イグナティオス・ボゴノセツ(神を抱く者)、1世紀
イグナティオス・ボゴノセツ(神を抱く者)、1世紀

古代の聖父や教会の著述家の著作

イグナティオス・ボゴノセツ(神を抱く者)、1世紀

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聖致命者(35-107年頃)、アンティオキア主教

伝記

記憶日:12月20日(1月2日)、1月29日(2月11日)

イグナティオスの生涯について知られていることは少ない。伝承によれば、彼はキリストが腕に抱き、祝福した幼子であったとされる(マタイ18:2-5)。しかし、多くの研究者はこれを伝説と考えている。

彼の書簡の文体から、シリア人であったと推測する説もある。明らかなことは、彼が非ユダヤ人起源の、あるいは少なくともユダヤ教の文化的枠組みに属さない最初期のキリスト教著述家の一人であったことである。エウセビオスの『教会史』によれば、トラヤヌス帝治世下のアンティオキアで逮捕され、処刑のためにローマへ護送された。この旅路で、彼は通過した教会共同体(エフェソ、マグネシア、トラレス、フィラデルフィア、スミルナ、ローマ)への七つの書簡と、スミルナのポリカルポス宛ての一つの書簡を著した。ローマ到着後、107年12月20日に獅子に投げ込まれて致命した。

ポリカルポスはイグナティオスからの手紙について次のように記している:

「あなたがたもイグナティオスも、もし私たちの中からシリアへ行く者がいれば、あなたがたからの手紙も届けるようにと私に書き送りました」

(ポリカルポス『フィリピ人への手紙』55章)

ポリカルポスはイグナティオスの書簡と彼に関する知見を集め、筆写し、これらの文書を広めた:

「イグナティオスが私たちに送った書簡、および私たちが所持する他の書簡を、あなたがたの要請に従って送ります。それらはこの私たちの手紙に添えてあります。そこからあなたがたは大いなる益を得るでしょう。なぜなら、それらは信仰と忍耐、そして私たちの主におけるあらゆる教えを含んでいるからです。イグナティオス本人とその同行者について確かなことを知ったら、私たちにも伝えてください」

(ポリカルポス『フィリピ人への手紙』57-59章)

エウセビオス・カイサリア(3-4世紀)もイグナティオスについて詳しく記述し、彼の7つの書簡を列挙し、一部を「逐語的に」引用している:

5. こうして、ポリカルポスがいたスミルナに滞在中、彼はエフェソ教会にあてた書簡を書き、その牧者オネシモスに言及した。また、メアンドロス河畔のマグネシアへは(ここではダマソス主教に言及)、さらにトラレスへも書簡を送った(ここではポリュビオスが指導者であったと記している)。

6. 彼はローマ教会にも書簡を送り、自分への執り成しをせず、切望する殉教の希望を奪わないよう懇願した。ここで述べたことを裏付けるため、短い抜粋を引用する価値がある。以下がその書簡の逐語的な引用である:

〈書簡の大部分を引用〉

10. 彼はこのように、先に挙げた教会々宛てに、この町から書簡を書いた。シリアを離れた後、トロアスからフィラデルフィアの人々へ、またスミルナの教会と、特にその指導者ポリカルポスへと書簡を送った。使徒的な人物として彼をよく知っていたイグナティオスは、善良で真実な牧者として、自身のアンティオキアの群れを彼に託し、熱心にその世話をするよう求めた。

11. また、スミルナの人々への手紙の中で、彼はキリストについてこう述べている(この情報をどこから得たのかはわからない):「私は知り、また信じる。復活後、彼は肉体をもって現れたと。ペトロやその仲間のもとに来た時、『わたしに触れ、霊ではなく肉体であることを確かめなさい』と言われた。彼らはすぐに触れ、信じた」。

(『教会史』第3巻36章)

さらにエウセビオスは、失われたイリネイ・リヨンス(2世紀)の書簡からの引用を紹介している。イリネイはそこでイグナティオスのローマ人への書簡を引用している:

12. イリネイも彼の殉教について知っており、彼の書簡に言及してこう語っている:「『神への告白のために獣に食われると宣告された私たちの一人(ローマ人への書簡で)が言ったように、「私は主の小麦であり、獣の牙で挽かれて、清いパンとなる」」。

13. ポリカルポスもまた、自身の『フィリピの信徒への手紙』で同じことを回想している。

(『教会史』第3巻36章)

信仰

キリストは神である

「彼らにとってただ一人の医者がおられる。肉体的にも霊的にも、生まれた方と生まれざる方、肉体において現れた神、死において真の命、マリアよりまた神より、初めは苦しみを受ける者であり、後に苦しみを受けざる者である私たちの主イエス・キリストである」

(イグナティオス『エフェソ人への手紙』32-33)

「私たちの神イエス・キリストは、神の摂理により、ダビデの子孫であるマリアより御肉体を受け、聖霊によってお生まれになった」

(イグナティオス『エフェソ人への手紙』72)

「この時からあらゆる魔術は滅び、悪の縛めは断たれ、無知は消え去り、古き王国は崩れ去った。神が人間の姿をとって現れ、永遠の命の更新をもたらしたからである」

(イグナティオス『エフェソ人への手紙』77)

「(『見えるものは一時的であり、…見えないものは永遠につづく』(Ⅱコリント4:18))私たちの神イエス・キリストは、父のもとにおられる時、大いなる栄光のうちに現れる」

(イグナティオス『ローマ人への手紙』15)

「あなたがたをこのように知恵づけてくださったイエス・キリストなる神をたたえます。私は知りました。あなたがたが十字架につけられた主イエス・キリストに、肉と霊とで釘づけられたように、信仰において揺るぎなく堅く、キリストの血によって愛に確立され、私たちの主への信仰に満ちあふれていることを。主はまことにかつてダビデの家系に属する者として肉体を受けられた」

(イグナティオス『スミルナ人への手紙』2)

「シリアへ遣わされる栄誉を受ける者を歓迎する。彼と、彼を遣わすポリカルポスとに、いつも恵みがありますように。私たちの神イエス・キリストにあって、常に強められますように」

(イグナティオス『ポリカルポスへの手紙』44)

神はマリアより生まれた

「彼らにとってただ一人の医者がおられる。肉体的にも霊的にも、生まれた方と生まれざる方、肉体において現れた神、死において真の命、マリアよりまた神より、初めは苦しみを受ける者であり、後に苦しみを受けざる者である私たちの主イエス・キリストである」

(イグナティオス『エフェソ人への手紙』32-33)

聖体(エウハリスティア)は象徴ではなく、まことのキリストの体と血

聖イグナティオスは異端者たちを、聖体がキリストの受難を受け、父なる神によって復活させられたまことの御体であることを信じないと非難している。異端者たちが「信じない」のは、聖体が御体の象徴(寓意的)であることなどではない(それは誰でも信じうる)。彼らが信じないのは、聖体がまさにキリストの受難を受け、復活した御体そのものであるということだ。

「だれも欺かれてはならない。天にあるものも、天使たちの栄光も、見えるもの見えざるものの支配者たちも、キリストの血を信じなければ裁きを受ける。『悟る者は悟るがよい』...彼ら(異端者たち)は聖体と祈りから遠ざかる。なぜなら、聖体が私たちの救い主イエス・キリストの御体であり、私たちの罪のために苦しみを受け、父なる神がその慈愛によって復活させられた御体であることを認めないからだ。こうして神の賜物を拒む彼らは、自らの議論の中で滅びゆく」

(『スミルナ教会への手紙』第7章)

キリスト者は自分が救われたと考えない

「良い始まりができた。しかし、私は無事に自分の運命を全うできるだろうか?あなたがたの愛が私の妨げにならないかと恐れる。あなたがたが望むことをするのは容易だが、もしあなたがたが私を憐れむなら、私が神に到達することは難しい。私が到達できるよう祈ってほしい。私は肉の思いでこれを書いているのではなく、神の知恵によって書いている。もし私が苦しむなら、それはあなたがたが私を愛したからだ。もし私が(殉教の)栄誉に与れないなら、あなたがたが私を憎んだからだ...私は自分が(教会の)一員と呼ばれることを恥じる。私は彼らの中の最後の者、はみ出し者として、その名に値しない。しかしもし神に到達できれば、その憐れみによって私は何者かになれるだろう。私の霊と、イエス・キリストの名によって私を旅人としてではなく迎えてくれた諸教会の愛が、あなたがたを祝福する」

(『ローマ教会への手紙』6,44,46-47章)

キリスト者は行いによって認められる

「信仰を告白する者は誰も罪を犯さず、愛を得た者は誰も憎まない。木はその実によって知られるように、自分をキリスト者と告白する者たちも、その行いによって明らかになる。今問題なのは単なる告白ではなく、最後まで信仰に留まる信仰の力である。語らずに存在する方が、語りながら存在しないよりましだ。教えることは良いことだが、教える者が同時に行う者であればこそ」

(『エフェソ教会への手紙』60-62章)

キリストのための苦しみは神との親密さの証

「なぜ私は自らを死、火、剣、野獣の餌食に委ねるのか?剣の傍にいる者は神の傍にあり、野獣の中にいる者は神の中にいる。ただイエス・キリストの御名においてである。キリストの苦しみにあずかるために、私はこれらすべてを耐え忍ぶ。そしてキリストは完全な人間となられた方として、私を強めてくださる」

(『スミルナ教会への手紙』12-13章)

主教・司祭・輔祭なくして教会は存在しない

つまり、単なる2、3人の集まりは教会ではない:

「輔祭たちをイエス・キリストの戒めとして敬い、主教を父なる神の子イエス・キリストとして、司祭たちを神の集会、使徒たちの集いとして敬いなさい。彼らなしに教会は存在しません。あなたがたも同じように考えていると確信しています」

〈中略〉

「あなたがたにお願いします。私ではなく、イエス・キリストの愛が願うのです。キリスト者の糧だけで養われ、異端という異質な植物からは遠ざかりなさい。異端者たちは自分たちの教えの毒にイエス・キリストを混ぜ、それによって信頼を得ようとします。彼らは甘いワインに致命的な毒を盛っているのです。知らない者は喜んでそれを受け入れ、破滅的な快楽と共に死を受け入れるのです」

(『トラレス教会への手紙』第3章6節)

主教に従うことの重要性

「すべての人は、イエス・キリストが父に従うように主教に従い、使徒たちのように司祭会を敬い、神の戒めとして輔祭たちを敬いなさい。主教なしに教会に関わることは何もしてはなりません。真に正しいと認められる聖体礼儀は、主教によって、あるいは主教が任命した者によってのみ執り行われます。主教のいる所に民衆がいるべきであり、イエス・キリストのいる所に普遍(カトリック)教会があるように。主教なしに洗礼を授けたり、愛餐(アガペ)を行ったりすることは許されません。むしろ、主教が認めることが神にも喜ばれ、すべての行いが確固たるものとなります。神と主教を知ることは素晴らしいことです...主教を敬う者は神から敬われ、主教の知らないことをする者は悪魔に仕えるのです」

(『スミルナ教会への手紙』第8-9章)

教会の秩序と一致

「主教に心を留めなさい。そうすれば神もあなたがたに心を留めてくださいます。私は主教と司祭たち、輔祭たちに従う人々のための犠牲です。私の神における分け前が彼らと同じでありますように。共に戦い、共に歩み、共に耐え、共に休み、共に立ち上がりなさい。神の家の管理者、家族、しもべとして」

〈中略〉

「私たちの神イエス・キリストにあって常に強められますように。神と主教との一致の中に留まりなさい」

〈中略〉

「主の誉れのために清さを保つことができる者は、虚栄なくそうしなさい。もし虚栄に陥れば滅び、自分を主教より上だと考える者は完全に失われるのです」

(『ポリカルポスへの手紙』)

三階級の聖職制度(主教・司祭・輔祭)

聖イグナティオスは、シリアの教会が主教なしに残されていると記している。司祭は多くいるが、シリアの主教は逮捕されローマで処刑される彼自身のみであった。明らかに、司祭たち自身では主教を立てることができず、そうでなければシリアが主教なしに残されることはなかっただろう:

「あなたがたの祈りの中でシリアの教会を覚えてください。今、私に代わって牧者として神がおられます。ただ一人イエス・キリストがその教会で主教を務め、あなたがたの愛が支えとなるでしょう」

(『ローマ教会への手紙』45節)

主教は単数形、司祭と輔祭は複数形で記されることの重要性

(テルトゥリアヌスも同様に記している)つまり、各地の教会にはただ一人の頭である主教がおり、その下に多くの司祭(文字通り「彼の司祭たち」)と輔祭たちが仕えていることがわかる:

「私は、イエス・キリストの血によって教会を歓迎する。この血は信じる者たちにとって永遠の、絶えることのない喜びである。特に彼らが主教と、イエス・キリストの御心によって立てられた彼の司祭たち、輔祭たちと一致しているならば。主は御自分の聖霊によって彼らを揺るぎないものとされた...だから、ただ一つの聖体礼儀を持つように努めなさい。私たちの主イエス・キリストの御体は一つ、御血の一致の杯は一つ、祭壇は一つ、そして主教も一人であり、私の共労者である司祭と輔祭たちも同様である。それはあなたがたが行うすべてのことを神のために行うためである...私はあなたがたの間にいて、大声で宣言し、力強い声で語った。『主教と司祭会と輔祭たちに心を留めなさい』...もしあなたがたが望むなら、神の御名によってそれは不可能ではない。近隣の教会はすでに主教たちを、またいくつかの教会は司祭たちと輔祭たちを派遣しているからである」

(『フィラデルフィア教会への手紙』)

他の箇所でも同様の記述

一人の主教(キリストにたとえられる)と、多くの司祭たち(使徒たちにたとえられる)と輔祭たち:

「輔祭たちをイエス・キリストの戒めとして敬い、主教を父なる神の子イエス・キリストとして、司祭たちを神の集会、使徒たちの集いとして敬いなさい。彼らなしに教会は存在しません。私はあなたがたも同じように考えていると確信しています」

(『トラレス教会への手紙』第3章6節)

「すべての人は、イエス・キリストが父に従うように一人の主教(注:単数形)に従い、使徒たちのように司祭会(注:複数形)を敬い、神の戒めとして輔祭たちを敬いなさい。主教なしに教会に関わることは何もしてはなりません。真に正しいと認められる聖体礼儀は、主教によって、あるいは主教が任命した者によってのみ執り行われます。主教のいる所に民衆がいるべきであり、イエス・キリストのいる所に普遍(カトリック)教会があるように。主教なしに洗礼を授けたり、愛餐(アガペ)を行ったりすることは許されません。むしろ、主教が認めることが神にも喜ばれ、すべての行いが確固たるものとなります。神と主教を知ることは素晴らしいことです...主教を敬う者は神から敬われ、主教の知らないことをする者は悪魔に仕えるのです」

(『スミルナ教会への手紙』第8-9章)

「主教に心を留めなさい。そうすれば神もあなたがたに心を留めてくださいます。私は主教と司祭たち、輔祭たちに従う人々のための犠牲です。私の神における分け前が彼らと同じでありますように。共に戦い、共に歩み、共に耐え、共に休み、共に立ち上がりなさい。神の家の管理者、家族、しもべとして」

〈中略〉

「私たちの神イエス・キリストにあって常に強められますように。神と主教との一致の中に留まりなさい」

〈中略〉

「主の誉れのために清さを保つことができる者は、虚栄なくそうしなさい。もし虚栄に陥れば滅び、自分を主教より上だと考える者は完全に失われるのです」

(『ポリカルポスへの手紙』)

十字架 - キリストとキリスト者の武器

「あなたがたはイエス・キリストの武器、すなわち十字架によって高みへと上げられ、聖霊の綱によって支えられています。あなたがたの信仰が高みへと引き上げ、愛が神へと至る道となるのです」

(『エフェソ教会への手紙』40-41節)

異端と分裂において救いは不可能である

「それゆえ、光と真理の子たちよ、分裂と邪悪な教えを避けなさい。牧者が行く所に、羊のようにあなたがたも従いなさい。多くの狼どもが、見かけは信頼できるように装い、破滅的な快楽によって神の道を歩む者たちを捕らえようとする。しかし、あなたがたが一致していれば、彼らに付け入る隙はありません。イエス・キリストが育てず、父なる神が植えられなかった悪い毒麦から遠ざかりなさい。私はあなたがたの中に分裂を見出したわけではありません。むしろ、すぐれた清さを見いだしました。神に属する者、イエス・キリストに属する者は、主教と共にいます。悔い改めて教会の一致に戻る者たちもまた、イエス・キリストに従って生きるために、神のものとなるでしょう。騙されてはなりません、兄弟たちよ。分裂を引き起こす者に従う者は、神の国を受け継ぐことができません。異質な教えに固執する者は、キリストの苦しみを共にすることはないのです」

〈中略〉

「分裂と怒りのある所に、神は住まれません。しかし、悔い改める者すべてに主はお赦しになります。彼らが神の一致と主教の会議に戻るならば」

(『フィラデルフィア教会への手紙』2-3章)

異端者からの分離

「騙されてはなりません、兄弟たちよ。神の国の家を腐敗させる者は、それを相続できません。もし肉に関してこのようなことをする者が死に値するなら、まして神の信仰を邪悪な教えで腐敗させる者はどうでしょうか。その信仰のためにイエス・キリストは十字架につけられたのです。そのような者は汚れた者として消えることのない火に行き、それを聞く者も同様です」

「主がご自分の頭に香油を受けられたのは、教会を不滅の香りで満たすためでした。この世の支配者の悪臭ある教えで自分を塗るようなことをしてはなりません。それがあなたがたを捕虜として、ふさわしい生活から引き離すことがないように」

(『エフェソ教会への手紙』16-17章)

「それゆえ、致命的な実を結ぶ悪い植物から逃れなさい。それを味わう者はすぐに死にます。異端者たちは父なる神が植えられたものではありません。もしそうであれば、彼らは十字架の枝となり、その実は不滅であったでしょう」

(『トラレス教会への手紙』30-31章)

「光と真理の子たちよ、分裂と邪悪な教えを避けなさい。牧者が行く所に、羊のようにあなたがたも従いなさい。多くの狼どもが、見かけは信頼できるように装い、破滅的な快楽によって神の道を歩む者たちを捕らえようとする。しかし、あなたがたが一致していれば、彼らに付け入る隙はありません。イエス・キリストが育てず、父なる神が植えられなかった悪い毒麦から遠ざかりなさい...異質な教えに固執する者は、キリストの苦しみを共にすることはないのです」

(『フィラデルフィア教会への手紙』7-9,13章)

肉体を離れた魂の生命について

「この世から神のもとへ沈み、神の内に輝くことは私にとって素晴らしいことです...もし私が真に(キリスト者であるなら)、その名に値する者と呼べるでしょう。そしてこの世がもはや私を見ることがなくなった時、初めて真の信者となることができるのです。見えるものは何一つ永遠ではありません。今や私はようやく弟子となり始めました。見えるものも見えないものも、何も私をイエス・キリストのもとへ行くことを妨げることはできません。私は神のものとなりたい。私をこの世に引き留めないでください。純粋な光へと私を行かせてください。そこに至れば、私は神の人となるでしょう。私は生きながらあなたがたに書いていますが、死にたいと強く願っています。私の愛は十字架につけられ、物質を愛する火は私の中にはありません。しかし、生ける水が私の中で語り、内から私に呼びかけます。『父のもとへ行きなさい』と」

(『ローマ教会への手紙』10,13-14,29,34,39節)

ユダヤの律法の廃止について

「もし今もなお私たちがユダヤの律法に従って生きているなら、それによって私たちが恵みを受けていないことを公に認めることになります。最も神聖な預言者たちもキリスト・イエスにあって生き、それゆえに迫害を受けました。彼らはキリストの恵みによって励まされ、イエス・キリストを通してご自身を現された唯一の神がおられることを、信じない者たちに確証したのです。キリストは神の永遠の言葉であり、沈黙から出たものではありません...だから、古い秩序の中で生きていた人々が新しい希望に近づき、もはや安息日を守らず、復活の命に生きていたならば - 私たちの命もキリストを通して、そしてキリストの死を通して輝き始めたのです - これを拒む者もいますが、この神秘を通して私たちは信仰の始まりを得、キリストの弟子となるために苦しみに耐えるのです。私たちの唯一の教師であるイエス・キリストの...それゆえ、キリストの弟子となった私たちは、キリスト者として生きることを学びましょう。この名以外の何かで呼ばれる者は、神のものではありません。だから、古く腐った悪いパン種を捨て、イエス・キリストという新しいパン種に変わりなさい。キリストによって塩味をつけなさい。あなたがたの誰かが腐敗しないように。そうすれば、悪臭があなたがたを非難することはないでしょう。イエス・キリストを呼び求めながらユダヤ人のように生きるのは矛盾です。キリスト教がユダヤ教を信じたのではなく、むしろユダヤ教がキリスト教を信じたのです。すべての民が神を信じて一つに結ばれるために」

(『マグネシア教会への手紙』8-10章)

「しかし、もし誰かがあなたがたにユダヤ教を説くなら、耳を傾けてはなりません。割礼のある者からキリスト教を聞く方が、割礼のない者からユダヤ教を聞くよりも良いのです。もしどちらもイエス・キリストについて語らないなら、私にとって彼らは柱であり、死人の墓です。そこにはただ人間の名が書かれているだけです」

(『フィラデルフィア教会への手紙』6章)

「しかし、もし誰かがあなたがたにユダヤ教を説くなら、耳を傾けてはなりません。割礼のある者からキリスト教を聞く方が、割礼のない者からユダヤ教を聞くよりも良いのです」

(『フィラデルフィア教会への手紙』19節)

永遠の地獄の苦しみについて

「もし肉に関してこのようなことをする者が死に値するなら、ましてや神の信仰を邪悪な教えで腐敗させる者はどうでしょうか。その信仰のためにイエス・キリストは十字架につけられたのです。そのような者は汚れた者として消えることのない火に行き、それを聞く者も同様です」

(『エフェソ教会への手紙』67章)

「聖書のみ」を主張する者への戒め

旧約聖書で証明できないことは信じようとせず、示されてもなお聖句の解釈について議論を続ける人々について語っている。聖イグナティオスは、たとえ聖書に書かれていても、彼にとってはイエス・キリストとその信仰がより古く(重要であり)、この信仰を直接使徒たちとその継承者から受け継いだと答えている:

「私はイエス・キリストの恵みによって、あなたがたがすべての束縛から解かれたと信じています。しかし、私はあなたがたに懇願します。議論のために何かをするのではなく、キリストの教えに従って行動してください。私はある人々がこう言うのを耳にしました。『古代の文書に見つからないなら、福音書に書かれていることを信じない』と。私が聖書に書かれていることを示すと、彼らは『証明する必要がある』と答えました。しかし、私にとってより古いものはイエス・キリストです。揺るぎない古きものは彼の十字架、その死と復活、そして彼の信仰です。これこそが、あなたがたの祈りの中で私を正当化するものなのです」

(『フィラデルフィア教会への手紙』30-32章)

テキストの年代について

聖イグナティオスの文書にはいくつかのバージョンが存在する:短縮版、中間版、長版である。このうち中間版が最も古く広く受け入れられている。3-4世紀のエウセビオス・カイサレイスはこの版の書簡集を言及している。

個々の書簡はさらに早くから言及されている。例えば2世紀、聖イグナティオスと同時代の聖ポリカルポス・スミルナはイグナティオスからの手紙についてこう記している:

「あなたがたもイグナティオスも、もし私たちの中からシリアへ行く者がいれば、あなたがたからの手紙も届けるようにと私に書き送りました」

(ポリカルポス『フィリピ人への手紙』55章)

ポリカルポスはイグナティオスの手紙と彼に関するすべての記録を集め、これらの文書を書き写し広めました:

「イグナティオスが私たちに送った手紙、および私たちが所持する他の手紙を、あなたがたの要請に従って送ります。それらはこの私たちの手紙に添えてあります。そこからあなたがたは大いなる益を得るでしょう。なぜなら、それらは信仰と忍耐、そして私たちの主におけるあらゆる教えを含んでいるからです。イグナティオス本人とその同行者について確かなことを知ったら、私たちにも伝えてください」(ポリカルポス『フィリピ人への手紙』57-59章)

現存する最古のギリシャ語写本(5世紀)は、先に述べたポリカルポスによるスミルナ教会への手紙です。ローマ人への手紙のギリシャ語写本は比較的新しい時代のものしか残っていませんが、5世紀のシリア語訳と古代アルメニア語訳が存在します。また4世紀のコプト語訳も残っており、ローマ人、スミルナ人、ポリカルポス、トラレス人、フィラデルフィア人への手紙が含まれています。

エウセビオス・カイサリア(3-4世紀)は、イリネイ・リヨンス(2世紀)の失われた手紙を引用していますが、その中でイリネイはイグナティオス・ボゴノセツのローマ人への手紙を引用しています:

12. イリネイも彼の殉教について知っており、彼の手紙に言及してこう語っている:「『神への告白のために獣に食われると宣告された私たちの一人(ローマ人への手紙で)が言ったように、「私は主の小麦であり、獣の牙で挽かれて、清いパンとなる」』(イグナティオス『ローマ人への手紙』19章)

(『教会史』第3巻36章)

エウセビオスは中間的な長さのテキストを引用しています。エウセビオスの記述と現存するテキストを比較することができます。相違点は以下の通りです:

エウセビオスの『教会史』より:

ἀπὸ Συρίας μέχρι Ῥώμης θηριομαχῶ διὰ γῆς καὶ θαλάσσης, νυκτὸς καὶ ἡμέρας, ἐνδεδεμένος δέκα λεοπάρδοις, ὅ ἐστιν στρατιωτικὸν τάγμα, οἳ καὶ εὐεργετούμενοι χείρονες γίνονται, ἐν δὲ τοῖς ἀδικήμασιν αὐτῶν μᾶλλον μαθητεύομαι· ἀλλ' οὐ παρὰ τοῦτο δεδικαίωμαι. ὀναίμην τῶν θηρίων τῶν ἐμοὶ ἑτοίμων, ἃ καὶ εὔχομαι σύντομά μοι εὑρεθῆναι· ἃ καὶ κολακεύσω συντόμως με καταφαγεῖν, οὐχ ὥσπερ τινῶν δειλαινόμενα οὐχ ἥψαντο, κἂν αὐτὰ δὲ ἄκοντα μὴ θέλῃ, ἐγὼ προσβιάσομαι. συγγνώμην μοι ἔχετε· τί μοι συμφέρει, ἐγὼ γινώσκω, νῦν ἄρχομαι μαθητὴς εἶναι. μηδέν με ζηλώσαι τῶν ὁρατῶν καὶ ἀοράτων, ἵνα Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐπιτύχω· πῦρ καὶ σταυρὸς θηρίων τε συστάσεις, ___ σκορπισμοὶ ὀστέων, συγκοπαὶ μελῶν, ἀλεσμοὶ ὅλου τοῦ σώματος, κολάσεις τοῦ διαβόλου εἰς ἐμὲ ἐρχέσθωσαν, μόνον ἵνα Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐπιτύχω

https://bibleox.com/ru/gr/w/ΕΚΚΛΗΣΙΑΣΤΙΚΗΣ_ΙΣΤΟΡΙΑΣ-3/#HH-36

イグナティオスの手紙より:

Ἀπὸ Συρίας μέχρι Ῥώμης θηριομαχῶ, διὰ γῆς καὶ θαλάσσης, νυκτὸς καὶ ἡμέρας, δεδεμένος δέκα λεοπάρδοις, ὅ ἐστιν στρατιωτικὸν τάγμα· οἳ καὶ εὐεργετούμενοι χείρους γίνονται. ἐν δὲ τοῖς ἀδικήμασιν αὐτῶν μᾶλλον μαθητεύομαι, ἀλλ ̓ οὐ παρὰ τοῦτο δεδικαίωμαι. ὀναίμην τῶν θηρίων τῶν ἐμοὶ ἡτοιμασμένων καὶ εὔχομαι σύντομά μοι εὑρεθῆναι· ἃ καὶ κολακεύσω, συντόμως με καταφαγεῖν, οὐχ ὥσπερ τινῶν δειλαινόμενα οὐχ ἥψαντο. κἂν αὐτὰ δὲ ἄκοντα μη· θελήσῃ, ἐγὼ προσβιάσομαι. συγγνώμην μοι ἔχετε· τί μοι συμφέρει, ἐγὼ γινώσκω, νῦν ἄρχομαι μαθητὴς εἶναι. μηθέν με ζηλώσαι τῶν ὁρατῶν καὶ ἀοράτων, ἵνα Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐπιτύχω. πῦρ καὶ σταυρὸς θηρίων τε συστάσεις, ἀνατομαί, διαιρέσεις, σκορπισμοὶ ὀστέων, συγκοπὴ μελῶν, ἀλεσμοὶ ὅλου τοῦ σώματος, κακαὶ κολάσεις τοῦ διαβόλου ἐπ ̓ ἐμὲ ἐρχέσθωσαν, μόνον ἵνα Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐπιτύχω

https://bibleox.com/ru/gr/w/ΙγνΘ_Ρωμ/#L23-26

聖イグナティオスの書簡の短縮版は、決して偽作として作成されたものではないと考えられます。古代には、有名な著作の要約を作成するという慣行がありました。例えば2世紀には、ユスティノス哲学者の弟子タティアノスが、四つの福音書を一つにまとめた『ディアテサロン』を編纂しました。これは教会で長く読まれ、時には福音書の代わりに用いられるほど知られた作品で、後に福音書そのものを読む習慣に戻す必要が生じました。『ディアテサロン』は偽作として意図されたものではなく、あくまで補助的な作品として作成され、そのような形で普及したのです。

『ディアテサロン』の存在は、福音書の信憑性を否定するものではなく、福音書の成立時期を2世紀に遡らせるものでもなく、また『ディアテサロン』自身が1世紀の作品であると主張するものでもありません。これはあくまで2世紀の作品なのです。

聖致命者イグナティオスの文書については、研究者の間でかなり高い信頼が寄せられています。

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Опубликовано пользователем: Rodion Vlasov
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