち向かうなり、まるで肉眼で見るように神の摂理を感じるからである。もちろん試練の規模や原因によって見える度合いは変わるし、それが見えるのは修行者が雄々しく奮起するためだ。ちょうどイアコフ、ナヴィンのイイスス、三人の少者、ペトルなどの聖人が、どことなく人のような姿で現れた天使を目にして、よりいっそう正義を貫いたのと同じである。いやはや、そんな異象は格別な摂理によって送られてくるものであり、かれらがそれを見るにふさわしい聖人だっただけだからだ、などと思うだろうか。ならば聖致命者を見よ。そしてその雄々しさを鑑とせよ。致命者はときに集団で、ときに一人きりで、場所を問わずハリストスのために修行しただけでなく、柔らかい体を拷問道具で痛めつけられても天からの力で堪え、本性では耐えがたい苦痛を耐え抜いたではないか。というのも天使が現れて、神のために受難や拷問を耐えるとどれほど神の摂理に守られるか、いかに勇ましくなって敵を見返してやれるか教えてくれたからである。なにせ聖人がそういう異象を目にして耐えれば耐えるほど、敵はイライラして狂暴になったからである。
世と縁を切った修行者や隠遁者のことも話しておくべきだろうか。そもそも隠遁者ときたら荒野を町に仕立て上げ、天使が住みこむ地区に変えたのである。なにせ一生のあいだ荒野を愛し、神を愛するがゆえに山や洞窟や渓谷に住んでいたため、その清い生活ゆえに天使が昼も夜も寄ってきて、同じ主宰に仕える者同士として時に共に闘いながら傍にいてくれたのである。なにせ地上のことを捨て、天上のことを愛して天使に似た者となったため、とうぜん聖天使も身を隠さずに隠遁者の要望を叶え、ときどき現れてはどう生きるべきか教えてくれたり、疑問を解いたりしてくれたのである。ときに聖人自身がどうすべきか天使に訊くこともあった。道を見失ったときに正道に戻してもらったり、誘惑に嵌ったときに助けてもらったりした。蛇や落石や矢や投石など、急な災難により生命の危険にさらされた瞬間に救い出してもらったこともあった。もろに敵に襲われた時は天使が見える姿で現れ、助けるために遣わされてきたと言って勇気づけ、大胆さと喜びを与えてくれたこともあった。また、聖人をとおして病人を癒したり、苦痛にあえぐ聖人自身を癒したりしてくれたこともあった。断食して弱りきった体に、手で触れたり言葉をかけたりして超自然の力を与えて力づけてくれたこともあった。ときに食べ物やパンや野菜や、お惣菜さえ持ってきてくれたこともあった。しかも息を引き取る日時や、どう永眠するかまで告げてもらった聖人もいた。いちいち事例を並べ立てずとも、聖天使がいかにわれわれを愛し、いかに義人のことを慮っているか自明の理であろう。天使は、兄が弟を思うようにわれわれのことを思ってくれているのである。こう述べたのも、「主はおよそこれを呼ぶ者、およそ真実をもってこれを呼ぶ者に近」いことを理解してほしかったからである(聖詠 144 : 18)。そして、心から神に献身して従っているとどれほど神に慮ってもらえるか、納得してほしかったからである。
神に慮ってもらっていると信じるならば、過ぎゆく物事や体の需要のことを心配したり懸念したりする必要はない。でも神に慮ってもらっていると信じられず、ゆえに神を無視して自力で自分に何が必要なのか心を砕いているとしたら、あなたほどかわいそうな人もいない。いったい何のために生きているのか。何のために生きていく気なのか。聖書には「なんじの重荷を主に負わしめよ、かれはなんじを助けん」(聖詠 54 : 23)とか、「突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅におびえてはならない」(箴言 3 : 25)と書いてなかっただろうか。
ひとたび神に献身しようと決心して献身しつづけるのならば、穏やかな心で人生を送ることになる。清貧でなければ想念の嵐から解放されず、黙修して五感を鎮めなければ穏やかに考えられない。試練に遭わずして属神的賢慮を得ることはできない。熱心に本を読まなければ微妙な想念を見分けられない。想念が落ち着いていなければ、知性は秘められた奥義に至ることはできない。信じて神に望みを掛けなければ、大胆に試練に立ち向かってゆくことなどできない。神のご加護をあからさまに体験しなければ、心から神を信頼しきることはできない。人生経験でそれなりにハリストスの受難を体験しなければ、ハリストスと交わることはできない。
神の人と称えられるべき人とは、慈悲深さのあまり必需品まで手放すほど自分を無にできる人のことだ。貧者を憐れむ者は神に守られるからである。そして神のために貧しくなる者は尽きることのない宝を見出す。
神は何も必要としていない。とはいえ、人が神のために神の像(隣人)を敬って助けるのをご覧になるなり喜ばれる。何かを手にしていて、だれかにそれを下さいと頼まれたら、心の中で「あとで困らないように取っておこう。この人に必要な物は、神様がどこからか取り寄せてくれるに違いない」と言ってはならない。それは悪人や神を知らぬ連中の台詞だ。善良な義人ならば、まんまと善行をする機会を見逃して第三者に栄誉を譲るようなことはしない。そりゃ乞食だって貧者だって神から恵んでもらえるだろう。主は誰一人として放っておかれないからだ。しかし、あなたは困った人を打ちやったことによって神に与えられた栄誉を受け損ない、恩寵を遠ざけてしまったのだ。よって、人に与えるときは喜んで、「助けるべき相手をお示しくださった神よ、光栄はなんじに帰す」と言え。もし手元に何も与えられる物がないときには、なおのこと喜んで「神よ、恩寵によって御名のために清貧になれたことに感謝いたします。主の戒めの道を行く者に付きまとう逆境を味わい、諸聖人と同じく病と清貧の道を歩むことができて光栄です」と言うことだ。
そして病に突っ伏したときには、「神に送られた試練を耐え忍び、生命を受け継ぐ者は幸いだ」と言いなさい。というのも病とは、霊たましいを健康にするために神から送られてくるものだからだ。次のように述べた聖人がいる。「主を喜ばそうともしなければ、修行もせず霊たましいを救おうともしない修道士がいる。そんな怠け者でも、否応なく徳を学んでいるようだ。しょっちゅう神から試練を送られてきては大変な目に遭い、暇を持て余して悪い方向に行かないようにされているからだ」と。ああ、だから怠け者は神によって試練に遭い、バカなことを考えずに試練を思うようにさせられているのか。神に愛されているからこそ、試練をとおして御旨を見抜き、身をもって学んでいるのか。だから神に泣きついたとしても、すぐに聞き入れてはもらえないのか。ついに疲れきり、ああ怠けて楽ばかりしていたからこんな目に遭ったのだと悟りきるまで、そのままにしておかれるのか。なにせ「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」(イサイヤ 1 : 15)と主は告げられたではないか。これは昔の人に向けた言葉であるとはいえ、およそ主の道から外れた者に向けて書き残された言葉でもあるのだ。
神は慈愛にあふれた方だというのに、なぜ試練のときに必死に叩いてお願いしても聞き入れてもらえないことがあるのだろうか。なぜわれわれの祈りが軽んじられてしまうのであろうか。これについては、わかりきったこととして預言者が次のように教えている。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちの間を隔て、お前たちの罪が、神の御顔を隠させ、お前たちの耳に傾けられるのを妨げているのだ」(イサイヤ 59 : 1~2 参照)と。どんなときも神を思い起こしていなさい。そうすれば困ったときに、神もあなたのことを思い起こしてくださるだろう。
人の本性は慾を受け入れやすくなってしまったためこの世では誘惑が多く、悪はいつも身近にある。しかも悪は内面から湧き、足元から湧いてくる。それでも持ち場から離れるな。神が許してくださったとき、その悪から解放されるだろう。上瞼と下瞼が近いように、誘惑は人の近くにある。そして神がこのように賢く造られたのも、あなたのためを思ってのことであり、あなたがいつも神の門を叩き、不運を恐れて神を思うためであった。あなたが祈って神に近づき、いつも神を思って心が成聖されるようにするためであった。ゆえに、すがりついて祈っていれば聴き入れてもらえる。そして聴き入れてもらったとき、神の手で救われることを知り、神に造られて配慮されて守られている身を認識し、わがために二つも世を造ってくださったことを知るだろう。しばらくお世話になる教師たる現世と、まるで実家のように受け継ぐことになる永世の二つである。神は、あえてあなたが難なく進めるようには造らなかった。あなたが神になりたいと夢見て、神の右腕からサタナとなった高慢ちきと同じ運命を辿らないようにするためである。それに、まったく慾に惑わされずに済むようにも造らなかった。あなたを植物、ないし善行をしても褒賞を得られない動物にしないためである。動物は生まれつき霊知をもたず、無償で仕えるという家畜的特権をもつ。翻って人間は、この身に鋭い悪の刺があればこそ成長し、感謝したりへりくだったりすることができる。まさかこの点を理解できない者はいるまい。
つまり修徳に励んで悪を避けようとするか否かは、どう見てもわれわれ次第なのだ。そのどちらの方向性で生きるかによって、褒められるか恥をかくかも決まってくる。恥をかけば畏れるようになるし、褒められれば神に感謝して徳に邁進したくなる。それにしても神はなぜ誘惑という教育者をふんだんにこしらえたのだろうか。ひとえにあなたが誘惑をすり抜け、逆境を物ともしないくらい逞しくなり、恐れを知らぬ高みでいつも創造主を見て多神論に陥らないようにさせたかったからである。というのは、多くの連中があなたと同じく慾があって逆境に陥っている分際でありながらも、あるときこの世のつまらない富や権力や能弁のせいで思い上がって多神論に陥っただけでなく、自分自身まで神だと言ってのけたからである。かるがゆえに、神はあなたが逆境に留まることをよしとされたのだ。あなたが邪道に逸れて神を怒らせ、二度と神の御前に立てなくなるほど罰せられてしまわないようにするためであった。たとい多神論に陥らず自分を神だと言い切らなかったとしても、苦労もせず自由奔放に生きた日にはいかに非難囂々になることか言うまでもなかろう。ゆえに神は苦難や慾を与えることで、あなたが少しでも多く神のことを心にかけるようにし、敵にやられたくないという畏れから神の慈悲にすがって救われることで、神を愛するようにされたのである。そのように愛を根付かせた後、あなたを神の子となる栄誉へ近づけることで、いかに恩寵に富んでおられるか見せようとされたのである。というのも、もしもあなたが困るようなことが一つもなかったとしたら、これほど深い神の摂理をどのようにして知ることができただろうか。
というわけで、神をより深く愛したければ、まずは神の恩恵を知り、いかに隅々まで慮っていただいているか忘れないことだ。苦しめば苦しむほど愛せるようになるのは、ありがたみを知るためである。ゆえに神のことを思い起こせ。そうすればいつも神に思い起こしてもらって救ってもらい、あらゆる福楽を頂戴できるだろう。空しい物事に思いを馳せて神を忘れてしまうことのないように。そうすれば闘いのときに神に忘れ去られることはないだろう。あり余っているときに神に従え。そうすれば苦難のときに心から大胆に祈りつづけることができるだろう。
いつも心で神を思い起こしつつ、主の前で自分を清めよ。長らく神を忘れていたせいで、いざ神に近づこうとしたときに尻込みしないためだ。というのも、しきりと神と語らってたくさん祈っていればこそ、神の前で勇敢になれるからである。ふつう人と交流するときは体を用いるが、神と交流するときは思い起こしたり注意深く祈ったり献じたりして心で交わるからである。神のことを長らく思い起こしつづけることによって、霊たましいは徐々に属神的歓喜にいたって驚嘆するようになる。というのは「主を尋ぬる者の心は楽しむべし。(裁かれた者よ)、主を尋ねよ。主の力を尋ねて(希望を持ち、痛悔して)主の顔かんばせを尋ねよ」(聖詠 104 : 3~4)と言われているからだ。そして聖なる御顔の前で成聖されて罪を浄めるがよい。罪の咎を負う者よ、主に走りつけ。そうすれば罪が赦され、罪過を見逃してくださるだろう。というのは、主は預言者をとおして「わたしは生きている。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ」(イエゼキエリ 33 : 11)と誓われたからだ。また「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」(イサイヤ65 : 2)と告げられ、さらに「イズライリの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(イエゼキエリ 33 : 11)と問われ、「立ち返れ、私に。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」(マラキヤ 3 : 7)と呼びかけられた。そして「悪人でも、悪から離れて主に立ち返り、正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。彼のなした不法行為を思い起こすことはしない」(イエゼキエリ 33 : 19 参照)と約束されたのである。
しかし、もし義人が義を捨てて罪を犯して悪をなすならば、主はその義人の行なってきた正義を思い起こさず、むしろその背信行為をかれの目の前に置き、悪行の闇に漬かったまま死ぬことになるだろう、と言われた(イエゼキエリ 18 : 21~24 参照)。なぜそうなのか。なぜなら罪人は主に立ち返ったその日、罪過のせいで転ぶことはないからである。そして義人は罪を犯したその日、いかに今まで正義を行なってきたとしてもその罪に留まる以上は救われようがないからだ。神はイエレミヤに「巻物を取り、ヨシアの時代から今日に至るまで(犯してきたすべての悪を)残らず書き記しなさい」と告げられた。そのうえで「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聴いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(イエレミヤ 36 : 2~3 参照)と約束されたのである。知恵深いソロモン王も「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐みを受ける」(箴言 28 : 13)と述べた。イサイヤも「主を尋ね求めよ。尋ね求めて見出したら、呼び求めよ」と励まし、主を代弁して「罪人はその道を離れ、悪人はそのたくらみを捨てよ。わたしに立ち帰るならば、わたしは憐れむ。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」(イサイヤ 55 : 6~8 参照)と書き残した。さらに主は「お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる」(イサイヤ 1 : 19)と促し、「わたしのもとに来るがよい。聞き従って、たましいに命を得よ」(イサイヤ 55 : 3参照)と命じられた。ならば、あなたが主の道を守って御旨を行っている以上、主に望みをかけて呼びかけよ。なにせ「あなたが叫べば『わたしはここにいる』と主は言われる」(イサイヤ 58 : 9)と約束されたのだから。
悪人は試練に遭ったとき、神を呼べば救い出してもらえるだろうという期待を持つことができない。なぜなら平穏に暮らしていた時期に御旨から離れてしまったからである。戦を始める前に、援軍を探しておけ。病にかかる前に、医師を探しておけ。逆境にぶち当たる前に、神に祈っておけ。そうすれば苦難のときに神に出会い、聴き入れてもらえるだろう。つまずく前に、呼んで祈りすがっておけ。戸惑うことになる前に、誓いを立てておけ。つまりあの世へ行くのに必要なものを用意しておくのだ。ノイ(ノア)は平和の日々に箱舟を造った。しかも箱舟に用いた木は百年前に植えたものであった。神の怒りが下ったとき悪人らは死に絶えたが、義人は用意していた箱舟によって救い出されたのである。
罪を犯しているうちは、祈ろうとしても祈れない。なぜなら良心が責めるので大胆になれないからだ。いっぽう良心が清ければ、祈りながら喜んで涙を流す。心から世に対して死んでいれば、喜んで侮辱を耐えられる。でも世に対して死んでいないと侮辱に耐えられず、虚栄心に突き上げられて怒ったり、その逆にがっかりして気持が萎えたりしてしまう。おお、侮辱を甘受するとはなんと実践しにくい徳であることか。しかし実践できればどれほど神に褒められる徳であることか。この徳を成しとげたいと思うならば、なるべく親族を離れて旅人になるべきだ。なぜなら生まれ育った土地でこの徳を身につけることは不可能だからである。ただ偉人や強者のみ、親族と暮らしながらこの苦しみに耐えることができる。また、心から世に対して死んだ者や、現世の慰めへの期待を捨てきった者も耐えることができる。
へりくだっていると恩寵を呼びよせるように、傲慢なままでいると痛々しい事件を呼びよせる。謙遜であれば主に目をかけてもらい、いつも憐れみを受けて喜ぶことができるが、不信仰で意地を張っていればひどい目に遭う。いかなる人の前でも、すべての点で自分を低めよ。そうすれば、この世の権力者よりも高められるだろう。人とすれ違ったときにはお辞儀して気持ちよく挨拶せよ。そうすれば、かつて贈り物としてオフィルの金を持参した人よりも尊ばれるだろう(列王記上 22 : 48 参照)。
自分をおとしめよ。そうすれば自分の中に神の光栄を見出すだろう。というのも、謙遜を培った場所には神の光栄が湧き出すからだ。もしあからさまに貶められたままでいようとするならば、神によって万人から褒め称えられるようになるだろう。心に謙遜があれば、そこに神の光栄が見えてくるだろう。偉業を成しとげた分野で、軽蔑されやすい人であれ。その逆に、何もできていない分野で、すごい人だと思われないようにせよ。人々に鼻であしらわれるように努めよ。そうすれば神の誉れを受けるだろう。内面に罪の疾患を抱えているというのに、尊敬されようとしてあくせくするな。栄誉を蔑視せよ、そうすれば人望を得るだろう。そして栄誉を好むな、そうすれば酷評を受けずに済むだろう。必死に栄誉を求めるならば、栄誉はどんどん逃げていく。だが栄誉から逃げるならば、後ろから栄誉が追いかけてきて、その謙遜ぶりを万人に広く知らせることになる。自分を意識せず尊敬されないようにしていれば、神があなたのことを宣伝される。もし真実のために非難の的となるのを耐えるならば、造物主は全受造物にあなたを誉めたたえよとお命じになり、その光栄の門を開いてあなたを輝かせて誉めちぎるだろう。なぜならば、あなたのうちに本当に神の像と肖があるからだ。
高徳な知恵者が健全に暮らして謙遜であるとき、人々に蔑まれていた試しがあろうか。あらゆる点で自らへりくだる者は幸いである。高められるからである。なにせ神のために万事においてへりくだって自分を小さくするならば、神から栄誉を授かるからだ。神のために飢え渇くならば、神の福楽で潤って満たされる。神のために裸である身を耐えるならば、朽ちない光栄の衣を掛けてもらえる。神のために貧しくなるならば、神の真の豊かさで慰められる。
神のために自分をおとしめよ。すると、知らず知らずのうちに誉められることが多くなるだろう。一生のあいだ罪人であることを自認せよ。そうすれば死ぬまで義人であれるだろう。知恵があっても無知のようであれ。逆に無知であるのに賢そうに見せるな。もし教養のない凡人が謙遜であるがゆえに敬われるとしたら、著名な偉人が謙遜であったらどれほどの誉れを受けることになろうか。
虚栄から逃げよ、そうすれば誉れを得るだろう。高慢を恐れよ、そうすれば誉めたたえられるだろう。人の子として生まれた以上は見栄を張るべきではなく、女から生まれた分際で思い上がってはならない。せっかく世俗にまつわることをすすんで捨てたのであれば、万事において他人と競うな。それに虚栄を厭うことにしたのであれば、自分をより良く見せようとしている連中から逃げよ。物欲自体を断つがごとく、物を集めたがる人との関係を断て。快楽自体を避けるように、快楽を好む者々を避けよ。下品なものを見ないようにするように、下品な輩を見るな。というのも、下品な行為を思い出すだけで心が濁るとしたら、その行為に仕えている人を眺めたり、そういう人たちと一緒に時を過ごしたりしたらどれほど心が濁ってしまうことか。むしろ義人に近づいて、義人をとおして神に近づくのだ。謙遜な者と交わって謙遜な品性を身につけよ。謙遜な者を眺めるだけで得られるものがあるとしたら、謙遜な者から教えを聴いた日にはどれほど役立つことか。
貧者を愛せ、貧者をとおして憐みを得るためだ。口やかましい連中には近づくな、でないとせっかく与えられた静寂を失ってしまう。病人や乞食から悪臭がしても顔を背けずに耐えよ、なにせ同じ体をまとった人間なのだ。不幸な目に遭った人を𠮟るな、あなたも同じ目に遭わないとも限らないし、もし𠮟ったりしたら同じ目に遭ったときに慰めてくれる人を見出せないであろう。身体障害者を貶めるな、みな地獄には等しい身分で落ちるのだ。罪人を愛せ、しかし罪状そのものは憎め。ダメな部分があるからといって罪人を軽蔑するな、同じ罪に誘惑されて堕落しないとも限らない。自分だって慾という性質をもって生まれたことを忘れず、万人に対して善をなせ。祈ってくれと要求してくる者を責めたりするな、ついでに優しい言葉をかけて慰めることも忘れずに。でないと、その人が滅びて霊たましいの代償を請求される羽目に陥るかもしれない。むしろ医者の業を真似よ。医者は炎症を冷えた薬で治し、冷えた症状を温かい薬で治しているだろう。
隣人に会ったときは、実際に敬うべき程度を超えて相手を敬え。その手足に接吻し、しばしば大いに称えながら抱きしめ、目を見て相手にはない部分まで褒めよ。そして別れた後にはその人がいかに素晴らしい人であるか良い点ばかり語れ。というのも、そんなふうにしていれば、その人も善い方向に向かいたくなり、身にあまる光栄に恥を覚え、これからは徳に励んでいこうと思えるからである。そうしているうちに優しい雰囲気を帯び、深い謙遜を身につけて大きなことでも難なく成功するだろう。しかも褒めた相手が何かダメな点を持っていたとしても、相手は褒められたことで恥を知ってすんなり癒される。いつも誰にでも愛想よく敬意を払う人であれ。たとい信仰が違ったり足りなかったりしても怒らず、素行が悪くても嫌うな。むしろ相手がどんな人であろうと非難したり暴いたりしないように気をつけよ。われわれを公平に裁かれるお方は天におられる神だからだ。道を踏み外した人を真実へ導きたいと思ったら、その人のことを悲しみ、涙を流しながら愛をもって一言か二言ほど語りかけることだ。決して腹を立てて敵意の兆しが見えてしまうようではいけない。というのは、愛は怒ることができず、人に対してイライラしたり激しく非難したりできないはずだからである。主イイススにおける清き良心をもってへりくだっていれば、どのように隣人を愛すべきか分かる。国と光栄は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。
第58訓話 心が慾に傾くのは、それが人の心に役立つと神に判断されて許容されたからである。また、修行の営みについて
人は何かしら罪深いものに躓くことで弱さを知る。慾に悩むことで得られるものが多いから、神にそう造られたのである。復活するまでは慾を超越しないほうが良い、というのが神のご聖断であった。慾に釣られるなり良心の呵責を感じるが、慾に溺れるのは厚顔無恥だ。理性的に神に近づく道は三つある。熱い信仰心か、畏怖心か、主による懲らしめである。そしてこのうちどれか一つでも通らなければ、だれも神の愛には近づけない。
腹を満たせば一気に想念が乱れるのと同じように、しゃべりすぎたり猥談をしたりすれば理性が弱まって悶々となる。生活を心配しているとそわそわし、やがて冷静に物事を考えられなくなってしまう。
修道士は天の営みに献身すると決めた以上、いかなる時にも生活について慮らず、自分自身に沈潜して現世のものを一切思わないようすることが望ましい。というのも、そういった事柄からことごとく解放されてはじめて、昼も夜も気を散らすことなく主の法を学べるからだ。いくら体を酷使して働いたとしても、知性を清めなければ不妊の胎や干からびた乳房のように意味をなさない。なぜなら神の知恵に近づくことができないからだ。ただ体を疲れさせているだけで、慾深い想念を絶やそうとしないので何も収穫できないのである。茨の中に種を蒔いても何も収穫できないのと同じように、怨念や所有欲で自分を卑しめるならば全く成長せず、必死に儆醒して修行したって寝床の上で嘆くことになるだけだ。これについては聖書も次のように証言している。「善行をしていても、戒めを守らずに私(神)のもとで正義と真実を探し、私に近づきたいと願う者は言う。『なぜあなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか』と。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う」(イサイヤ 58 : 2~3)と。これを言い換えれば次のようになるだろう。つまり「お前たちは、悪意を全焼の生贄として偶像に捧げ、邪念を神々としたのだ。しかも生贄のうち最高級のもの、すなわち自由意志を、邪念という神々に捧げたのだ。本来であればその自由意志を、善行や清い良心をとおして私に献げるべきであったのに」と。
良い土地は百倍の実で農夫を喜ばす。同じように霊たましいがいつも明るく神を思って昼夜まどろむことなく儆醒するならば、昼は主から送られてくる雲で陽射しを防ぎ、夜は火の光で照らされるだろう。そして闇に覆われたときでも輝く光を見出すだろう。
月光が雲に遮られるように、神の叡智は膨れた胃袋に追い出される。乾いた薪に火が燃え立つように、満腹の体に慾の炎が燃え上がる。可燃物を足せば火力が強まるように、いろいろな料理を口にすれば体の衝動が強まる。快楽志向の体に神の知恵は宿らないし、体を愛するならば神の恩寵に与ることはない。産婦が陣痛を乗り越えて世に生まれた生命を喜ぶように、人も斎の苦痛を乗り越えてこそ神の奥義を悟る。だが怠けて快楽にふけるならば恥じるべき過去しか残さない。主にしたがう苦行者は、まるで子が父に守られるようにハリストスに体を守られ、口元も守られる。賢く判断しながら積む修行ほど、大事な修行もない。
巡礼者とは、世を超えたことのみ考えるようになった者のことである。泣く者とは、来世の福にかけて死ぬ日まで飢え渇く者のことである。修道士とは、人里離れてひたすら来世の福を祈り求める者のことである。そして泣いて慰められ、心から信じて明るい喜びに溢れる。人を見比べず、だれをも憐れむ者こそ慈悲深い。肉体の交わりを持たなかった者だけが童貞なのではなく、一人でいるときに自分自身を恥じるくらいになってこそ童貞である。貞潔を愛するならば、読書してじっくり祈って妄想を追い払え。それが突き上げてくる本能に争う武器となる。この武器なくして霊たましいを清めることはできない。憐れみ深くありたいと思うのなら、まず何を言われようと気にしないことを学び、要らぬことまで気にしすぎて気が重くならないようにせよ。
というのは、受けた侮辱を水に流そうとして忍耐する者こそ、申し分なく慈悲深いからである。身に覚えのない非難を喜んで耐えるとき、完全に謙遜であることが分かる。もしあなたが真に慈悲深いのであれば、無理やり所有物を奪われたときにも内面で悲しまず、こうむった損失のことを他人に話すな。渋いワインも大量の水で薄めれば飲めるように、心ない人から被った損失も慈悲でもって呑みこんでしまえ。福エリセイが自分を捕らえにきた敵に対して振舞ったように、侮辱してくる相手に恵みを施して慈悲深さを証せよ。というのも福エリセイは、祈って敵の目をくらますことによっていかなる力があるか見せつけたが、パンと水を与えて自由に去らせたことによっていかに慈悲深いか証明したからである(列王記下 6 : 13~23)。
真にへりくだった者は、侮辱されても腹を立てない。侮辱された点について一言も弁明せず、中傷でさえ真実として受けいれ、これは中傷だと人々を説得しようともせずに許しを乞う。というのも実際にそんな身ではないのに、すすんで道楽者と呼ばれるようにした人もいるからだ。また、姦通とはほど遠い人間でありながら、姦通者と呼ばれるのに耐えた人もいる。そういう人は見事なほど清い身でありながら、したことのない罪まで犯したと涙ながらに証言し、やってない背徳行為を赦してほしいと侮辱してくる相手に乞うたのである。さらに、ひそかに飛びぬけた生活規定を遵守しているがゆえに祭り上げられないよう、佯狂者みたいに振舞った人もいる。だが実際には聖神に貫かれて毫も揺れず、静かに完徳の高みにいたため、それがいかに勇敢な生き方であるか聖天使によって宣べ伝えられたのだ。
あなたは自分が謙遜な者だと思うだろうか。しかし、ひたすら自責の念にかられていた人もいるというのに、あなたは他人に責められただけでその苦しみに耐えられず、自分が謙遜な者だと思いこんでいる。本当に自分が謙遜な者であるかどうか知りたければ、次の点で試してみるがよい。他人から侮辱を受けたときに、はたして困惑を覚えないだろうか。
救主は、父のもとには住まいがたくさんあると述べて、かの国に住む者の器の違いを示された。すなわち属神的才能の優劣と種別のことだ。人はそれらをとおして、理解力に見合った永遠の福を楽しむことになる。というのは「たくさんの住まい」と名付けて場所の違いを示されたのではなく、才能の度合いの違いを示されたからである。たとえば日光を取り上げてみよう。その見え方は、人の目の透み具合と視力によって異なる。屋内唯一の光源からうける明るさも、当人のいる場所によって異なる。それと同じように、来世でも義人は分け隔てなく全員同じ国に住むことになるのだが、同じ知の太陽に照らされていても、各人の器に応じて明るさは異なり、あじわう喜びや楽しみも品位によって異なるのである。つまり、同一の空間・場所・王座・異象・像を見ているようでありながらも、それぞれ喜んだり楽しんだりできる度合いは異なるのである。そして、だれ一人として友人の水準がどの程度であるか見ることはできず、自分より高い水準も低い水準も知ることはできない。友人の卓越した恩寵を見て自分の乏しさを感じてしまい、悲しむようなことがないようにするためである。そもそも悲しみも嘆きもないところに、そんな事態が生じるわけがあるまい。そんな地上じみたことが起こるのではなくて、むしろ一人一人が与えられた恩寵に応じて、おのれの水準で内面的に楽しむのである。しかし、だれもが観照している客観的対象そのものは一つであり、存在している場所も一つなのだ。そして次元としては、これら二つ以外に両者の仲立ちとなる次元は存在しない。すなわち高次元(天国)と低次元(地獄)である。ただし天国であろうと地獄であろうと、人が受けることになる報酬は多種多様なのである。
これが公平な話であるのなら(実際に公平な話であろう)、「地獄さえ免れることができれば十分なのです。苦労してまで天国に入る気はありません」という台詞ほど、素っ頓狂な台詞もあるまい。というのも、地獄を免れるということは、すなわち天国に入るということであり、同じく天国に入れないということは、すなわち地獄に入るということだからだ。聖書には、死後に入る国が三つもあるとは書いていない。ではどう教えているのだろうか。まず「人の子は、その光栄をもって(中略)来らんとき、(中略)羊をその右に、山羊をその左に置かん」(マトフェイ 25 : 31, 33)と書いてある。ここで主は、群衆を三通りに呼び分けたわけではない。たった二通りに呼び分け、その一方は右に、もう一方は左に置くと言われたのである。そして、それぞれ異なる住まいに分けて境界線を設け、「これらの者(つまり罪人)は永遠の苦しみにゆき、義人らは永遠の生命にゆかん、(そこでは)日のごとく輝かん」(マトフェイ25 : 46。同 13 : 43)と告げられた。さらに他の箇所では「多くの者東より西より来たりて、(アウラアムらと共に)天国に席坐し、しこうして国の諸子は(あらゆる炎よりも恐ろしい)外の暗闇に追われん、かしこには泣きと歯噛みとあらん」(マトフェイ 8 :11, 12)ともおっしゃった。以上の引用から、天国の対にある状態とは、かの苦しみに満ちた地獄であるという事実が読み取れないだろうか。
思い迷う人々を真実の知へ導くべく、いかに神に愛されて日々摂理に導かれているか教えるのはすばらしいことだ。というのは、ハリストスや使徒がまさにそういう活動をされたわけなのだし、じつに布教とは高尚な活動である。でもそういう活動をしてしょっちゅう人々と交わり、現物を目にするなり良心が弱まると感じ、心がもやもやして良識を失うとしたらどうか。本来ならばまだ知性を守り、感覚を鎮める必要があるというのに、他人を治療しようとして自分自身の健康を損ない、やり遂げたいと思っていたこともできなくなって思いが乱れるとしたらどうか。そのような場合には、堅い食べ物は完徳に至った者しか食べられない、という使徒の比喩を思い出せ(エウレイ 5 : 14 参照)。そして、かの譬え話にあったように主から「医師よ、おのれを癒せ」(ルカ 4 : 23)と言われてしまう前に、もといた場所に戻れ。ひどい状態になるよりは、よほど自分を処断して健康を守り通した方がよい。そして教えを垂れる代わりに善き生き方を見せ、堂々と声を上げる代わりに行動をとおして教えよ。そしてとうとう霊的健康に至ったと確認できたとき、その健康をうまく用いて他人を癒すことだ。というのは、人様よりも治療を必要とする病身であるうちは、言葉で教えるよりも人々から離れて熱心に善行に励むことによって、より多く人々のためになることを成しとげられるからである。やはり「瞽めしいにして、瞽を導かば、二人ながら穴に陥らん」(マトフェイ 15 : 14)なのだ。堅い食べ物は、感覚を思うように操れるようになった健康な者にふさわしい。健康な者であれば、どんな食べ物でも受け入れることができる。つまり感覚からくるどんな想念でも退治でき、完徳を身につけたことによって誰を見ても心に害を感じない。
そういう人が、淫らな記憶で悪魔に心を汚されそうになったときどうなるか。まず見栄を張りたくなるように仕向けられて忍耐力が試されるのだが、問題はこの前触れとしてやってくる想念が慾のようには見えないことだ。心を守ってすぐに下品な思いを受け入れないでいる人は、ふつうそうやって自尊心をくすぐられる。そしてタガが緩むと、見栄を張ろうとする想念と対話するよう悪魔に仕向けられ、その想念と対話し始めるや、何か淫らなことを思い出す対象を見せつけられて心が下品な妄想で汚れてしまう。最初のうち、そんな慾に急襲されたことに戸惑いを覚える。なにせしばらく清らかなことしか考えていなかったのに、一切思い出さなかった対象を思い浮かべてしまうからである。べつに思い浮かべて堕落しなかったとしても、以前の尊厳から落ちただけでも悪魔にとっては十分なのだ。しかるに、はっと我に返り、以後は前触れとしてやってくる見栄っ張りの想念を警戒するようにしていれば、それにつづく淫らな想念も生じようがないので、神の助けを借りてやすやすと慾を克服できるだろう。
慾は真っ向から闘うよりも、徳を思い出すことによって退けた方がよい。なぜなら慾が湧いて闘い始めたときには、心の中に像や肖が思い描かれるからだ。この闘いは抗いようがないくらい強いので、さんざん振り回されて迷いに迷う。ゆえに、もし右に書いたとおり徳を思い出すことによって処理できれば、慾を退治したあと記憶の片隅にも残らない。
人里離れて祈りつづけていれば、希望や畏怖心が強まるだろう。希望と畏怖心があれば、おのずと手仕事したくなるだろう。手仕事に加えて聖書や聖師父を学んでいれば、清さを守れるだろう。聖神を受け入れられるまでは、善い思いを根付かせるために聖なる書物を読むべきだ。そうやって絶えず読書していれば善への希求心が強まり、きわどい罪の方向に逸れないよう霊たましいを守ってもらえるだろう。なぜならまだ聖神の力を身につけていない身の上では、きっぱり迷わずにいることはできないからだ。そもそも迷うがゆえに、救いに役立つ記憶が奪われ、どうでもよいことに知力をすり減らして冷めていってしまうのである。しかし霊力のうごめく心の奥に聖神の力が降ってくれば、聖書に書かれた律法の代わりに聖神の戒めが心に根づき、ひそかにその戒めを聖神から学ぶようになるため、五感でとらえる物質的な教科書を一切必要としなくなる。というのは、心が物質から学んでいるうちは、必ず学んだあとに迷ったり忘れたりしてしまうからである。しかし聖神からじかに教わるようになると、記憶も薄らぐことがない(イオアン一 2 : 27 参照)。
生きていれば善い想念が生じることもあるし、善意を持つこともある。もちろん悪い想念が生じることもあるし、悪意を持つこともある。つまり事の発端となる想念というものは、その善悪を問わず知性の中で生じる動きにして、風のように海面に触れて波を起こさせるものなのだ。いっぽう事がすすんだ段階、すなわち善意や悪意というものは、まさに支柱や土台だといえよう。ゆえに人は善きにつけ悪しきにつけ想念の動きではなく、まさに土台の強さに応じて報いを受けるのである。
霊たましいは、想念がふわふわ動いているせいで穏やかでいることができない。だから、もし心底に根差さない浮いた想念の一つ一つに報いるとなれば、一日に何千回も善に報いたり悪に報いたりしなければならなくなってしまうだろう。
つい最近悔改して慾の罠から逃れたばかりの分際で、祈祷時に地上の物質を飛び越えていこうとする知性は、羽のない雛のようなものだ。飛び越えられないどころか、飛びようがないので地上を這うしかない。いっぽう本を読んで修行し、あのような徳を見習おう、こういう徳は失わないようにしよう、と気をつけていれば、考えが一点に絞られる。そもそもそうする以外には何も知りようがない。ただし、しばらくそうやって妄想や邪念から解放されたとしても、やがて記憶がよみがえって惑わされて心が汚されてしまうだろう。なぜなら、かの穏やかな自由空間を感じたことがないからである。ひとえに長い年月をかけて地上のことを忘れていかないかぎり、かの自由空間まで知性を持っていくことはできない。というのも、まだ身体的な翼(つまり徳)をもって外面的事項をこなしただけで、観照的な徳を見たわけでもそれを感じたわけでもないからである。目に見えない観照的な徳を見るという感覚こそ、知性の翼である。人はその翼で天上のものに近づいて地上から離れるのだ。まだ感覚的なもので主に仕えているうちは、その感覚的なものの像が脳裏に焼き付いてしまうため、聖なる物事も身体的な像を伴って思い描いてしまう。しかし内奥にある何かを感じ出すなり、より深く感じれば感じるほど少しずつ現物の像を乗り越えて観るようになる。
聖書にも「主の目は(謙遜な者)を顧み、その耳はかれらの呼ぶを聴く」(聖詠 33 : 16)と書いてある。まさに謙遜な者が祈るとき、その祈りはじかに神の耳元で囁くようなものである。だから黙修中はへりくだって善いことをして「主よ、わが神よ」と呼べ。そうすれば、文字どおり「神はわが暗闇を照らす」(聖詠 17 : 29)となるだろう。
霊たましいが闇から抜け出られそうになったときには、次のような兆候がある。まさしく昼夜、心が火のように熱く燃えつづけるだろう。ゆえに全世界がゴミか灰のごとく陳腐に見えて、次々と新しい想念に捕らわれるのが心地良くて何も食べる気もしない。ふいに涙が滝のごとく流れ出し、泣こうとしていないのに何をしていても涙が出てきてしまう。書物を読んでいても、祈っていても、考えていても、飲み食いしていても泣けてくるのだ。まさにいかなる行為も涙に貫かれていることに気づくだろう。そしてそういう自分に気づいたとき、安心しても大丈夫だ。なぜなら海を渡り終えたからである。その後も、今まで自分を守ってきたように熱心に修行しつづけて、日に日に恩寵が増し加わるようにせよ。この状態に達していない者は、まだ道中におり、神の山にたどり着いていない。ただし恩寵の涙を得た後で涙が止まり、病気したわけでもないのに熱意が冷めた日には悲しむべきだ。おそらく自負に陥ったか、怠けたか、気を抜いたかして、何か大切なものをぶち壊してしまったのである。とはいえ人間が涙を流すようになった後でどうなるかということについては、他の章、つまり摂理について論じる章にて述べることにしよう。その章では、実際に涙の奥義に与った師父から聴いたことや、聖書に基づいて書くことにする。実践できていない徳について語ることはやめておけ。主の前では、どんな祈祷や犠牲よりも、主のために苦しんだり主のゆえに苦しんだりすることが貴いのだ。そしてどんなかぐわしい芳香よりも、苦労して流した汗の匂いのほうが貴いのだ。
体力を消耗せずに成しとげた徳は、どれも流産に等しいものと思え。義人は涙を神に献じ、儆醒しながらため息をつき、そのため息が犠牲となって神に受けいれられる。そして、思うようにならない身で苦しみながら主に呼びかけ、心痛を伴いながら神へ祈る。すると、その嘆願の声を聞いた天使が助けにきて励まし、希望をもたせて慰めてくれる。なぜなら聖人の受ける苦難や逆境を分かち合ってくれる存在だからである。
人は、善なる修行と謙遜によって地上における神のごとくなり、信仰と喜捨によって清まってゆく。酔いしれたら想念を支配できなくなるように、熱意をもったら傷心を同時に抱くことはできない。というのも、熱意をもった途端、涙を流して嘆けなくなるからである。ワインを飲めば楽しくなるように、熱意をもてば嬉しくなる。ワインは体を温めるが、神の言葉は知性を温める。人は熱意に燃えると、待望する事柄を思いめぐらして昇り、来世にむけて思いを整える。というのは、ワインを飲んだ者が事物を歪めて思い描くのと同じように、かの希望に陶酔して熱くなった者は苦しむことも忘れ、いかなる世俗的なことも目に入らなくなるからだ。そして右のような事柄は、ふつう長いこと浄化の修行を積んで徳の道をある程度進んだ後で与るものだが、素直な心で熱い希望を抱いた場合には、まだ道を歩み始めたばかりでも入魂の信仰によって十分に味わえることもある。なぜなら主はお望みになるままに行なわれるからである。
神を熱く愛するがゆえに素直な気持ちで、値踏みせずに腰の帯を締め、振り向かずに苦難の海へ入ってゆく者は幸いだ。じきに天国の港に着いて救われ、善行に励んだ者たちの住みかに憩い、乗り越えてきた艱難辛苦から一息ついて、まさに待ち望んだとおりになったことに喜びあふれることだろう。希望をもって苦難の道に踏み出してゆく者は、この苦難の道を研究すべく振り向いたり歩みを止めたりはしない。むしろ海を渡り切ってからこれまでの道の険しさを振り返り、歩んでいた当時は気づかなかった渓谷なり絶壁なり激流から救われてきた身を知って神に感謝する。いっぽう頭であれこれ考えて賢者と思われたがる人は、腰が引けてなかなか第一歩を踏み出せず、何かと準備にばかり追われ、こんな損やあんな危険を蒙りやしないかと思いめぐらしているうちに、大抵の場合は自分の家の玄関に毎日座ったまま一歩も動けないでいた自分にやがて気づくことになる。
怠け者は、この道を行けと派遣されても「外には獅子がいる。町に出ればわたしは殺される」(箴言 22 : 13)とか言う。ちょうど、かの偵察者が巨人の民と見比べて「我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない」(民数記 13 : 34)と言ったのとそっくりだ。こういう者たちこそ、人生最期の日にまだ道の途上にいたことが判明するのである。いつも賢くありたいと計算ばかりし、何事においても第一歩だけは決して踏み出さない。しかし無知な者はすんなりと泳ぎ始め、初心を熱く保ったまま泳ぎ続け、はたして体が持つかどうかとか、この苦労が結果として成功するかどうかなど一切心にかけることなく渡り終える。ゆえに、賢明すぎてつまずいたり、妙案の罠に捕らわれたりしないよう気をつけよ。むしろ神に期待を寄せて、血なまぐさい道に入っていく第一歩を潔く踏み出し、一向に神の知恵を持たないつまらない人間になるなかれ。
おっかなびっくりして「風向きを気にすれば種は蒔けない」(コヘレト 11 : 4)。だらけて恥の多い人生を送るよりは、神のために死んだ方がましだ。神に召された事柄に取り掛かろうと思ったときは、まずは現世でもうこれ以上生きられない人のごとく遺言でも残して、ちょうど往生際で死ぬ準備をして生きることを諦めた人のように心構えをせよ。そして本気でそう思い、修行して克己することを決めた身が、もっと生きたいという望みに邪魔されないようにせよ。なぜなら人はもっと生きたいと望むなり、弱気になるからである。というわけで、考えあぐねて信仰を失くすことがないように、知性の中に信仰の居場所を設けよ。そして、まだまだ闘うべき日々と、死後に裁かれて未知の来世が待っていることを忘れずに、油断して気を緩めるなかれ。そもそも現世における千年は、義人の授かる来世の一日にすら及ばない(聖詠 89 : 5 参照)と言った賢者がいるではないか。勇気を出してあらゆる善行を手掛けよ、迷いながら手掛けてはならぬ。苦労を無駄にしたり修行しづらくなったりしないように、神に希望をおいて揺らぐな。むしろ憐み深い主から恩寵を賜ることを心から信じ、われわれが何をしたかではなく、どれだけ熱心に信じていたかによって報われることを忘れるな。というのも、主は「なんじの信ぜしごとくなんじに成るべし」(マトフェイ 8 : 13)と言われたからである。
神にむかう修行は以下のとおりである。朝から晩まで頭を地に叩きつけるようにして伏拝し、これを奉神礼つまり時課経の代わりに行なう者がいる。また、いつも跪拝して祈りつづける者もいれば、奉神礼の代わりに涙をたくさん流して済ます者もいる。また、熟考することで祈祷規程の一部とする者もいれば、興奮を抑えるために奉神礼を挙げられなくなるほど断食する者もいる。また、熱心にたゆまず聖詠を学びつづける者もいれば、読書で時間を過ごして心を潤す者もいる。また、聖書や師父の書の聖なる意味を理解しようと熱中する者もいれば、祈祷文の驚くべき意味に感動して奉神礼を続けられず、思いつめて口をつぐんでしまう者もいる。逆に、これらすべてを味わい尽くした後で、以前の状態に戻って無能となった者もいる。または、ちょっとした何かを味わって鼻にかけ、迷妄に陥った者もいる。あるいは、祈祷規程を守りたくても重病や疲労困憊で守れなかったり、何らかの習慣や願望に負けて守れなかったり、支配欲や見栄や所有欲や収集癖のせいで守れなかったりした者もいる。にもかかわらず、つまずいて転んでも起き上がり、高価な真珠を得られるまで振り返らずに邁進した者もいる。かるがゆえに、いつも喜びながらひたすら神にむかう一歩を踏み出すべきなのだ。そして無欲で心揺らがなければ、神ご自身に助けてられて高みへ導いてもらえるだろう。ゆくゆくは御旨のままに賢明になり、驚きつつ完徳に至ることだろう。光栄と国は神に帰す、今もいつも世々に。アミン。
第59訓話 修道士の生き方、その要略と種類について。徳はいかにして生じ、どんな徳を生むかという点について
修行に打ちこめば、これまでになかった熱い思いが燃え上がってくる。つまり、修行に打ちこむと心眼が澄んで直観するようになり、その霊的直観の深みから、いわゆる観照といわれるものの中から、上述した熱い想念がとめどなく湧いてくるのである。要するに、観照から熱意が生まれるというわけだ。この観照から湧いた熱意によって、涙が滝のごとく流れ出す。最初のうちは少しずつ、すなわち涙がふんだんに流れる日もあれば流れない日もあるという具合だが、この段階をさらに先へ進めば、涙が流れつづけるようになって思い煩うことがなくなる。そこから知性の清さに昇りつめ、その知性の清さで神の奥義を直観するようになる。なぜならば、清さとは闘い終えた平安の奥にあるものだからである。かくなる状態に達した後、預言者イエゼキイリのように啓示や休徴を観るようになる。精神的に神に近づくには、以上のような三段階を通るものである。これらすべての基本こそ、神の前で善をなそうとする意志であり、真の黙修による修行の数々である。すなわち、生活上の務めを断ちきれるだけ断ちきってはじめて可能となる修行の数々を指す。どういう修行形態を指すのかは言わずと知れたことだから、わざわざ説明するまでもなかろう。とはいえ書いておいても無益にはなるまいし、しかも個人的には読者にとって役立つとしか思えないので、ここで書いておくことを怠けるわけにもいくまい。
要するに、飢え、渇き、読書、なるべく覚醒した徹夜祷、日夜何度も行なうべき伏拝などである。最低限の数として一度に三十回伏拝し、尊貴なる十字架に伏拝して祈り終えるがよい。しかし力量によってはもっと多く伏拝する者もいる。冴えた頭で地に首を垂れ、強いることも想いめぐらすこともなく三時間ただ祈りつづけてもよい。そしてこの二つの修行形態を実践すれば、各人の資質に応じてこんなにも豊かに恩寵に与れることを悟るだろう。ほかにも、強いなくとも祈りつづられる方法があるのだが、これについてはあえて説明しないほうが良いと思う。どうも口でも筆でも描写すべきではないと思うのだ。読み手が読んでいる内容を理解できずに無意味な事が書いてあると思われては困るし、逆にもしこれを知っている読者だったとしたら、つい思い上がってこれらの法則を知らない人を見下げたりしないようにするためである。もしそんなことになったら責任を免れないし、逆に読者が内容を理解できなければ笑い種になるだけだからだ。そしてそのような事態を招いたりした日には、使徒が「預言する人」について述べたように、私自身も似たような話をして異国人のごとくなってしまうだろう(コリンフ前 14 :11)。というわけで、本件について会得したいと思う人は、上記の道を歩み、手順に則って心の祈りに励むとよい。そして実際に心の祈りを始めれば、おのずと本件に関する知識を得、そのときすでに教師を必要とするまでもないだろう。というのも「像房に居座れ。そうすれば、それだけで万事を学ぶことができるだろう」と言われているからだ。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第60訓話 世を超えて狭き道を歩む者が、悪魔と闘うときにぶつかる敵の戦法の数々について
大昔からわれわれの敵である悪魔は、この修行に入る者がどう武装しているかを見て、いかようにも身をかわしてきた。修行者の思惑にあわせて戦法を変えてきたのである。修行者が気弱で妄想家であれば、すぐに目をつけて初っ端から強襲し、次々と抗いがたい誘惑を見せつける。すると人はどれだけ悪魔が手練手管に長けているか思い知らされて尻込みし、こんな険しい難路は歩みようがないと思って「道の始めでさえこんなに大変なら、この先もすべて困難をくぐり抜けて終点まで辿りつける者などいようか」と疑い出す。するとその瞬間から、もはや二度と立ち上がることも前進することもできず、この道に対しておぞましいと思うことしかできない。しかも悪魔にこのひどい闘いを少しずつ強められて、逃げ出すしかなくなってしまうのだ。より正確に言えば、神ご自身が悪魔に圧勝するのを許され、そういう輩には何ひとつ助けようとされないのである。なぜなら冷めた猜疑心で主の修行に入ろうとしたからである。というのも、神は「主に課せられた務めをおろそかにする者、流血を避ける者は呪われよ」(イエレミヤ 48 : 10)と告げており、その逆に、主の「救いは彼を畏るる者に近し」(聖詠 84 : 10)と言われているからだ。なにせ、われわれは恐れず諦めず悪魔との闘いに入れと命じられているではないか。主は「せめて敵を退治しようとせよ。そして戦闘に立ち向かい、雄々しく闘うのだ。どの敵の心にも、あなたたちに対する脅威とおののきを起こさせる」(申命記 11 : 25 参照)と言われたからだ。そもそもすすんで神の善のために身体的に死のうとしなければ、期せずして神のために属神的に死ぬことになってしまうだろう。したがって、かくなる運命に置かれた身である以上は、ためらわず神のためにすすんで過ぎ去る苦難を受けいれ、神の光栄に入ろうとすべきだ。というのは、もし主の修行において身体的に死ぬことができれば、主ご自身に冠を被せてもらい、その亡骸は尊貴なる致命者の誉れを賜わるからである。だからこそ、先述したように最初の一歩から優柔不断で死を決意できない怠け者は、その瞬間からどんな闘いにおいても臆病で弱々しいことが敵にばれているのだ。より正確に言えば、そういう連中は追いこまれて降参するのを神に許容されるのである。なぜなら真に神を探したわけではなく、まあやってみたらどうなるのですかねえという見下した態度で神の業を片付けようとしたからである。だからこそ悪魔にすぐに見抜かれ、どういう想念を持っているのか試されて、とにかく自分の体がかわいくて利己的で小心者であることを暴かれてしまったのである。そして、嵐に襲われるようにして追放されてしまうのだ。なにせ聖人ならば帯びているはずの属神的な力が皆無だったからである。というのは、神は人がどれだけ神に向かおうとしているか、どれだけ神のための目的に邁進しようとしているかを見て、その人を助けたり支えたりしながら摂理を現すからである。もし人が熱心に励んでいて神も許容されなければ、悪魔とて人に近づいて誘惑で襲うことはできない。でも人が自惚れて思い上がって卑猥な想いをそのままにしていたり、あるいは疑い深くて二心のままでいたりしたが最後、悪魔は近寄ってきて誘惑に落としてもよかろうと主張する。
悪魔の第一戦法について
悪魔は、初心者・凡人・未経験者に関しては、神に誘惑させてくれと求めやしない。この点、聖人や偉人に対するのと同じである。なぜなら神がお許しにならないことを弁えているからだ(だいたい初心者が悪魔の誘惑に耐えられないことは神が一番ご存じである)。それでも、初心者らが上述した原因の一つでも持ち合わせたが最後、神の摂理の力が遠のいてしまう。これが第一の戦法である。
悪魔の第二戦法について
しかし雄々しい強者がいたとしよう。まさに死も厭わず熱意に燃えさかって修行に向かい、どんな試練や命の危険に出くわそうともビクともせず、地上の生活も身体も試練もことごとく軽視しているのを悪魔が見たとする。そういう時、悪魔はすぐに戦闘を仕掛けようとはしない。多くの場合、そういう者には姿を見せずに身を隠し、一歩譲り、さしずめ相手が熱意にふつふつと燃えている初期段階のうちは対立しようともしなければ戦おうともしない。なぜなら、いかなる戦闘も最初のうちほど激しいことを知っているからだ。それに修行者が熱意に燃えている以上、そういう闘士にはたやすく勝てないことを知っているからだ。もちろん修行者自体を恐れているわけではない。ひとえに修行者を取り巻いている神の力を恐れて控え目になっているのだけだ。ゆえに闘士が燃えているあいだは、指一本触れようともしない。ところが熱意が冷めたが最後、そうはいかない。修行者が思いの内に備えていた武器を捨てるのならば、つまり神のことを忘れたり神の言葉に背いたりするならば、それまで後押ししてもらっていた助力を失うことになる。たとえば当初の思いからやや逸れて怠けているときに、心に甘い誘惑が浮かんで打ち負かされる像を思い描いたり、だらだら妄想して霊的な墓穴を掘りながら自ら熱意を失ったりするのならば、悪魔の目がするどく光る。そもそも悪魔は襲わずにいるとき、好き好んで自制しているわけではないのだ。しょせん修行者のことなんぞ不憫にも思っていなければ恐れてもおらず、屁とも思ってはいない。
というよりも、むしろ人が熱意に燃えて神に向かっていると、目に見えない力に守られているのだと思う。なにせ赤子のような気持ちで修行に出て、迷わずに世を捨てて神を信頼し、いかなる相手と闘っているのか理解していないからだ。ゆえに神の計らいで悪魔の腹黒い手練手管から守られており、悪魔としても、その人を常に警護している守護天使を見て一歩も近づけないだけなのである。というのは、助力を呼びこむ武器、すなわち祈祷・労働・謙虚な思いさえ捨てなければ、守護天使が片時も離れず防壁となって人を守ってくれるからである。
さあ、よく読んで肝に銘じておきなさい。なぜなら快楽や安穏を愛するならば、誘惑に陥るのを神に許容されることがあるからだ。逆に、快楽や安穏に背を向けて自制しつづけていれば神に守られつづけ、敵に襲撃許可が下されることもない。たとい何かを悟るために襲撃許可が下されることがあっても、聖なる力が傍で支えてくれるので悪魔の誘惑も怖くない。なにせ聖なる力を実感しているので、士気が高まってどんな誘惑もあしらえるからである。じつは子供が大人から泳ぎを教わるのと同じように、この神聖な力から直接教わっているからである。沈みそうになった途端に水中から掬い上げてもらえるも、そもそも教師の手の上で泳いでいたからである。それに沈むのが怖いと思った矢先に「大丈夫、この手で支えているから」と励ましてもらえる。また、まるで幼児が母に歩き方を教わるのと同じように、距離を置いてこっちへおいでと招かれる。いざ歩いてもまだ足が弱くて震えたり転んだりしたときには、すぐに駆け寄ってきて抱きしめてもらえる。このように、人は神の恩寵に手とり足とり導いてもらっているのだ。ただし、きっぱり世を捨てて主を追いかけ、清い心で素直に造物主の手に自分を委ねていることが前提である。
ところであなたも神を追いかけているならば、言っておこう。修行中は初心忘るべからず。初めの一歩を踏み出した時の熱意を、まさに初めて出家してハリストスの闘士に加わった時の燃え立つような想いをくりかえし思い出すことだ。思い出して日々勇み立ち、当初心を満たしていた熱意が冷めてしまわないようにせよ。すなわち修行開始時に帯びていた「熱意」という武器を手放さないようにせよ。そして陣営内で絶えず声を上げ、味方側の諸子すなわち元来の思いに向かっては鼓舞激励し、敵側の想念には自分がいかに正気であるか見せよ。というわけで、もし初期段階でいきなり誘惑に遭って面食らっても怯むな。もしかしたら、その体験が後々ためになるのかもしれない。なぜならあなたを救うお方は、そこに何かの有益性を認めないかぎり、わけもなくあなたに接近することを誰にもお許しにならないからである。
かといって、初っ端から手を抜いてはいけない。修行開始と同時に手を抜くようでは、いざ前進したときにぶち当たる苦難、すなわち飢えたり病んだり悪夢に見舞われたりしたときに乗り越えられなくなってしまう。いくら敵も面食らうような強い守護天使を与えられるからといって、その御旨を悪用してはならぬ。むしろつねに神を呼び求め、お恵みに感涙し、自我を打ち砕いて精進しながら守護天使が送られてくるのを待つべきだ。というのも、ひとたび目の前で自分を救い出してくれるお方を見届けたが最後、もはや歯向かってくる敵に負けることはないからである。以上、敵の戦法を二つほど述べてみた。
悪魔の第三戦法、つまり雄々しい強者に対する作戦について
道理で悪魔としても、右の戦法で敵わなかった相手には歯が立たないわけだ。より正確に言えば、その人を助けている守護天使とは闘いようがないわけだ。ハリストスの闘士は守護天使に助けられて敵の力を上回り、天使から戦力も忍耐力も借り受けているため、粗末な物質的身体のくせに肉体なき属神的霊体を打ち負かすからである。ゆえに小賢しい悪魔は、人が神からこういう助力を受けているのを見るなり、つまり何を見せても聞かせても人が感覚にやられず、どんな甘味や快感を与えても想念がひるまないのを見るなり、何とかして此奴に余計な世話を焼いている守護天使を引き離す手段はなかろうかと探し始める。より正確に言うと、守護天使に助けるのをやめさせて人を孤立させるため、思い上がる想念を吹き込むのである。吹き込まれると、人は「いつも頑張っていたから勝ち抜いてこられたのだ」とか「これも努力の賜物」とか「しかし殺人も厭わない敵の姦計から、われながらよく身を守り抜いたものさ」などと思ってしまう。もちろん「たまたま敵に勝てただけかな」と思う時もある。「いや敵が弱かったから勝てただけさ」と思う時もある(これ以外の悪い想念については、思い出すだけでも背筋が凍るため伏せておく)。また、敵はときどき神の啓示に見せかけて人を迷妄の域に落とし入れ、眠っている最中に何かを見せたり、起きている最中に光の天使の姿をまとって現れたりする。とにかく少しでもよいから人に同意させて、そこから徐々に納得させて支配下に置けるようありとあらゆる手段を尽くすのだ。もし人が賢明にして想念をしっかり保っていれば、より正確に言えば、人がどなたに助けられているか忘れずに心眼を天に向け、悪魔の囁きに耳を貸さなければ、敵はさらに違う罠をこしらえるべく頭を捻る。
悪魔の第四戦法、つまり逆恨みの反撃について
かくして、悪魔にはもはや戦法が一つしか残されていないことになる。最後の手段は人間の本性に直結する。本性に直結する部分だからこそ、敵はこれさえ用いればうまく落とせると踏んでいる。いったいどんな策略か。まさに生理的欲求を目がけて襲うのだ。いくら修行者とはいえ、官能を刺激するものを見たりそれが近づいてきたりすれば知性が眩み、闘ってもすんなり負けてしまうことが多い。近づいてきただけでもふらっとするが、実際に目の前にしたらたまらない。なにせ凶悪な悪魔は幾千年もの経験に基づいてこの戦法の効果を知っているのだ。つまり質実剛健な修行者が次々とこの戦法にやられて堕ちたことを体験によって認識し、ずる賢く利用しているのだ。ただ相手が修行者だと黙修しきった生活のゆえに罪に落とすきっかけも機会もなく、実際に罪を犯させるところまで無理強いすることはできないのだが、そんな相手でも知性が夢想しやすくなるように仕向けることはできるし、その夢想において妄想を真実に見せかけることはできる。つまり修行者が思い描いた像を求めたくなるように快感を与え、下品な想念に留まりたくなるように唆し、そうこうしているうちにいずれ承諾させて、想念における罪を犯させて守護天使が離れていくように持っていくのである。なにしろ敵は、人の勝敗がほんの一瞬で決まることを知っている。邪念を起こすなり宝を失い、砦を失い、修行のすべてを失うことを知っている。せめて想念を定位置からずらし、かの高みから地上に落とせるだけでもいい。かつて聖人たちがしばしば女の美を思い描いて堕ちたのと同じように、ほんの一瞬だけでも承諾させることができれば十分なのだ。ゆえに修行者が一里か二里、ないし日中にたどり着く距離まで人里に近づいたりしたのを見たときには、しばしば実際に女と遭うことになるように東奔西走した。でも人里から離れて隠遁した黙修者をこの罠にかけることはできないため、そういう相手には夢想の中で美女を見せ、上品な出で立ちや魅惑的な姿を思い描かせたり、淫らな裸体を想像させたりした。このような敵の罠にかかって、行為として罪に落ちた修行者もいる。また、想念に気を配らなかったために夢想の中で辱められてすっかり絶望し、俗塵の中へ戻って天上の希望を失った修行者もいる。
一方そういう連中よりも強かった修行者たちは、恩寵に照らされて敵と敵が仕掛けた夢想の罠に打ち勝ち、肉体の快感を踏みにじって神の愛に上達していたことを証した。そんな修行者でも敵に夢想の中で金塊や高級品や金銀財宝を見せつけられたり、実際にそれを目にしたりするようなことも多かった。敵としては、あわよくば修行者がそのようなことをいろいろ思い描いているうちに、一人でも正道から逸らすことができ、仕掛けた罠に落とし込めるかもしれないと期待したのである。
しかし主よ、われらの弱さを熟知されているお方よ、どうかわれらをかくなる誘惑に導くなかれ。それは金剛堅固な修行者でさえ、やっとの思いで勝ち抜いたような強い誘惑なのだから。
そもそも悪魔にこういう闘いを仕掛けることが許されているのは、ひとえに聖人が神の愛を立証せんがためなのである。ほんとうにこういうものを何もかも失って、貧しく隠遁しながらも神を愛せるのかどうか、神の愛に留まれるのかどうか、真に神を愛せるのかどうかが試されているのだ。つまり女や財宝に近づいたときに、神への愛ゆえにそれらを無視して踏みにじれるのか、それとも誘惑されるがまま負けてしまうのかが試されているのである。そういう試練を受けながら、神だけでなく悪魔にも知られた人となる。なにせ悪魔は一人でも多く誘惑して人類全員のことを知りたいと思っており、かの義人イオフ(ヨブ)への誘惑を神に許可してもらえたように、できるかぎりたくさん許可してもらいたいと思っているのだ。そして神に少しでも許可されるなり、誘惑しようと堰を切ったように近づいてくるのだが、決してやりたい放題に仕掛けてくるわけではなく、誘惑を受ける相手の力量に応じて仕掛けてくる。相手が真に神を愛する堅実な人の場合には、そのように仕掛けて実力を問うわけだ。はたしてこういう一切合切を無視できるのか、何を目にしても神の愛と比べて無に等しいとみなせるのか、いつもへりくだることができるのか、そして神に光栄を帰して、いかなることも背中を押して勝たせてくれるお方を讃えることができるのか、つまり修行中に自分自身を神の手に委ねて「主よ、力強いお方よ、これは御身による苦行ですから、どうかわたしたちのために戦って勝ち抜いてください」と祈れるのかどうかが試されるのである。こう祈れたとき、坩堝における金のごとく磨き抜かれるのだ。
神を愛するふりをしている者の場合にも、同じような試練を受けて嘘が暴き出される。つまり敵にやられるままに咎を負い、ぼんやりしていたせいか傲慢なせいで神のもとから屑のように堕ちる。なぜなら聖人たちに宿っていた力を受けとることができなかったからである。われわれを助けてくださる御力が負けることはない。というのも、主は全能にしていかなる者よりも強く、修行者と共に闘いに赴く際には、死すべき体にて連戦連勝されるからだ。もし修行者が負けたとしたら、それは神なくして負けたことが火を見るよりも明らかである。つまり理不尽にもすすんで自分を神から切り離したのである。単に勝利に導いてくださる御力を得られなかっただけではない。かつて死闘で発揮してきた自力まで失った気がしたのである。どうして失った気がしたのだろうか。どうも堕落するほうが甘ったるく心地よく思えてしまい、こんなにしんどくては敵に立ち向かったところでとても勝ち抜けまいと思ったからである。かつてあれほど熱心に、同じ闘いを生まれもった意気込みですんなり克服できてきたはずなのに、もはやその決然とした力を自分の霊たましいに見出せなくなったのだ。
いっぽう最初から弱々しい怠け者は、右のような闘いやそれに似た類の闘いに尻込みするだけではない。むしろ木の葉のかすれる音を耳にしただけでも震え上がって怯え、ちょっと事欠いたり病んだり食糧難になったりしただけで負けてしまい、修行を拒んで元の道に戻る。しかるに真に熟練した修行者は、穀物や野菜を満腹するまで口にしないだけでなく、乾燥した草の根を食べて滋養とし、決められた時刻が来るまで何もつまんだりせず、疲れ果てた体でごつごつの地面にそのまま横たわる。体が疲労困憊しているせいで瞼もかろうじて開くかどうかの状態で、たとい食糧不足で霊たましいが体から抜け出そうになっても敵に勝利を譲らず、強い意志を捨てない。なぜならば、ひときわ神を愛する思いから、過ぎゆく人生と地上で得られるいかなる安息よりも克己を好み、徳のために苦労するほうを選ぶからである。そして試練に遭うなりいっそう胸が躍るのも、試練によって磨かれて完全な者となることを知っているからだ。いくらひどい目に遭おうともハリストスの愛に揺らぐことはない。むしろ息を引き取るその瞬間まで、雄々しく困難に耐えることを熱く願ってやまない。なぜなら困難を耐えることによって、完全な者となるからだ。光栄はわれらの神に世々に帰すべし。アミン。
第61訓話 心の中で神に近づいていくにはどうしたらよいか。まさに何を悟った時にひそかに助けられ、謙遜へ導いてもらえるのか
おのが弱さを知った人は幸いである。何事においてもおのが弱さを知ればこそ、しっかりした土台のうえで上達できるからである。自分はなんと弱いのかと気づくなり、その弱さを知らなかった鈍感さにはっとして用心深くなる。とはいえ、多少なりとも誘惑に陥ってうんざりしなければ、おのが弱さを感じとれる人はいない。神の許しによって誘惑に陥ってはじめて、おのが弱さと神の助力を見比べ、いかに神の力に大いに助けられているか悟るからである。また、なすべき手段が尽きた時にも、おのが弱さを悟るだろう。つまりこうすれば大丈夫だろうと思い、きちんと自制して心身を守っているのにおどおどし、何をしていても気が気でないとき、その心の恐れこそ、だれかしら守護者がいてくれないと生きていけないことを明示しているのだ。というのは、人は怖くて悶えているときに、心に何か足りないことを知るからである。しかも、ただ期待感を持ってみたところで一向に安心できない。なぜならよく言われているように、神の助力によってこそ救われるからである。しかるに、やはり神に助けてもらわなきゃ無理だと悟るなり、たくさん祈るようになる。そして祈れば祈るほど、心はへりくだってゆく。なにせ祈り求める身でありながらへりくだらずにいられる人はいないからだ。そのように「痛悔して謙遜なる心」を、神に軽んじられることはない(聖詠 50 : 19)。心は、へりくだらないかぎり否応なくふわふわ浮つくことになる。へりくだってこそ、他念なく集中できるようになるのだ。
へりくだるなり、憐みに包まれるだろう。憐みに包まれた瞬間、神に助けられたことを心で感じとるだろう。なぜなら心に得もいえぬ確信が湧いてくるのを実感するからである。現にこうして神に助けられているではないかと感じた途端、信仰心が溢れてくる。そのとき、次の点を悟るのだ。祈りこそ、心の寄る辺にして救いの泉であり、頼れる宝庫にして荒波を逃れうる港だということを。また、闇中の光にして弱者の支えであり、試練や病気で行き詰まった時に助けてくれる命綱だということを。また、闘士を守る盾にして敵を撃つ矢だということを。より簡潔にいえば、かくなる恩恵がどれもこれも祈りによって入手できることを悟るのだ。そして悟るなり、信じて祈ることが楽しくなる。心は信頼しきって明るくなり、いかに平凡な言葉で唱えていても以前のように訳わからずに祈ることはない。むしろ、すごく大事なことをしているかのように祈るようになり、喜びのあまり祈りのかたちも変わって感謝の賛歌と化す。だからこそ、万物に固有のかたちを与えたお方が「祈りとは、喜んで感謝を献げることだ」とおっしゃったのである。まさに神を見ながら献げる祈りを指して、つまり神から送られてくる祈りを指してそうおっしゃったのである。なぜなら、人はそう祈っているとき、この恩寵を感じる時までに祈っていたように苦労したり疲れたりしながら祈るのではなく、もはや心から喜んで驚嘆しつつ感謝の動きを発しつづけ、数えきれないほど跪いて祈り出すからである。啓けてくる世界と神の恩寵に驚くあまりふいに叫び、ひたすら神を讃えて感謝を献げ、驚嘆のうちに唇を動かすのである。
単にこういう事柄を夢見るだけでなく、実際にこのような状態に達した者ならば、つまり実践者としてこういう特徴の多くを体得し、長いこと自己鍛錬してこういう特長を知り得た者は、ここで私が何を言わんと欲しているのか理解できるだろう。真実に反したことは述べていないからだ。だから今後はもう空しいことを思いめぐらすのを止め、神の助力を失わないように神から一時も離れずに、畏れつつ祈りつづけることだ。
上記の事柄は、どれもこれもおのが弱さを悟ってはじめて生じてくる恵みである。というのは、神の助力を渇望すればこそ、つねに祈りながら神に近づいてゆけるからである。そして神に近づこうとすればするほど神の賜が降ってきて、その大いなる謙遜のゆえに恩寵を失うこともない。なぜならそういう人は、かの裁判官の前にいた寡婦のように、絶えず敵から守ってくれと叫んでいるからである。かるがゆえに、神は懐が大きいにもかかわらず、あえて恩寵の賜を出し惜しみするのである。出し惜しみすることで人が神に近づきたくなり、必要に迫られて神の前に留まりつづけ、そこで学べるようにするためである。ゆえに、神は救いに直結する祈願は即座に聞き入れてくださるのだが、そうでない祈願はすぐには叶えてくださらない。また、敵の力を弱めて救い出してくださることもあれば、あえて誘惑に陥ることを許容される場合もある。それもこれも上述したように、神に近づくきっかけとするためであり、人が誘惑と闘って学んで経験を積むためである。現に聖書にもこう書いてある。「主は多くの民(訳注。ここでは「誘惑」の意)をとどまらせた。彼らを滅ぼすこともしなければナヴィンの子イイススの手に渡すこともされなかった。なぜなら彼らをとおしてイズライリの子を教え、イズライリの子の世代に戦いを学ばせるためであった」(士師記 3 : 1~2 参照)と。なにせいかに義人であろうとも、おのが弱さを知らぬうちは善行を積んだところで刃先のようにもろく、どうしても致命的な獅子に、すなわち傲慢の鬼にやられて堕ちやすいからである。それに、おのが弱さを知らなければへりくだりきれない。へりくだりきれなければ、完全な状態に至らない。完全な状態に至らなければ、いつも危険な状態にある。なぜならその人の造っている町(徳)は、鉄柱と銅門すなわち謙遜に支えられていないからである。つくづく自分は廃物だと思うときにへりくだるが、そうせずに謙遜を得られる人はいない。だからこそ邪道に逸れる病根(傲慢)がないかどうか、よく敵に狙われているわけだ。なにせ謙遜なくして何事も成し遂げたとは言えず、自由の身になったつもりでも聖神のしるしを受けていないからである。より正確に言えば、しょせんまだ奴隷の身分にすぎず、恐れを凌駕していない。なぜならば、だれしも謙遜なくして更生できず、誘惑に陥らずして悟ることはないからである。まだ悟っていないうちは、へりくだりきれない。
かくして主は、聖人が心からへりくだって痛悔して熱心に祈るための原因を残し、神を愛する者が謙遜をとおして神に近づけるようにしているのだ。ゆえに聖人は、本能の慾に襲われたり下品で汚れた思いにやられたりして脅されることも珍しくないし、人々に叱られたり侮れたり殴られたりすることも多々ある。もちろん体の病や疾患で悩まされることもあれば、貧しさや必要な物資に窮して困ることもある。かと思うと、強烈な恐怖に苛まれたり、悪魔がいつもあからさまに脅してくる孤独との闘いに陥ったり、次から次へと身の毛のよだつ事件に遭遇することもある。そしてこれらすべてがへりくだるきっかけとなるために与えられ、その与えられた疾患や来世の恐怖のおかげで修行者が怠けて眠りこけないようにしてくれているのである。したがって誘惑とは、人々に役立つものであって欠かせないものなのだ。さりとて、すすんで下品なことをだらだら思いめぐらせと言っているのではない。もちろん下品なことを思い出して謙遜の動機とし、ぜひ他の誘惑にも陥ってみるべきだとかいう意味で言っているのでもない。そうではなくて、いつも善行を積みながら覚醒して自分の霊たましいを守りつつ、受造物ゆえに変化しやすい身分であることを忘れるなという意味で言っているのだ。というのも、受造物である以上は神のご加護を必要としているからである。そして他者に対して守ってくれと求める者は、そう求めることによっておのずと無力であることを証しているからである。だからこそ、おのが弱さを自覚した以上は、与えてくださるお方から必要なものを受けとれるよう、否応なくへりくだらなければならないのだ。だいたい初っ端からおのが弱さをきちんと自覚していたのであれば、決して怠けなかったはずだ。そして怠けなかったのであれば、眠気に陥らなかったはずであり、あえて敵に侮辱されてから目覚めるという段取りを取る必要もなかったはずなのだ。
というわけで、神の道を歩む者は、この身に起きるすべてを神に感謝しなければならぬ。そしておのが霊たましいを厳しく責めて、こういうことが起きるのを神の摂理に許容されてしまったのは、ひとえにわが怠惰のせいに他ならず、まさに神が知性を目覚めさせようとしてくれたことを肝に銘じておかなければならぬ。あるいは、つい傲慢になってしまったせいであることを弁えておかなければならぬ。そう弁えていれば、戸惑うことなく修行という戦場に踏みとどまれるし、絶えず自分を責めることによって二重の咎を受けずに済むだろう。なぜならば、正義を湧き出だす神に不正はないからだ。そう、神にかぎって不正な裁きをなさるわけがなかろう。光栄は神に世々に帰す。アミン。
第62訓話 痛悔する勇気を与えてくれる聖書の言葉について。しかしそれは人間が弱いからこそ書かれた言葉にして、生ける神から堕ちないようにするために書かれた言葉である。その言葉を、決して罪を犯す根拠としてはならないことについて
たしかに師父たちは「痛悔する勇気を持て」と書物に記したし、使徒や預言者たちもいかに痛悔がすごい力を持っているか聖書に記した。だからといって、罪を犯すようではいけない。主が昔から罪を根絶すべく聖師父を介して力強く定めてきた不可侵の法則を、破るようではいけないのだ。というのも師父たちは、われわれが痛悔という希望を失わないためにそう書いたわけであり、何とかして恐ろしい絶望に陥る前にすばやく痛悔し、まちがえても開き直って平気で罪を犯すような事態を招かないようにするためにそう書いたのである。なにせごらんなさい。神は聖書のどの書においてもあの手この手を尽くして畏怖を持てと言い聞かせ、いかにご自身が罪を忌んでおられるか示してこられたではないか。現になぜノイ(ノア)の時代の人々は洪水にのまれて滅びてしまったのか。だいたい当時はまだ金銭欲も偶像崇拝も妖術も戦争もなかったので、ただ肉慾に狂って美しい娘らを欲したせいではなかったか。現になぜソドムの町は火で焼きつくされたのか。体の欲すまま汚れに任せ、やりたい放題おろかな淫行に次々と体を委ねたからではなかったか。現にたった一人の人間が姦通しただけで、一瞬にして神の長子であるイズライリ民が二万五千人も死に絶えたのではなかったか。現になぜこの巨人サムソンは、すでに母胎内で神に選別され、ザハリヤの子イオアンの時と同じように天使にその誕生まで予言され、大力を帯びて偉大な奇蹟を行なっていたにもかかわらず神に拒まれてしまったのか。淫婦と生活して聖なる体を汚してしまったからではなかったか。汚したせいで神に離れられ、ついに敵の手に落ちたのではなかったか。それに神聖な心を持った男ダヴィドも、その高徳ゆえに子孫から全世界を救うハリストスが生まれるほどの恩恵に与ったにも関わらず、美女を見初めて心を射抜かれてしまい、そのたった一人の女と姦通したせいで罰を受けたのではなかったか。まさに姦通したせいで神の怒りを買って家族内で謀反が起こり、生みの子に追われる身となったのではなかったか。たしかに寝床を潤すほど涙を流して痛悔し、神から預言者の口をとおして「主はなんじの罪を取り除かれた」(サムエル下 12 : 13)と告げられたのではあるが。
ダヴィドよりも以前の人たちを思い出してみよう。現になぜ四十年間も聖職を務めた長老司祭イリヤ(エリ)という義人の家族は、神の怒りを買って死ぬ目に遭ったのか。まさにイリヤの子オフニとフィネエス(ホフニとピネハス)が悪事を働いたせいではなかったか(サムエル上 2 : 12~36)。というのもイリヤ自身が罪を犯したわけでもなく、子に罪を犯すことを許したわけでもなかったのに、ただ主に対して罪を犯したわが子を罰する熱意がなかったというだけで、つまり主の命令よりも自分の子を愛したというだけで神の怒りを買ったのではなかったか。それもこれも、主は一生悪事を働いてきた連中だけを罰するわけではないことを、そういう愚かな罪過だけを罰するわけではないことを人々に分からせようとして、あえてご自分の近親者たちをも、つまり司祭や判官や大公はじめ奇蹟の業を授けるくらい聖別された人々をも罰したのである。そのように罰することで、主の定めた法則を破る者を一人も見逃さないという姿勢を示されたのである。たしかにイエゼキイリの書にも「主は、目に見えない剣でイエルサリムを滅ぼせと命じた相手に向かって『さあ、わが神殿に立っている長老から始めて、老人も若者もことごとく滅ぼし尽くせ』と言われた」(イエゼキイリ 9 : 6 参照)と書いてある。要するに、主の近親者といえる者とはいかなる者であるかというと、つつしみ畏れて主の前を歩んで御旨を行なう者のことであり、そういう者の勇気ある行動や清い良心こそ神を喜ばすものであることを明示されたわけである。人が主の道を侮るならば、主に侮られて顔を背けられて恩寵を取り除かれる。現になぜベルシャツァルはいきなり宣告を受け、人間の手のようなもので脅しを受ける羽目に陥ったのか。不遜にもイエルサリムの神殿から奪ってきた神の聖器物で、妾らと一緒に酒を飲んだからではなかったか(ダニイル 5 章参照)。それと同じように、神に献身した上でまたもや厚かましく世俗的なことに身を用いる者は、目に見えない打撃を受けて滅びるのである。
かくして、いくら聖書が「痛悔すれば大丈夫だ」と励ましてくれているからといって、御言葉や警告を軽んじるのはやめよう。御言葉や警告にそぐわない行動で神を怒らし、ひとたび神に奉仕するために永久に神に献げたはずの身体を汚すようなことはやめよう。というのも、われわれとしてもイリヤやエリセイのように神に献身した身ではなかったか。大奇蹟を行なって神と面と向かって語らった預言者や、それにつづいた聖人や童貞者のごとく成聖されたはずの身ではなかったか。思えば童貞者イオアンや聖ペトルはじめ福音書者や伝道者は、主の口から聴いたり啓示を受けたりして主の奥義を受け、主と人類の架け橋となって神の国を世界中に布教されたのである。そのような業を成しとげた方々と同じように、われわれもこの身を主に献げたはずではなかったか。
第63訓話 修道士の生活をより良く保つことについて。神を讃美することについて
修道士たるもの、だれの目から見ても教訓となるような見た目と行動をしていなければならない。真実の敵でさえ、修道士の光のように輝く徳行の数々を目の当たりにして、たしかにハリスティアニンには救いの希望がありそうだ、と認めざるを得ないくらいでなければならない。まさに人々が四方八方から実際に助かる寄る辺として駆けつけてくるくらいでなければならないのである。そのようになって教会の角つのを敵の目前で高く上げ、修道士と徳を競うように修行して世を捨てる人が増え、修道士の生き方が鑑として仰がれるくらいにならなければならない。なぜなら修道士の生き方こそ、ハリストス教会が誉れとする生き方だからである。
よって修道士は、いかなる点でも優れているべきだ。たとえば、次のような点が挙げられよう。目に見えるものを軽視しているか、厳しく清貧を守っているか、肉体のことを一切考えずに斎に励んでいるか。黙修を貫いているか、感覚を鎮めているか、視線を守っているか。この世に関する言い争いをことごとく断ち切っているか、口数を減らして他人を悪く思う気持ちを隅々まで消し去ったか。冷静に判断しつつも単純な心持ちであるか、明晰な知性で鋭く洞察しつつも悪を思わず素朴な心でいるか、などである。しょせん地上の人生はむなしく慌ただしいだけで、ほどなくして真実の生命に移って属神的に生きることを心得ておかなければならない。世間に知られたり裁かれたりするようではいけない。だれとも一緒にならず、友情で身を縛るな。静謐な場所で暮らし、つねに人々を避け、絶えず我慢して祈祷と読書に明け暮れよ。名誉を好んだり贈り物を喜んだりしてはならぬ。この人生に執着するな。雄々しく試練に耐えよ。世俗的な願望から身を解放し、世俗的なことを探したり思い出したりするな。いつもひたすら真実の国にねらいを定めて思いつづけよ。沈痛な面持ちで、日夜絶えず涙を流すことだ。何にも増して貞潔を守れ。満腹になるような無作法はせず、多かれ少かれ足りなくても気にかけるな。以上を一言でいえば、これぞ、修道士の徳である。まさに現世に対して死んだ修道士が神に近づきつつあることを裏づける徳である。
というわけで、われわれはいかなる時でも右の徳があるかどうか気にかけ、常時身につけているように努めるべきであろう。「とはいえ、なぜ項目ごとに徳を数え上げる必要があるのでしょうか。もっとまとめて簡潔に言えないものでしょうか」という人がいるかもしれない。そういう人にはこう答えよう。「どう生きようか必死に考えている人ならば、これらの徳の一つでもいいから自分の霊たましいに見出そうとしたときに、どうもこの項目はできていないなと思う点が見つかるだろう。そういう点が見つかれば、いかに他の徳があろうともまだまだ全然ダメじゃないかと自覚できるわけだから書き残しておいた方がよい。それにこのように書き残しておけば、ちょっとした覚書にもなるだろう」と。しかし、ここに書いてある項目をすべて身につけた人は、もはや恩恵によってここに書いていない項目まで心得ているに違いない。そしてそのような姿を目にした聖人たちが神を讃栄するだろうし、きっとこの世にいながら息を引き取るまでに、すでに自分の霊たましいに福楽の場所を備えることだろう。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第64訓話 神の定めた黙修の道を歩んでいるときに、浮き沈みしたり紆余曲折したりすることについて
黙修して生きようと決意したならば、自己を抑えて残りの人生を黙修者らしく生きることだ。たとい霊たましいが内なる闇に見舞われることがあっても(これは神の恩寵が定めた黙修の道によくあることだ)、師父の著作を読んで必死に祈って、助けが来るのを待て。ちょうど日光が雲に遮られて見えなくなるように、慾の雲に遮られて属神的慰安や恩寵の光がしばらく見えなくなることもある。そして意気が揚がらず知性がいつにない濃霧に覆われてしまったとしても、霊的に無知な者のように思い乱れたりせずに耐えることだ。気づいた時にはもう助けられていることだろう。というのは、日が差せばそれまで地を覆っていた空中の闇が晴れていくように、祈っていれば霊たましいを覆っていた慾の雲が消されて蹴散らされ、慰めの光が差しこんできて知性を楽しませてくれるからだ。これは通常、祈りながら思いめぐらしているときに差しこんでくる光だが、奮起して聖書を読んでいるときに知性を照らしてくれることが多い。いつも聖師父の著作に没頭していれば、霊たましいが悟りがたい事柄に驚嘆して神聖な楽しみで満たされるだろう。光栄は、われらの神にこそ世々に帰すべし。アミン。
第65訓話 黙修者について。黙修という限界のない海では、いかなる時にどの点までたどり着いたと気づくのか。いかなる時に、ようやく苦労が実りをなしてきたという希望を持てるのか
いまから述べる定理を聞き入れて疑うな。もちろん他の訓話で述べたことも決して軽んじてならない。なぜならどれも謹厳実直な方々から聞いた話ばかりであり、私としてはこの訓話でも従来の訓話と同じように真実を語っているからだ。たとい目の瞼で自分を吊るして涙が出たからといって、それで人生で何か成しとげたなどと思ってはならない。だいたい内面が世に仕えているうちは、つまり世俗的生活を送っているうちは、神に関する事柄も外なる人で行なっているだけであり、内なる人は成長していないのである。なぜなら涙を流してはじめて成長するからだ。涙を流すようになってはじめて、知性が現世という牢獄を脱出したことが分かる。涙を流す領域に至ってはじめて、新しい世紀へ一歩踏みだして今までにない奇蹟的空間の芳香を嗅ぐようになったことが分かる。そのとき涙が溢れ出るのは、ひとえに陣痛とともに属神的嬰児が産まれようとしているからである。なぜならすべてを生みだす母である恩寵が、ひそかに霊たましいに神聖な像を産んで、来世の光(神)に早くも会わせようとしてくれているからだ。そして神聖な像が産まれそうになると、知性は来世にある何かによって発奮する。それは胎児がまだ胎内にいながら空気を汲み取るようなものだ。ゆえに慣れない状況に耐えきれなくて、体が蜜のように甘い涙でいきなり泣き出すのである。こうして内なる嬰児が成長していけばいくほど、涙が止まらなくなる。
ここに記した涙に関する定理は、断っておくが黙修者がたまに流す涙とは別物だ。なぜなら黙修して神と共にいる者ならば、だれもが時々そのような慰めを得られるものだからである。たとえば頭の中で観照中に涙が出てくることもあれば、聖書の言葉に没頭していて涙が頬をつたうこともある。また祈りながら神と対話している時に泣けてくることもあろう。ただ私がここで言おうとした涙の定理はそういう類の涙を指すのではなく、昼も夜も絶えず泣きつづける者の涙について述べているのである。
ただし以上のような事柄は、黙修しなければ実際に正しく見出すことはできない。なにせ目が二年間かそれ以上も源泉のようになって、その後で想念が穏やかになるのだ。想念が本性のあたうかぎり穏やかになったとき、聖パウェルのいう「安息に入る」(エウレイ 4 : 3 参照)。するとその穏やかな安息に基づいて、知性が奥義を観照しはじめる。というのも聖神によって天上のことが啓かれ、知性のうちに神が宿って聖神の賜もよみがえるからである。すると、どことなく朧気ながら手探りするかのように、自分の内で属神的変化が起こったことを感じる。まさに内なる本性をもつ万物が一新する際にこうむるはずの属神的変化が起こったことを実感するのである。
以上は、聖書を読んで悟ったことや謹厳実直な方々から聴いたことを元にして、また少しばかり実体験にも基づいて、自分自身への覚書ならびに本書の読者のために記した。もし本書からためになることを得た場合には、私のことも祈ってくだされば幸いである。というのも、これを書くには少なからず労力を費やしたからである。
最後にもう1点、偽りのない口から学んだことを書き残しておくので聞き入れてほしい。はたして想念が穏やかな領域に入った後にはどうなるのか。それまで大量に流れていた涙が乾き果てて、以降はしかるべき時に適量しか流れない。これこそ、まがいもなく確かな真実である。一言でいえば、どの教会もそのように信じている。
第66訓話 神の僕たる者は、無一文になって神を探しに出た以上、真実を悟れなかったからといって探求をやめてはならず、神の奥義を究めたいという熱意を捨ててはならない。いかに聖なる事柄を差し置いて慾を思うなり心が汚れてしまうかについて
人が上達してゆくときの段階には3つある。初級と中級と、完全な状態である上級だ。初級者は、なるべく善いことを考えようとはしているが、慾に基づいて考えがちである。中級者は、あたかも慾の状態と無慾の状態の中間にいるようなもので、良いことも悪いことも同じくらいの頻度で思い起こしているため、光を放つこともあるが闇を流すこともやめない。ゆえに短期間でも聖書を読む習慣から離れて神聖な事柄を考察しなくなった途端に慾に捕らわれる。そもそも聖書を読んで神聖なことを思っていれば、できるかぎり心身を守って修行して真実の像に近づきたいという熱意が湧くというのに、その熱意の根を断ち切ってしまうことになるからだ。逆に、その生まれ持った熱意を育むのであれば、つまり遠くからでも神聖な事柄を求めて研究し、たとい無慾の状態には至らなくても聖書に導かれて想念を育み、想念が悪い方向へ傾かないように自制するのであれば、悪魔が真実のように見せかけて異物を植えつけてきても受け入れやしないだろう。むしろ愛をもって自分の霊たましいを守り、祈りにくい状態でも辛抱強く神に願い求めるので、神ご自身に願いを叶えてもらい、ご自身の扉を開けてもらえるだろう。とくに謙遜であればこそ、そうしてもらえるのだ。なぜならば、奥義とは謙遜な者に啓示されるものだからである。きっとこのように望むことしかできなかったまま息を引き取ったとしても、つまりかの地を見届けたわけではなかったとしても、古代の義人と同じものを受け継ぐことになると思う。なにせ古代の義人は、使徒が言ったように完全な状態に達したいと望みつつも見届けたわけではなかった(エウレイ 11 : 39 参照)。ひたすら生涯にわたって労苦し、望みを抱いたまま永眠していくしかなかった。ただ、われわれの場合はどう言えるだろうか。はたして完全性の像である約束の地(無慾の状態)まで到達できなかったという理由で、つまり明らかに生まれつき能力不足で真実を悟れなかったという理由で、そのせいで門前払いされ、悪いことばかり目論んでいる連中と同じ底辺に置かれてしまうことなどあるだろうか。真実をくまなく悟れなかったという理由で、真実を知ろうともしない連中と同じ不毛の地に置かれることなどあるだろうか。それとも先ほど述べたように、中級まで昇格させてもらえるのではないだろうか。というのも、鏡で映し出すようにしてしか約束の地を目にしなかったとはいえ、遠くから望みつづけ、そう望みつづけたことで先祖の一員になれたではないか。たしかにこの地上で完全な恩寵(無慾)には与れなかったとはいえ、いつもそれに交わり、それに没頭して一生涯それを渇き求めたので、現に凶悪な想念は断ち切れたではないか。ならば、神のおかげで心がそういう希望で満たされてから、現世を後にすることになるのではなかろうか。
謙遜であれば、よいことばかり身についてゆく。いつも聖書を読んで神の愛を属神的に学んでいれば、霊たましいの中で以前の凶悪な想念を排除できる上、来世を思うことで知性を守ることもできる。まさに知的怠惰によって劣化するのを避け、より優れた事柄を考える代わりに俗っぽいことしか思えなくなるのを防いでくれる。だいたい属神的な学びがなくなると、驚くべき知的な動きがそうやって徐々に弱まって熱意が冷め、愚かな些事ばかり願うようになってしまうのだ。光栄はわれらの神に帰すべし。
第67訓話 神への望みの置き方について。神に望みを置けるのはどういう人か、賢く望みを置く人とそうでない人について
あらゆる望みを神に置くときに「心から信じて神に望みを置く」という方法はすばらしい。そこには思慮と知恵がある。それとはまったく別物で「悪いことをした後で神に望みを置く」という方法があるが、これはどうにも間違っている。たとえば、人が朽ちる諸事を心配することをやめて昼も夜も自分自身を主に託し、世俗のことなど露ほども考えず、徳に熱心なあまり来る日も来る日も神聖なことに費やし、それゆえに衣食住がどんなに貧相になっても気にしなかったとする。こういう人こそ、上手に賢く主に望みを置いていると言えよう。なぜなら必要なことはすべて主に準備してもらえるからである。これぞ正真正銘、真に賢い望みの置き方である。それに、こういう人だからこそ神に望みを置くのも理に適っていよう。なぜなら神の僕として神の業に励み、決して怠けることはないからである。だから当然のこととして格別に神に慮ってもらえるのだ。なぜならば、神が「まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのもの皆なんじらに加わらん」(マトフェイ 6 : 33)とおっしゃった訓戒や、「肉体の慮りを慾に変ずるなかれ」(ロマ 13 : 14)という戒めを守ったからである。というのは、そういう心境で生きていると、この世はあたかも給仕のごとくわれわれにすべてを差し出し、まるで主宰に対するようにしてわれわれにすっかり隷属し、われわれの言葉や意志に逆らわなくなるからである。そういう人は、いつでも絶え間なく神の前にいようとして体に必要なことすら慮らず、ひたすら神を畏れ、多かれ少なかれ気を散らしてまで調達すべき雑用から自由になりきることしか考えていない。にもかかわらず、思い煩ったり苦労したりするまでもなく、必要なものは奇蹟的な方法で手に入ってくるのである。
いっぽう心が地上のことに埋没した人は、いつも蛇と一緒に塵を食らい、神を喜ばせようなど毫も思わず身体的な用事でどっぷり疲れきり、毎日人々と楽しく交流するのに忙しくて徳なんぞ一つも行なわず、しかもそのようにしか生きられないごもっともな理由まで述べていたとする。そういう人は、すでに怠惰と遊び心のゆえに善から堕ちている。そして何かに事欠いたり死に瀕したりして自分が蒔いた結果に見舞われたとき、「そうだ、神様に期待しよう。そうすれば悩みごとも解決して、少しは楽にしてもらえるだろう」と言うかもしれない。愚か者よ、ちょっと待て。いまさっきまで神の「か」の字も眼中になく、ふしだらに生活して神を侮辱し、あなたのせいで神の名が異教徒の前で辱められていたというのに(ロマ 2 : 24)、いまになって「神様に望みを置けば、きっと救い出して手をかけてくださるでしょう」とはよく言えたものだ。神はそういう輩を暴こうとして預言者にこう命じている。「彼らに罪があることを告げよ。そうすれば日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むようになるだろう。神の裁きを捨てない民として、わたしの正しい裁きを尋ねるようになるだろう」(イサイヤ 58 : 1~2 参照)と。この「彼ら」の中に、この愚か者も含まれる。せめて思いだけでも神に近づこうとした試しがないところへ持ってきて、苦難にぶち当たった途端に手を上げて神に望みを置くような真似をしたからだ。そういう人間は、どうにかして分からせるために火中にでも放りこんで何度も何度も焼かなければならないだろう。なぜなら、堂々と神に望みを置けるような善行は何一つした試しがないからである。むしろ義務を怠ってひどい不正を重ねたがゆえに罰せられるに値する。ただ神の忍耐強さゆえに、ひたすら憐れんで耐えてもらってきただけなのだ。したがって、これまでの生き方を棚に上げて「神に望みを置いています」などと自分を欺くな。というのは、信仰の行ないが一つもないので罰せられるはずだからだ。なのに、まるで神の業を地道にやり遂げてきた人と同じような面をして、遊び呆けたまま「必要なものは神様が与えてくださるに違いないと信じています」などと言うな。あるいは、一度も神のことを思ったこともないくせに、井戸に身を投じるような愚かな真似をするな。でないと、どんどん罪に堕ちていきながら「神様にさえ望みを置いていれば救ってもらえるだろう」などと言い出すことになる。愚か者よ、勘違いしてはならない。神に望みを置くためには、あらかじめ神のために苦労を背負い、修行して汗を流さなければならないのだ。神を信じているのであれば、それ自体は良いことだ。しかし、信じているのであれば行動が伴うべきであり、徳のために苦しみを耐えてはじめて神に望みを置けるようになるのである。実際に神が全能者として受造物のことを目にかけてくださっていることを信じるか。もし信じるのであれば、その信仰にふさわしく行動せよ。きっと神に聴き入れてもらえるだろう。素手だけで風を捕えることなどできまい。行ないを伴わなければ、生きた信仰は得られない。
そう、よく野獣とか強盗がどこに隠れているか知らぬまま道を歩くことがある。それでも被害から救われることがあるのは、まさに神の普遍的摂理の働きによるものだ。神の手は、あるいは猛獣が傍を通り抜けるまで旅人の歩調を緩めたりする。または誰かに出会ってその道から逸れるようにしたりする。もしずる賢い蛇が道に隠れていて目に入らなかった場合、人がそのような試練に遭わないようにすべく、蛇が突然シューシューと音を立てて持ち場から出て旅人の前を這うようにし、それを目にした旅人が警戒することで毒蛇から救われたりする。たとい当人のみぞ知る隠れた罪があって救いにそぐわない者だったとしても、神は慈憐によってそのような災難から守ってくださる。あるいは家や壁や石が轟音とともに崩れ落ちてきて、その下に人がいることがある。すると神は人を愛するがゆえに天使にお命じになり、そこに座っている人たちが立ち上がったりその場を離れたりして一人もいなくなるまで、そういう重量物が落ちてこないように押さえさせることがある。そして人が離れたかと思いきや、そのまま落下するに任せるのだ。もし落下するまでに避難するのが間に合わなかったとしても、かすり傷一つしないで済むようにしてくださることもある。なにせそのようにして、ご自分の力が無限大であることを提示されているからである。
こういうことや、これに似たようなすべてのことが、どこにでもある神の普遍的摂理による働きなのである。義人は絶えず神に考えてもらっている。というのも一般人は、自分の頭でしっかり判断して仕事を管理し、神の摂理に基づきながら自分の知恵を利用せよと神に命じられているのに対し、義人は何をするにしても自分の知恵を用いるまでもなく、知恵の代わりに信仰を得ているからである。そしてこの信仰が「およそ神の知識に逆らう高慢たかぶり」(コリンフ後 10 : 5)を引き落とし、右に列挙したような事柄に出遭っても一切恐れなくさせるのである。まさに「義人は獅子のように自信がある」(箴言 28 : 1)と書いてあるとおりだ。義人が何事にも信仰でもって立ち向かう勇気があるのは、決して主を試しているからではない。むしろ、しかと主を見つめることにより、あたかも聖神の力を帯びて武装しているようなものなのだ。しかも、いつも献身的に神のことを慮っているので、神が義人について述べた次の聖句が当てはまってくる。「憂いの時われかれと共にし、かれを助け、かれを栄せん。命の長きをもってかれに飽かしめ、われの救いをかれに顕さん」(聖詠 90 : 15, 16)と。だらしない怠け者は、何をするにしてもそのような望みを持つことはできない。だが万事において神と共にある者は、善行をもって神に近づきながら神の恩寵を心眼で見据えているため、福なるダヴィドが「わが目はわが神を望みて疲れたり」(聖詠 68 : 4)と述べた聖句を、自分の言葉として発することができるであろう。光栄と誉れと伏拝は神に世々に帰す。アミン。
第68訓話 世を拒むことと、気の向くまま人々と交わらないよう自制することについて
世と世の雑事から離れて逃避したいときにはどうすべきか。まさに正しく自分を捉えて心痛をもって泣くこと以上に、世を突き離して慾を撲滅できるものはなく、ついでに属神的なものを呼び起こして生気づけてくれるものもない。なにせ敬虔な信者であるならば、表情まで愛するお方(神)を真似るものだろう。ではその逆に、どうしたときに世の友となり果ててしまうのだろうか。まさに冗談ばかり言ってめいっぱい知力を浪費していれば、いかにも俗人や呑兵衛や好色者らしくなり、叡智の宝庫から遠のいて神の奥義を知ることができなくなる。これぞ、淫らな悪魔がいざなう生き方なのだ。とはいえ、愛する者よ。いままでの経験からあなたがどれだけ知恵を愛しているか知っているので、愛をもってお願いしたい。どうか敵の悪意から自分を守り抜いてほしい。頭が冴えて雄弁だからといってハリストスへの熱愛が興ざめしないよう、あなたのために十字架上で胆汁を口にされた方のことを忘れるなかれ。そして目覚めているときに、かの甘美なる思いで神の前に勇ましくあるべきところを、いろいろな夢想で霊たましいをうずめないようにしてほしい。でないと睡眠中もその夢想の虜となり、愚かな夢が悪臭を放って神の聖天使を寄せ付けなくしてしまうだろう。そうなってしまうと、いずれあなたのせいで他人がつまずき、自分自身も苦しむことになる。だからこそハリストスの謙遜に倣うように努め、ハリストスが投じてくれた火が燃えているようにせよ。この火こそ、現世的な動きをすべて根絶してくれるからである。だいだい現世的な動きのせいで「新しい人」が抹殺され、全能なる神の聖なる屋敷が汚されてしまうのだ。僭越ながら聖パウェルとともに言わせてもらえば、何はともあれ、われわれは「神の殿」(コリンフ前 3 : 16)である。ゆえに神ご自身が清い方であられる以上、この「神の殿」を浄めて神がそこに宿りたくなるようにしようではないか。そして神ご自身が聖なる方である以上、ぜひこの「神の殿」も成聖しておこうではないか。つまり正直に善をなして飾りつけ、御旨の安らかな香りでかぐわしくし、世の波間にいては得られぬ清い心の祈りで美しく仕上げようではないか。そのとき、霊たましいに神の光栄の雲がかかり、心の中で偉大な神の光が輝き出し、それを見た天使らが神のもとで喜び楽しむことになるであろう。逆に、恥知らずで厚かましい悪霊らは、聖神の炎にやられて消え失せるであろう。
兄弟よ。というわけで絶えず自分自身を責めて、こう言うがよい。
「ああ、忌まわしい霊たましいよ。いまにも体から抜け出るべき時が迫っているというのに、なぜ今日中に手放して永久に見られなくなるものを享受して楽しんでいるのだ。これまでの人生を省みて、何をしたか、なぜそうしたか、そしてどういう結果になったかよく考えよ。貴重な日々をだれと共に過ごしたのか、汗水垂らした結果はだれの役に立ったのか、必死に闘ってだれを喜ばせたのか考えよ。現世を離れるときに、その相手が迎えにきてくれることだろう。はたして生涯にわたって楽しませた相手といえば誰になるのか。まさにその相手の住まいで憩うことになるだろう。現にだれのために欠乏に耐えてまで苦労したのか。まさにその相手のところへ喜んで行くことになるだろう。そして来世における友となった相手といえば誰になるのか。きっと息を引き取るときにはその相手の懐に抱きかかえてもらえることだろう。要するに、いかなる領域にて雇われて働いたと言えるのか。夕日の沈みゆく人生最期の日に報酬を受けとるとき、いったい誰の手から受けとることになるのだろうか」と。
霊たましいよ。よく自分自身を問い詰めて、どちらの地へおもむく運命となっているのか確認せよ。苦悶をもたらすような領域では働かず、そういう領域を避けて通ることができただろうか。いまこそ断腸の思いで胸を叩いて呼び叫べ。神はその声を耳にして犠牲や生贄よりも快く受け入れて、胸を撫でおろされることだろう。心の痛みを声にして訴えよ。聖天使がそれを聴いて楽しむことだろう。涙を流して手の平を濡らせ。そうすれば聖神が宿って悪習の汚れを洗い清めてくれるだろう。泣き方を教えてもらうためにマリヤとマルファに呼びかけよ。下記のように、主に叫ぶのだ。
「主イイスス・ハリストス、わが神よ。ラザリの死を悲しんで泣き、同情の涙を流された主よ。いま、このもだえ苦しむ涙を受け入れてください。しのばれた苦痛でもってわが慾を治し、うけられた傷でもってわが疾患を取り除いてください。御尊血でもってこの血を清め、生命をたもう御尊体の香りをこの体につけてください。ごらんのとおり悪鬼に一杯食わされて悶えているのですが、敵があなたの口に入れた胆汁の苦味を思い浮かべて甘受できますように。この知性も悪霊に惑わされて下々まで降ってしまいましたが、十字架上で広げられた御尊体を見てあなたに思いを馳せることができますように。この頭も悪鬼に殴り倒されました。どうか十字架に付けられたあなたの御首みぐしの力で持ち上げてください。至聖なる御口で約束されたように、十字架に釘打たれた至聖なる御手でもって、この滅びの淵に沈んでいるわたしを引き上げてほしいのです。不正でどす黒くなったこの顔を、頬打と唾棄を受けられた御顔でもって照らしてください。あなたはそうやって呪われた連中や不埒者に罵られた末に、十字架上にて御霊みたまを御父にゆだねられたのです。その御霊に呼ばれて、わたしも恩寵の力であなたのもとへ行くことができますように。実際、あなたを探求したいという切実な思いもなければ、天の住まいを用意する痛悔も嘆息もありません。主宰よ、慰めをもたらすはずの涙も涸れ果てているのです。もはや知性は生活の雑用にかまけて眠りこけ、胸を痛めてあなたを見つめる力も失せました。心も次々と誘惑に遭って冷えきり、あなたを愛する熱涙で温もることもできません。けれども、主イイスス・ハリストスわが神よ、万福の宝蔵なる者よ、どうかとことん痛悔して根強い心を与えて、あなたを求める道に全霊で向かわせてください。というのも、あなた無しではどんな福楽にも与れなくなってしまいます。ですから慈憐なる神よ、あなたの恩寵をお与えください。どうかご自分の懐から永遠に独り子を生む御父が、わたしのうちに御子の像の特長を再現してくださいますように。あなたを置き去りにしてしまった身ではありますが、どうかわたしを置き去りにしないでください。御許から離れてしまった身ではありますが、どうかわたしを探し出してあなたの草場へ導いてください。そして選ばれた羊の群れの一員に加えて、あなたの神聖なる機密の牧草で養ってください。義人たちは清い心にあなたを宿らせ、そこで主の啓示の輝きを目にしました。あなたのために苦難や拷問にも耐えて苦労しつつも、主の啓示の輝きに慰められて喜んだのです。もし許されることであれば、ぜひそういう人たちと同じように養っていただければと思うのです」と。
わが救主イイスス・ハリストスよ、われわれも主の恩寵と人類愛によって、主の啓示の輝きに世々に与ることができますように。アミン。
第69訓話 黙修者は慮りを持たない方がよく、あらゆる出入りが害を及ぼすことについて
あれこれ忙しくしていれば、しずかに黙修することなどできない。なぜなら背負った課題を処理すべく、否応なく業務にあたって仕事を片付けているうちに、静けさや黙修を追い払ってしまうからである。ゆえに修道士たるもの、いつも神の前に立って神にまっすぐ目を向けているべきだ。本当に知性を清く守りたければ、忍びこんでくるふとした動きも遮断して思考を穏やかにし、出没する想念を一つ一つ見分けられるようにならなければならない。したがって修道士が忙殺されているということは、つまりハリストスの戒めを守ろうとする覚悟が弱まっている証拠であり、神聖な事柄において乏しくなっていることを示しているのである。
心配事から自由になってもいないのに、霊たましいに光を探そうとするな。感覚に引きずられているうちは、静寂も黙修もあったものではない。業務があるときに、それ以上に仕事を増やそうとするな。そうすれば思い乱れることもなく、祈りが散漫することもない。絶え間なく祈るようでなければ、神に近づくことはできない。どんなに一所懸命に祈っても、祈り終えたあとに新たな用事で頭を悩ますのなら、せっかく浮かんだよい考えもかき消されてしまうだろう。
祈祷時には、地に頭を打ちつけて熱心に涙を流して伏拝せよ。そうすれば、心に甘美なる熱意が湧く。すると心は感動して神のもとへ飛んでいって「わが霊たましいは勇毅ゆうき生活の神に渇く、われいずれの時にか至りて神の顔かんばせの前に出でん」(聖詠 41 : 3)と訴えることだろう。一度この酒を飲んだ後にまたもや飲めなくなった者だけが、自分がいかなる惨状に陥ってしまったか知っている。それもこれも、ひとえに気を緩めたことが原因なのである。
おお、人と会ったり話したりすることは、黙修者に何という甚大な害を及ぼすことか。兄弟よ、それは概して黙修しない者が受ける被害よりもはるかに致命的なものだ。ためしに木の芽を見てみたまえ。芽吹いた矢先に寒波がきて雨氷が付着すれば、その芽は水分を取られてダメになってしまう。これと同じことが、霊たましいの木に咲く徳の花にも起こる。いかに「水辺に植えたる木」(聖詠 1 : 3)に咲く花として、つまり痛悔の涙で長らく大事に育んできたとしても、黙修をやめて人々と会った瞬間に枯れてしまうのだ。それもほんの数分会っただけで、しかも一見善いと思える目的のために会っただけでも枯れてしまう。木の芽につづいて緑草も見てみたまえ。地表から出てきた矢先に肌寒くなって厳霜がおりれば、根までやられてしまうではないか。これと同じことが、徳の牧草にも起こる。せっかく知性の中で徳の牧草が生えてきても、人々と会話するなり根までやられてしまうのだ。しかも自制力のある人と話したり、わずかな欠点をもった人と話すだけでも霊的被害を受けるのがふつうだとしたら、無知な鈍物と向かい合って話したりしたらどれほど害が大きいことか。ましてや世俗人と話したらどうなるかなど言うまでもない。現に人々の敬意を受けるような高貴な人であっても、飲みすぎれば品位を忘れてその職種の恥さらしとなり、酔った勢いで思ってもいないことを口走ったせいで過去の功績まで一笑に付されてしまうではないか。修道士も同じだ。いかに心を貞潔に守ってきたとしても、人と会って話すなり修道士らしさを忘れ、こうしようと思っていた意志の力も失い、立派な心構えが土台もろとも木っ端みじんに破壊されてしまうのである。
かくして、黙修中に集中が切れると人と話したくなるとはいえ、人と話して気を緩めただけで熱意は冷めてしまうものなのだ。あるいはちょっと他人の歓談を見聞きしただけで、神聖なことは捉えられなくなるものなのだ。自制力ある修道士がものの数分でそれほどの害を受けるとしたら、しょっちゅう人々とだらだらおしゃべりしている連中については何を言えよう。知性というのは胃袋からガスが上ってくると、ちょうど湿った土から濃霧が立ちのぼってきて空気を曇らすように、神聖な事柄を認識できなくなる。高慢な人は、そういう状態にある。自分が闇の中を歩いていることを理解できず、自分が叡智に無縁であることも理解できない。だいたい頭がぼんやりしていて何を理解できようか。だから虫けらのように弱くて主の道を認識できないだけなのに、蒙昧な想念でだれよりも偉いと思いこんでいるのだ。なにせ謙遜の道を歩みたいとも思わなかったため、主から御旨を隠されてしまったのである。願わくは、光栄はわれらの神に世々に帰さんことを。アミン。
第70訓話 神に近づく道や、心地良く儆醒すると見えてくる道について。儆醒する者は一生のあいだ蜜で養われることについて
修道士たるもの、夜の儆醒以上に大事な修行はないと思え。兄弟よ、儆醒というのは本当に大切な営みで、自制している者にとっては欠かせないものなのだ。修行者は、身体的仕事や過ぎゆく心配事で気を遣ったり憤慨したりしていなければ、そして世間から身を守って警戒しつづけていれば、知性がまるで羽が生えたように速やかに飛び上がり、神を楽しむ水準まで昇りつめて神の栄光にたどり着く。そして冴えた頭で軽やかに人知を超えた智恵の中を泳ぐだろう。どこかで修道士が賢慮をもって儆醒しているのを目にしたら、人体を帯びていない者だとみなしてよい。というのも、まさしく天使階級ならではの業だからである。生涯にわたって儆醒している者が、神から大いなる賜を受けないということはない。なにせ心を奮い立たせて覚醒し、いつもひたすら神を求めて思いめぐらしているからである。そのように努めて儆醒して美しく生きていれば、心眼はヘルヴィムの目を持つようになり、いつも目を上げて天の光景を観照するようになるだろう。
儆醒とは、光栄にして選び抜かれた修行である。だからよく考えてこの神聖な苦行を選び、この重荷を担おうと決意した以上、日中にも人だかりや雑用を避けずにはいられないはずだ。さもないと儆醒して得ようとした成果も得られず、大いなる楽しみも得られなくなってしまうからである。この日中の警戒という点をしっかり押さえていない者は、はっきりいって何のために眠気と闘って苦労しているのか分かっていない。何のために疲れるまで長々と祈祷を唱え、喉をからして夜中立ち通しているのか分かっていない。そんなことをしても知性が聖詠や祈りに参加しておらず、ただ習慣的に行なっているだけで、見境もなく苦労しているだけだからだ。もしこの見立てが間違っているとしたら、ではなぜいつも汗を流して種を蒔いているというのに、大いなる福楽や成果を得られないままなのだろうか。というのも、もし昼間にあくせくする代わりに聖書を読んで知力を高め、聖書の言葉で祈りを潤わせて儆醒しやすくしていたのであれば、明らかに理解力を得て正道へ導かれていたはずだからである。つまり聖書という、祈りの観照を育む物質を蒔いてくれる媒体を得たことにより、思いを集中する抑制力を得ていたはずである。それによって、むなしく思いめぐらしたりせず、つねに霊的に神を思い起こし、いかに聖人たちが神を喜ばせて生きたか思い出しながら、知的に冴えて賢くなっていたであろう。一言でいえば、そういった修行による円熟した成果を得られていたはずなのだ。
人間よ。どうしてそう見境なく日々を過ごそうとするのだ。だいたい日が暮れれば夜を徹して立ち通し、骨を折って聖詠を歌ったり祈りを献げたりしているというのに、よりによって日中に少しだけ自分を強いれば神の恩寵に与れる事柄に力を尽くすのがそれほど難しいことだろうか。もし夜に蒔いたものの成果を日中に踏みにじるのなら、つまり儆醒して得た活力や覚醒や熱意を浪費してしまうのなら、要するに必要もないのに不安を煽るおしゃべりをして自分の苦労を水の泡にするのなら、いったい何のために苦労しているのか。というのは、夜中の鍛錬にふさわしく昼も修行して、心で熱く会話して昼夜を違えず暮らしていれば、ほどなくイイススの懐に飛び込むことができたはずだからだ。にもかかわらず、儆醒とは儆醒から生じる何かのためにする修行ではなく、ただ儆醒するために定められた修行であると考えているのなら思い違いも甚だしい。それは何のために修道士が覚醒すべきか知らないからそう考えてしまうのだ。しかしその目的を恩寵によって理解した者であれば、修行者が何を求めて眠りに逆らっているのか、自然に抗って心身を覚醒させて毎晩祈っているのか弁えているので、日中の自己防衛がいかなる益をもたらすのかも知っている。日中に自己防衛していれば、夜の黙修時に知性が支えられて想念を支配でき、努力したり闘ったりしなくても清さと賢慮を授かり、思うままに聖句の気高さを認識できるようになるからである。さらに言うならば、たとい体の病で弱って斎ができなくても、ただ知性が儆醒しているというだけで、霊的状態を整えることもできるし、心で悟って属神的な力を認識することもできると私は思っている(もちろん日中に気を抜いてすべて浪費しなければの話ではあるが)。
というわけで、諸君が神の前で知性を冴えさせて新生命を認識したいと思っているならば、一生のあいだ怠らずに儆醒しつづけてほしい。というのも儆醒すればこそ目が啓け、しっかり修道生活の光栄を見ることができ、いかに義の道が強いか知ることができるからだ。でももし(どうかそうなりませんように)またもや弱々しい想念が現れて、しかも場合によってはその想念が巣食ってしまったときにはどうすべきか。そもそも守護天使が人を試練にかけようと思ったからそのような目に遭うのであるが、守護天使はふつうこういうことにおいて、つまり人が熱を上げていようと倦厭していようと、何らかの理由でその状態から変わることを許すからである。その理由は、ひとつには体の病かもしれないし、あるいは日ごろ長時間でも聖詠を朗誦したり勤勉に祈ったり何度も跪拝してきたはずなのに、そういう習慣が耐えがたく感じたからかもしれない。そんなときには、愛をもってお願いしたい。もしもそういう習慣が途絶えて実行しがたいと思ったときには、せめて座りながらもいいから目を覚まして心で祈れ。ただし、うとうとせず覚醒できる手段を駆使してその夜を過ごし、座ったまま善いことを思いめぐらすのだ。眠りこけて心を頑なにしたり暗くしたりするな。そうすれば、ほどなく恩寵によって以前の熱心さがよみがえってきて、軽くなって力が湧くことだろう。そして奮起して神に感謝しつつ奉仕できることだろう。なぜなら人は誘われて試練を受けるためにこそ、神に許容されてそのような重々しい倦厭に襲われるからである。それでも自分自身を叩き起こして熱心に、少しでも努力してそういう重々しい倦厭をかなぐり捨てれば、以前のように恩寵が近づいてきて、あらゆる善を秘めた助力が天から降ってくる。すると人はそれまでの重々しさを思い起こし、現在の軽快な力と見比べて目をみはる。その違いとその変わりやすさを見抜き、素早くその変化を受け入れてしまった自分自身を見る。そしてその瞬間から賢くなってゆき、以降、似たような重々しさにぶち当たったときには、積み重ねた経験に基づいて現状を捉えることができるのだ。でも最初の段階で修行しようとしなければ、このような経験を得ることはできない。というわけで、いったい人が闘いの時に奮起していくらか忍耐すれば、どれほど賢くなれるか分かっただろうか。ただし、身体的本性にとって限界が来たときには話は別だ。そのような場合にはもはや闘っている場合ではなく、むしろ弱い体のために休眠するしかあるまい。というのも、そんなときまで無暗に本性と闘っても意味がないからである。しかしそれ以外の場合には、およそ自分にとって役立つことにむけて自分を強いるのは良いことである。
かくして、つねに黙修しながら読書し、食事もほどほどに抑えて儆醒していれば、(もちろん黙修を妨げる事態さえ生じなければの話だが)またたく間に驚嘆すべき事柄を考えるようになるだろう。あえて強いずともおのずと湧いてくるこの思考によって、黙修者は涙を流して両手を浄め、両目はまるで洗礼盤のごとくなるに違いない。
いっぽう斎もして儆醒もして注意深く黙修して体を鎮めたというのに、しかも自然反応というわけでもないのに、淫慾の刃の上に立たされている感じがすることがある。まさに傲慢の想念に誘惑されているのだ。そんなときには食べ物に灰を混ぜ、腹を地にくっつけて自分が何を思いめぐらしていたか探求せよ。そして自分の変わりやすい本性と、本性に反した行動を見抜け。そうすれば神が憐れんで光を与え、謙遜を学ばせて心に傲慢の悪がのさばらないようにしてくださるかもしれない。ゆえに、修行して努力を積み重ねようではないか。われわれの心が痛悔を見出して謙遜になり、神の内に安らぐことができる日まで――。光栄と国は神に世々に帰す。アミン。
第71訓話 罪深い悪はどう生じてどう途絶えるのか。その威力と影響力について
心底から本気になって罪の原因を憎まないかぎり、罪の作用による快感から自由になることはできない。これぞ峻厳な闘いの極みにして、人が血を流すまで闘わなければならないほどの激闘である。この激闘において、いかに徳を愛しているか、その自由意志が試されるのだ。そう、これは刺激とか衝動とか呼ばれている力のことだ。忌まわしい霊たましいが避けがたい衝動により、ふと嗅いだだけで弱まってしまう力のことだ。これぞ罪の大いなる力にして、敵はふつうこの力を用いて貞潔な者の霊たましいをかき乱す。するとこれまで清く動いていたのに、まったく経験したことのない動きを否応なく味わわされるのだ。愛する兄弟よ。ここで、われわれの我慢を、苦行を、勤勉さを見せなければならない。というのも、これぞ目に見えない苦行の時だからだ。修道士階級はいつもこの苦行に勝つと言われている。いかに知性が敬虔であろうとも、この闘いに見舞われるなり、すっかりやられないにしても即座に当惑するものである。
主よ、このとき、つまり致命のとき、あなたこそあらゆる助力の泉として修道士の霊たましいを力強く支えてくださる方です。修道士らは喜んで天の花婿の嫁となり、計算高い動機ではなく真心からあなたと聖なる約束を交わしました。ゆえにかれらに、真実に逆らってそびえる堅固な高壁を大胆にぶち壊す力を与えてください。いざ、血のにじむほどの闘いに見舞われているこの時こそ、御手を差し伸べて、われわれが耐えがたい重圧に負けて目標を諦めることのないようにしてください。
そもそもこの峻厳な闘いにおいては、いつも貞潔が勝つとは限らない。まさに誘惑を味わうためにこそ助力が来ないこともあるからだ。しかしこの選り分ける闘いにおいて弱々しく誘われてしまう者は不幸だ。なぜならこの闘いを仕掛けてくる敵は、想念においてすすんで負けてしまう人々のせいで勝ち慣れて、ものすごい力を帯びてしまったからである。
愛する兄弟よ。遊惰を警戒せよ。なぜなら遊惰のうちに、分かりきった死が隠されているからだ。つまり遊惰に陥らなければ、修道士を虜にしようとしている連中の手にかかることはない。最後の審判を迎えるその日、神はわれわれを聖詠のゆえに裁くわけでも、祈らなかったことで裁くわけでもない。むしろ遊惰を見逃して悪鬼に入られた点を裁いてくるのだ。悪鬼は自分の場所を見つけると、入ってきてわれわれの目の扉を閉じ、威圧的に神の裁きや厳罰に遭うような汚れたことを繰り広げる。そのとき、われわれは大して重要と思えない祈祷規定を疎かにするものだから悪鬼の手下となってしまう。しかし賢人が書いたように、祈祷規定を守っていればハリストスゆえに慮ってもらえる。要するに、われわれの意志というのは神ご自身に従っていないと、神の敵に従ってしまうものなのだ。だから、この重要とは思えない祈祷規定こそ、われわれを虜にする連中から守ってくれる防壁なのである。聖人たちは教会の神品として「僧房内で祈祷規定を守れ」と定めたが、それは聖神の啓示に基づいて定めたことである。まさに啓示を与えてくれる聖神の力で、修道生活を守るためである。ところが愚か者は、こんな小さな祈祷規定を破ってもたいしたことはないと思ってしまう。なぜなら規定を破ったときに招く事態を検証しようとしないからである。ゆえに愚か者の歩む道は、その始点も中間点も歯止めのきかない自由でしかなく、そういう自由はあらゆる慾を生みだす母となる。望まぬ罪を犯して肩身の狭い思いをするよりは、この重要に思えない祈祷規定を破らぬよう努めたほうがよい。というのも、このよからぬ自由の終点とは、まさに有無も言わせぬ隷属だからだ。
まだ感覚が生きているうちは、何に遭遇しても死者であると思え。なぜなら罪の炎が肢体のすみずみまで弱まっておらず、救いを得ようがないからだ。もし心の中で「きちんと警戒しています」などとのたまう修道士がいたとしたら、要するに殴られても殴られたことを認めたくない者だ。友人に嘘をつけば合法的に呪われるに値する。でも自分自身に嘘をつくならば、いったいどれほどの罰を蒙ることになろうか。なにせ鬼畜行為は悪いと知りながら知らないふりをしたのである。本当は悪いと知っているのだということは、良心が呵責を覚えることで示している。知っているという事実それ自体が、その事実を知らないふりをする当人を苦しめるのである。
おお、慾の要因はなんと甘たるいことか。人はときどき慾を断ち切ることができる。慾から遠く離れていれば静けさを満喫でき、慾が止んでいるときには楽しい。にもかかわらず慾の要因を断ち切ることができない。ゆえに、われわれはいやでも誘惑に遭い、慾の状態に陥って悲しむのだ。そのくせ慾の要因を好んで、そのままに残そうとする。罪を犯したくないと思っているくせに、罪へ導く要因を嬉々として受け入れているのである。よって罪を犯してしまう原因とは、そもそも罪の要因を好んでしまう点にあるのだ。慾の要因を好むならば、否が応でも慾の手下になって隷属することになる。だが自分の罪を憎めば、罪を犯さなくなる。それに罪を痛悔して告げれば、罪の赦しを得る。まずは罪に対する敵意を持たないかぎり、罪の習慣を断つことはできない。まずは罪過を告げないかぎり、罪の赦しを受けることはできない。というのも犯した罪を痛悔すると、真の謙遜が生じることが往々にしてあるからだ。そうやって謙遜から嘆きが生じるわけだが、この嘆きは心から恥じたときに生じてくる。
もし非難すべき物事を憎まないのであれば、それを心に秘めているうちは、いかに実際それがひどい悪臭を放つものであるか感じようがない。良からぬものを身から断ち切らないかぎり、どれほど腐った臭いがしているか捉えられず、どれほど恥ずかしいことであるかも見抜けない。ところがこの腐臭の重荷を他人の中に見出すなり、いかに自分が恥ずかしいことをしていたのか悟るのである。世間から離れよ。そうすれば世の悪臭を知るだろう。離れずにいては、どれほど臭いか捉えられない。むしろ香水をかけるように悪臭を自分に振りまき、わが身が恥ずべき裸のままであっても光栄の幕でも纏っているかのように思うことだろう。
世間とその闇から離れて、ただ自分自身にのみ注意する者は幸いである。というのは、過ぎ去る事柄に追われて生きている者は、洞察力も判断力も得られないからである。そもそも理性が波立っているような状態で、いかにして何をなすべきか見抜けようか。かつて陶酔していた闇から抜け出して、その陶酔状態の浅ましさを他人のうちに見出した者は幸いである。そのとき、わが身の恥も知る。でも罪を犯して陶酔しつづけているうちは、やることなすこと優れているようにしか思えない。というのも本性の元々の状態から抜け出てしまった以上、酒で酔おうが肉慾で酔おうが陶酔していることには変わりないからである。なぜなら酒であれ肉慾であれ、それを堪能するなり元来あるべき状態から抜け出てしまい、いずれも体に同じような炎をもたらすからである。両者の作用の仕方は異なるとはいえ、持っている影響力は変わりない。それに、しらふ状態から陶酔状態に移行させるという点でも共通しているが、その移行させる要因は人により異なっていて共通しないこともある。その要因を受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいるからである。
およそ歓喜のあとには困苦がくるが、神のために苦しんだあとにはいつも喜びがくる。この世の万物は、状態が変わるようにできている。つまり現世か、現世を去る時か、あるいは来世にて状態が変わるようにできている。それも逆方向に変質するようにできているため、とくに快楽に溺れて過ごしたのならば、その快楽が苦役へ変わるし、その反対にハリストスのために苦しんで生きたのならば、その苦しみが休息へ変わるようにできている。しかも神の限りない人類愛ゆえに、われわれは人生途上ないし死ぬ前に、おのが身に起こる変化を予感する。肉慾に生きた者は苦役が始まっていくのを味わい、ハリストスのために苦しんだ者は休息が始まっていくのを味わう。まさに神の大いなる憐みにより、前者は肉慾に対する報いとして苦しみ、後者は永遠に安息できる保証として属神的に喜ぶのである。というのは、神は最期の最期まで人が善いものを得ることを禁じないからだ。しかし悪いものを得ることはたしかに禁じている。なぜなら聖書にも書いてあるように、災禍を受けるにふさわしくなった者は罰せられるからである。その罪過ゆえに現世でも罰を受け、おのが招いた地獄を味わうだろう。
自分自身の自由を戒めよ。ふしだらな奴隷状態に陥らないようにするためだ。闘いを呼ぶような慰みには注意し、誘惑を呼びよせる知恵には手を出すな。よくあることだが悔い改めてもいないのに「誘惑に遭いたい」などと思ってはならない。というのも、われわれはみな罪人にして誘惑よりも強い力を持った人は一人もいない以上、いかなる徳をなすことよりも悔い改めを重んじるべきなのだ。なぜなら悔い改めという業を成しとげることはできないからである。罪人であろうが義人であろうが、救われたければいつでも悔い改めていることだ。そもそも悔い改めきることなどできない。なぜなら最も完璧な人が帯びている完全性でさえ、まことに不完全なものだからである。ゆえに、いつどのように悔い改めていようとも、息を引き取る瞬間まで悔い改めきれることはない。およそ快感なるものを受け入れれば、あとあと必ず嫌気が差したり悲しくなったりすることを忘れるな。
いかに喜ばしいことが起ころうとも、このままでいたいと思うような喜びには、つまり変わろうという気が起こらない喜びには気をつけよ。というのは、われわれは神の奥深い摂理を隅々まで悟ることはできないし、どこまで摂理が及ぶのかも、なぜ摂理が変わることがあるのかも把握できないからだ。まっすぐ歩んでいるように見える人々を恐れよ。なぜならよく言われているように、そういう人々は道から外れて歩いているからだ。非常に賢く世界という船を操縦できるお方は、この世の万物に「変わる力」を埋めこまれた。ゆえに、変わる力を持たないものは、影のように儚い。
肢体を甘やかしていれば、のぼせ上がって想念が乱れる。逆に修行しすぎたとしても、やはり倦怠に見舞われ、倦んだ挙句にのぼせ上がる。しかし同じ「のぼせる」とは言っても、その行き先は違う。肢体を甘やかしてのぼせ上がれば、淫慾と闘うことになる。いっぽう倦んだ末にのぼせ上がれば、僧房で黙修することを放棄して、方々をほっつき歩くことになる。要するに、少しずつ努力を積み重ねてゆく修行ほど尊い修行はないということだ。この修行の王道を左に逸れれば(緩めれば)楽しいことが増し、右に逸れれば(厳格化すれば)のぼせやすくなる。兄弟よ、愚かな本能に負けることがあっても耐えよ。なぜなら、かの叡智の神から永遠の冠を受けて長官となるよう召されているからだ。アダムの体が乱れてきても怖がるな。この体は、来るべき日に天の原像である世界の王(神)が訪れるや、この世の知性では理解しがたい永遠の福楽に与るからだ。生まれ持った性質が変わったり乱れたりすることがあっても戸惑うな。なぜならそういう変化を喜んで受け入れる者にとっては、そういう悩みは一時的なものに過ぎないからだ。慾というのは、肉屋で餌をもらい慣れた犬のようなものだ。ひとこと咎められれば逃げ出すが、無視されると獰猛な獅子のごとく食らいついてくる。取るに足らない肉慾を踏みつぶせ。そうすれば、肉慾の炎のもたらす力に思いを馳せずに済むだろう。なぜならば、少しのあいだ小さな点で我慢していれば、大きな危険性を弱めることができるからだ。小さな点で勝てなければ、大きなことは克服できまい。
兄弟よ、いずれ来世でどういう身になるのか忘れるな。あたかも水面を泳いで向こう岸へ渡るような現時点の生命とは異なり、すっかり死の性質から自由になった生命が待っている。もはや本性の炎も生じない生命のため、ひ弱な者が情欲を大目に見て苦労することもない。そもそも試練を受けようと思って修行に入ったのではなかったか。ならば、修行における苦労を耐え忍べ。そうすれば現世を去る日に神から冠を受けて安らかに息えるだろう。その日までは、かの果てしない福楽を思い、慾のない生命を思い、何もかもご計画どおりになる不変の秩序を思い、神を溺愛して本性を支配できる精神状態を思い浮かべよ。願わくはわれわれもハリストスご自身の恩寵によって、この精神状態に与ることができますように。光栄は始めなき父と子と至聖なる聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。
第72訓話 心を守ることと、鋭い観照について
長らく僧房にて独居していながらまだ真の観照力が身についていないのであれば、いつも讃詞トロパリと坐誦経カフィズマ(聖詠)を唱え、死を思い起こして来世に期待しながら過ごせ。そうすれば知性を集中させることができ、あれこれ思いめぐらさずに過ごして真に観照できる日がくることだろう。なぜなら神゜は慾よりもはるかに強力だからだ。来世に期待しながら神を思い、讃詞の意味を汲みとるよう努め、肉慾をそそる外部のものをすべて警戒せよ。なおかつ僧房内でどのように規定を守っているかというささやかな点にも注意を払え。つねに想念を点検し、万事において見る目を持つことができるよう祈ることだ。見る目を持てば、喜びが湧き出してくるだろう。そのとき、蜜よりも甘美なる悲哀を見出すに違いない。
目に見える徳を積まなければ、慾に打ち勝つことはできない。属神的知恵を学ばなければ、知性が散漫するのを克服できない。知性は軽い。だから何らかの思索で縛りつけておかないと、あれこれ思いめぐらして止まるところを知らない。でも右記した徳を積んでおかなければ、知性を守ろうとしても守れない。なぜなら敵に打ち勝たなければ平安はなく、平安がないとなれば、いかにして平安の中で死守されるものを身につけることなどできようか。慾は、秘められた霊的徳行の障壁となっている。だからまずは目に見える徳で慾を打ち負かしておかなければ、慾の向こう側にある内面の徳は見えてこない。というのも壁の外にいる者は、壁の内にいる者と一緒に住もうとしても無理ではないか。闇の中にいる者が太陽を見られないのと同じように、ひたすら慾の渦巻く霊性が徳を見ることなどできない。
聖神を慕って渇き求める感覚をくださいと神に祈れ。というのは、この感覚で聖神を渇望したときに世から離れることができ、世もこちらから離れてゆくからだ。この感覚は、黙修してそれ相応の読書をしつづけていなければ得られない。そうせずに探してはならないものである。もし探したりしたら徐々に身体的な感覚へと化してしまうからだ。何を言わんと欲しているか、理解できる人ならば分かってくれるだろう。叡智ある主は、われわれが汗を流してパンを得ることをよしとされた。悪意ゆえにそうされたのではなく、むしろわれわれが消化しきれないせいで身を滅ぼすことのないようにするためであった。というのは、いかなる徳もそれにつづく徳を生むものだからである。だから徳を生みだす母を放っておいて、母を確保する以前にその娘(徳)を探しに行くのであれば、そういう徳は霊にとって刺を含んだものとなってしまう。そんな徳はさっさと振るい捨てないと、まもなく身を滅ぼすこととなる。
第73訓話 神への愛の特徴と、その作用について
人は際限なく神を愛するようになると霊的感動に浸る。なぜなら神への愛というものがもともと熱いものだからだ。ただこの愛が大きすぎるがゆえに、この愛を感じるなり、人の心は受け入れたり持ちこたえたりすることができず、その愛の質に応じて並ならぬ変化が生じるのである。その顕著な特徴は以下のとおりである。顔は紅潮して嬉々とし、体は温くなる。恐れも恥も忘れて感無量となる。知性を集中させる力もどこかへ消え失せ、あたかも感嘆したまま明け暮れる。恐るべき死でさえも喜ばしいものに思え、万難を排して天上を思いめぐらす知的観照に励んでやまない。そして誰もいないところで、まるで目に見えない誰かと話しているかのように語らう。生まれつき持っていた知恵や直観は消え去り、もはやモノから呼び起こされる動きを五感では感じなくなる。なぜなら、知性が観照に没頭し、いつもだれかと会話しているようなものなので、たとい何か作業をしていたとしても、作業していることを全く感じていないからである。
かくなる属神的陶酔に浸っていたのが、使徒や致命者たちであった。前者は世界中を駆けめぐり、屈辱に耐えながら汗水垂らして働いた。後者は肢体を切られて水のごとく血を流し、おぞましい苦痛にあっても怖気づかず勇敢に耐えた。そして賢者でありながらも愚者だと評された。いっぽう属神的陶酔に浸って荒野や山や洞窟や崖をさまよった修行者もいる。何も整えられていないところで誰よりも快適に過ごした人たちだ。どうかわれわれも神の恩寵によって、このような愚かさに到達することができますように。
謙遜の城に入る以前に、慾が鎮まったような気がしても過信するな。というのは、敵は何らかの落とし穴を用意しているからだ。むしろ穏やかな日々には、じきに大惨禍や大騒動に見舞われるのを待て。徳の家をすべて回りきらないうちは手を休めることができず、聖なる謙遜の家にたどり着くまでは敵の罠から逃れられない。神よ、どうかわれわれも、あなたの恩寵によって謙遜の家にたどり着くことができますように。アミン。
第74訓話 徳の種類について
修行は聖なるものの母である。人は修行をとおしてハリストスの奥義を感知することができ、それが属神的なものを認識する第一歩だといわれている。心を浄めもせずに夢想に浸って自分を欺くな。というのも、汚れた霊たましいは清い王国に入れず、聖なる霊と交わることなどできないからである。
涙を流して斎をし、独りで黙修しながらおのが貞潔を磨け。苦しむことなく偉業を成しとげるよりも、神のために少々苦しんだほうがよい。なぜなら愛の信仰があるのなら、すすんで苦しむようになるからである。逆に霊的に暇にしている人は、楽にできることばかりする。だからこそ聖人たちはハリストスを愛するがゆえに、楽をして生きることなく喜んで苦しみに耐えたのである。なぜなら苦労せずに行なう物事は、世俗人の行なう正義だからである。世俗人は自分の外面にあるもので喜捨をして自己正当化するが、自分自身の内面に完全性を求めない。しかしあなたは、ハリストスの受難にならう修行者として自己の内面で修行し、ハリストスの光栄を味わう恩恵に与れるようにせよ。というのは、ハリストスと共に苦しむのなら、ハリストスと共に光栄を受けるからである(ロマ 8 : 17)。体がハリストスのために苦しまないのであれば、知性はイイススと共に光栄を受けることはない。ゆえに世の賞賛に見向きもしない者は神の光栄に与り、霊たましいと一緒に体まで光栄を受けるのである。というのは、体はへりくだって神に従うことで光栄を受け、知性は神における真実を観照することで光栄を受けるからである。真の従順さには二種類ある。すなおに行動する従順さと、苦痛に耐える従順さだ。ゆえに体が苦しむときには心も苦しむ。神を知らなければ、神を愛そうという気にならない。神を見ていなければ神を愛せない。だいたい神を知らなければ、神を見ることはできない。なぜなら知りもしない神を見ることなどできないからである。
主よ、あなたのことを知って愛することができるようにしてください。ただし知力をすり減らして習得するような知識ではなく、知的にあなたを観照しながら神性を讃美し、そのような観照力で神秘的に現世の感覚を奪い取っていただきたいのです。どうか勝手に思い描いてしまう夢想を乗り越えて、十字架に縛りつけられたあなたを見ることができますように。この知性も十字架につければこそ思惟の痕跡から自由になり、絶えず霊妙にあなたを観照しながら安らぐことができます。あなたの愛を追いかけてこの世を捨てることができるよう、あなたへの愛を増し加えてください。聖なる童貞女より身をとり人となってこの世に住んでいらしたときに示された謙遜を、私にも会得できるようにしてください。つねにあなたの謙遜を念頭に置いておくことにより、わが本性の弱さを喜んで受け入れられるようになるためです。
十字架に昇るには、二つの方法がある。体を磔にするか、観照に入るかだ。体は慾から自由になれば磔になった状態になり、知性は精神活動の結果として観照に入る。知性は、体がおのれに服従しないかぎり自ら服従することができない。体を磔にすれば知性の王国が訪れる。つまりおのが自由をすべて理性に服従させたとき、知性も神に服従できるようになるのだ。まだ初心者で年若い者に高度なことを教えるのは難しい。「王が若齢の国は、いかに不幸なことか」(コヘレト 10 : 16)と書いてある通りである。人は神に服従しようとすれば、ほどなく万物が自分に服従してくるだろう。自分自身を知った者は、すべてを見抜く知恵を授かる。なぜなら自分自身を知るということは、満遍なくすべてを知り尽くすことと同じことだからだ。ゆえに霊たましいが神に服従した後で、万物があなたに服従するようになるのである。とことん謙遜に生きられるようになれば、あなたの霊たましいがあなたに服従し、と同時に万物があなたに服従するようになる。なぜならあなたの心に神の平安が生まれるからである。しかしまだその状態に達していないうちは、慾はおろか状況までもが絶えずあなたを迫害してくるだろう。主よ、あなたはまことにわれわれが謙遜するまでは、何とかしてへりくだらせようと工夫せずにはおられません。あらゆる試練を耐え忍んでゆくうちに真の知恵に至り、その知恵が深まったときに真の謙遜に至るからである。
第75訓話 絶えず斎をして自己集中することについて。いろいろな知恵を得て、かような事柄を習得したことについて
私は長年のあいだ右からも左からも誘惑を受けて、正道から逸れる試練を何度も味わってきた。敵の無数の攻撃を受けつつひそかに偉大な神に助けられているうちに、経験を深めて恩寵によって以下のことを知った。あらゆる善の基盤、つまり霊たましいを敵の虜から帰還させて光と命に向かうためには、次の二つを守るにかぎる。自己集中し、つねに斎をすることだ。つまり叡智に基づいて賢く胃袋を自制しようと決め、どこへも出かけることなく同じ場所に留まり、つねに知性を世の慮りから解放して神を思いつづけることだ。するとどうなるか。感覚が鎮まって知性が冴え、体に湧く激しい慾が治まって想念も穏やかになる。考え方も明るくなって徳行に勤しみ、高尚で微妙なことを理解できるようになる。つねに涙がとめどなく流れて死を思う。清くて貞潔であるため、思考を逸らす夢想をしなくなる。遠いものを鋭く見抜いて会得し、聖書を読んで深い神秘を悟る。霊たましいに内的動きが生じて聖なる天軍とそれ以外の霊を見分け、真の直観と空しい夢想を区別して論じられるようになる。畏怖心が湧き、この先どう進もうか考えているときに楽な道を捨て、燃える熱意で危険を乗り越えてどんな恐怖にも打ち勝つ。あらゆる欲望を無視して知性を浄め、そんなふうに邁進しているうちに現世に関する事柄を何もかも忘れてゆく。端的にいえば、人が真に自由になり、霊的歓喜のうちにハリストスと共に神の国で復活するのだ。
この自己集中と斎という二点をないがしろにする者は、右記の事柄をすべて失うだけでない。むしろこの二つの徳を軽んじたがゆえに、万徳の基盤そのものを揺るがしてしまう。なぜなら、この二点は霊的修行の神聖な礎だからだ。この二点を守っていれば、ハリストスを示してハリストスに導いてもらえるのだが、この二点から逸れて遠のくのであれば、正反対の悪習である放浪と飽食に陥ってしまう。放浪や飽食は右記の徳に反旗を翻す始まりであり、霊たましいに慾の湧く場所を与えるものである。
放浪するという行為が、何よりも鎮まった感覚を自制から解くものであるならば、その自制から解かれた後にはどうなってしまうのだろうか。まさに思いがけず柄に合わない事件にはまって堕落しそうになり、誘惑の嵐に見舞われる。目から入った印象に身を焦がされて縛られる。やましいことを考えるようになり、抑えがたい想念が堕落へ引きこむ。神の業を成しとげようという気持ちは中途半端になり、徐々に黙修者らしさが失われ、おのが生活形態の規則をすっかり手放してしまう。そして国をまたいで点々と移動しながら、否応なく目に飛び込んでくる形象を次々と思い浮かべているうちに、忘れてかけていた悪習が息を吹き返し、かつて知らずにいた悪習まで学んでしまうのである。
すると慾が、恩寵のおかげですでに心内で死に絶え、記憶にないほど忘れ去っていたのにまたもや動き出して、霊たましいにこうしろと迫ってくる。これぞ(もしこれ以上くわしく述べないのであれば)放浪者の成れの果てであり、黙修による困窮を耐えきれなかった者の末路なのだ。
ではもう一つの方、つまりわれわれが豚の営みに走ったときにはどうなるのだろうか。ここでいう豚の営みとは、胃袋に際限なく何かを詰め込んでやまない飽食のことだ。理性ある者ならば、理性ある者にふさわしく身体的需要を満たす時刻を定めているものではなかろうか。にもかかわらず飽食に走ったりしたらどうなるか。頭が鈍くなり、体も重たくなって筋肉が弱まる。ゆえに叩拝するのも億劫になるので奉神礼に通えない。日ごろの叩拝すら面倒臭いなり、暗い思いで倦厭な気分になる。想念がどんどん暗躍するため知性も粗くなって判断力を失う。霊たましいは先の見えない闇にすっぽり覆われ、気が重すぎて神に奉仕したり読書したりすることなんてできない。神の言葉の甘美を味わうことができないからだ。任務を怠っているので暇を持て余し、知性はあてもなく地上をさまよう。肢体のどの部分にも水分が余るほど蓄えられ、夜になれば下品な幻像による汚れた夢を見、その肉慾で霊たましいを刺し貫いて汚す。この忌まわしい者の寝床も衣服も全身も、昼夜を問わず泉のごとくあふれ出てくる下品な色欲で汚れる。なぜなら体がいつも色欲を発して思考を汚しているからだ。その結果、貞潔なんぞ見たくもない。というのも絶えず抑えがたい甘い情欲を全身で感じているからである。そして魅惑的な美貌を思い描き、いつもイライラして頭はそのことでいっぱいになる。するとすすんでそういう想念を受け入れてしまい、分別が効かなくなったせいで対象を思い描いては欲しくなる。これこそまさに預言者が「お前の妹ソドムは、食物に飽き安閑と暮らしていたからこうなったのだ」と言ったことなのだ(イエゼキイリ 16 : 49 参照)。そして偉大な賢者の一人が「美食で体を肥やせば、霊たましいは闘わざるを得なくなる」と言ったことなのである。はやく我に返って自己統御すべく自制しようとしなければ、体が強い興奮に動かされるせいでまったく自制できなくなってしまうだろう。なぜなら肉慾という霊たましいを虜にする刺激や興奮は、強くて抗いがたいからである。さあ、悪鬼の巧妙さが分かっただろうか。かの聖人はさらにこうも言った。「青年期には体が柔軟なので身体的快楽に陥りやすい。しかし霊たましいは慾を得るなり死に取り囲まれ、そのまま神の裁きにかかってしまう」と。
しかし、いつもやるべきことを覚えて学んでいる霊たましいは、やがて自由を手に入れて安らぐようになる。さほど慮るべきこともなく、後悔する必要も一切なく、徳に励みながら慾を統御している。そして徳を守りながら成長しつつ悲しみのない喜びに向かい、善良に生きて安全な港に至る。でも身体的快楽に浸っていれば慾が強まって霊たましいがやられ、しかも霊たましいを根こそぎ引き抜かれて胃袋の欲するままに際限なく暴食するようになり、時間外でも身体的需要を満たさずにいられなくなる。この欲にやられた者は、少しの空腹にも耐えられず自制することもできない。なぜなら慾の虜になったからだ。
さあ、大食漢にはいかに恥ずべき末路が待っていることか見えただろうか。それに対して、上述したように忍耐しつづけていれば、つまり同じ場所に留まって黙修しつづけていれば、受ける霊的利益は計り知れない。ゆえに、われわれの生理的欲求の高揚期を知っている敵は、いろいろなものを見たり満腹したりすると頭が乱れることを知っていて、まさに生理的欲求の高揚期をねらって生理的欲求を増幅させ、われわれが必要以上に欲するようにし、邪念で形象を思い描くようにさせ、あわよくば慾が激闘において人性を打ち負かし、人が罪に堕ちて汚れてしまうように仕向ける。敵にその時期を知られているからこそ、われわれも自分の弱さと人性を自覚し、生理的欲求の高揚期にうごめく欲求に対しては力不足で逆らいようがないことを弁えておくべきなのである。それにわれわれから見ると際どい想念など塵のごとく微かすかなため見抜くことができず、そういう想念と出会ったときに抗えないことも弁えておくべきなのである。そして試練を積み重ねて敵の誘惑に何度も惨敗した末に賢明になり、楽をしたいと思ってもすぐに楽をせず、腹が減っても勝利を譲らず、たとい飢えて弱って追い詰められても黙修の場所から動かず、誘惑の起こりやすいところには行かず、荒野から脱け出るための言い訳や方法をこしらえないことだ。というのは、それは明らかに敵の姦計だからである。荒野にさえ居続ければ、誘惑に遭うことはない。なぜなら女を見ることも修道生活に支障あるものを目にすることもなく、下品な声を耳にすることもないからだ。
「それなのに、今あなたはエジプトへ行ってナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか」(イエレミヤ 2 : 18)。どうか、いまから言うことを分かってほしい。とにかく小さな点において、我慢できる経験者であることを敵に見せつけることだ。そうすれば大きな点で誘惑されることはない(ルカ 16 : 10 参照)。この小さな点で退治できるかどうかが基準になると捉えよ。小さな点で敵を退治できれば、敵に大きな落とし穴を掘る時間を与えずに済むからだ。だいたい敵に「黙修の場所から五歩離れよ」と唆されても耳を貸さない者が、「荒野を去って人里に近づけ」という命令に従うことなどあるだろうか。黙修中に僧房の窓から外を見ることすら拒む者が、僧房から出るという案に賛成するだろうか。せめて夕方には少しぐらい食事を摂ってくれと頼んでも言うことを聞いてくれるか分からないような相手を、定刻前に食べてしまえという邪念で釣ることなどできようか。粗食で腹を満たすことさえ恥じる者が、高価な料理を欲するだろうか。どうやったって自分の体を見ようとしない者に、おもしろいから他人の美貌を見てみろと唆すことなどできようか。
したがって、まず小さな点を疎かにすることで隙ができ、敵に大きな誘惑で襲われて負けてしまうという構図が明らかであろう。この世の人生を少しでも長く生きることなど全く関心のない人間が、待望の死を呼ぶ艱難辛苦を怖がったりするだろうか。小さな点を疎かにしないこと、これこそ賢明な闘い方である。なぜなら賢い者は偉大な修行をしてみようなどと思い描いたりせず、ただ小さな点において我慢することで、ひどい苦労に陥ることから自分自身を守っているのである。
だから悪魔は、まず絶え間ない心の祈りを止めさせようとする。この絶え間ない心の祈りを止めさせることができたら、今度は定時祈祷や規則なんてどうでもいいじゃないかと唆して体を休めさせようとする。しかも同じ手でまずは想念を弱らせて、定刻前にちょっとだけつまみ食いさせ、人が斎を破ったが最後、もはや自制できずに淫慾に堕ちるままに放っておく。そもそも自分の裸や身体美をちょっと見てみたいという思いに負けてしまうと(より正確に言うと、何のこれしきと思ってしまうと)、用を足しに行ったり水浴びに行ったりした時に服を脱ぐなり感覚が解放され、たとえば大胆に服の下に手を伸ばして自分の体に触れたりしているうちに、それ以外の欲求が次から次へと押し寄せてきてしまうのだ。するとそれまでせっかく知性の砦を守りながら上述した事柄などを憂いていたのに、危険な入り口を広々と開けてしまう。なぜなら(たとえて言うならば)想念とは水のようなもので、きちんと周りから取り囲まれていれば正しく秩序を保てていても、その防波堤から少しでも外に出てしまうなり、囲いを壊して漏出して元も子もなくなってしまうからである。なにせ敵は、昼も夜もわれわれの目の前に立ち、五感という入り口のどの穴から入ることができそうか精査して見ながら待ちあぐねいているのだ。そしてわれわれが上述した点のいずれかで怠け出すなり、この狡猾で恥知らずな犬(悪魔)は、われわれの中に矢を打ってくる。それに時には本性そのものが、楽をしたくなったり奔放にしたくなったり、笑いたくなったり夢見たくなったり怠けたくなったりして、慾の原因になったり嵐の淵に成り下がったりすることもある。しかも敵がそういう思いを霊たましいに忍び入れることもある。だからこそ、われわれは偉大な業ではなく、どうでもよく見える小さな苦労をこそ選ぼうではないか。というのも、このどうでもよく見える小さな苦労を負えば、多くの実践しがたい厳しい苦行を負わずに済み、苦闘や重傷も負わずに済むことが証明されているのだ。だとしたらこの小さな苦労で備えて、甘美なる安息をいち早く得ようとするのが普通だろう。
おお、叡智よ。なんじは何と遠くから前もってすべてを見通していることか。叡智を身につけた者は幸いである。青年期に特有の怠惰に陥ることがない。わずかな代価や代償を払って、抗いがたい慾を癒す薬を買う者は良いことをしている。現に、ある賢人が弱さゆえによろめいた時のことである。その賢人は、はっと気づいてすぐに座って居住まいを正した。すると傍にいた人がその所作を見て笑ってきたので、こう答えたという。「いや、よろめいたから焦ったわけではない。ただ自分の不注意を恐れているのだ。というのも、しばしばちょっとした不注意が原因で大きな危険を招くではないか。だからきちんとした状態から崩れるなり立て直すことで、恐れる必要のないことすら見逃さない覚醒の姿を見せたのだ」と。これぞ、切れ者というものだ。つまり小さなことでも些細なことでも何をするにしても、つねに目を覚ましていること。そうすれば大いなる安息を自分に用意することとなり、道を逆行しないようつねに警戒し、そうなる原因を早期のうちに断ち切り、些細な点で小さな苦難を耐えることで、大きな苦難を根絶やしているのである。
ところが賢慮できない連中は、遠く離れた王国よりは目の前の小さな安楽を選ぶ。修行の苦しみに耐えた方が、国王の寝床で休んで怠惰ゆえに裁かれるよりもましなことを知らない。いっぽう賢者は死を渇き求め、つい罪を犯すことだけはしたくないと望みつづける。ゆえに賢明なる方(神)は、「自分の生命のために、目を覚まして懸命に生きよ」とおっしゃったのである。それに捧神者であった聖大ワシリイも「小さなことを怠っている者を目にしたら、その人が大きなことで活躍できるとは思うな」と言ったのである。
生命をもたらす事柄に関わるときに肩を落とすな。それに、そういう事柄のために死ぬ気で取り組むことを怠るな。なぜならおっかなびっくりしているから倦怠感に襲われるのであり、もとはと言えば投げやりになるから臆病になったり倦怠感に襲われたりするのだ。臆病者は、体が大事とおもう疾患と、信仰が弱いという疾患で苦しんでいる。
ちなみに体が大事と思うのは、不信仰のしるしである。その逆に体を軽視する者は、全霊で神を信じて来世の福を待望している証拠である。
危険を冒すこともなく、修行も試練もなく神に近づくことができた人を見たならば、その人に倣え。人の心はいかにして勇ましくなり、危険を省みなくなるのだろうか。残忍になるか、あるいは大いに神を信仰するかによる。残忍になった末には傲慢になるばかりだが、信仰を持った後には心がへりくだるようになる。まずたくさん御旨を実行していかないことには、神へ希望をかけることなどできない。というのも良心に裏付けられてはじめて、神へ希望をかけて雄々しい心になるのであり、知性に真に確証してもらえればこそ、神に期待することができるからである。この知性による確証というのは、人が微塵たりとも良心の呵責を覚えないときに生じるものである。たとえば自分のやるべきことを、その気になればできたのにしなかった、などという呵責があれば、そのような確証は得られない。もしわれわれが自分の心に裁かれない状態であれば、「われら神の前に毅然たり」(イオアン一 3 : 21)。したがって、徳において上達した成果として、良心が善良になった結果として、人は勇ましくなるのである。だからこそ、体に隷属するなんて霊的に惨めなことだ。ほんの僅かなりとも神への希望を感じた者は、この体という容赦ない主宰に求められても仕えることはしないだろう。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第76訓話 沈黙と黙修について
人は次の三つの理由のいずれかにより、絶えず黙って黙修することができる。他人から褒められたいためか、熱心に徳に励みたいからか、あるいは内面で聖なる会話をしていて、知性がその会話に惹きつけられているからか、である。ゆえに、この二つ目か三つ目の理由を自分の中に見出せない場合、否応なく一つ目の病(虚栄心)に苦しんでいる。徳というのは、次々と体で成しとげるいろいろな業を見せることではない。そうではなくて、心から賢く希望できることなのだ。なぜなら心から賢く希望できていれば、頭で正しく判断しながら、その賢く希望できている徳を神の業に結実できるからである。人は、たとい身体的な業を伴っていなくても、知性で徳を行なうことができる。しかし体で徳を行なうときには、心が賢くないと何をなしても益を得ることができない。もっとも神の人と言われるような者は、善を行なえる機会に出くわすなり、苦労してでも神への愛を証明せずにはいられない。つねに成功するのは、前者の徳(心の祈り)である。しばしば成功するがたまに失敗してしまうのは、後者の徳(身体的苦労)である。つまり、知性の営みをなすために慾を刺激する要因から常に離れているのは、意味のないことではないのだ。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第77訓話 体の動きについて
情欲を抱けば体が熱くなり、霊たましいも否応なく巻き添えを食らう。そんな情欲を愚かにも抱いたわけでもないのに体の下部が動くとしたら、まちがいなく食べ過ぎたせいだ。もしもほどよく節食しているのにも関わらず、意に反してどう抗おうとも肢体が動いてくるとしたら、体そのものに慾の源があることを弁えよ。そしてこの闘いにおいては、女の顔を見ないようにすることが頼りがいのある最強の武器であると思ってよい。なぜなら、そうすれば敵は本性の力で達成できることもできなくなるからである。そもそも子供を産むために神がわれわれの本性に注入したものを、あるいはこの修行に留まる者の試練のために備えたものを、本性が忘れわけがなかろう。それでも欲情の対象から離れれば、肢体にある肉慾を殺し、肉慾を忘れて根絶することはできる。
かなり離れたところにある対象については、たとい想ったとしても辛うじて感じられる程度の軽い動きしか思考にもたらさない。ところが目の前にある対象についてはそうはいかない。知性はその対象に没頭して自分自身を忘れ、対象が近いせいで慾を刺激し、まるで燈明を燃やす灯油を得てしまったごとく、すでに死滅していた肉慾を燃やし、思考の船が揺れに揺れて体の深淵をかき乱す。人は、外部の何かと合体しないかぎり、もともと子供を産むために備わっている本性の動きのせいで自由意志が乱れたり、清さから逸れたり、貞潔を脅かされることはない。なぜなら神は、神に向かう善意を打ち負かすような力を本性に与えなかったからである。しかし人がイライラしたり肉慾を抱いたりして興奮した場合、本性の力ではなく、自ら本性に加担することで本性の限界を出ていって責務から離れてしまうのだ。神が造ってくださった物は、どれもこれも素晴らしくて無駄がない。だから本性に適した量を正しく守っているかぎり、本性の動きのせいで邪道に逸れるようなことはない。むしろ体内には秩序正しい動きしか生じず、その動きを見て体内に生まれつき欲があることを知るだけだ。しかも慾にくすぐられて動揺して貞潔な生活が妨げられることもなく、興奮して知性が暗むこともなく、穏やかな状態から怒った状態に移ることもない。しかしながら時々感覚に夢中になって(そのせいでよく本性に逆らって勢いよく興奮してしまうのだが)、暴飲暴食したり、女に近づいてその姿を見たり女について話したりすれば、またたく間に体中に肉慾の火が走って燃え盛ってしまう。そして体内に蓄えた水分過剰のせいか、いろいろなモノを見すぎたせいで、温柔な本性を狂暴化してしまうのである。
ときにわれわれが思い上がったせいで、神が肢体に動くことを許容することもある。この場合、すでに上述した話とは異なる。なにせ上述した闘いは自由な闘いと呼べるもので、その闘いには本性共通の道が見られたからである。いっぽう思い上がるとよく許容されるこの闘いはどうだろうか。これは長いこと自己注視して努力した後、いくらか上達できたかなと思った矢先に送られてくる闘いであり、それも耐えて謙遜を学ぶために送られてくる闘いである。これ以外の闘いは、まさに思い上がりという理由以外で生じる手に負えない闘いであり、怠惰のせいで生じるものだ。というのは、われわれの本性は食べすぎて何らかの感覚に味をしめるや、すでに創造時に定められた従来の秩序を保とうとしなくなってしまうからである。すすんで黙修の悲哀から離れ、僧房内に閉じこもることをやめるならば、否応なく罪を愛するようになる。というのも嘆き悲しまずして、才知に走る魅惑から自由になることなどできないからだ。黙修して嘆くという苦労を負えば負うほど、闘わなくても暮らせるようになる。なぜなら嘆きつつ困難に耐えていれば、慾の中にある情欲が殺されるからだ。逆に楽々と暮らしていれば、慾はどんどん育まれていく。
というわけで、はっきり分かったことがある。われわれが欠乏している時こそ神と天使は喜び、楽に暮らしている時には悪魔とその手下が喜んでいるということだ。神の戒めというのは嘆きつつ追い詰められた中で成しとげられるものなのに、そういう環境を手放すとしたら、戒めを賜うた主ご自身をうまいこと軽んじることになってしまう。それもこれも楽々と暮らして生まれた慾のせいである。楽をすればするほど慾の生じる余地を与える。その反対に、徳の原因つまり困苦と悲哀に向かうのであれば、体を自制した中で想念が徒に飛び回らなくなる。つまり喜んで苦労と悲哀に耐えるとき、しっかりと想念を抑えきることができるのだ。かくなる想念は苦労することで動かなくなるからである。過去の罪を思い出して自分自身を懲らしめるならば、神がわれわれを休ませようとして何かといろいろ慮ってくださるだろう。神は、人が道から外れたことを自分自身で罰する姿を見ると喜んでくださるのだ。なぜなら、その姿は悔い改めている証拠だからである。そして人が自分を強いれば強いるほど、神に褒めてもらえる。徳によらない喜びは、すぐさま肉慾の動きを刺激する。ただしあらゆる欲情を伴った肉慾のことを指して言っているのであり、本性に備わっている欲求のことを意味しているのではない。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第78訓話 誘惑のいろいろな種類について。真実のために誘惑を耐えるといかなる甘美があるか、賢い者はどのような水準に昇っていくかについて
徳というのは、一つの徳から次の徳へと進んでゆくものである。それは徳の道がひどく重苦しいものにならないためでもあり、順を追って徳に上達することで上達する喜びを見出すためでもある。そしてそうやって少しずつ進めばこそ、善のために耐えた悲苦も善きものとして親しみを持つことができる。たとえば清貧になろうとしても、まずは清貧の利点を確信してから清貧に向かわなければ実際に清貧になれないし、喜んで誘惑に耐えることもできない。同じく誘惑を耐えきろうとするならば、まずは「この悲苦を乗り越えれば身体的安楽を凌駕する何かを得られる」と確信してから悲苦に飛びこまなければ、実際に誘惑に耐えきることはできない。
これを言い換えれば、だれしもまずは悲苦を愛し、そのうえでこの世にある物を持つなという想念が湧いてはじめて、清貧になる準備が整うのである。そして悲苦を耐える道に進む場合には、まずは信仰を強めてから悲苦の道に入ってゆくものである。ただし目に見える物を捨てても感覚の作用を断ち切らなければ、つまり視覚や聴覚を断ち切らなければ、悲苦を倍増して二重のかたちで足りなくて苦しむことになる。より的確にいえば、感覚に訴える物を断ち切ったというのに、その物で感覚を楽しませようとするならば何の益があろうか。というのも、人はこれらの物から呼び起こされる慾によって、かつて実際にその物を得たときに遭ったのと同じ目に遭わなければならないからである。その物に親しみ慣れていた記憶が頭から離れないからだ。もしその物が目前になくてもそれを想像するだけで痛恨を伴うとしたら、実際にその物に近づいたときに受ける痛恨はどれほどか。というわけで、隠遁の道はすばらしい。隠遁すれば清貧になりやすくなり、ぐっと想念が弱まり、ただ隠遁を貫いているだけで力が湧き、避けがたい悲苦に見舞われたときに忍耐強くあることを学べるからである。
いくら抜きん出て賢い人であっても、自分と似たような生き方をしていない人から助言を乞おうとしてはならない。体験せず頭だけで研究して考察している哲学者よりも、学識がなくてもこの道を体験して知りつくした者に想念を打ち明けた方がよい。ところで、体験とは何か。単に何らかの対象に近づいて、知恵を得ることもなくその対象を見ることではない。むしろ長いあいだその対象と関わり、その対象から得られる益と害をとことん味わいつくすことだ。
というのも、しばしば有害なものに見えても、その中身は役立つことばかりという物もあるではないか。もちろんその逆に、役立つように見えても中身は有害という物もある。だから一見したところ得だと思われる物から損失を蒙る人は多い。そして彼らは損失を蒙っているがゆえに、その知ったところからくる証言は真実とは言えない。だからこそ、判断が欠かせない部分で忍耐強く考察できる者を助言者とせよ。なにせ助言者がだれでも信頼に足るわけではない以上、これまでに上手に自由意志を統御できた者のみを、そして裁かれたり中傷されたりする恐れのない者のみを助言者とすべきなのである。
この道を歩んでいて、どうも最近は平安なまま変わらないなと気づいたときには危機感を抱け。なぜなら、聖人たちが血を流して踏みならした正道から遠く離れているからだ。なにせ神の王都に向かっている道中の身であるうちは、次のような特徴が見られたときにこそ王都に近づいてきたと言えるのである。そもそも激しい誘惑に見舞われることになる。そして王都に近づけば近づくほど、つまり上達すればするほど、ぶち当たる誘惑は増えてゆく。ゆえにこの道を歩んでいて、霊たましいの中でかつてなく激しい誘惑に見舞われたと感じたときには、そのときこそ、あなたの霊たましいが実際に今までにない高い水準にひそかに入り、新たな状態において恩寵が増し加わったのだと思え。なぜなら恩寵の規模に応じて、それと同じ規模の誘惑による苦悶が神から送られてくるからである。もちろんその誘惑とは、いわゆる悪習やあからさまな悪行をやめさせるために送られてくる世俗的誘惑とは異なる。それにここでいう「誘惑」とは身体的興奮を指しているのではなく、まさに黙修中の修道士にふさわしい誘惑を指している。この内容については後ほど詳しく述べておこう。もし霊的に弱くて大いなる誘惑に耐えうる力がない場合、そしてそれゆえに大いなる誘惑に陥らせないでくださいと祈り、神もその願いを叶えてくれているときは、たぶんこういうことだろう。つまり大いなる誘惑に耐える力がなければないほど、大いなる賜を受けるには値しないということである。そして大いなる誘惑が入ってくるのを阻止することにより、大いなる賜が入ってくるのも阻止してしまう。なぜなら大いなる誘惑を受けずして、大いなる賜を神から授かることはないからである(コリンフ後 1 : 5 参照)。人は、われわれ受造物には悟りがたい叡智によって、耐えた誘惑に応じた賜を授かるよう定められている。というわけで、摂理によって降りかかってくる強烈な苦しみを霊たましいで受けることで、偉大な神からいかなる栄誉を授けられているか見抜くことができるのだ。なにせ苦しみが強ければ強いほど、慰められるものだからである。
質問 つまりどういうことですか。まず誘惑があって、その後に賜が来るのでしょうか。それとも最初に賜をいただいて、そのうえで誘惑を受けるのでしょうか。
回答 人の霊たましいというものは、まずひそかに自分の器以上の規模を受け入れなければ、そして以前に受け入れた聖神の恩寵を持っていなければ、誘惑を受けることはない。これについては、主ご自身の受けられた誘惑が証明しているし、同じく使徒たちも似たような誘惑を受けて裏付けている。かれらは慰むる者(聖神)を受けるまで、誘惑に入ることを許容されなかった。ただし恵みに与った以上は、その恵みからくる誘惑にも耐えるのは当然だ。なぜなら恵みの後には、その恵みからくる悲苦がつづくものだからだ。善なる神は万人にとってそのようにすることがよいと判断されたのである。そして、本当にそれはそのとおりなのだが、つまりまず恩寵が与えられた上で誘惑がくるものなのだが、しかし人としては必ず自由意志を試される誘惑を先に感じてから、その後で恩寵を感じるものなのである。そもそも誘惑で試されてもいないのに恩寵がくることなど、かつて誰にも一度たりともなかったからである。要するに、まず恩寵が知性に降ってくるわけだが、それを感じることができるのは後になる。ゆえにわれわれは、かくなる誘惑を受けているとき、もはや二律背反する二つの感覚を持ち合わせていなければならない。喜びと、畏れである。なぜ喜ぶべきかといえば、聖人が敷いた正道を、いや、万物に生命をたもう神ご自身が敷いた道を進んでいることが判明したからである。本当にそうであるかどうかは誘惑の種類を詳しく調べれば明らかになる。いっぽうなぜ畏れるべきかといえば、もしや傲慢のせいで、このような誘惑を耐える羽目に陥っているのではないかと身を引き締めるためである。もっとも、謙虚な思いを持っている者は、恩寵によって賢くなって右の違いをしっかり見分けて捉えることができる。つまりどれが傲慢から来た誘惑であり、どれが神の愛の鞭による誘惑であるか区別できるのだ。人が善く生活して上達して成長しているときに出遭う誘惑は、傲慢な心を諭すために送られてくる誘惑とは異なるのである。
神の友、すなわち謙遜な者が受ける誘惑とはどういうものか
霊的に成長して学びを深めてゆく者が、属神的な鞭で鍛えられて苦行へ向かうようになる誘惑とは以下のとおりである。気怠さ、体の重たるさ、肢体の無力感、倦怠感、知性の乱れ、病気の心配、一時的な絶望、暗い想念、人的援助や必要物資の不足等々。人はこれらの誘惑を受けて、孤独で孤児のような霊たましいになり、心から嘆いて謙遜を深める。そして謙遜が深まったとき、創造主を渇望し始めた証拠なのだ。神は摂理に基づいて、受け手の能力と必要性に応じて誘惑を与えられる。まさに慰安や襲撃を与え、光や闇を与え、闘いや助力を与え、つまり一言でいえば、圧迫感や開放感を混ぜるようにして与えられる。そして人がこういう誘惑を受けているとき、神の助けを得て上達している証拠なのだ。
第79訓話 傲慢について。神の敵、つまり傲慢な者が受ける試練について
いっぽう厚かましくも神の慈憐の前で思い上がり、不遜にも神の慈憐をこきおとす者は、次のような霊力にあまる悪魔的試練に真っ向から陥ることになる。まず、人としての賢明な理性が奪われ、尊大さをへし折ってへりくだるために淫らな思いが付きまとってくる。すぐにイライラし、何でも自分の思うようにならないと気が済まなくなる。言葉尻を捕らえては裁き、居丈高に何もかも軽蔑し、知性がすっかり血迷う。さらに神の名を冒瀆し、笑われてもおかしくないような変な、より正確にいえばかわいそうな思いに捕われる。つまり「みんなに無視され、受けるべき敬意すら受けていないじゃないか」といった類のすねた思いである。悪鬼の姦計によってひそかに、あるいはあからさまに恥をかかされて屈辱を味わう。世間と関わって交流したいと願い、のべつ幕なく口を開いて愚かな無駄話をする。年がら年中どんな事件が起こったか気になって仕方がなく、偽りの預言すらも求め、できないことまであれもこれも請け合う。以上が、属神的試練である。
また、次のような身体的試練もある。複雑怪奇な事件ばかり起こって解決しようがなく、しょっちゅう悪人や無神論者に出くわす。つまり暴漢の手にかかったり、心がこれといった理由もないのにいきなり怯えたりする。あるいは、しばしば絶壁や高所などから墜落してひどく怖い思いをして、ついに神の力や信仰力に見捨てられたことに気づく。一言でいえば、本来ならば有り得ないような対処しようのない事柄が自分自身や隣人に降りかかってくるのである。傲慢な者は、これらの試練を受けることになる。
これらの試練はすべて、人がどう見ても自分は賢いと思うことから始まる。そしてそういう傲慢な思いを抱いた分だけこのような災難が降ってくる。というわけで、自分に降りかかってくる試練の種類を見て、自分のきわどい知性の道を知れ。もしもこれらの試練が、先述した属神的試練に混ざってくるとしたら、そういう試練が生じた分だけ自分が傲慢になっていることを知ることだ。
試練については、さらに次のように捉えることもできる。あらゆる苦境や苦難に見舞われたとき、忍耐力がないから余計にしんどくなるのだ。忍耐力があれば災難を追い払うことができるのに、逃げ腰だから苦しむことになる。ふつうどっしり構えていれば忍耐力がつき、耐えていればこそ慰められる。ただ苦難の渦中では、神に与えられない限りこのような忍耐力を自分の内に見出すことはできない。ただひたすら祈って涙を流してはじめて授かる賜だからである。
人は大きな災難にぶち当たることを神によしとされたとき、ついおどおどして臆病になる。すると抗いがたい倦怠感に襲われて、霊たましいが押し潰された感じがするのだが、これこそ地獄を味わっている瞬間なのだ。この押し潰された圧迫感のせいで気がおかしくなると、どんどん取り乱すようになる。戸惑ってイライラし、冒瀆して運命を呪い、邪念が湧いたり国々を放浪したりする。「どうしてそこまで見苦しくなってしまうのでしょうか」と訊くだろうか。お答えしよう。「あなたが怠けていたからだ。まさに、そこまで見苦しくならないようにするための特効薬を見つけようともしなかったからだ。気がおかしくならないようにするための特効薬は一つしかない。ただその薬によってのみ、すぐに心が癒される」「その薬とは何でしょうか」「心からへりくだることだ。へりくだらずに気を落ち着かせられる人はいない。むしろ災難のせいで、ずたずたにやられてしまったと思うだけだろう」。
いや、本当のことを述べているからといって怒らないでくれ。たしかにあなたは全霊で謙遜を探そうとしなかったのだ。しかし、探したいと思うのならば、ぜひ謙遜の領域に入ってみることだ。謙遜の領域に入るなり、乱れていた自分が落ち着くのを目の当たりにするだろう。謙遜であればあるほど、苦難を耐える力が与えられるからである。そして、耐えれば耐えるほど重苦しかった気持ちも軽くなり、そのようにして癒されてゆくのである。癒されれば癒されるほど神への愛が増し加わり、神を愛すれば愛するほど聖神における喜びが増す。天の父は懐が深いため、真に神の身内の試練を軽減される際にも単に試練を取り除こうとはされない。むしろ試練への忍耐力をお与えになる。すると人は、忍耐力でもって上記の恵みを余すところなく受け取り、霊的完成に向けて成長してゆくのである。願わくはハリストス神の恩寵によって、われわれも神を愛して深謝しつつ苦難を耐える力を授からんことを。アミン。
第80訓話 徳の形態の解説。徳の形態はそれぞれどのような特徴と力を持っているかについて
黙修者は、身体的徳行をとおして物質性から体を清める。そして知的徳行をとおしてへりくだることで、身を滅ぼす野蛮な思いから霊たましいを清める。欲深く野蛮なことを思うのではなく、観照に留まるためである。知性はそのように観照しながら少しずつ物質性を脱ぎ捨てて、いわゆる「物質を帯びていない観照」といわれている観照に入る。これぞ、属神的徳行だ。というのは、思いが地上のことから昇華して、とうとう聖神を観照する状態に近づき、神のことしか考えなくなるからである。そして言いようのない光栄を観照しながら(ここで神性の偉大さを想像できるようになる)、現世や現世の感覚について思い出さなくなる。われわれは、こうしてわれわれのために希望が備えられていたことを確信し、その希望が実現したことを目の当たりにするのだ。これこそ、使徒が「勧すすめ」(ガラティヤ 5 : 8。原語では「確言」の意)と述べていた事柄である。つまり知性が思索中に確証を得ながら導かれて、かの約束された希望を楽しむようになるのだ。さて、ここまで述べた事柄がいったい何を意味するのか、そしてそれぞれの段階がどのような状態であるのか、これから説明するので最後まで聴きたまえ。
人は、まず神にかなう身体的生活をとおして身体的修行に励む。つまり明らかな汚れから肉体を清めるようにし、肉体浄化に資する徳行を積む。
次に、知的生活をとおして心の修行に励み、ひたすら最後の審判について考える。つまり神の義や、神の判決がいかなるものであるか思いめぐらす。また、絶えず心で祈りながら、神がいかなる摂理に基づいていかに個人や社会全体を慮っているのか思う。なおかつ、この世にいながらいかに見えない慾から自分を守ろうか、ひょんな慾が隠れた属神的領域に侵入しないよう熟慮する。これらはどれも心の修行で、知的生活とも呼ばれる。さらに霊的活動とも呼ばれるが、要はこうして心が洗練され、自然に反するような身を滅ぼす生活と関わらくなることだ。そして関わらなくなった後で、ときおり感覚的な物を直観して思いめぐらし、実にこれらの物が体の需要や成長のために造られ、いかに体の四大元素に力を与えているか理解する。
いっぽう〔死後に迎える〕属神的生活というのは、感覚を伴わない活動である。これについては師父たちが詳しく書き残している。聖人の知性は、属神的生活に入るなり物質性を脱ぎ捨て、もはや属神的に観るようになる。とはいえ〔生前の〕物質性を帯びた状態にあるうちでも、最高の本性を備えた受造物(人間)を観照することはできる。人は、この物質を帯びた状態にあっても、観照することで孤高の生活を捉えることができる。孤高の生活とは、神を感嘆する生活であるとみなされている。まさに〔死後〕来世の福を楽しみながら味わう高尚な状態であり、不死身と化した自由な身に、すなわち復活後の生命に与えられるものである。なぜならその状態に入ると、受造物のことを一切思わなくなり、ただ神を感嘆するばかりだからである。というのは、もし神に似たようなものがあったとしたら、知性はそれを感嘆することができたであろう。つまり神に感嘆する時もあれば、受造物に驚嘆する時もある、という具合である。でもいかに受造物が来世でより美しくなろうとも神の美には及ばない以上、どうして知性が神の美から目を逸らすことなどできようか。ということはだ。考えてもみたまえ。これほどの観照に与った者が、この期に及んでなおも避けがたい死や肉体の鈍重さを嘆くことなどあろうか。残してきた親族のことを憂うることなどあろうか。あるいは衣食住に困窮したり不幸に遭ったり壁にぶち当たったりしたからといって、落ちこむことなどあろうか。あるいは前代未聞の蒸し暑さや気候不順や自然災害に襲われ、そういう現象が代わる代わる訪れたからといって、気が滅入ることなどあろうか。あるいは倦怠感や重労働のせいで、ふさぎ込むことなどあろうか。
断じてありえぬ。知性は、いかに世の中でこのようなことが起ころうとも、心眼から慾の覆いが取り除いてあれば来世の光栄を目にして、たちどころに高尚な事柄を思って喜びに満たされるのである。そしてもし現世で生きている者がそのような属神的観照をしているときに、神に制限時間を設けられなかったとしたら、そしてそんな無制限が人間に許されたとしたら、人はきっと死ぬまでその状態から抜け出ることができずに観照しつづけたであろう。そして、現世でさえそうであるならば尚のこと、右に記したような障害のない来世においては、もっとその状態から抜け出られなくなるであろう。というのは、かの属神的徳行には限界がない以上、われわれは霊体で行なっているがまま神の王宮へ入ってゆくからである。もちろんそれにふさわしい生活をし、それに与ることができれば、の話だが。
というわけで、いかにして知性がかの感嘆すべき聖なる観照を差し置いて、何か他のものを見るために降ることなどできようか。ああ、自分自身の霊たましいのことを知らず、いかなる生活に呼ばれているか分かっていないわれわれは不幸だ。この不健康な人生と生きとし生けるものの状態を買いかぶり、世自体と世の悲哀に同調し、世の悪習や安楽に重きを置いているわれわれは不幸者だ。
しかし、唯一の全能者ハリストスよ、それでも「力をなんじに頼み、心の路をなんじに向くる人は幸いなり」(聖詠 83 : 6)なのです。どうか主よ、われわれがこの世から顔を背けてあなたを渇望できるようにしてください。世の何たるかを悟り、もうつまらない影を現実として盲信しなくなりますように。どうか息のあるうちに、いま一度この知性に勤勉さを与えて一新してください。知性を一新していただくことで、御旨どおりこの世でなすべき使命を果たすことができますように。そして、どう生まれてどう生きてどう死ぬことになったのか、この世を去る瞬間におのが人生の意義を把握することができますように。その上で、どうかわれわれにも希望をお与えください。まさに聖書にてお約束された、かの新しい時世のために愛をもって用意してくださった大いなる福楽を受けられるだろうと期待することができますように。その大いなる福楽は、信仰をもって教会機密に与るたびに思い起こしているものなのです。
第81訓話 体と霊たましいと知性を清めることについて
肉慾に関わらないようにしていれば、肉体を清めることができる。知性に湧くひそかな慾から自由になれば、霊たましいを清めることができる。しかし知性を清めるには、奥義の啓示を受けなければ清められない。というのも奥義の啓示を受けてこそ、それまで知性が重ったるく感覚に仕えていた対象から清められるからである。幼い子供は、体も無垢で霊たましいも無慾である。しかしだれも幼児の知性が清いとは言わない。というのも知性の清さとは、くもりなく天上の事柄を観照しつづけることだからである。人は、感覚ではなく属神的能力でもって天上の奇蹟や華を観ようとする。そのとき目に見えざるきわどいことに仕え、つねに聖なる啓示を理解しようとするしなやかな状態にあるため、人によって属神的生活というものは異なっている。どうかわれわれも神ご自身の恩寵によって、知性の覆いを取り除いて神を観照し、ゆくゆくはじかに神を世々に観照することができますように。神に光栄。アミン。
第82訓話 属神的叡智に満ちた役立つ事柄について
信仰は、奥義をひらく扉である。われわれは肉眼で感覚的事物を見ているように、信仰という属神的心眼で奥義を観るようになる。師父によると、この肉眼が二つの目で構成されているように、心眼にも二つの目がある。ただし心眼の場合、二つの目はそれぞれ異なる対象を観る。片方の心眼は、神の光栄の奥義を見る。つまり本性に秘められた神の力と叡智を見、永遠の摂理が見事にわれわれのことを慮って支配しているさまを見る。ちなみに同じ目でもって、天使階級がいかにわれわれに仕えてくれているかも観照する。ただしもういっぽうの心眼では、光栄にして聖なる神性を観照する。この観照はわれわれが属神的機密に入ることを神によしとされ、知性のなかに信仰が海のように溢れるときに与ることができるものである。
第83訓話 悔い改めについて
人は、受洗時に悔改という極上の恩寵を与えられる。なぜなら悔い改めることによって、ふたたび神から生まれることになるからだ。また、悔い改めることで、信仰を持ち始めたときに可能性として付与されていた賜をも得ることができる。ひたすら悔い改めようとしていれば憐みの扉が開かれ、この扉をとおって神の憐みに入るだろう。この入口から入らずして憐みを得ることはできない。「けだし人みな罪を得、義とせらるるを得るは、彼の恩寵をもってなり」(ロマ 3 : 23, 24)と聖書にも書いてあるとおりだ。悔改とは、第二の恩寵〔痛悔機密は第二の洗礼〕であり、信仰と畏怖心を持ったとき心に生まれてくる。われわれは属神的天国の福楽に達するまで、この畏怖心という「父の権杖」(絶対権)を用いて自分自身を統御する。しかし福楽に達するなり、もはやこの権杖は不要となるので返納することになる。
天国とは、つまり神の愛である。人は神の愛においてあらゆる福を楽しむことができる。福パウェルも神の愛において超自然の糧で満たされ、まさに生命の木の実を味わって「神が彼を愛する者のために備えし事は、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心にいまだ入らず」(コリンフ前 2 : 9)と叫んだのである。そもそもアダムは悪魔に唆されて、この生命の木から追放された。生命の木こそ神の愛であり、アダムはその愛から堕ちてしまったのである。そしてその時から、人はもはや神の愛を見ることなく、ひたすら茨の地にて汗を流して働くようになった。ゆえに神の愛を失った人々は、かつてアダムの陥罪時に命じられたとおり、たとい正しく生きていたとしても汗を流して働いてパンを食べている。われわれは愛を得るまでは、茨の地で修行しているのだ。たとい義の種を蒔いたとしても、蒔いたり刈ったりする場所が茨の中であるため、いつも茨の刺で傷を負い、どんなに正しく行動していたとしても額に汗を流して生きることになってしまう。ところが、神の愛を得るなり、天のパンでこの身を養うようになり、苦労して働かなくてもどんどん力強くなってゆく。天のパンとは「天より降りて世に生命を与うる」(イオアン 6 : 33)ハリストスに他ならない。これぞ、天使の口にする糧なのだ。
人は愛を得ると、いつでもハリストスを味わい、ハリストスを味わうことで不死なる者となる。というのもハリストスが「このパンを食らう者は世々に生きん」(イオアン 6 : 58)と言われたからだ。ハリストスという愛のパンを味わう者は幸いだ。イオアンも「神は愛なり」(イオアン一 4 : 8, 16)と述べ、愛を味わう者こそ万物の神ハリストスを味わうことになると証言した。というわけで、愛に生きる者は神から生命をいただき、まだこの世でこうして生きているあいだに、かの復活の空気を漂わせて香るのである。義人らは復活するとき、この空気を楽しむことになる。愛というのは、王国である。主はこの愛を引き合いに出して、なんじらはわが国でこの愛を味わうことになるだろう、と使徒たちに神秘的に約束された。というのは、ハリストスが「なんじらわが国において、わが席に食飲し」(ルカ22 : 30)とおっしゃったのは、まさに愛を飲食することを意味しているのだ。人は飲食物の代わりに愛があるだけで、十分に自分を養うことができる。愛こそ「人の心を楽しませる酒」(聖詠 103 : 15)なのである。この愛という酒を飲む者は、幸いである。愛という酒を飲んで、大食漢は恥を覚え、罪人はつまずきの道を忘れ、呑兵衛は斎をする者になった。愛という酒を飲んで、金持ちは清貧を渇き求め、障害者は希望に満ち溢れ、病人は力強くなった。そして無知な者も賢者になったのだ。
だれしも舟なり船なりに乗らなければ大海原を渡れないように、神への畏怖心がなければ愛にたどり着けない。われわれと属神的天国のあいだにある汚臭に満ちた海をわたるには、悔改という名の船に乗り、畏怖心という漕ぎ手に漕いでもらわなければならない。畏怖心によって悔改という舟を操らなければ、いくら悔改の舟で神を目指そうとしても現世という腐臭ぷんぷんの海に沈んでしまうからだ。ゆえに、われわれは畏怖心を舵手として悔改の舟に乗り、愛という神の港を目指す。畏怖心があればこそ、悔改という舟に乗りたくなり、現世という臭い海を越えて愛という神の港を目指せるからだ。だれしも汗水垂らして悔改しつづければ、この愛という神の港にたどり着く。そして愛に至ったときに神に至り、悔改の航路を終えたことになる。すなわち来世という離島に、まさに父と子と聖神のおられる島に上陸することになる。光栄と国は神に帰す。どうかわれわれも神を畏れる心によって、神の光栄と愛にふさわしい者にしていただけますように。アミン。
第84訓話 知恵や信仰は、どれほど増し加わることがあるかについて
信仰よりも先にある知恵がある。また、信仰によって生じる知恵もある。信仰よりも先にある知恵は本性的知恵であり、信仰によって生じる知恵は属神的知恵である。人は本性的知恵で善悪を区別し、とくに研究しなくても善悪を見分けられる。これを本性的判断力という。理性的受造物たるもの、生まれつきこの判断力を神に埋め込まれている。さらに研究することで、この判断力をいろいろな場面で強めることができる。この判断力を持っていない人間はいない。この判断力は、理性ある霊たましいの中に埋め込まれた本性的知恵の力である。この力が絶えず霊内で作用することで善悪を区別している。この力を失った者は、理性的受造物以下となる。いっぽうこの力を持っている者は、属神的本性がしかるべき状態にあり、神が理性的受造物を重んじて授けてくださったものを何もかも保っている。預言者は、善悪を区別する認識力を失った者のことを指して「ただ人は貴たっときに止とどまるを得ず、彼は亡ぶる獣のごとくならん」(聖詠 48 : 13)と戒めた。理性的受造物は、善悪を見極める判断力によって栄誉ある者となる。だから預言者が、理性や分別のない者を霊智なき獣に喩えたのは正しい。この判断力があればこそ、神の道に入ることができるからである。以上が、本性的知恵の特徴である。この知恵が、信仰に先立つかたちで与えられており、人はこの知恵をとおして神へ向かう。そして、この判断力を活かして善悪を区別できるようになり、信仰を受け入れられるようになるのだ。それに自然界に見られる巨大な力も、人間ならばこれらすべてを造られた神を信ぜよ、その戒めの言葉を信じ、その戒めを守るべきだ、と論証している。神を信じれば、神を畏れる心が生まれる。そして先述したとおり、いつも神を畏れて行動していれば少しずつ精進するようになり、信仰から生まれる属神的知恵を生みだすことになる。
人は、生まれつき神によって本性的知恵すなわち善悪の分別を埋め込まれている。分別をもって考えれば、すでにそれだけで万物を無から創造された神を信じなさいと説き伏されるようなものだ。神を信じれば、神を畏れる心が生じる。神を畏れれば、悔い改めて精進しようという気になる。このようにして、属神的知恵を授かるのである。つまり奥義を感じてから、信仰をもって真に観照できるようになるのだ。というわけで、ただ単に信仰を持つなり属神的知恵が生じるのではなく、まず信仰を持ったあとで神を畏れる心が生じ、神を畏れて活動してゆくうちに属神的知恵が生まれるのである。聖金口イオアンが「人は神を畏れて正しく考えられるようになって自由になると、奥義の啓示を受ける」と述べたとおりである。ここで金口イオアンが「奥義の啓示」と名付けたものこそ、属神的知恵なのだ。
神を畏れる心が、属神的知恵を生むのではない(なにせ自然界にはない知恵を生み出せるわけがないではないか)。むしろ属神的知恵というのは、神を畏れて精進したことへの賜として与えられるものなのだ。念入りに神を畏れて精進するとはどういうことなのか研究すれば、それが悔い改めに他ならないことを見出すだろう。この悔い改めにつづいて属神的知恵が与えられる。これこそ先述したように受洗時に可能性として授かっていた賜であり、悔い改めたあとで頂戴できる賜なのである。悔い改めて得られるこの賜こそ、既述したように神を畏れた精進への恩賜として与えられる属神的知恵である。そもそも属神的知恵というのは、奥義を感じることである。よって、この目に見えない高尚なものを感じたとき、その抜きんでた行為を属神的知恵と呼び、そう感じている中で当初の信仰とは異なる説得力のある信仰が生まれるのである。この信仰が、観照的信仰と呼ばれる信仰である。つまり、これまでは耳で聞いていただけだが(ロマ 10 : 17 参照)、もはや心眼で観るようになったわけだ。たしかに観ることができるものは、聞いたものよりも疑いの余地がない。
これらはいずれも、かの本性的知恵にて善悪を区別することから生じてくるものである。本性的知恵こそ徳を生みだす善い種であることは、すでに述べたとおりである。しかしこの本性的知恵を欲情の赴くまま濁してしまうのであれば、これらの恵みを残らず失ってしまう。逆に本性的知恵にしたがっていれば、いつも目覚めた良心で死を思い起こす。そして息絶えるまで苦しむくらい自己注視する。そうなると悲しんだり倦怠に陥ったり神を畏れたり、しかるべく恥を覚えて罪過を嘆いたり、やるべきことに邁進しながら人生の行く末を思うようになる。さらに何を来世に持っていけるか考える。いかなる生命体も通過することになる死という門を、どうか善き状態でくぐれますようにと涙を流して神に乞い、世を軽視して徳をなすために必死に闘うようになる。これらはどれもこれも本性的知恵によって得られるものなのだ。だからだれしも本性的知恵と照らし合せて行動するがよい。というのも、本性的知恵と照らし合せて行動できるようになるや、本性にかなった道を歩むことになるからだ。さらにその道を越えて愛に至れば、本性を超えた者となる。そうなると、もはや闘ったり畏れたり苦労したりすることもなく、あらゆることにおいて疲れることもない。さあ、本性的知恵が何をもたらしてくれるか分かっただろうか。ゆえに欲情の赴くままこの本性的知恵を濁すようなことさえしなければ、自分の内にそういう事柄を見出すことができる。そしてしばらくこの状態に留まったまま、愛がすべての労から解放してくれるまで待つこととなる。というわけで、ここに記した事柄と自分自身を照合し、いま自分がどこを歩んでいるのか、つまり反本性的な道を歩んでいるのか、あるいは本性的な道を歩んでいるのか、それとも超本性的な道を歩んでいるのか点検するがよい。こうして上記に明示した定義に基づくことで、いま自分が人生をどう歩んでいるのか判断しやすくなるだろう。そして、この定義で「本性的」と呼ばれている道を歩んでいないなと気づいたとき、しかも超本性的で永遠なる道にいるわけでもないと気づいたときには、あなたが反本性的な道に逸れてしまっていることは間違いないのである。たといそういうことがあろうとも、光栄はわれらの神に世々に帰そうではないか。アミン。
第85訓話 虚心になって聴く相手に愛をこめて語る実用性の高い助言
善い思い[シリア語では「動き」。この単語をギリシャ語訳者はすべて「思い」と訳している]が心に浮かんだとしたら、それはひとえに神の恩寵から来たものだ。邪な想念が霊たましいに近づいてきたとしたら、それは誘惑や試練に遭うために近づいてきただけだ。人は、自分がいかに弱いか悟りなり、完全な謙遜に至る。いつも心から深謝せずにいられない状態であれば、神の恩賜を呼びよせる。逆に、不満な思いばかり抱いていたら、いずれ霊たましいに試練を呼びこんでしまう。でも主は、いかなる人間の弱さも甘受されているとはいえ、いつも不平をこぼしている者を苦々しく思い、その者を諭さずにはおられない。霊的に何の知恵にも照らされていないと、そういう不満な思いに陥る。しかしいつも謝意を述べている唇には神の祝福が降り、いつも感謝しつづけている心には恩寵が降ってくる。つまり謙遜のあるところに恩寵が降ってくるのだ。その逆に、自惚れていると罰が降ってくる。知識を鼻にかけていれば非難される目に遭い、善いことをしたぞと思い上がっていれば淫慾に陥る。われこそは賢人だと自惚れていれば無知蒙昧の罠に嵌ることになる。
人は、神のことを一切思わないような状態にあるとき、過去のことも悪くしか捉えられず隣人に嫌な懸念を抱いている。逆に、いつも神のことを覚えているならば、だれに対しても敬意を抱くため、神の指示によってひそかにどの人からも助けてもらえる。侮辱された人を守るならば、自分も神に守らえる。隣人に手を差し伸べるのならば、自分も神の力に助けられる。
さらにいうと、兄弟の悪習を責めるならば、自分も神に責められる。僧房内にて兄弟に忠告するならば、自分の悪習も癒すことができる。でも集会で他人の非を責めるならば、自分の患いが痛みを増す。隠れたところで兄弟を戒めるならば、愛の力を明証することになる。だが友人たちの前で兄弟を謗るならば、嫉妬の力をさらし出す。隠れたところで間違いを指摘してくれる友人は、賢い医者だ。たとい治してあげるつもりでも大勢の前で指摘するような輩は、単なる誹謗者でしかない。同情しているしるしは、相手の負い目をすっかり許すこと。悪い性格のしるしは、相手の罪過を責め立てること。相手を健康にしようと思って戒める者は、愛をもって戒めている。だが復讐してやれと思って戒める者には、愛がない。神は愛をもって戒めているのであって、復讐する気などさらさらない(そんなことがあってなるものか)。そうではなくて、ご自分の像(人間)を癒そうとされているのであり、治しようのない状態に陥る前に怒りを発しているに過ぎない。このような愛の表現は義勇心からくるものであり、復讐の慾に傾くことはない。公正なる賢人は、神に似ている。というのは、相手の罪に対して一切復讐することなく相手を罰し、その人が身を持ち直すためか、あるいは他の人がそれを見て身を引き締めるために懲らしめるからである。これに似ていない懲罰は、戒めていることにはならない。
報酬が目当てで善行をする者は、気づいたときには裏切っている。しかし知力の及ぶかぎり神の叡智を観て驚嘆している者は、たとい肉体を制御しきったとしても思い上がらず、断じて徳から逸れることはない。神の恩賜を受けてわれわれに学ぼうとする者は、謙虚な思いで心身ともに深くへりくだったといえよう。なにせ知恵に近づくまでは、生き方の規準が昇ったり降ったりするものだからである。だが知恵に近づくなり、全身全霊で高みに昇ることになる。ただしどんなに昇ったとしても、かの光栄なる時世が訪れて来世の富をくまなく受け取るまでは、知恵のみで完全性まで上昇しきることはない。というのは、いくら神の前で成長したとしても、所詮、神の後ろを付いていっているだけだからだ。しかし真実の時世が訪れた後では、神は面と向かってお顔を見せてくださるのであって、ただ「いる」という存在を見せるのではない。なにせ義人といわれる人たちでさえ、いくら神を観照するようになったとしても、現世では鏡で見るように神の像を観ているに過ぎないからだ。だが来世においては、現実がありのまま現出するさまを見届けることになる。
火は乾いた薪に燃え上がると、そうやすやすと消せない。よって神への熱意が世を拒んだ心に降って湧けば、その炎は消せないだけでなく火よりも勢いがある。酒の力が五臓六腑に染み渡れば、知性は何かと精密な知識を忘れてしまう。霊たましいという牧場が神の記憶で満たされれば、目に見える事柄についての記憶をすべて失う。知性で聖神の叡智を得たとき、海に用意された船を見つけたようなものだ。その船に乗るなり、この世という海から連れ去られて来世の小島まで連れていってもらえる。この世にいながらにして来世を感じることは、広い海の中に小さな島を見つけるようなものだ。その小島に近づくことができれば、もはや目に見えるこの世の波に悩まされることはない。
商人は、商売を終えたらそそくさと家に帰る。修道士は、まだ修行すべき時間が残っているうちは体から離れるのが辛い。だが時間を有効に活かしきり、来世へ持参できるものを得たと霊的に感じたとき、来世を渇望するようになる。商人は、海上にいるかぎり全身もろとも気を張っている。この仕事で得ようとした成果が、押し寄せる波に呑まれて沈んでしまわないようにするためだ。修道士は、この世にいるかぎり気を張って生活している。青年期から老年期まで苦労して修行してきた事柄が、湧き起った嵐に呑まれて無に帰してしまわないようにするためだ。商人は、はるか遠い地を眺めている。修道士は、息を引き取る瞬間を見つめている。
船乗りは、海をわたるとき星を見て、星にしたがって船を方向づけて港までたどり着こうとする。修道士は、祈りを見る。なにせ祈ることで身を正し、絶えず祈ることによってたどり着きたい港の方へ方向づけてもらえるからである。船乗りは、どこかに船をつけられる島がないか目を丸くして探す。その島でこのさき必要となる物資を補填して、次の島へ向かうためだ。修道士の歩みもそれに似ている。この世で生きているうちは島から島へ、つまり知恵から知恵へと進む。そして島を乗り換えるたびに、つまり知恵を乗り換えるたびに成長し、いずれ海から上がって真の町(天国)に至ろうとする。その町ではもはや住民が商売をすることもなく、それぞれ手に入れた富で穏やかに楽しんでいる。この大海原ともいえる波にもまれた慌ただしい世において、(属神的)商売が破綻しなかった者は幸いである。まさに船を壊すことなく、喜んで港に着けた者は幸いである。
潜水夫は、服を脱いで海に潜って真珠を探し出そうとする。賢い修道士は、すべてを脱ぎ捨てて人生という海をわたって自分の中に真珠を探し出そうとする。イイスス・ハリストスという真珠である。そしてその真珠を見出すなり、現存するものを何一つとして得ようとしなくなる。ハリストスのうちにあるからだ。真珠は、宝庫にて保管するものである。修道士の楽しみは、黙修のなかで守られるものである。処女が集会や大衆の中にいるのはよくない。修道士が大勢と会話するのは知性によくない。鳥は、どこにいようとも急いで巣に帰って雛を育てようとする。分別のある修道士は、急いで僧房に帰って生命の実を育もうとする。蛇は、自分の体を攻撃されたとき頭を守ろうとする。賢い修道士は、いつも自分の信仰を守ろうとする。信仰が人生の統領だからだ。雲は、太陽を隠す。くだらない話は、祈りの観照で澄み始めた霊たましいを曇らす。
賢者の言い伝えによると、サギという鳥は人里を離れて荒野に着くと楽しんで喜び、荒野に住み着くという。それと同じように、修道士の霊たましいも人々から離れて黙修の地に着くなり天上の喜びを受けて楽しみ、そこで死の時を待つようになる。そう、フクロウという鳥について言われていることがある。どの人もフクロウの美声を耳にすると虜になり、フクロウを追いかけて荒野を進んでいるうちにその美声に自分が生きていることも忘れ、そのまま倒れて死んでしまうそうだ。これと似たことが、霊たましいにも起こる。感覚や知性で神の言葉の美しさに触れて霊たましいに天上の甘美を受けるなり、全霊でその甘美を追いかけてゆくうちに身体的生活を忘れ、身体的需要に事欠いて霊たましいがこの人生から神に向かって昇ってゆく。
木は、まずは古い葉っぱを振り落とさなければ新しい枝を生やせない。修道士も、過去の記憶を拭い去らなければ、ハリストスにおける新しい実や枝をもたらすことはできない。
風は、果樹や畑の実を肥やす。神における慮りは、霊的な実をもたらす。言い伝えによると、貝殻に真珠が宿るのは、稲妻が光ったときに似たような閃光が生じ、空中から真珠をつくる物質を得るそうだ。そうなるまではただの貝殻にすぎない。同じく修道士の心が天上の物質(事柄)を理解するまでは、心の修行はただの修行に過ぎず、自分の貝殻(心)に慰めの実を宿すことはできない。
犬は、のこぎりの歯を舐めて自分の血を吸いながら、血の味が甘くて自分を傷つけていることに気づかない。修道士も、見栄に酔うとき自分の生命を吸っているのだが、その瞬間としては甘く感じるせいで自分自身に害を及ぼしていることに気づかない。世俗の名誉とは海水に覆われた暗礁のようなものだ。船乗りは船の底が乗り上げて水が溢れないかぎり暗礁があることに気づかない。人も見栄を張っていたせいで溺れて死なないかぎり本人は気づかない。師父も言うように、そもそも見栄を張ろうとするから、いちど打ち克って撲滅したはずの慾がまたもや霊たましいに戻ってくるのだ。太陽は、雲が出るなり輪郭が見えなくなるが、雲が消えてくれれば暑さもひとしおだ。霊たましいも倦んでしまうなり落ちこむが、倦んだあとには大いなる喜びが待っている。
聖書に秘められた言葉を読むときは、事前に祈ることもなく読もうとするな。むしろ神の助けを乞うて「主よ、どうか聖書の言葉の力を感じられるようにしてください」と祈れ。祈りこそ、聖書の内容を正しく理解するための鍵であることを弁えよ。心から神に近づきたいならば、まずは体で苦労して神への愛を示せ。きちんとした生き方はそこから始まるからだ。というのも心は必需品に欠けば欠くほど神に近づき、来る日も来る日も同じ糧に慣れ親しむほど神に近づいてゆくからである。このように、体で苦労していればこそ神に近づくのである。なにせ主ご自身が、そういう苦労を完全性にいたる基本として定めたではないか。遊惰にしていれば、霊たましいが道理に暗くなり始める。人とがやがや話していれば、もっと蒙昧になる。逆に人とがやがや話していたせいで、遊惰に陥ることもある。
ためになる話でさえ度を越せば頭がくらくらするとしたら、くだらない話をしたらどれほど朦朧とすることか。いかに神への畏怖心について語っていたとしても、長々と際限なく話していれば霊たましいに傷を受ける。というわけで、霊たましいはいいかげんに生きているせいで道理に暗くなるのである。
何事においても規律と限度を弁えて生きていれば、知性が明晰になって困惑しなくなる。いいかげんに生きているせいで知性が戸惑えば、霊たましいも蒙昧となって取り乱れる。よい規律を守っていれば平安になり、平安のもとで霊たましいに光が生じる。平安であれば、清い空気が知性に輝く。心が世を離れて聖神の叡智に近づけば近づくほど、神から喜びを受けとるだけでなく、霊たましいの中で「聖神の知恵」と「世俗の知恵」の違いを感じとるようになる。なぜなら霊たましいは、聖神の知恵に満たされている時にはすっかり押し黙るが、世俗の知恵に満たされている時にはいろいろな考えが次々と湧き起こるからだ。聖神の知恵を得れば、深くへりくだって柔和になり、あらゆる想念が鎮まって平安になる。それ以降は肢体も落ち着いて、乱れたり激情にかられたりしなくなる。しかし世俗の知恵を得れば、なんという賢人かと自惚れ、何とも言えない歪んだ想念で知性が乱れ、五感も恥を忘れて自慢するようになる。人間よ、かくも現世に縛られた身でありながら、いかにして神に祈るときに大胆になれようか。
根っからのけちであれば叡智を失うが、慈悲深ければ聖神に教えられて賢くなる。
ちょうど灯火が灯油のおかげで光っているのと同じように、霊たましいは慈悲深さによって知恵をつける。隣人愛こそ、心に聖なる賜を得るための鍵である。そして心が地上の事柄から解放されればされるほど、知恵の扉が啓かれてゆく。人は、霊的に物質界から霊界へ移りながら理解を深める。隣人愛というものは、神への愛から逸れないかぎり、何と称えるべき素晴らしいものであることか。
属神的な兄弟と会話するということは、神との会話を保っているかぎり、何と楽しいものであることか。というわけで、こういう事柄についても気にかけることは、度を弁えているかぎり良いことなのである。つまり隣人愛をだしにして奥深い修行や生活をやめてしまったり、いつも神と会話していたことをやめてしまったりしないかぎり良いことなのである。ときどき前者(隣人愛)を守ることで、後者(神との会話)を妨げてしまうことがある。なにせ知性は二つの会話を同時に行なえるほどの力はないからである。
神の業を行なおうと決めて世俗人から離れた上で、またもや世俗人と会うならば、霊たましいが乱れてしまう。属神的兄弟と絶えず話すことでさえ毒だとしたら、世俗人など遠くから目にするだけでも毒だ。何かを感じることそれ自体が、身体的活動を妨げるわけではない。だが思いを鎮めて奥深い修行で喜びを刈り取りたいと思っている者にとっては、体験しなくとも声音を耳にしただけで心の平安が乱れる。五感の作用を断ち切るまでは、内面に波立たぬ静寂が訪れることはない。身体的生活は五感を駆使しなければ成り立たない。霊的生活は心を駆使しなければ成り立たない。
生まれつき体よりも霊たましいの方が優れているように、身体的活動よりも霊的活動の方が優れている。そもそも体が造られた上でそこに生命が吹きこまれたように、まずは身体的に活動すればこそ霊的に活動できるようになる。ささやかな生活をひたむきに継続することこそ大いなる力だ。点滴穿石ともいうように、小さな滴しずくでもしたたり続けていれば、固い石をも穿つではないか。
あなたの中で属神的な人が復活しそうになると、何に対しても内面的に死ぬようになる。そして桁外れの喜びに心が熱くなって甘い思いに満たされ、もはや他の思いを抱くことはない。
その反対に、あなたの中で世が復活しそうになると、何かとあれこれ思いめぐらすようになり、何かにつけ俗っぽく考えるようになる。ここで「世が復活する」というのは慾が復活することに他ならず、まさに慾がうごめくせいであれこれ思いめぐらしてしまうことを指す。そうやって慾が生じて熟した結果、罪を犯して身を滅ぼすのだ。母がいなければ子は生まれないように、頭であれこれ思いめぐらさなければ慾は生じず、慾が作用しなければ罪を犯すこともない。
忍耐力がついてきたなと実感したら、ひそかに慰めの恩寵を得たしるしだ。胸の高鳴る喜ばしい思いよりも、忍耐力のほうが頼りになる。そもそも神において生活するということは、つまり五感を殺すということだ。きちんと心が生きていれば、五感は強く作用しない。逆に五感が復活してくると、心は死んでしまう。ゆえに五感が勢いを持ったとき、それは心が神において死んだことを意味する。いくら世間で徳を実行しようとも、それで良心が正当性を得られることはない。
どんなに他人をとおして徳を行なったとしても、それで霊的に清まるわけではない。なぜなら神は、そういう徳行に対しては褒賞をお与えになるだけだからだ。むしろ自分自身の内部で行なう徳こそ完徳として認められる徳であり、褒賞もいただければ浄化もしてもらえるという一石二鳥の徳なのだ。だからこそ、見える徳から離れて見えない徳へ向かえ。もしも見えない徳ができないまま見える徳までやめてしまったら、あからさまに神から離れ落ちることになる。だが見えない徳は、たとい見える徳をしていなくても、見える徳の代わりになる。
楽をして遊び暮らしていれば霊的に滅びる。そういう暮らしが霊的に害を及ぼす程度は、悪鬼よりもひどい。体が弱りきっているのに体力以上の仕事を強いたりすれば、霊的にどんどん暗くなって大いに戸惑うことになる。逆に体が剛健なのに楽をして遊び暮らしていれば、ありとあらゆる悪が霊たましいに湧き起こる。すると、どんなに善をしたいと望んでも、ほどなく悪にその善い思いを根こそぎ奪い取られてしまう。心底から来世に望みを託して喜びつつ、聖なる楽しみに酔っているのであれば、体はたとい病んでいても苦を感じない。ただでさえ重荷である体がさらに重荷を抱えていようとも疲れることなく、病床にあっても霊的な楽しみを楽しみながら、霊たましいが喜ぶよう促すからだ。
兄弟よ。もし余計なことを言わずに舌を守るのであれば、恩寵が降ってきて心が傷感に満ちるであろう。そして、その恩寵の力を借りて自分の霊たましいを見抜き、聖神の喜びに入るだろう。だが舌を抑えられずに余計なことを言ってしまうのであれば、いいかい、道理に暗くならずにはいられない。福イオアンが述べたように、もしもあなたの心が清くないのならば、せめて唇だけでも清くあれ。
他人を善の道に向かわせたければ、まずは身体的に満たしてあげて愛の言葉で敬意を示せ。というのは、人はあなたから施される身体的福楽と敬意を見届ければ、それ以上に自分の恥に気づいて悪習を捨てたくなったり、より良くなりたいという気になったりするものはないからだ。神のために修行すればするほど、その分だけ心は祈るときに大胆になれる。逆にいろいろなことに気が散れば散るほど、その分だけ神の助けを失ってしまう。身体的な傷や害を受けても悲しむな。なぜなら死んでしまえば完全にそういうものから解放されるからだ。死ぬことを恐れるな。なぜなら神は、あなたが死よりも強くなれるよう備えてくださったからだ。光栄と国は神に世々に帰す。アミン。
第86訓話 霊たましいが属神的に成長するために、神の摂理によってわれわれの内に生じる天使的動きについて
霊たましいを生命に導く思いのなかでも、最初に神の愛によって与えられるものが死の思いである。人は死を思うことによって、おのずと世を蔑むようになる。ここから、あらゆる善い動きが命に向かって動きはじめる。神が人の中に生命を現そうと望まれるなり、何らかの基盤として聖なる力が入り、その力が人と手を携えて歩むようになる。そして、もし人が世のしがらみや無駄話で死の思いを消すことなく、黙修の中でそれを育みながら死を観照するようにしていれば、やがて得も言われぬ深い観照状態に至る。サタナは死の想念をひどく嫌い、何としてでも消し去ってやろうとして襲いかかり、しかもできることなら全世界の支配権を渡してでもそういう想念を人の知性から拭い去ろうとする。そしてもしそんな譲渡が可能だったとしたら、きっと喜んでそうしていたことだろう。というのもこの知能犯は、人が死を思いつづけているかぎり、もはや知的に地上の誘惑を超越し、どうにも悪魔の罠にかからないことを知っているからである。ただしここでいう死の想念とは、かの最初に死を思い起こさせてくれる想念を指すのではなく、むしろ死の思いの満ちた状態、すなわち人がいつも死を念頭に置きながら、ひたすら死を思って絶えず驚嘆しているような状態を指す。というのは、前者の想念は、いわば身体的なものと言えるのだが、後者の想念は属神的観照であり、恩寵として目をみはるべきものだからだ。そして後者の想念を抱いている者は、もはやこれ以上この世のことに好奇心を持つこともなく、自分の体に執着することもない。
愛する兄弟よ。実際に、もし神がほんの短期間だけでも人々に真に死の観照を授けたならば、もはや世間は次世代を生もうとしなくなってしまったに違いない。この観照は足枷のようなもので、自然界はこの足枷に耐えられないからだ。しかし、いつも霊的に死を観照している者にとっては神の恩寵であり、他のいかなる修行よりも効果絶大である。この恩寵はちょうど中級にいる者、すなわち正義感から悔い改めたいと願っている者に与えられ、まさに神に「世を離れて御旨にそってより良く生きよう」という姿勢を認められたときに与えられる。そして独りで僧庵にて黙修をつらぬくとき、どんどん育まれてゆく。どうかこの観照を得られるよう、祈り求めようではないか。この観照を得るべく長いこと儆醒し、涙を流して「比類なき恩寵として死の観照を与えてください」と神に祈ろうではないか。そうすれば、もはやこの世でどんなに苦労しても疲れることはない。以上が、生命の想念の始まりである。つまり死を思うようになれば、正義に満たされるのだ。
第87訓話 その次の段階をなす営みについて
死の思いに慣れたあと、上手に善良な生活を送って悔改まで昇りつめることができれば、観照を味わって悔改の営みに入ることになる。
天から恩寵を受けて聖神の知恵の甘美を味わうなり、次のように悔改の営みに入ってゆく。まずは神にことごとく摂理されていることを確信する。その上で、神に愛されている受造物として啓蒙を受け、理性的存在のつくりに驚嘆するとともに、これほどにも神が知性的存在を慮ってくれていることに目を見張る。このようにして聖なる甘美に包まれて神への愛に燃え、その愛で心に巣食う霊的な慾や身体的な慾を焼き尽くすのである。また、この力を自分の内に感じるなり、明らかに全受造物や目にする対象を考察でき、それらの本性を見極めて属神的判断を下すようになる。こうして清い良心で熱心に献身するあまり神聖な愛に向かって奮起し、またたく間に酔って酒を飲んだようになるのである。すると肢体から力が抜け、知性で驚嘆して心から神の虜となる。かくして、酒を飲んだ者のようになるのだ。さらに言っておくと、内面の感覚が強まれば強まるほど、もっと観照できるようになる上、より善く生きれば生きるほど、つまり身を守って読書と祈りに時間を割けば割くほど、観照力も強まって確かなものとなる。しかも兄弟よ。ときに自分自身のことも忘れてしまい、体を帯びていることや、この世にいることも感じられなくなってしまうことすらあるのだ。
このようにして、知性は属神的に観照し始め、あらゆる啓示を受けるようになる。そして成長して奥義を悟れるようになり、他の、より人性を超えた啓示にも導かれてゆく。端的にいえば、人は、かくなる方法で聖人が現世で受けた聖なる観照や聖神の啓示に与り、人性が地上で把握しうる賜や啓示に与るのだ。これぞ、造物主がわれわれに植え付けた〔属神的〕感覚の根である。この善い種が霊たましいに落ちたとき、朽ちる諸用に追われて放置することなく大事に育てた者は幸いである。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第88訓話 いつも心の内に生じる光と闇の変化について。心が右に逸れたり左に逸れたりすることについて
愛する兄弟よ。ぜひ祈るときに自分の心を見つめ、祈祷文にこめられた教訓や祈りを観照できているかどうか確認しようではないか。真に黙修できていれば、祈祷文の中身を観照できる。たとい頭が朦朧としているときでも、自分のせいではないのならば戸惑わないようにしよう。ただ神のみぞ知る理由によって朦朧となったのであるから、神の摂理に何もかも委ねようではないか。というのも、霊的に落ちこんで聖書を読んでも公祈祷を献げても何をなしても滅入るばかりで波に弄ばれてしまうこともあるからだ。こうして(平安の状態から)離れ、平安に近づくことさえままならない境遇に陥ることも少なくない。すると、もう(良い方へは)変われず平安になることもない気がしてしまう。まさに絶望と恐怖の瞬間だ。心から神を望むこともできなければ、信じて慰めを得ることもまったくできない。ただただ全霊で疑ってしまい怯えるばかりだ。
この誘惑の波を耐えたことのある者は、この疑心暗鬼の時間が過ぎ去ったあとにいかなる変化が起こるのか体験的に知っている。しかし神は、心がそのような状態に一日中放っておかれるようなことはなさらない。なぜなら、そんなことをしたらハリストス教の希望を失ってしまうかもしれないからだ。むしろすばやく「逃のがるべき法」(コリンフ前 10 : 13)を備えてくださる。もしこの朦朧とした緊張状態が一日以上長引くとしたら、もうじき人生そのものが大きな変化を得るのだと期待してよい。
また、こうも言えると思うので助言しておきたい。もしも自分自身を統御できず、顔を地面につけて祈ることもできないのであれば、その朦朧とした時間が過ぎ去るまで僧服で頭をくるんで眠れ。ただし、僧房からは出るな。この誘惑は、どちらかというと知的生活を営みたいと思っている者や、信仰の慰めを探している者ほど遭遇しやすい。だからこのとき、何よりも知性における疑いに悩まされて疲労困憊するのだ。疑いの中で冒瀆の思いが力を増し、ときには復活を疑ったり、ここに書けないような疑念まで生じたりすることがある。この闘いはわれわれも体験して熟知した事柄のため、読者の皆さんを慰めるために記しておいた。
いっぽう身体的活動のみに従事している者は、断じてこのような誘惑に遭うことはない。かれらに襲いかかる倦怠感は万人共通のものであり、右の誘惑とは異なる作用をもつ。いっぽう右の誘惑に苦しむ者は、黙修すれば癒されて健康を取り戻す。つまり黙修すればこそ、慰められるのだ。どんなに他人と交流しても、決して慰めの光を得ることはできない。なぜならこの種の倦怠感は人々との会話で癒されるものではないからだ。会話すれば一時的に倦怠感に気づかなくなるが、会話を終えた後にはもっと大きな倦怠感に見舞われてしまうからだ。このような場合、こういうことを体験して知っている賢明な人の助言が欠かせない。できれば違う角度から状況を照らし出してもらい、必要な状況下ではつねに支えてもらうべきだが、必要でないときには支えてもらうべきではない。僧房の扉から一歩も出ずに、この誘惑を耐え抜いた者は幸いである。というのも師父が言うように、この誘惑を耐え抜いた後には、大いなる平安と力に出会うからである。
もっともこの闘いは、一時間やそこらで終了するような代物ではない。それに恩寵もすぐに満ち満ちと降ってくるわけではないし、この霊たましいに宿ってくれるわけでもない。むしろ徐々に降ってくるのであり、この恩寵から少しずつ慰めを得られるのである。要するに、誘惑に遭う時もあれば、慰めを得る時もある、という具合だ。そして人間たるもの、息を引き取るまでそのような変わりやすい状態に留まる。いかにそういう変わりやすさには無縁な者となって常時慰められていたいと思っても、この地上にいる限りそんな夢を見てはいけない。というのも神が、われわれの人生がこの地で変わりやすくあることをよしとされ、修行者がかくも変わりやすい状態に留まることをよしとされたのだから。光栄は神に世々に帰す。アミン。
第89訓話 聖なる意気込みの仮面をかぶった愚かな意気込みについて。いかに柔和さなどの道徳的品性に救われるかについて
負けず嫌いな人は、知性が平安になることはない。もしも平安に無縁であるのなら、喜びにも無縁である。知性は平安であるときにこそ完全に健康だと言われているのに、負けず嫌いは平安に逆らう力なので、誤って意気込んでいる者は重病に冒されていると言える。一見したところ他人の悪い部分に対して意気込んでいるようにも見えるが、実際には霊的な健康を失っているのだ。だから、よほど自分の霊的健康を取り戻すよう努力したほうがいい。もし病人を癒したいと思うのなら、病人には看病が必要なのであって非難が必要なわけではないことを弁えよ。だというのに、あなたは他人を助けないばかりか自分自身を重度の難病に突き落としている。負けず嫌いで意気込んでいれば嫉妬が生じるが、嫉妬は知恵ある品性の一つではなく、霊的疾患の一つである。考え方が狭くて無知蒙昧に陥っている。むしろ聖なる叡智の初穂は慎ましさと柔和さであり、これは立派な霊たましいならではの品性で、人々の弱さを担う。というのも「われら強き者は強からざる者の弱き」(ロマ 15 :1)を負うように言われているし、「温柔の神゜をもって、これを規ただし」(ガラティヤ 6 : 1)とも言われているからだ。さらに使徒は、聖神のもたらす実として「恒忍ごうにん」などの平安な心境を数え上げている(ガラティヤ 5 : 22)。たといあきらかな身体的活動に従事できなくても、心で悲しんでいれば身体的活動をすべて代行したことになる。いくら身体的活動をしたところで知性の悲しみを伴っていなければ、それは霊たましいの抜けた体と同じだ。せっかく心で悲しんでいても感覚に自由を許すならば、病体で弱っているのに次々と有害な食べ物を口にする病人に似ている。心で悲しんでいても感覚に自由を許す者は、この手で自分の一人っ子を徐々に地に埋めていく人に似ている。知性の悲しみこそ、神から授かる貴重な賜である。知性の悲しみをしかるべく守り抜く者は、体のどこかに聖器物を隠して運んでいる者に似ている。人々のことを裁いて良し悪し言う者は、知性の悲しみという恩寵にはそぐわない。人々と交流しながら悔い改めようとするならば、割れた瓶のようなものだ。人を持ち上げておいて侮辱を加えるならば、蜂蜜を塗った剣のようなものだ。
女と語らいながら貞潔を保とうとするならば、狐と羊が同じ家に住んでいるようなものだ。神の前で慈悲心を持たずに何事か成すならば、父親の前でその息子を屠るのと同じだ。霊的に病んでいるのに友人を治療するならば、目が見えないのに他人を道案内する人にそっくりだ。
同じ心に慈悲心と公正な裁きが共存するならば、同じ家にいて神と偶像を拝むようなものだ。慈悲心と公正な裁きは正反対のものである。公正な裁きは厳密に調整しようとする。各々にふさわしい物を与え、偏ったり贔屓して与えたりすることを許さない。いっぽう慈悲心は恩寵によって降り注ぐ悲しみであり、ありとあらゆるものに同情して首を垂れる。それこそ悪に値する者にでさえ悪で報いることはせず、善に値する者には溢れるほどの善で応える。ゆえに、もし慈悲心が部分的には公平であると言えるならば、公正な裁きは部分的に悪意があるようなものなのだ。干し草が火と同じ家に住むことができないように、慈悲心と公正な裁きは同じ心に共存しようがない。砂一粒と重い金塊が釣り合わないごとく、神に公正な裁きを求めたところで、とうてい神の慈悲心の深みには及ばない。
生身の人間が犯した罪など、しょせん神の摂理と憐みの深さに比べれば、大海に放り投げた一握りの砂に過ぎない。一握りの粉でもって豊潤な泉を止めらないように、受造物の悪習でもって造物主の慈悲心を打ち負かすことはできない。人に対して嫌な思いを持ったまま祈るのであれば、せっかくの種を海に蒔いて収穫を待つようなものだ。火の明るさが上に飛ぶのを遮ることなどできないように、慈悲深い人の祈りが天に昇るのを妨げることはできない。ちょうど斜面をつたう水流のように、頭に血が上ったときの怒りは抑えようがない。心から謙遜になった者は、世に対して死んだ者となり、世に対して死者となった以上は慾に対しても死ぬ。隣人のためにすべて譲って心から死んだ者にとっては、悪魔も死んだ者となる。だが嫉妬心を抱いた者は、嫉妬心とともに悪魔を抱えこんだことになる。
謙遜になるときには、神を畏れるがゆえに謙遜になる場合と、神を愛するがゆえに謙遜になる場合がある。つまり、神を畏れてへりくだる人がいる一方で、喜んでへりくだる人もいるわけだ。神を畏れてへりくだった者は、一挙手一投足が慎ましく、感覚も健康にして心で嘆いている。いっぽう喜んでへりくだった者は、大いに素朴でのびのびとした心を持ち、その心を抑えることはできない。
愛は、恥を知らない。なぜなら体に礼節を守らせることができないからだ。そもそも愛は恥じることなく、おのれの限界も忘れてしまう。愛というあらゆる喜びの港を見つけた者は幸いだ。謙遜な者の集まりは、セラフィムの集合のごとく神に愛される。神の前では、清めた犠牲よりも貞潔な体の方が貴い。というのは、この二つの徳、すなわち謙遜と貞潔こそ、霊たましいの内部に聖三者から何かを受ける余地を備えるからである。
友人の前では敬虔に振る舞え。敬虔に振る舞っていれば、自分にも友人にも益をもたらす。なぜなら、しばしば愛を口実にして気を緩めてしまうからである。会話には気をつけよ。いつでも会話が益をもたらすとは限らないからだ。人と集まったときには、なるべく黙っているようにせよ。黙っていれば多くの害を受けずに済むからである。腹を監視するようにせよ。だが視線ほどではない。なぜなら、言うまでもなく内部との闘いは外部との闘いよりも楽だからだ。兄弟よ、「何もわざわざ体を律義に善い状態に保とうとしなくても、内面の想念は消えることもあるよ」などと言われても信じるな。敵よりも習慣を恐れよ。悪い習慣に親しんでいく者は、火に油を注ぐ者と同じである。なぜなら習慣にしても火にしても、触れる量が増えるほど力をつけていくからである。たとい悪習が何かしらこうやってしまえと囁いてきても、言うことを聞かなければ次回にはその囁きは弱くなる。だが言うことを聞いてしまうと、次回には比べ物にならないくらい強い力で襲われることになる。
右の事柄をすべて脳裏に刻んでおけ。なぜなら実際に行動してから自己防衛するよりも、あらかじめ用心して自己防衛しておくことの方が肝心だからだ。人を笑わせたがる笑い好きとは友になるな。なぜなら段々だらしなくなることに慣れてしまうからだ。放蕩し放題に生きている者と一緒に喜ぶな。ただし、その相手を嫌ってしまわないよう気をつけよ。もし立ち直りたいと言ってきたら、手を差し伸べて死ぬまでその人を得るためにできるだけ気を配れ。もしもまだ自分自身が弱い身なのであれば、こういった治療には手を出さないことだ。なぜなら「杖の先を与えれば(自分自身も引き込まれてしまう)」などとも言われているではないか。威張っていて嫉妬心に悩んでいる者には、気をつけて話せ。というのも、こちらが何か口走るなり、その言葉を自分勝手に解釈されてしまい、こちらが持っている善いものでさえ、他人をつまずかせるための材料にされてしまうからだ。つまりこちらの言葉はその人の頭の中で、その人の疾患に合わせて歪められてしまうわけだ。目の前で他の兄弟を裁き始める人がいたら、悲しい顔をせよ。その途端、神の前でもその人の前でも、自分を守っていることが証明されるだろう。
困っている人に何か与えるときには、物を与える以前に楽しそうな表情を見せよ。そして心のこもった言葉で相手の悲しみを慰めることだ。そうすれば、その人の意識の中であなたの楽しさがあなたの喜捨を上回ることだろう。つまり身体的需要を満たすことよりも大事なことを成しとげるだろう。口を開いて何かしら反論してしまった日には、たといしかるべく役立つことを述べたように思えたとしても、実際には神の前で死者となり、何をしても空回りする身になったと思え。というのも、はたして自分の家を壊してまで、わざわざ友人の家を修理すべきなのだろうか。
その相手が善人か悪人かを問わず、ただ身体的か精神的に何らかの疾患で苦しんでいるのを悲しんだ日には、自分のことを致命者と思え。そしてハリストスのために苦しんだ者として自分を見つめ、表信者としてみなせ。というのも、ハリストスは罪人のために死なれたのであって、義人のために死なれたわけではないことを忘れるな。ごらん、悪人のことを嘆き、義人より罪人のために善をなすことがどれだけ偉業であることか。使徒もこのことを驚嘆に値する業として思い起こしている(ロマ五・六―八参照)。自分自身の中で正しいという確信があるのならば、それ以外のものに認められようとしてあくせくするな。あらゆることにおける大前提は、体の貞潔と良心の清さ。この二点がなければ、何をなしても神の前では意味がない。とにかく考えもせず検討もせずに行なったことは、どんなに立派な行ないに見えても空しいことを心得よ。なぜなら神は、その人の分別を見て義としてくださるのであって、無分別な活動を認めて義とされるわけではないからだ。
いくら義人であろうと愚かであれば、燈明が日光の下で輝いているようなものだ。人を嫌に思いながら祈っていても、石の上に種を蒔いているようなものだ。修行していても慈憐がなければ、実のならない木が突っ立っているようなものだ。嫉妬ゆえに相手を暴き立てるのは、毒矢を放つようなものだ。おべっかが誉めるとき、それは目に見えない罠である。頭が悪いのに助言する輩は、盲目の番人のようだ。愚者と時を過ごすのなら、心に傷を負うだろう。だが賢者と語らえば、甘い泉を得る。賢い助言者は頼りになるが、頭の悪い愚友は百害あって一利なし。愚者を追いかける賢者の姿を目にするよりは、泣く女と暮らす男を見る方がましである。悪習に染まった連中と暮らすよりは、よほど猛獣と一緒に暮らす方がましである。際限なく欲しがる奴といるよりは、いっそ死体を食いつく禿鷹といる方がましである。口論好きの友となるよりは、(悔い改める余地のある)殺人犯の友となる方がましである。大食漢と会話するよりは、豚と語らう方がましである。大食いの口元よりは豚の飼葉桶のほうがましだからだ。高慢ちきと暮らすよりは、皮膚病患者と暮らす方がましである。迫害してくる輩にはさせておけ、でもこちらからは迫害するな。磔にしてくる連中にはさせておけ、でもこちらからは磔にするな。侮辱してくる相手にはさせておけ、でもこちらからは侮辱するな。中傷してくる奴にはさせておけ、でもこちらからは中傷するな。どこまでも温柔であれ。そして、たちの悪いことで勝ち抜こうとするな(聖詠 36 : 1, 7~8 参照)。
ハリスティアニンたるもの、言い訳はするものではない。それはハリストスの教えの中に暗示としてすら存在しない。楽しむ者とともに楽しみ、泣く者とともに泣け(ロマ 12 : 15 参照)。これこそ、清い証拠だ。病人とともに心を痛め、罪人とともに涙を流し、痛悔する者とともに喜ぶことだ。だれに対しても友好的であれ。ただし思考内では孤独を貫け。苦しんでいる人を見たら手助けせよ、ただし体ではだれからも離れているように。たとい相手が極悪人であろうとも、一切悪いところを暴いたり咎めたりするな。罪を犯した者には、自分の着ている服を掛けてあげ庇え。もしも罪を肩代わりしてあげることができず、代わりに罰や恥を受けてあげることができなかったとしても、せめて大目に見てあげて窘たしなめるな。兄弟よ、なぜわれわれは僧房から一歩も外へ出ない方がよいのか分かっていてほしい。まさに人々の悪行を知ることがないようにするためなのだ。そうすれば、清い知性においてどの人も聖人で善人に見えるようになるだろう。もしも相手の罪をすっぱ抜いて教訓を垂れ、裁いたり審議したり罰したり叱ったりするとしたら、いったいわれわれの生活は都会の生活とどこに違いがある。しかもそういう態度を続けていくとしたら、はたして荒野に留まることほどあくどい生活が他にあろうか。
心の中で黙っていられないのであれば、せめて口では黙れ。良いことばかり思えないのであれば、せめて清らかに感じられるようにせよ。思考において独りきりになれないのであれば、せめて体だけでも独りきりになれ。体で修行できないのであれば、せめて知性で悲しめ。立って覚醒できないのであれば、せめて座ったり寝床に横になったりしながら覚醒せよ。二日間も断食できないのであれば、せめて夕方までは断食せよ。どうしても夕方まで断食できないのであれば、せめて食べ過ぎないように気をつけよ。心が聖人でないならば、せめて体だけでも清くあれ。心で泣くことができないならば、せめて顔だけでも泣くようにせよ。憐れむことができないならば、せめて「罪深い者なのです」と公言せよ。和平を行なうことができないならば、せめて紛争を好む者にはなるな。どうしても勤勉になれないならば、せめて思考内だけでも怠けるな。自分自身も慾に勝てないならば、処分される者の前で思い上がるな。友人を悪く言う者を黙らせる力がないならば、せめてその人との関わりを避けよ。
もしも怒りにまかせて人を深く傷つけてしまったら、神にその傷ついた霊たましいを返せと求められることを肝に銘じておくべきだ。たとい怒りをぶちまけなかったとしても、実際に怒った者の尻馬に乗って憂さ晴らしをするのなら、最後の審判においてその人の仲間として裁かれるだろう。柔和な心の持ち主になりたければ、平安を貫いて過ごせ。平安を貫くことができれば、いつも喜んでいられるだろう。探すべきは、金塊でなくて知恵だ。まとうべきは、高級服でなくて謙遜だ。得るべきは、王国でなくて平安なのだ。
謙遜がなければ知恵もない。へりくだらなければ知恵はつかない。謙遜な者は、取り乱すことなく平安を保っており、かならず喜んでいる。人は、どんな人生を歩もうとも、神への希望を持たないかぎり平安を得られない。希望を持って平安になって喜びが溢れてくるまでは、苦労や困難に太刀打ちできなくて不安が拭えない。だからこそ主は、拝むべき聖なる唇で「およそ労苦する者及び重きを担う者はわれに来たれ。われなんじらを安んぜしめん」(マトフェイ 11 : 28)と言われたのである。つまり「さあ、わたしに希望を置きなさい。そうすれば労苦や恐れから解放されて安心できるだろう」と言われたのだ。
神に希望を置けば気高くなれる上、地獄を恐れて慎重になれる。そうやって分別がつけば信仰が芽生え、望んでいるものに慰められて心強くなる。信仰とは、神から賜る眼力だ。われわれは頭が朦朧となるなり信仰を失くし、不安になって希望していたものが見えなくなる。しょせん本で読んで抱いた信仰だけでは、高慢さや疑念を捨てきれない。しかし神から賜った眼力で洞察し、知恵深い信仰で理性が照らされたとき、高慢さや疑念からも解放される。この信仰こそ、「真実の認識」とか「真実の現出」と呼ばれているものだ。神に啓いてもらった眼力で神を神として捉えているうちは微塵たりとも怯えることはない。しかし神に許容されて頭が朦朧となってこの眼力を失ったときには、へりくだるまで怯えることになる。まさに怯えながらへりくだって悔い改めるためだ。
なにせ神の子が十字架の苦しみを耐えられたのだから、われわれもいかに罪深くとも勇気をもって悔改の力に期待しようではないか。というのは、アハブ王の(外面的な)悔改の姿が神の怒りを鎮めた以上(列王記上 21 : 27~29 参照)、われわれの真の痛悔が功を奏さないことなどありえないからである。もしアハブ王がへりくだってみせただけで神の怒りを鎮めたのなら、われわれがこうして真心から罪を悲しむのであれば、よりいっそう神の怒りを鎮められるはずではないか。心から悲しむとき、それは十分に身体的修行の代わりとなる。
かつて聖グリゴリイも述べたように、「人は神に貫かれて神の裁きを気にしつづけていれば、恩寵を宿す神殿となる」のである。ここでいう「神の裁きを気にしつづける」とは、どういうことか。まさに神をなだめられるようなことを探し、いつもわれわれの本性が弱いせいで完璧になれないことを悲しんで何とかしようとすることでなくて何か。福ワシリイも述べたように、こうして絶えず弱さを悲しむことこそ、神を記憶しつづけることに他ならない。ひたむきに祈っていれば、しっかり神のことが見えてくる。そうやって神を記憶しつづけることで神の住まいをご用意したとき、われわれの内に神が宿られる。かくして、われわれも神の神殿となるのだ。まさに心から弱さを嘆いて神の裁きを気にしていれば、その心に神が住まわれて憩われるに違いない。光栄は神に帰す。アミン。
第90訓話 だらけたり怠けていたりしたことによって、ふいに生じてくる邪念について
神へ奉仕するという目的で、活力が湧くまできちんと食事を摂って少しくらい休みたいと思う人がいる。そして休んでいるうちに、またもや以前の自分に舞い戻ってしまう。だから数日ほど休むときにも、すっかり自己防衛を止めてしまわないようにしよう。まるで二度と職務に戻る気がない連中のように、休んでいるあいだに霊たましいを壊してしまうことのないようにしよう。また、くつろいでいて敵の矢に撃たれてしまう人もいる。つまり不遜にも手当たり次第に、闘わなければならなくなる毒素を霊たましいに集めてしまい、聖なる国にいるとき、すなわち祈祷中に、自分の着ている(心の)服が汚れていることに気づくのである。この汚れた服こそ、神を思ったり祈ったりしているときに霊内でうごめく想念そのものなのだ。われわれは祈祷中、まさに怠けていたときに身につけてしまったものに辱められるのである。
人は、従事することよりも覚醒していることで救われる。同じく、安息することよりも感覚を解くことで被害を受ける。安息していれば家のなかの闘いに悩まされるが、まだその闘いは断つことができる。というのは休むのをやめて仕事場に戻れば、家のなかの闘いは消えてなくなるからだ。だが、だらけて休んで感覚を解いたが最後、そうは問屋が卸さない。休んでいる分には自由が利き、また戻って規律どおりに働くことができた。なぜならまだ自由の利く領域に留まっていたからだ。しかし感覚を解くならば、自由の利く領域から出ることになる。だいたい人がすっかり自己防衛を止めさえしなければ、ふいに取り乱すような物事に強制的に服従させられる目には遭わなかったはずなのだ。それに自由の利く範囲からすっかり抜け出ることさえしなければ、抗いようのない事柄に強制的に縛られることもなかったはずなのだ。
人間よ。どうか自由の利く領域に二度と戻れなくなってしまうことのないように、いかなる感覚にも自由を与えるな。休んでいて害を蒙るのは若者に限られるが、感覚を解けば完全な者でも老人でも被害を蒙る。たとい休みすぎて邪念が湧いたとしても、ふたたび自己防衛をしてしっかり高尚な生活を送ることもできる。しかし十分に活動したからといって自己防衛を怠ってしまえば、高尚な生活から堕ちて放蕩生活の虜となってしまうのだ。
たとい敵地で刺された身であろうとも、平和な時代に穏やかに死ぬ人もいる。いっぽう生命を買う(属神的利益を得る)のだという口実で出かけていって、霊たましいに鋭い刺を受けてしまう者もいる。何かの誘惑に落ちたからといって悲しむのではなく、落ちた状態に留まっている身を悲しめ。なぜなら完全な者でもしばしば誘惑に落ちることはあるし、むしろ落ちた後にその過失に留まっている自分こそ、完全に息絶えた状態だからだ。誘惑に落ちたときに感じる悲しみは、恩寵となって清い修行の代わりとなる。あとで悔い改めればいいやと思ってふたたび罪に走る者は、神の前で邪道に陥っている。そういう者はふいに死に見舞われ、徳に励んで痛悔しようと思っていた時間を手にすることはない。だれしも五感に自由を与えたということは、つまり心に自由を与えてしまったのである。
心の修行をすることで、外側にある肢体を抑えることができる。過去の師父にならって判断しながら心の修行に励む者は、明らかに次の三つの現象を見せるだろう。物を集めようとしない、食べることに興味がない、まったくイライラしない、である。逆にこの三点、すなわち「(多かれ少なかれある)物欲」と「短気」と「大食」を見せる者は、たとい古代の聖人に似ているように見えたとしても、内面で我慢しきれていない。まさに内面で我慢しきれていないからこそ、そのように感覚を解いてしまうのであり、決していろいろな物事を区別するのに無頓着だからという理由で、そのように感覚を解いているわけではない。でなければ、どうして身体的なものを見下しているにもかかわらず、温和さを身につけられないのだろうか。正しい判断に基づいて見下しているのであれば、何にも縛られなくなり、休もうともしなくなり、人々と関わろうともしなくなる。もし覚悟を決めて喜んで神のために損失(悲哀や欠乏や侮辱)を甘受しているならば、その人の内面は清い。もし身体的欠陥のせいで他者を軽蔑していないのであれば、その人は真に自由だ。もし名誉を受けても喜ばず、体面を傷つけられても怒らないのであれば、その人はこの人生を生きながら現世にとって死者となっている。どんなに工夫を凝らした生き方よりも、思慮深さを守っている方がましである。
罪人に嫌悪感を抱くな。なぜならわれわれはみな咎を負っているからだ。もし神のために罪人に立ち向かいたいのであれば、むしろその人のことを泣け。それにどうして罪人を憎むのか。罪人の罪は憎め。だがその人自身のことは祈れ。罪人に対して怒らなかったハリストスは、むしろ罪人のために祈られた。そのハリストスに似た者となれ。ああ、主はどれだけイエルサリムのことで涙を流されたことか(ルカ 19 : 41 参照)。それに、われわれは悪魔に鼻で笑われている点が多い。だというのに、なぜわれわれと同じく悪魔に笑われている者を憎んだりするのか。そもそも人間よ、何のために罪人を憎むのか。もしかして、罪人があなたと同じような正義を持っていないからだろうか。しかし、あなた自身が愛を持っていない状態で、そのどこに正義がある。どうして罪人のことを泣かなかったのか。しかも、あなたはかれを追い払っている。世の中には、罪人の行為を裁ける立場にあると思い込んで、その無知に基づいて罪人に腹を立てる人々がいる。
ぜひとも神の恵みを伝道する者となれ。なぜなら神は、値しないあなたを養ってくださったからだ。そもそもあなたは神に負い目がたくさんあるというのに、とくに神を探そうとしているそぶりもない。それに対して神は、あなたがちょっと成しとげた事柄に対して、大いに報いてくださっているではないか。神を「公正に裁く方」などと呼ぶな。どうも神があなたに対して公正な裁きをされているようには見えないからだ。たしかに預言者は、神のことを指して「義なる方」「正しい方」(聖詠 118 : 137)と呼んだが、むしろ神の子は「彼(神)は恩に背く者及び悪しき者に慈愛を施す」(ルカ 6 : 35)と告げて、神が慈しみと愛に溢れたお方であることを示されたではないか。現に、われわれは聖書から次のような譬え話を読んで、神が限りなく憐み深いお方であることを知っている。たとえばぶどう園の働き人の報酬の箇所で、神は「友よ、われなんじに義ならざることを為さず、われこの後なる者にも、なんじと等しく与えんと欲す」(マトフェイ 20 : 13~15)と告げておられるのに、そのどこが公正に裁く方だと言えようか。さらに放蕩息子の箇所では、財産を食いつぶした息子が痛恨の情を示しただけで、父に走りよられて抱擁されて元の権利を賜わったというのに、そのどこに公正な裁きがあると言えようか(ルカ 15 : 20~22 参照)。他ならぬ神の子が、このように神の愛について証言されたのだから、その愛の深みは疑いようがない。さあ、どこに神の公正な裁きがある。われわれが罪を犯したというのに、そんなわれわれのためにハリストスが死んだことが公正な裁きか。もはや神がこれほどにも憐み深いお方である以上、その神にかぎって変わってしまうことなどありえないことを信じようではないか。
かといって、神のことを無慈悲なお方と名付けるような無謀な考えを持ってはならない。神は、死者のごとく属性を変えることはない。ご自身にないものを身につけることもなければ、ご自身にあるものを失われることもない。また、受造物のように成長するようなこともない。福キリルが創世記の解説で述べたように、神は原初から帯びておられたものをつねに帯びておられ、永遠に終わりなく帯びておられるのだ。人類が与えた「神」という厳めしい名のゆえではなく、むしろ愛ゆえに神を畏れよ、と福キリルはいう。神を愛すべき立場にある身分として神を愛せ。来世で報いてくださる事柄のゆえではなく、われわれのために造られた事柄のゆえに、この世で受けた事柄のゆえに愛せ。というのも、神にきちんと恩返しできる者などいるだろうか。われわれの愚行に対する神の報復はどこにある。そもそも太古に神が世を創造されたとき、人間に存在を与えよと神に促した者はいたか。われわれが神のことを忘れているとき、人類を見捨てないでくれと神に頼んでいる者がいるか。われわれがまだ世に生を受けていなかったとき、だれがこの体に息を吹き込んだのか。そのうえ、いったいどこから知恵のある考えが、土くれにすぎない体に降ってくるのか。おお、神の慈憐は驚嘆すべきものなるかな。おお、わが造物主たる神の恩寵は何と豊かなることか。何という巨大な力が、万物に満ち満ちていることか。何という限りない恵みのゆえに、神はわれわれ罪人の本性が復活するよう再創造してくださるのか。神を讃美しつくせる者はどこにいる。神は、ご自分の戒めを犯した者を立ち上がらせ、ご自分を冒瀆した者に手を差し伸べ、この愚かな土くれを一新して知恵と霊智を授けてくださる。さらに、気が散って麻痺した知性と無駄遣いした感覚を一新して、神聖な思考のできる理性的性質に変えてくださるのだ。罪人は、神の復活という恩寵を想像することすらできない。われわれを悲しませられたはずの地獄はどこにある。神の愛による喜びを、あらゆる形で脅して打ち負かしてくる苦難はどこにある。もはや神の復活という恩寵を目にした後で、そもそも地獄とはいったい何か。「この朽つる者は不朽を衣き」(コリンフ前 15 : 54)と言われているように、われわれが地獄から起き上がって朽ちない者となり、地獄に落ちた者も光栄を受けるようになった今、地獄とはいったい何か。
思慮深い者よ、来たりて驚嘆せよ。めずらしく賢い知性を持っていて、それにふさわしく造物主の憐みを驚嘆できる者はどこにいる。罪人には、受けるべき報復がある。その公正なる報復の代わりに、神は罪人に復活をお与えになるのだ。そして、神の法を踏みにじった体が朽ちてゆく代わりに、その体に完全に不朽なる光栄を着せてくださるのである。そもそもわれわれが罪を犯した後で復活させてくださるというこの憐みは、存在しなかったわれわれに存在を与えてくださったという憐みよりも優れている。主よ、光栄はなんじの限りなき恩寵に帰す。主よ、あなたの恩寵の豊かなる波を浴びて、とうとう口を閉じるほかありません。あなたへの感謝の気持ちでいっぱいで、もう何も考えられることはありません。われわれの命を愛される恵み豊かなる王よ、いかなる唇であなたを讃美することができましょう。この二つの世界ゆえにあなたに光栄を帰します。なにせ御手にて造られた万物の中からわれわれを引き立て、成長して楽しみながらあなたの光栄を知ることができるようにしてくださったのです。光栄はあなたに帰します、今もいつも世々に。アミン。
第91訓話 神を愛するがゆえに耐えることについて。耐えることで得られる助力について
人は世を軽んじて神を畏れれば畏れるほど、神に守られて導かれるようになる。そして、どことなくその助力を感じ、清い想念によって助けられている身を自覚するようになる。また、すすんで現世の福楽を手放せば手放すほど、神に慈しまれてその仁愛に支えられるようになる。
右に左にいろいろな手段を用いてわれわれを救おうとされ、永遠の生命を得られるように工夫されている神に光栄を帰すべし。なぜなら霊的に弱すぎて永遠の生命を得る気になれない者でも、不本意ながら苦難に遭うことによって徳行に導かれたりするからである。かの乞食であったラザリも赤貧になりたくて赤貧になっていたわけではないし、皮膚病に罹りたくて罹っていたわけではなかった。かくもひどい苦しみを二つとも耐え抜き、しかもどちらもこっぴどい惨状であったにもかかわらず、あとあと褒められてアヴラアムの懐に迎え入れてもらえた。人は心を痛めて苦痛の中で神に叫んでいるとき、その傍には神が共におられる。たとい御旨によって必需品がなかったり苦難に遭ったりすることがあっても、そういう苦しみに耐え抜くことで逆に救われる。ちょうど重病患者が病んだ部位を医者に切除されて健康になるようなものだ。苦悩や悲痛が重ければ重いほど、主は大いなる愛を現してくださる。
というわけで、自分の心の状態を見て自分自身を知ろう。いかなる苦も苦としないくらいハリストスにおいて喜んでおらず、ハリストスの愛を渇望していないとき、あなたは世に生きているのであってハリストスに生きていない。病気や貧苦に悩んだり、衰弱して不安になったりするときにも、体に生きているのであってハリストスに生きていない。身の危険を感じてびくびくし、信じてきた事柄を喜べなくなって主の道に向かえなくなったときにも、体に生きているのであってハリストスに生きていない。簡潔にいうと、あなたがより愛して惹かれているものが、あなたの中で生きているのだ。たとえば必需品が全部あって健康体で、身も守られて順風満帆な日々だったとしよう。その状態で、清くハリストスに向かって歩んでいると思うのなら、知性が病んでいて神の光栄を味わったことがない証拠である。これは、あなたがそういう人だからこう言っているのではない。むしろ、たといわずかなりとも過去の聖師父に似た生活をしていたとしても、そう思っている以上はいかに完徳からはほど遠い状態にあるか教えておきたかっただけである。「いや、よりによって病気や苦難に遭っている最中に、毅然としていられるほど強い人なんているわけがないでしょう」などとのたまうな。あるいは「いくらハリストスを愛しているからといって、さすがに杞憂まで捨てられる人なんていないでしょう」などと言い張るな。あえて聖致命者の例を挙げるのは遠慮しておこう。そんな例を出したりしたら、その受難の深みを目の当たりして私自身がへこたれてしまう。だから、聖致命者がいかにハリストスの愛の力に支えられて耐え、辛辣な心痛と身体的激痛に打ち勝ったかということについては語るまい。万が一語ったりすれば、そのとてつもない偉業と奇蹟的光景を思い出すなり、おなじ肉体をもつ身として持ちこたえられないからだ。
したがって無神論者を、そう、哲学者といわれる人を例に挙げておこう。あるところに、数年間は無言を守りとおすという決意を固めた哲学者がいた。時のローマ皇帝がこの噂を耳にして大変驚き、その哲学者を試練に遭わせてみたいと思った。そして手下に命じて皇室まで連れてこさせたのだが、どんな質問をしてみても一向に答えやしない。怒った皇帝は、誉れ高い皇位への不敬罪という理由で、この哲学者を死刑に処するよう命じた。ところが、哲学者は眉一つ動かさずに、無言の自戒を守ったまま静かに死を受け入れる準備をした。皇帝は死刑執行人に対し、「もしも剣を恐れて自戒を破ったら奴の首をはねろ。もし黙りとおす意志を最期まで貫いたら、生きたまま私のところへ連れて帰れ」と命令していた。ゆえに、役人たちは命じられたとおり、刑場に近づいてきた哲学者を見るなり侮辱を浴びせ、くだらない決まりさえ破ってしまえば死なないで済むのだぞと囃し立て、沈黙の自戒を破らせようとした。そのとき、哲学者はこう考えたのである。「ここは意志を貫いて、さっさと死んだ方がましだ。どれほど長い歳月のあいだ、こうして無言を貫くべく修行してきたことか。死ぬのが怖くて口を開いたりしたら、培ってきた知恵が台無しになる。あいつは窮地に陥るなり尻尾を出して逃げ出したなどと囁かれるのはまっぴらごめんだ」と。そして戸惑うことなく首を差し出し、剣による切断を受けいれようとした。皇帝は、役人たちから事の一部始終を聞いて驚嘆し、哲学者を褒め称えた上で解放したのである。
たしかに世の中には、本能的欲求を捨てた人もいる。あしざまに言われてもやすやすと聞き流した人もいるし、重病をもだえずに耐え抜いた人もいる。あるいは、苦難や大災害に襲われても歯を食いしばってみせた人もいる。そして、もしそういう人たちが空しい名誉や希望のためにそれらをすべて耐え抜いたのだとしたら、われわれ修道士は神との交わりに招かれている者として、よりはるかに多くのものを耐えるべきではなかろうか。願わくは、生神童貞女マリヤの祈りと、修行の汗を流してハリストスに仕えた諸聖人の祈祷によって、われわれも苦難を耐え抜く力を賜わらんことを。あらゆる光栄と尊貴と伏拝は、始めなき父と子と永遠に一性にして生命をほどこす聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。