イサアク・シリン・ニネヴィの、7世紀

『修行訓話』現代語訳 #2

第23訓話 黙修を愛する兄弟へ宛てた書簡

兄が黙修を慕っているようなので一筆執ることにした。どうやらその思いを悪魔に見抜かれて、一見善いものに見えるものでいろいろ惑わされてしまっているようだね。このままではすっかり気を奪われて、いろいろな善の元となる黙修という徳を諦めざるを得なくなってしまうだろう。だから善良なる兄よ、親友としてその善き願望を支えるべく、徳の賢人たちから学んだことや実体験して学んだこと、さらに聖書や師父から学んだ有益な言葉を書き送っておこうと思う。なにせ誉められても貶けなされても気にしないぐらいでないと黙修はできないし、たとい笑われても罵られても殴られてもぐっと堪え、いっそ白痴とかバカとか呼ばれるくらいにならないと黙修という善き志を貫くことなどできないからだ。なぜなら、ひとたびそういう他者の評価に対して何らかの反応を示したが最後、悪魔にいろんなきっかけをこしらえられて、いくらでも人と会ってまたそういう反応をするように仕向けられてしまうからである。というわけで、もし兄が黙修という徳を真に愛し、古代の師父が打ち勝ったように気を散らしたり諦めたり投げ出したりしなければ、その見上げるべき願望をかなえてくれる道を見出すだろう。しかも師父に倣って師父のように歩もうとした途端に見出すことだろう。そもそも師父たちは、黙修に徹することを愛して隣人愛を見せようともしなかった。あえて隣人をなだめようともせず、地位の高い人との面会を避けることすら憚らなかった。

そうやって師父は歩んだのだ。だからといって賢人とかこの道を知る人たちから、「兄弟のことを突き放して見下げる気か」とか「単にだらけているだけか、あるいは分別を失ったのではないか」などと咎められることもなかった。むしろ社会活動よりも黙修や修道を敬う人々の一人に「人は僧房にて黙修の甘美を知ると、他人を見下げて避けるわけではなく、ただ黙修の成果を守ろうとして避けるようになる」とまで弁護されたのだ。その人は「なぜ師父アルセニイは人を避け、いつも人に出くわすなり逃げ出したのだろうか」とも問うている。師父フェオドルなど、人と出くわすなり剣に刺されたと思っていたそうだ。だから僧房の外で人に会っても一言も挨拶をしなかった。しかも聖アルセニイなど、にこやかに僧房を訪れてきた相手にさえ挨拶しなかったのである。というのは、別の師父が訪ねてきたとき、つい世話役かと思って扉を開けてしまったのだが、世話役ではないと分かるなり突っ伏して、いかに相手が「どうか立ち上がってください、祝福だけいただいたら必ず帰ります」と頼んでも、「いや、お帰りになるまで立てません」ときっぱり断ったのである。ひとたび迎え入れたら、きっとまたやってくるに違いないと考えたからである。

もしや「それは会いに来た師父が、単に身分の低い人だったからアルセニイとしても断ったのではなかろうか。たぶん相手の地位さえ高ければ、顔を合わせて話をしたに違いない」などと思うだろうか。そんなことはこの手紙を読み進めてくれれば言えなくなるだろう。それどころか、アルセニイは身分の貴賤に関係なくだれをも等しく避けたのである。肝に銘じていたことはただ一つ、相手が偉かろうと偉くなかろうと黙修ゆえに関わらないこと、そして黙修しきるという名誉を守るためならば、いかに非難されようとも構わないと覚悟していたのだ。そうそう、次の話は兄も聞いたことがあるだろう。あるとき最高裁判官が師父アルセニイを表敬訪問したいと言うので、かの大主教福フェオフィルがその裁判官を連れてアルセニイを訪問したという。ところが師父アルセニイときたら、二人がどんなに言葉を聴きたそうにしていても、訪問者の栄職に対するご挨拶さえまともに述べなかったのである。ついに大主教から何かひとこと言ってくださいと頼み込まれると、しばらく黙ってから「何か申し上げたら守ってくださるでしょうか」と訊いたという。そして「もちろんですとも」という賛同を得るや、「ぜひ、どこそこにアルセニイがいるという噂を耳にされたら、どうかそこへは近寄らないでください」と返したのである。この善良な長老の尋常ならぬ精神に気づいただろうか。どれほど会話を軽んじていたか分かっただろうか。これぞ、黙修の実を刈り取った人間である。こんな奥地まで全世界の教師かつ教会の頭かしらがご足労くださったなどとは思いもせず、ひたすら「いちど世に対して永久に死んだ身だ。その死者がどうやって生者のお役になど立てようか」と念じていたのである。さらに、かの師父マカリイからも「なぜそんなに逃げようとされるのですか」と優しく問い詰められたとき、ものの見事に「あなた方を愛していることは神様がご存じです。ただ神と共にいながら、同時に人々と一緒にいることはできないのです」と弁明したという。はて、どこからこのような驚くべき知恵を得たのかというと、まさしく神の声以外のどこからでもなかった。なにせ「アルセニイよ、人々から逃げよ。そうすれば救われるだろう」というお告げを聴いたからである。

かりにあなたがどんなにおしゃべり好きな暇人であったとしても、アルセニイの言葉を踏みにじって「そんなのは、黙修を引き立てるために人間がひねり出した作り話でしょ」などと反論してはいけない。そんな厚顔無恥になってはいけない。むしろ、これは天上の教えなのだ。それに俗世から逃げればよいという話でもない。いっそ修道士兄弟からも逃げよという教えだったのである。現にアルセニイが世を捨てて大修道院に入った後にも何が起こったか。修道院でどう徳を積んだらよいか神に訊ねながら、「主よ、救われる道をお示しください」と祈ったとき、どういう答えを聞いたのか。きっと何か違うお告げを受けるだろうと思いきや、またもや「アルセニイよ、逃げよ。口をきかずに黙修せよ。たしかに兄弟と対話することで得られるものも沢山あるが、お前にとっては逃げた方がずっとためになる」と主宰の声に言われたではないか。そしてこの啓示を受けるなり、たしかに世俗人から離れるだけでは足りず、万人から等しく逃げないことには善き人生を送れないと確信したのである。なにせ俗世にいたときにも逃げろと言われ、修道院にいてもまた逃げろと命じられたのだ。はたして神の声に逆らって口答えできる者がいようか。それに、かの聖師父アントニイもまた、やはり啓示のうちに「黙修したければフィヴァイダに行くだけでなく、内面の奥深くにある砂漠に行け」と告げられたではないか。というわけで、神を愛する黙修者たちが、これほどにも人を避けて黙修を愛しなさいと神に命じられているというのに、どうして人々と睦まじく語らうことを正当化できようか。もしアルセニイとアントニイほどの聖人にとってさえ、慎重に逃げておくことが役に立ったのだとしたら、それこそ誘惑に弱いわれわれには逃げることがどれだけ役立つだろうか。そもそもアルセニイやアントニイといえば、世界中の人々から「ぜひお会いしてご助言を賜わりたい」と乞われていたような方々である。かかる聖人でさえ、全信徒、いや全人類に救いの手を差し伸べるよりも黙修した方が良いと神に告げられていたのだとしたら、まだ自分自身もろくに守れない者にとっては、どれほど黙修が欠かせないであろうか。

それに、こんな聖人の話も知っているだろう。その聖人は、あるとき属神の兄が病に倒れて別の僧房に隔離されたというのに、兄の闘病中に同情心に打ち勝って見舞いにも行かなかった。ゆえに差し迫る死を悟った兄から使いがよこされてこう告げられたという。「これまで見舞いにも来なかったのだから今くらいは足を運んでくれ。世を去る前に一目お会いしておきたいのだ。たとえば真夜中に来て、闇に隠れたままでもいい。君の手に接吻してから逝くことにしよう」と。しかし福なる聖人はこのような時でさえ、つまり人間であれば同情心からふつう折れざるを得ないような状況においてさえ、きっぱりと「もし行けば神の前で心が汚れてしまう。楽なほうをとって属神の兄を訪問し、ハリストスよりも本性を優先したことになるからだ」と言ったのである。そして病気の兄は逝き、この聖人に会うことはなかった。

ゆえに、だれ一人としてそんなの無理というふりをしてはならない。楽をして神の摂理に逆らって黙修を止めてはならない。もし聖人がこの勝ちがたい本性に打ち勝ち、黙修者が人々に疎んじられてもハリストスに愛されるのならば、もはや黙修を止めてまで優先すべき事柄などあろうか。福音書には、全世界も本性も二の次にして「心をつくし、霊たましいをつくし、意おもいをつくして、主なんじの神を愛せよ」(マトフェイ 22 : 37)という戒めがあるが、この戒めは黙修の中でこそ実行しきれる戒めなのだ。そのうえ「隣人を愛せよ」という戒めもまた、黙修すればこそ可能となる戒めなのである。はたして戒めどおり、心に隣人愛を持ちたいと思うであろうか。持ちたければ、隣人から離れよ。離れればこそ、隣人への愛が炎のごとく燃え上がり、隣人を見るなり光の天使に会ったかと思うくらい胸がときめくことだろう。それと同じく、愛してくれている相手に、もっと会いたいと渇望してもらいたいだろうか。渇望してもらいたければ、そのような相手とは会う日を限定せよ。実際に限定してみれば、これがいかに効果覿面であるか分かると思う。どうか、お元気で。光栄と感謝はわれらの神に世々に帰す、アミン。

第24訓話 実兄に送付した書簡。世間で暮らす実兄から、ぜひとも会いに来てくれと頼み込まれた書簡数通に対する返信

お兄さんが思われているほど、私たちは強くありません。それに、もしかしたら私の弱さをご存じないために、まさかそんな些細ことで身を滅ぼすことなどあるまいと思われているのかもしれません。ゆえに気の向くままに思うべきではないことまで何度も頼み込んでくるのかもしれません。どうか肉体的な安らぎや機嫌を満たすことを要求しないでください。むしろこの霊たましいが救われるように慮ってください。あといくらもしないうちに私たちもこの世から去ることになるでしょう。万が一、お兄さんのところへ会いに行ったりしたら、道中どれほど大勢の人に出くわすことになるでしょうか。この僧房へ帰ってくるまでに、どれほど世間の慣習や状況が目に飛びこんでくるでしょうか。そしてそのたびに、どれほどこの霊たましいに想念の火種を受け入れてしまうでしょうか。やっとのことで慾が収まりかけてきたばかりだというのに、またもや慾がぶり返して、どれほどうろたえることになるでしょう。まさかご存じないわけではありますまい。どれほど修道士が世俗的なものを目にすると良くないか、きっとよくご存じのはずです。考えてもみてください。長いあいだ自分の内にこもっていた黙修者が、いきなり世俗に入って忘れていた事柄を見聞きしたときに、知性がどれほど変化を蒙るか。そもそも修行して敵(悪魔)と闘っている最中に、ただ苦行に無縁な修道士に会っただけでも被害を蒙るというのに、あろうことか世間に足を踏み入れたりした日には、どれほど深い井戸に落ちてしまうことでしょう。とくに何年も修行して知識を得た者ほど危険なのです。ああ、どうか敵の棘にやられませんように。ですから、どうしようもない事情でもないかぎり、たやすく来てくれなどと言わないでください。なかには目や耳から情報が入っても被害を受けないと言い切る人たちもいますが、そういう人たちの魅力に惑わされてはなりません。たしかに世の中には、荒野にいても世間にいても考えが変わらず、僧房にいても戸外にいても羽目を外さず、人や物を見ても慾が渦巻かない人もいるでしょう。そのように断言する人たちは、危害を加えられても何とも思わない人たちなのです。でも私たちは、まだ精神的にそこまでの健康状態には至っておりません。まだまだ傷口があちこちにあって悪臭を放っています。こんなに傷口があるというのに、もし一日でも放ったまま処置しなければ、つまりきちんと薬を塗って包帯を巻いてあげなければ、たちまち蛆虫にうじゃうじゃ覆われてしまうような分際なのですよ。

第25訓話 人が何かを知ろうとするときの手段は三通りあり、それぞれ「知り方」や「知り得るもの」が異なる。そのうち信仰とは霊たましいに秘められた富であり、その純朴さは世の知恵者が駆使する「知り方」とは掛け離れていることについて

信仰の道を歩んで人生の大半を過ごし、それなりに信じられるようになったというのに再び知恵に頼ろうとするならば、ほどなく信じにくくなって神゜で信じる力を失ってしまうだろう。なぜなら神゜による信仰力とは恩寵と手を組む純朴なものであり、自分のことを顧みて知恵を働かせたりしない清い霊たましいに宿るものだからである。ひとたび神を信じきって献身し、少しずつ経験を積んで神の助力を知りつくしたのなら、すでに自分のことまで思い煩わないはずだ。むしろ驚嘆して口をつぐみ、もはや自分の知恵を駆使しようなんぞ思わないはずなのである。なぜなら知恵を用いて逆らった日には、摂理による助力を失ってしまうからである。もとより神にひそかに見守られて始終いろいろ助けてもらっている分際にもかかわらず、こともあろうに知力だけで霊たましいの面倒を見られると夢見たようなものだからである。しかし信仰の光に目覚めている者ならば、神に祈りながら「これを与えてください」とか「これを取り除いてください」などという恥知らずな態度に出ることはなく、自分のことなど一切思い悩まないはずなのだ。なぜなら信仰による心眼で、いつも自分を照らしてくださる神父かみちちの摂理を見ているからである。現に、真の父はいかなる「父の愛」も及ばぬ無限の愛で、こちらが想像しうる量をはるかに超えて助けてくださっている。その溢れんばかりの絶対的な助力を心眼で見届けているからこそ、信じる者は自分のことを慮らないのである。

知恵は、信仰に逆らうものである。いっぽう信仰は、つねに信仰のおよぶ事柄にて知恵の法則を破っていく(ただし属神的知恵の法則は破らない)。知恵は、探求や研究なくしては何ひとつ実行できないどころか、むしろ考えたことや欲しいものが実現可能かどうか詮索せずにはいられない。その点、信仰はどうか。信仰は、信仰に対して曲がった心で近づく者を許さない。

人は知恵を増し加えていこうとする際、ひとまず探してみないことには見つけられず、いろいろ試してみないことには何の知恵も得られない。そしてこの点こそ、真理に対する迷いの兆しなのだ。いっぽう信仰をもつ際には、ただ清く単純に考えることだけが必要となり、裏から手を回したり工夫を凝らしたりすることは一切ない。かくして、信仰と知恵が互いにどれだけ相反するものであるのか分かっただろうか。信仰は、嬰児のごとき理解力と純朴な心に宿るものである。なにせ「歓喜よろこびと朴直すなおなる心とをもって(中略)神を讃美し」(行実 2 : 46)とか、「なんじらもし転じて、幼児おさなごのごとくならずば、天国に入るを得ず」(マトフェイ 18 : 3)と言われているではないか。ところが知恵ときたら、この純朴であるべき知と心に罠をかけて自分の方へ引っ張るのだ。

知恵とは本性の限界内にあるため、本性の向かう先々で本性を守ろうとする。いっぽう信仰は、本性を超えた次元にて闊歩する。知恵は本性に危険なものには近づくことができず遠ざかろうとするが、信仰はやすやす近づいて「なんじ蝮と毒蛇とを踏み、獅子と大蛇とを踏まん」(聖詠 90 : 13)と宣言する。知恵は恐怖を伴うが、信仰は希望を伴う。人は知恵に頼れば頼るほど恐怖に包まれてその恐怖から逃れられなくなる。しかし信仰に従うのであれば、じきに自由な身になって独裁力を帯び、さながら神の子のように権威をもって自由に何でもできるようになる。このような信仰に生きた者は、神のごとく受造物の本性を統御できるようになる。なぜなら信仰を持つと、神に肖にて新しい受造物を造り出す可能性が与えられるからである。聖書でも「望むなり」(イオフ 23 : 13)、すべてなんじの目の前に現れた、と言われているではないか。信仰はしばしば無から何かを引き起こすこともできる。しかし知恵は素材なしに何かを引き起こすことはできない。ゆえに自己過信して不可能なことをやろうとはしない。それにどうやってそんなことができようか。河面を歩けないのは当然だし、火に近寄れば燃えてしまうのは明白だ。たとえ、いっそ試してみるかと勇気を振り絞ってみたところで、とばっちりを食うことは目に見えている。

かくして、知恵はそういう危険から用心深く自分を守り、決してその一線を越えることはしない。だが信仰は独裁的に一線を越えて「火の中を歩いても焼かれず、大河の中を通っても押し流されない」(イサイヤ 43 : 2 参照)と言い放つ。現にそういうことを全受造物の前で幾度となく起こしてきた。しかし知恵はそんなふうに行動する機会が与えられたとしても、まず試しやしないだろう。というのも人々は信仰によってこそ、しばしば炎に入って焼きつくす火力を抑えて無事に通り抜け、陸地を歩くようにして海上を歩いたからである。どれもこれも本性を超えた行為にして知恵の手段に反し、かつ知恵の手段や法則が空しいことを見せつけた事例である。さあ、どのようにして知恵が、本性の限界を固守しているか分かっただろうか。そして信仰が、どのように本性を超えた次元でいきいきと闊歩しているか分かっただろうか。こういった知恵の法則がおよそ五千年のあいだ世を支配してきたがゆえに、人間は地から頭を上げて造物主の力を知ることができなかったのである。しかしわれわれの信仰が輝いて以降、もはや考えあぐねて世の闇に隷属してしまう習性から解放された。ところがだ。こうしてようやく平穏な海と無尽蔵の宝を見つけたというのに、われわれときたらいまだに取るに足らない源泉に頼りたくなってしまう。でもどんなに知恵をつけたところで、しょせん人知には限界がある。しかし、信じれば地にも天にも収まりきらないほどの宝を得るのだ。人は信じて望んで心を強めると、何ひとつとして失うものがなくなる。たとえ何ひとつ手に持っていなくても、信仰によってすべてを持っている(コリンフ後 6 : 10 参照)。じつに「およそ祈祷のとき信じて求むるところは、ことごとくこれを得ん」(マトフェイ 21 : 22)とか、「主は近し。何事をも慮るなかれ」(フィリッピ 4 : 5~6)と言われているとおりなのだ。

知恵はつねに得たものを何とかして守ろうとする。しかし信仰は「もし主家を造らずば、造る者徒に労し、もし主城を守らずば、守る者徒に儆醒す」(聖詠 126 : 1 参照)と告げる。だから信じて祈っている者は、自分を守ろうとしたり、自己防衛の手段に頼ろうとしたりはしない。

しかも知恵は、いつの時代でも「恐れ」を讃えてきたのだ。それは「〈主を〉恐れる者の霊たましいは幸いなり」(シラ 34 : 15)という知者ソロモンの言葉からも分かる。しかしその点、信仰はどうか。まさに信仰が揺らいだ途端に「恐れ、溺れんとし」たというではないか(マトフェイ 14 : 30)。よって聖書は、ハリストスのおかげで「なんじらは奴たる神゜、なお恐れを抱くものを受けたるにあらず、すなわち子たる神゜(を受けた)」のだと説く(ロマ 8 : 15)。そして思うがままに神に信頼を寄せられるようになったのだという。だからこそ神に逆らう者たちを恐れて逃げ出すなともいう(エゼキエル 2 : 6 参照)。恐れを抱けば疑念が湧く。疑念が湧けばあれこれ詮索したくなる。そして詮索する際に用いる手段はただひとつ――知恵である。そのうえ探求して詮索している最中にも、いつの間にか恐れと疑いを抱いている自分を知る。なぜならすでに述べたように、知恵はいつでもどこでもうまく行くわけではないからだ。たとえば精神的に追い込まれたり不幸が重なったりした危機的状況下では、いくら知恵を絞っても何の解決にもならない。その逆に信仰は、全力を尽くしても頭をひねっても二進も三進もいかない逆境下であっても挫けることはない。だいたい知恵の力だけで、目に見えない霊や目に見える軍及びその他多くの敵ともろに闘って勝てるわけがあろうか。さあ、知恵と信仰の歴然とした力の差が分かっただろうか。人は知恵に頼るとき、本性にそぐわないものに近寄ることはできない。しかし信仰の力に頼るとき、まさにどうなるのか。主に「わが名によりて、魔鬼を追い出だし、蛇を操とり、毒を飲むとも、かれらを害せざらん」(マルコ 16 : 17~18)となるだろうと告げられている。

知恵に頼る者は知恵の法則に基づき、何をするにもまず着手以前に結果を探し求めてから取りかかろうとする。もしもその結果がひどい労苦を伴うものであるならば徒に汗を流すまいとし、また、着手後に力量不足で実現できなかったなんてことのないようにしようとするからである。だが、信仰に頼る者はどうなるか。「信ずる者には能よくせざることなし」(マルコ 9 : 23)と言われている。なぜなら神に不可能なことは何ひとつとしてないからである。ああ、なんという言いがたい富であることか。信仰やその力から溢れ出る宝の上には、なんという限りない賜が溢れていることか。信仰の道を歩むのであれば、どれだけ大胆になれて心地よい希望に満たされることであろうか。信仰の荷はなんと軽いのであろう。その行いはなんという甘美を伴っているのだろう。

質問  信仰の甘美を味わった後で、ふたたび知恵に頼る者は、どういう人に似ていると言えるでしょうか。

回答  高価な真珠を見つけたのに、それを銅貨に換えた人に似ている。完全に自由人であれる特権を持っていたのに、それを捨てて赤貧に戻って震え慄いている奴隷に似ている。

知恵は非難すべきものではないのだが、単に知恵よりも信仰の方が上なのだ。たとい非難するとしても知恵そのものを非難すべきではないし、知恵自体は非難してはならぬ。ただ知恵を信仰に反して悪用したり、それこそ悪知恵として使ったりすることが問題なのだ。この点については、次の諸点も含めて詳しく後述することにしよう。いったい知恵には、このように望ましくない方向へ上る階段が何段あり、上るごとにいかなる発見があるのか。そういう使い方をしていると、何を考えるようになるのか。そしてどのような使い方をしたときに信仰に反し、本性に背いてしまうのか。背いたとき、どんな特徴があるのか。その逆に、本来の目的に戻ってきたときには、いかなる水準で生来の性質に戻り、信仰に向かって敬虔に生き始めるのか。その敬虔な状態は、どこまで発展していけるのか。どうすれば現段階よりも上の段階に移れるのか。現段階や他の段階ないし上位段階には、どういった知恵の使い道があるのか。そして知恵が世を捨てて信仰と一体化して奮い立ち、神゜も燃えて無慾の翼を得るとき、いったいどんな方法で造物主の領域に昇ってゆくのか。もっとも、ふさわしい時の訪れるまでは、さしずめ信仰と信仰による上昇及びそれらの業が「知恵よりも上位である」と知っているだけで充分である。

知恵自体も信仰が加わってこそ円熟し、高みへ昇る力を得る。そしてあらゆる感覚を超えたものを感じ取り、受造物の知性や知恵では捉えがたい「かの光線」を観るようになる。知恵とは、階段である。人は知恵という階段を上って信仰の高みに昇るため、信仰の高みに至りしだい階段は要らなくなる。というのも、われわれは現時点では「知るところ全からず」、つまり知ることのできる部分もあれば想像するしかない部分もあるわけだが、「全き者の来るとき、全からざる者は止まん」(コリンフ前 13 : 9~10 参照)となるからだ。というわけで、もはや実際に完徳というものがあることを思い描かせてくれるのは信仰なのだ。その測りがたき完徳は、信仰によって研究することはできても、探求や知恵でもって研究することはできない。

正義の業とは以下のとおりである。斎をしたり喜捨をしたり、儆醒して貞潔を守るなど体を介した行為。また、隣人愛や謙遜を育んで過失を赦し、天の福楽を思って聖書の奥義を究め、心の中でいかに慾を抑えて完徳を目指そうか思いめぐらす知的修行。いずれの業においても知恵が欠かせず、知恵でもってその業を守り抜く。どの業も、霊たましいが信仰という頂点に昇りきるまでの階段にすぎないとはいえ、やはり徳行と呼ばれている。しかるに信仰による生活というのは、徳行よりも上にある。そもそも信仰による修行とは、本質的に業ではなく、波ひとつ立たない平安であり慰安なのだ。そして心の中の言葉を聴こうとする霊的活動なのだ。さらに尋常ならぬ属神的生活を送り、属神的生命を感じて楽しみ、霊的に楽しみながら神を求めて喜ぶことなのである。それ以外にも、天の福楽にふさわしい霊たましいに与えられる賜は多い。それらは、信仰深く聖書に示されているように、恵み豊かな神によって現世にもたらされる奇蹟そのものなのである。

疑問  でもこう考える人が出ないでしょうか。「もし知恵でもってそういう徳行や福楽を得ているのなら、なにゆえ知恵が信仰に逆らうなどと言うのか。そもそも知恵を用いればこそ悪習を避けることができ、霊たましいに湧く微妙な想念を見極めて闘うこともでき、激しい慾にも立ち向かえると言ったではないか。知恵を働かせなければ、信仰だけでは霊的修行を行えないではないか」と。

疑問への解答  お答えしよう。知恵の使い道には三通りあり、人はこの三つのあいだを昇ったり降ったりしている。使い道が変わることもあるし、知恵自体も変化することがある。知恵はそういった変化によって、人に害を及ぼすこともあれば益をもたらすこともあるのだ。ここでいう三つの使い道とは、体のためか、霊たましいのためか、神゜のためかである。そして知恵自体は一つなのだが、こういった思惟や感覚の領域に合わせて鋭くなったり、使い道や考え方を変えたりする。よく心して聴きたまえ。三つの使い道とはどういうもので、何が原因となって害や益をもたらすのか。知恵というのは理性的実体が造られた当初から授かってきた賜であり、もとより日光のごとく純朴で区分できないものなのだが、いかに知恵を働かせているかによって変化したり区分できたりするものなのである。

第26訓話 知恵の第一段階について

知恵が肉欲の言いなりになっているとき、人は次のようなことしか考えない。「いかに富んで見栄を張り、お洒落をして体に楽をさせようか。どう賢く説き伏せて世を渡り、革新的な発明をしてみせようか」など。また、そういう抜け目なさで芸術作品や学説をこしらえて、目に見えるかたちで世俗的名誉を受けようとする。まさにこのような点において、知恵は信仰に逆らうのである。こういった知恵が不毛な知恵と呼ばれているのも、神慮を無視して体ばかり重視しているせいで知性が愚かにも無力となり、完全にこの世のことしか考えられなくなっているからである。これが、肉的な知恵の姿である。こんなふうに知恵を働かせることができるのも、じつは知恵というものがひそかに人を操る思惟力であり、まちがいなく当人のことを心にかけてくださっている神の慮りの力だからである。だから当人としても世を支配する神の摂理が見えず、まさに知恵のおかげで上手に暮らし、ここで知恵を絞ったからこそ危険を避け、あらゆる困難から逃れられたのだと思いこんでしまうのだ。頭でっかちな知恵者はこのように考えている。そして、すべて自分の思うように物事が進んでほしいと夢見ているので、その点では現世に支配者などいないと主張する連中と同じだ。もっとも、こういう知恵者は心配が絶えず、身の危険への恐怖が絶えないため、びくびくして悲しんだり絶望したり、魔鬼や人々に怯えたり、強盗の噂や訃報を受けて身震いする。さらに病気しないように用心し、必需品に事欠かないようあくせくしながら死も苦難も恐れ、禽獣に遭うことなども怖がっているので、まるで年がら年中荒れ狂う海を泳いでいるかのようだ。なぜなら心配事を神に預けて神を信じきるという術を知らないからである。だからこの身にまつわることをどうやって乗り越えようかと考えたり、抜け目ない手段を編み出したりするのに忙しい。そして編み出した手段がふとした拍子に失敗した日には、もしもその失敗に込められた摂理を見抜けなければ、進みたいと思っている前途に立ちはだかってくる人々といがみ合うことになる。

まさにこの知恵に「善悪を知る木」が植えつけられているため、ことごとく愛を干からびさせているのだ。だからこのような知恵をよりどころとする者は、他人の微々たる失敗を詮索し、他人の咎や弱さを非難し、説教を垂れて言い返したくなり、ずる賢い手や謀略を用いて人道に反する手段にまで触手を伸ばす。そこにあるのは思い上がった傲慢だ。なぜなら善いことはすべて自分に帰しており、神に帰さないからである。

いっぽう信仰は、自分で行なったことも恩寵によるものと捉える。ゆえに「われを堅むるイイスス・ハリストスによりて、われ能くせざるところなし」(フィリッピ 4 : 13)とか、「しかるに我にあらず、すなわち我と共にする神の恩寵なり」(コリンフ前 15 : 10)とあるように、思い上がることなどできない。しかも福なる使徒はこの肉的な知恵のことを指して、「知識は誇りを致す」(コリンフ前 8 : 1)と言ったのだ。つまり神への信仰や希望を伴わない知恵を指してそう言ったのであって、決して真実の知恵を指してそう言ったのではない。そんなことはありえない。

いっぽう真実の知恵は、人性にあたうかぎりくもりなき知恵へ至った霊たましいをへりくだらせる。それは、かつてモイセイやダヴィドやイサイヤや、ペトルやパウェルをはじめとした聖人たちが、くもりなき真実の知恵に至って遜ったのと同じである。このような聖人に似た者たちも、いつも並みならぬ観照を目にしながら、神の啓示や属神的な事柄を洞察して得もいえぬ奥義を知ってゆく。すると、自分の霊たましいなど取るに足らない塵灰のごとく見えてくる。いっぽう肉の知恵は、闇の中を歩いているがゆえに驕り高ぶっている。そして地上の物事と見比べて自分の業績を評価し、何かもっと優れた物事があるということを知らない。概してそういう人たちは地上に根付き、他者との暮らしぶりを見比べて矜恃を抱いているので、自分の業績にあぐらをかいて、悟りがたきことなど考えようともしない。そしてこのような状態に留まっている限り、その状態から抜け出られない。しかし聖人たちは、誉れ高き神聖な徳のうちに成長してゆく。その行動が高みへ向かい、空しいことや新発明に対して見向きもしないのは、ひたすら光の中を歩んでいて迷いようがないからだ。ゆえに人間は、神の子を知る光から遠ざかって真実から逸れるなり、だれもがこういうちっぽけな路を歩むことになる。この小路こそ知恵の第一段階であり、知恵が肉欲に利用されている段階である。ゆえに、われわれはこの知恵を有害なものとし、信仰だけでなく諸徳にも逆らう知恵とみなしているのだ。

第27訓話 知恵の第二段階について

人は第一段階を捨てて霊的なことを渇き求めていれば、霊たましいの生来の光に照らされて五感でも霊的観照でも優れた修行をするようになる。つまり第二十五訓話でも述べたとおり、斎をして祈り、喜捨をして聖書を精読し、徳を積んで慾と闘うようになる。というのは、この段階にて知恵の力をとおして善行をするのは聖神ご自身であり、まさに聖神が霊たましいを善い状態にして正教徒らしく奉仕させてくれているからである。心もこの知恵が降ってくるおかげで信仰の道を見つけ、来世へ持ちこめる徳を積み上げてゆく。しかしこの段階においても、知恵はまだ目に見えるかたちでいろいろと思い描いている。たしかにしっかり信仰へ導いてくれる道であるとはいえ、実際にはこの段階よりももっと高度な知恵があるわけだ。ゆえに第二段階として人里離れて黙修に徹し、聖書を読んで祈り、その他この段階でなすべき善行に勤しんでいれば、あわよくばハリストスの助力を受けてより上位の段階へ行ける可能性も開けてくるであろう。第二段階の知恵によってこそ、すばらしいことが何もかも生じてくるのである。よって、第二段階の知恵は「修行の知恵」と呼ばれている。なぜなら五感を駆使した修行でもって、目に見える水準の修行を成しとげていくからである。アミン。

第28訓話 知恵の第三段階、つまり完徳の段階について

さあよく耳を傾けて、どうすれば人が研ぎ澄まされて属神的になり、天使の生活に近づけるのか見極めよ。天使は、目に見える形ではなく知性の注意力のみで仕えている。ゆえに、われわれも俗事を慮らずに知恵を地上から昇華させ、内なる思いを調べて慾の要因をいくらか軽んじることができたとき、そのとき天を仰いで信じたとおり来世を思えるようになり、約束された事柄や奥義も探求できるようになるのだ。すると知恵は、信仰の勢いに呑まれて新たな知恵に変容する。そう、丸ごと神゜となるのである。

そのとき知恵は、天使の領域を飛んでふれがたい海の底に触れ、もとより天使も人間も恩寵のおかげで知覚しているという奇蹟に思い至り、研ぎ澄まされた純朴な知性だけが悟りうる属神的奥義を探すようになる。すると内なる意識も属神的修行に目覚め、来世の朽ちない不死の生命を得ようとする。このように、まさに地上にいるうちに「内なる意識が目覚める」という現象自体が、すでに思考内で知恵がひそかに復活し、来るべき万人の復活を実証したということなのである。

以上の三段階が、知恵の使い道の違いである。まさに体のために使うか、霊たましいのために使うか、神゜のために使うか、の違いである。人は物心がついてから息を引き取る瞬間まで、霊たましいで物事をとらえる際にこの3つの次元を行き来する。そして3つのうちどの次元にいるかによって、恥ずべき不正を犯したり、優れた正義を行なったり、神゜の奥義の深みに触れたりするのである。そしてその3つの次元にわたる知恵を常時働かせて、善を目指したり悪に傾いたり、あるいは善悪の中間地点で迷ったりするのである。師父は、これらの次元を「本性的知恵」「反本性的知恵」「超本性的知恵」と名付けた。そしてこれぞ、知恵ある霊たましいが記憶の中で昇り降りする3つの方向性なのである。人はこの3つの方向性にそって、上述したように本性による正義を行なったり、あるいは本性を超えた正義を思い出したり、あるいは豚に成り下がって堕落し、分別という財産を無駄遣いして悪鬼に加担したりしてしまうのだ。

上述した知恵の三段階のまとめ

人は知恵の第一段階にいるとき、霊たましいが冷えて神への修行に向かえない。第二段階にいるとき、霊たましいが熱くなって信仰の水準にあるものへ邁進する。第三段階にいるとき、手をやすめて平安を得(これぞ来世の像である)、つねに知性で学んで来世の奥義を楽しむことができる。とうぜん前段階の逸れやすい知恵よりも優れているわけだ。しかし、そもそも重い肉体を着た死すべき身でありながら常にとびぬけた高みで属神的に洞察しつづけるわけにもいかない以上、第三段階の知恵も非の打ち所のない完全性に仕えることはできず、肉性を捨てきって霊界に留まり続けていることなどできない。むしろ人は肉体をもって生きている限り、つねに知恵の三段階を行き来する状態にあるのだ。ろくに何もできずみすぼらしかった霊たましいがいきなり第二段階、つまり徳の中級レベルで働き出すこともある。もしかしたら生来の徳をするよう体の本性に助けられたのかもしれない。そうかと思いきや、さながら神の子となる神゜を受けたかのように神秘の中で自由に、属神的恩寵を賜わった方にふさわしく楽しむこともある。その上で、ふたたびへりくだって身体的業務に戻るのだ。すると恩寵が、その人の霊たましいを守って偽りの世に釣られて敵に騙されないように防ぐだけでなく、どぎまぎさせるふしだらな思いからも守ろうとする。なにせ肉体をまとっているうちは信用できないからである。というのも、この不完全である時世において、完全な自由などありえないからだ。知恵というのは、どの段階であろうとも実地に活かしながら磨いていくものである。ただし信仰は、実地に活かすのではなく属神的思考で行なうものにして純粋に霊的行為であり、意識よりも上位にある行為である。というのは、五感で感じられる物よりも知恵の方が繊細なように、知恵よりも信仰のほうが繊細だからである。いかなる聖人も信仰によって暮らし(これぞ神への行進)、信仰力でもってかの超自然的生活を楽しんでいる。

ただしここで「信仰」と呼んでいるのは、なにも叩拝すべき神の三位の違いを信じるとか、さらに神性にしかない超越的本性を洞察して、神が藉身して人性をとったという驚くべき摂理を信じるとかいう話ではない(もちろんそれとて立派な信仰なのだが)。むしろ霊たましいが恩寵の光を受けて信仰に燃え、知性に裏づけられて心を強め、まったく気負うことなく神に期待して毫も疑わない信仰を指す。そしてこのような信仰は、たくさん耳で聞いたことによって生じるものではなく、むしろ霊たましいの内奥で神秘を観る属神的な心眼に見えてくるものなのだ。この目に見えない神妙な富は、肉体的な人の目には隠されており、ただハリストスの法則を学び、ハリストスの食卓で神゜に育まれていく者のみに啓かれてくるものである。まさに主が、わが戒めを守らば真実の神゜を、つまり慰むる者を送らんと言われたとおりである。さらに主は「世は彼を受くるあたわず」と告げられ、その世に受け入れられない聖神がおよその真実を「なんじらに教えん」(イオアン 14 : 17, 26)ともおっしゃった。主が示してくださったこの聖なる力は、いつも人の中で息づく庇護者として、かつ人を守る思惟の砦となって有害なものをことごとく退け、心身に危害が及ばないよう守ってくださる。属神的に物事が見えている知性は、まさにこの力を目にせずとも信仰の目にて感じとる。とくに聖人は実体験をとおしてこの力を知ってゆく。

そしてこの力こそ、「慰むる者」ご自身なのだ。霊たましいはこの力を受けると火がついたように強い信仰に目覚め、まっすぐ神を信頼しきってどんな危険も顧みず、ひたすら信仰の翼に乗って目に見える受造物を超えて昇ってゆく。そして日々まるで陶酔しているかのように神妙な摂理を見ては驚嘆し、純朴な観照に与り、神の本性を目にすることなく洞察する。すると知性も釣られて神の奥義を注意深く研究するようになる。というのは、まだ機密の執行者である「真実の神゜」がいらっしゃらず、まだはっきり真実の啓示に与っていないうちは、信仰こそが、神と聖人の間にあって得もいえぬ機密を行なってくれるからだ。願わくは、われわれもハリストスご自身の恩寵によって、その得もいえぬ機密をこの世にいながら受けて担保とし、なお神を愛する者たちとともに天国において実際に受けられんことを。アミン。

第29訓話 別の捉え方で区分した知恵の違いについて 

知恵の種類は、別の捉え方によれば以下のような区分になる。人が世のしきたりどおり地上の事柄を捉えているとき、その知恵は本性的知恵と呼ばれる。しかし知力でもって霊界の性質を考察するとき、その知恵は属神的知恵と呼ばれる。なぜなら意識ではなく神゜によって感じとっているからだ。人はこの本性的知恵と属神的知恵を外から取り入れて直感的に見分ける。しかし神聖なものに到達したときには、その知恵は超本性的知恵と呼ばれる。そして、こればかりはあらかじめ知りようがなく、知恵を超えた知恵なのだ。それに霊たましいがこの知恵で観照するときは、本性的知恵や属神的知恵のように外の物質に基づいて観照するわけではない。そうではなく、ただ霊たましい自体の内部に非物質的に、無償で、いきなり期待以上に露わになり、内の内から啓かれてくるのだ。なぜならハリストスの言うとおり「神の国はなんじらの内にあり」(ルカ 17 : 21)だからである。この知恵は予想できるものでもなく、何かを遵守したから与えられるのでもなく、ただ知性の奥底に押印された内なる像から、観ようともしていないのにおのずと啓かれてくるものなのだ。なぜなら知性はそこになんの物質も見出さないからである。

本性的知恵というのは、ひたすら追究して骨身を惜しまず学習した末に得られる知恵である。いっぽう属神的知恵というのは、賢く信じて善良に生きてきた末に得られる知恵である。だが超本性的知恵ばかりは、ただ信仰だけに当たる籤なのだ。なぜなら信じることで知恵も不要となり、修行も打ち切られ、意識を活用するまでもなくなるからである。だから、この究極地点から下がれば下がるほど知恵は褒めそやされ、下れば下るほど褒め称えられる。そして地と世俗的なものに足がついたとき、知恵はすべてに対して君臨するのだ。そのとき、知恵なくしては何もできず何をやってもうまくいかない。しかし霊たましいが観照する目を高みへ向け、思いを天上にて繰り広げ、目に見えない領域や肉体に属さない事柄を渇き求めるとき、万事は信仰に貫かれる。願わくは「世々に祝讃せらるる者」である主イイスス・ハリストスが、この信仰を私たちにも与えてくださらんことを。アミン(ロマ 9 : 5)。

第30訓話 祈り方について。正しく守れば読者に役立つ事柄と、いつも覚えておくべきことについて

祈祷中に神に望みをかけきった状態になることは、信仰という恩寵の強みである。もちろん正教を信じることは基本だが、正教徒になったからといって神を信じきれるというものでもない。人は、その生き様で真実を知るのだ。「(行いを伴う)生きた信仰を持て」という聖書の教えは、未洗礼者や異端者でなく、正教徒に向けられた教えである。なぜなら気高く主の戒めどおりに生きればこそ、徐々に神に望みをかけきって毫も疑わない信仰に至るからである。

昼も夜も聖書を研究していれば霊的に明るくなる。どうやって慾に気をつけて清く祈って神の愛にとどまろうか考えたり、聖人の歩んだ平安の道が見えてきたりするからである。もっとも祈祷や読書をした後に、たとい奮起したり心を痛めつづけていたりできなくても、ふだん唱えている祈祷文の力を疑ってはならない。

経験に裏づけられた言葉であれば、たとい学者の言葉でなくても欠かさず受け入れよ。この地上で最も豊かなはずの国王でさえ、蔑まずに乞食の一銭を受領して私財に加えているではないか。それに一滴一滴が集まって川となり、大河となっているではないか。

記憶を守ることについて

もし善なることを思い出すだけで徳がよみがえるのであれば、当然ふしだらなことを思い出すだけで汚れた欲求がよみがえる。なぜなら人は思い出すとき、その思い出している事柄のもつ特徴を思い描くことで、いわば想念の汚れなり生活の高みなりを目にし、それを見ながら想いの動きを良い方にも悪い方にも強めてゆくからである。こうしてわれわれは知性の内奥でしばしば思いめぐらし、そこに自分の暮らしぶりをありのままに描いているため否応なくいつも自分自身を見ていることになる。もっと言ってしまうと、ただ思いめぐらして害を蒙っているだけでなく、心像からも、心像を映し出す記憶自体からも害を蒙っているのである。ゆえに徳行に励んでいれば、ただ徳行に助けられるだけではなく、徳を積んだ修行者の顔を思い出すだけでも救われる。

かくして、なぜ清さに達した人々が、よく夜になると夢の中で聖人に会ったかが分かるだろう。なぜなら知的訓練として一日中その聖人を思い描いては喜びの泉とし、霊たましいに刷り込んでいたからだ。だからこそ腕をまくって徳行に取り組み、何としてでも徳を成しとげたいと渇望できたのである。また聞くところによると、聖天使は霊たましいが思い煩っているときに、尊貴なる聖人の姿をまとって夢に現れてくるという。すると霊たましいは感嘆して喜び勇み、日が上りしだい想念を調べながら夢で見た姿をつねに思い起こし、それを見ながら喜んでいるので修行も楽になるという。そのようにして属神的に成長していくのだ。同じことが、慾と闘いつづけているときにも起こる。ふしだらな思いを抱く癖をもつと、悪鬼にいじられてそういう夢を見るようになる。霊たましいが夢想したその姿をまとって悪鬼が現れてくるわけだ。霊たましいはそれを見て震え慄くが、むしろ日中にそういうことを思い起こしていたからそういう悪夢を見るのである。しかもこういう悪夢を見ると、ほどなく疲れきってしまうだけでなく、もう人里離れた黙修生活なんて無理なのではないかと思ってしまうこともある。

よって兄弟よ、われわれは記憶と記憶からくる霊たましいの状態を注視するにあたり、今後はどういった思い出が頭を占めているのか識別しようではないか。かたや気を取られてしまうような思い出もあれば、かたや心に浮かび次第すぐに振り払うことができる思い出もあるわけだ。つまり、それは慾を刺激するために悪鬼がこしらえた追憶なのか、それとも自分から渇き求めて興奮した追憶なのか。あるいは聖天使が喜びや知恵を暗示してくれたときの追憶だったり、聖天使が近づいてきて想念で奮い立ったりしたときの追憶なのか。あるいはかつて捉えた印象から湧き起こる想像でもって一つの対象に執着してしまう追憶なのか、よくよくよく見極めておこうではないか。このように見極めて認識を深めたとき、人は二つの領域で力をつける。思い出に対する判断力と、思い出で悟った物事に対する行動力だ。ただし思い出を見極める際にも、見極めて悟った物事に対して行動を起こす際にも、つねにしっかり祈るよう努めよう。

愛の様々な段階について

何かしら物を原因として湧き起こる愛は、油でもって光を維持する小さな燈明のようなものだ。あるいは大雨で溢れた濁流のように雨がやめば絶えてしまうような代物だ。しかし神を起点とする愛は、地下からほとばしる湧き水のようである。その愛の流れは決して尽きることがなく(なぜなら神だけが愛の泉だからである)、愛そのものが涸れることもない。

思いめぐらすことなく祈るにはどうすべきか

祈りながら祈祷文を楽しみたいだろうか。つまり口で唱えている聖神の言葉の手応えを感じたいだろうか。ならば、祈りの量をまったく気にするな。どれだけその祈祷文を知りつくしたか顧みず、まさに祈りとして唱えよ。よくやってしまうように判で押したように読み上げるのではなく、いまから話す内容や、引用する師父の金言をよく理解せよ。まずは、没頭して聖神の言葉を学べ。そうすれば、神意に胸を打たれて聖書の言葉を会得したくなり、会得するばするほど神を讃美したり、よき悲哀に浸って悔改したりするようになるだろう。祈りの中で手応えを掴んだら、それを身につけるようにせよ。知性がそうやっているうちに揺るがなくなれば、思い煩いは消え去るだろう。というのも、知性としても奴隷のように仕方なく祈りを読み上げているうちは平安がないが、子のように自由になれば思い煩いがなくなるからだ。ふつう思い煩っていると意味も味わえず理解力も落ち、まるで蛭のように肢体にまとわりつかれて血も命も吸い取られてしまう。それに思い煩いは、もしそう言ってしまうのが許されるのであれば、悪魔の馬車と呼ぶにふさわしい。なぜならサタナは、よく騎手のごとく諸慾をたくさん抱えて知性を乗っ取り、哀れな霊たましいに踏み込んできて思い煩いで満たすからである。ただし次の点もよく心得ておけ。聖詠を唱えるとき、他人の言葉を借りてきたようにして唱えてはならない。それは永久に学びつづけているだけじゃないかと思わないようにするためでもあり、聖句から汲みとれるはずの傷感と喜びから遠のいてしまわないようにするためでもある。そうではなくて、むしろ傷感と分別をもって意味を汲みとり、自分の行為を真に理解している者として、まさに自分自身の祈りとして唱えることだ。

どこから倦怠は来るのか。どうしてあれこれ考えてしまうのか

倦怠は、あれこれ考えることから起こる。あれこれ考えることは、暇を持て余していることから起こる。あるいは読みすぎか、無駄話か、腹を満たすことから起こる。

邪念に言い返してはならず、ただ神に身を投げ出すべきことについて

敵に邪な想いを吹きこまれても言い返さず、ひとことも言い合わずに神に祈るとき、知性が恩寵によって英知を得た兆しである。まさに無駄事から離れて真の知恵に至り、ついに見つけた短い道を通ることであれこれ考える長い道のりを克服したしるしである。なぜならわれわれは、毎分毎妙どんな邪念にも言い返してやり込められるわけではないからだ。むしろしばしば邪念に傷つけられ、長らく治せないままでいるではないか。なにせ相手は六千年も経験を積んできた強者だ。そんな強者に教えを垂れてみせようなどという愚行に走ったが最後、その愚かさを逆手に取られてこっぴどくやられてしまう。どんなにあなたが賢くて聡明であろうと関係ない。たとい言い返して奴らに打ち勝つことができたとしても、やはり知性が邪念の汚れに穢され、その悪臭が鼻について長らくつきまとってくるであろう。だから冒頭で述べた方法を用いれば、これらの問題や恐れから一切解放されるのだ。なぜなら神を差し置いて、他の助力は存在しないからである。

涙について

祈っているときに涙が流れたら、霊(たましい)が悔改して神に憐れんでもらえた兆しである。どうやら祈りが受け入れられて、涙でもって清い平野へ入りはじめたようだ。なにせ過ぎ去る物事への想念を断ち切り、現世への希望を捨てないかぎり涙が流れることはないからである。それに、現世のことがどうでもよくなり、少しでも美しく来世へ移れるよう備え、来世でどうなるか霊たましいの中で思いめぐらすようにならないかぎり目が涙で潤うことはない。なぜなら涙というのは、思いが微塵の汚れもなく高ぶらなくなった成果であり、ぶれない想念が次々と湧いている結果だからである。それこそ脳裏で属神的な何かを記憶している証であり、その記憶によって心に悲哀がもたらされているのだ。この悲哀から涙が溢れ出て、どんどん流れてゆくのである。

手仕事と金銭欲ついて

黙修中に手仕事をするときには、いくら師父が手仕事をせよと言ったからといって、その言葉を盾にしてひと儲けしてやろうなどと思ってはならない。倦怠に陥るのを防ぐために、知性を煩わせない手ごろな仕事があるのは良いだろう。しかし、もっと仕事を増やして喜捨でもしようかなと思いついたときには、喜捨よりも祈りの方が上だと心得よ。あるいは、もっと働いて衣食住に回そうなどと思いついたときには、よほど貪欲でもない限り、神に与えられたもので十分に満足できるはずだ。なにせ神の奉仕者が貧窮するのを神に放っておかれた試しはないからである。主は「なんじらまず神の国とその義を求めよ、しからばこれらのもの皆なんじらに加わらん」(マタイ 6 : 33)と告げられたではないか。まさにこちらから願うまでもなく、「これらのもの皆なんじらに加わらん」とおっしゃったのである。

ある聖人はこう言った。「隠修士は何のために生活しているのか。決して飢えた人々に食を与えたり旅人を泊まらせたりするために生活しているのではない。それは世俗人の仕事であって、たとい世俗人には素晴らしい仕事であっても隠修士のする仕事ではない。目に見える慮りから自由の身となって祈りつつ知性を守ること、これこそ隠修士というものだ」。

第31訓話 隠修について。恐れずに神を信頼して心を固く保つべきことについて。われわれは神に警備されて守られている以上、疑わない信仰を持って穏やかでいるべきことについて

ありがたくも自由の王国で軽い荷をになう隠修士になれたのであれば、以前のように不安に駆られて次から次へと想念にやられないようにせよ。そうではなくて、守護天使が傍にいることをもっと深く確信し、あらゆる受造物と同じく唯一の主宰の手のうちにあることをしっかり弁えて悟れ。主宰たる神は指一本であらゆる物を動かしたり揺るがしたり、制御したり創造したりできるお方だ。そのうえ、すべてを見通される主が許可されなければ、いかなる僕もおのれにそっくりな僕に対して危害を加えることなどできない。だからもう立ち上がって勇気を持て。たとい悪鬼や猛獣や強盗に自由があったとしても、万事において自由があるわけではない。万物を支配される神に時と場所や量を許されなければ、しょせん好き勝手に危害を加えたり滅ぼしたりすることはできないからだ。自由意志だって、神に許されなければすべてが思うようになるわけではない。もしそうでなかったら、肉体あるものは皆とっくに滅んでいたであろう。悪鬼や権力者が思うままに受造物を操ることは、主に許されていないのだ。したがって、いつも自分にこう言い聞かせるがよい。「この身はいつも守護者に守られている。よほど天からの命令でもない限り、目の前に姿を現わせる者はいないのだ」と。そう、いかなる受造物もあなた前に躍り出ることはできないし、その耳に脅し文句を聴かせることもできないということを確信せよ。そもそも、もし天の神に許されたのであれば、その受造物がそうしたいと思った瞬間にそうなっているはずであり、わざわざ脅しかけてくるまでもないからだ。

同じく自分自身にこう言いなさい。「もし凶悪者に牛耳られてしまうことが御旨なのであれば、気落ちせずにその御旨を受け入れよう。でないと、御旨の成就を望まない者になってしまう」と。このように、試練の渦中にあっても、たしかに主宰に導かれて養ってもらっていると自覚した者として喜びなさい。何よりも、主を信頼して心を固く保つことだ。そうすれば「夜のおどしと昼の流れ矢」(聖詠 90 : 5)をも恐れなくなるだろう。なにせ神を信じる義人の前では、猛獣でさえ羊のようにおとなしくなると言われているではないか(エウレイ 11 : 33 参照)。

「いや、小生は義人ではありませんので、そこまで強く主を信頼することなどできません」と言うだろうか。でも実際、あなたは義の修行のためにつらい荒野に出て、苦難を耐えて御旨に従う者となったではないか。だいたいこの苦労をただ苦労するために負っているとしたら空しいことだ。なぜなら神へ捧げる愛の犠牲として辛苦に耐えるとき、その苦労も神に喜ばれるからである。この考え方が正しいということは神を愛した人々を見ればわかる。みな神を愛するがゆえに苦難に飛び込んでいった。というのは、神を畏れてイイスス・ハリストスにおいて生きようと決心した者は、みな苦しみを選んで迫害に耐えるものだからだ。そうして、ひそかに神の宝を譲り受けたのである。

感謝して雄々しく試練を耐える者が受ける利益について

ある師父が次のように言った。

「ひどい試練に見舞われてしんどかったときのことだ。皆から一目置かれていた長老隠修士のところへお邪魔した。ちょうど病気で寝込んでおられたのだが、ご挨拶だけして傍に座ってこう打ち明けた。『神父様、どうか私のために祈ってください。悪魔的誘惑にひどく悩まされているのです』と。すると長老は目を開き、私の顔をじっと見つめて『若いからだよ。だから神様としても試練を送らないわけにもいくまい』と言われた。『たしかに若い身ではあります。逞しい男の人たちからの誘惑に耐えているのです』と答えると、『そうやって神様は君を賢くしようとされている』と諭された。『どうやって賢くなるのですか。来る日も来る日も死を味わっているのですよ』と口答えしたら、『神が君を愛されているのだ。黙りなさい。きっと恩寵を授けてくださるだろう』と言われ、こう付け加えられた。『子よ、心得ておきなさい。私など 30年間も悪魔と闘いつづけた。しかも 20年過ぎた頃にはまったく孤軍無援の身となった。それでも 25年目に入ると平安を見出すようになった。その平安は時間が経つにつれて増していったので、27年目を過ぎて 28年目に入った頃にはかなり大きくなった。ついに 30年目を過ごして、その年も終わりそうになったとき、あまりにも穏やかな平安が訪れたので、その深さときたら計り知れなかった』。そしてさらにこう続けた。『立ち上がって奉神礼を挙げれば、いまではよく神に与えられて「光栄」をもう一つ(カフィズマを三分の一ほど)付け加えられるようになった。それに三日間くらい立ち通しても、感嘆したまま神の傍にいて苦に感じなくなった』と」。

ごらんなさい。なんという限りない平安が、辛酸を極めた長期間の修行の末に与えられたことか。

知性は言葉を慎むことで神へ向かいやすくなり、自制しやすくなることについて

あるところに食事を週二回だけしか摂らない長老がいて、こんな話をしてくれた。「他人と少しでも会話した日には斎の規則をいつもどおり守れず、斎を破るしかなくなってしまう」と。これを聴いて分かったことがある。人は黙りこんでいると知性が神へ向かうだけでなく、ひそかに肉体労働にも大いなる力を与えることができ、さらに師父の言うように知的修行もすみずみまで照らされるということを。なぜなら口を慎むことによって、良心が否応なく神に向かって目覚めるからである。ただしこれは賢明に沈黙を守っている場合の話だが。ちなみにこの長老は、ふだん夜どおし儆醒していた。なにせこう教えてくれたことがあるからだ。

「徹夜で立ち通して迎えた朝には、よく聖詠を読み終えてからひと寝入りしたものだ。目が覚めると、まるで一日中この世に属さない人のようであることもあった。この世にまつわる想念が一切心をよぎらず、決められた規則を守る必要もなく、一日中驚嘆しつづけていたのだ。そんなある日のことだった。すでに四日間も何も食べていなかったので食事を摂ろうとした。晩課を終えてから食べようかと思い、まずは祈ろうとして僧房の庭に立ってみた。太陽はまだ高く照っていた。いざ晩課を始めたら、最初の『光栄』(カフィズマの3分の1)までは意識があったのだが、それ以降になると自分がどこにいるのか分からなくなり、夜が明けてまた日が昇って顔が温くなるまでその状態のままだった。そして日光にじりじり焼かれていよいよ居心地が悪くなったときに我に返り、ああ、すでに翌日になっていたのかと気づいたのである。ああ、神は何という豊かな恩寵を与えてくださることか。神に従っていると何と大いなることを賜ってくださるのかと思って感謝するしかなかった」と。

このような話を聴いた後では、ただ神に光栄と讃歌とを奉るべし。アミン。

第32訓話 内なる覚醒を保つにはどうしたらよいか。なぜ知性はぼんやりして無関心になることがあり、霊は聖なる熱気と神への希求心を失くして、属神的・天上的なものを渇望する熱意が冷めてしまうことがあるのか

人は善いことを望んでいれば、悪鬼に隙を見せないかぎり、その善いことの実現をいかなる逆風にも妨げられることはない。なぜなら善き願いを持つと、ふつうその瞬間から燃える炭のような覇気を帯び、その覇気でもって逆風や障害となるものを追い払って善い思いを守ろうとするからである。それに、この覇気はあまりにも強く沸き起こってくるので、精神的逆境に追い込まれても挫けたり怖気づいたりしないように日夜警護してくれる。ちょうど最初に湧いた善き思いも霊たましいに備わる聖なる力であったのと同じように、この覇気もいわば生まれもった義憤からくる義侠心なのだ。しかも本性の限界を弁えるべく神から送られてくる義侠心のため、思うまま行動しつつ一線を越えない。この義侠心は徳であり、この徳なくして善を成しとげられることはない。しかも「覇気」とも呼ばれているのは、まさに人が事あるごとにこの覇気に動かされて奮起して力づき、肉体的苦痛などものともしないからだ。そして恐ろしい試練に見舞われても鼻であしらい、つねに捨て身の覚悟で、心から渇き求めた事柄を行うためならば敵軍に対しても立ち向かってゆく力が湧いてくるからである。

そもそもハリストスを纏ったある師父が、この覇気のことを「神の法の護衛犬」とか「徳の番犬」と言い表した例がある(「神の法」と「徳」は同義である)。この覇気は、家を守ろうとして燃え盛ることもあれば、眠気を催してだらけてしまうこともある。いずれの場合も、二つの手段によって強まったり弱まったりする。

まず覇気が強まっていく場合の話をしよう。一つ目の手段はこうだ。人は、すでに得た恩恵やこれから得るべき恩恵が盗まれて無に帰すことを想像するなり、何とかしてそうならないようにしようと襟を正して恐れを抱く。つまり神の摂理からくる畏怖心のことだ。よく真に徳を実行している者が、いつも霊たましいを寝ぼけさせないように必死になっている、あの畏怖心である。この畏怖心があるとき、犬と呼ばれる覇気も暖炉のように日夜燃えつづけてわれわれの本性を醒ましてくれる。すると人は、ヘルヴィムのようにつねに周囲の物事に覚醒し、先述した師父の言うように、近くに鳥でも来ようものならはっと気づいて立ちどころに吠え、すごい勢いで追い払うことができる。ところが霊たましいのことを恐れる代わりに体にまつわることを恐れてしまったとき、この畏怖心は単なる恐怖心と化してしまう。なぜなら摂理への信頼がぐらつき、どれほど神に考慮して面倒をみてもらって修行してこられたか忘れてしまったからである。現に、「主の目は義人を顧み、その耳はかれらの呼ぶを聞く」(聖詠 33 : 16)とか「主の奥義はかれを畏るる者に属し」(聖詠 24 : 14)と教えられているのに、しかも「悪はなんじに臨まず、疫病うつりやまいはなんじの住まいに近づかざらん」(聖詠 90 : 10)と主に宣言されているのに、そういう教訓をすべて忘れてしまったからである。その反対に、体ではなく霊たましいのことを畏れ、徳を奪われたりひょんなことで失ったりしないよう気をつけていれば、それは聖なる思いであり、よい心配事であり、もし辛かったり疲れたりすることがあったとしても神の摂理によってそうなるだけのことだ。いっぽう、このように霊たましいのことを畏れて徳のことを気にする手段の代わりに、いっそ心底から強烈に徳を渇望し、そうやって番犬を起こして徳を守るという手段もある。なにせ心の中で渇望が強まれば強まるほど、この番犬も吠えてくれるからだ。つまり、生まれもった徳への意気込み(覇気)も強まるからだ。

次に、覇気が弱まっていく場合の話をしよう。なぜこの番犬がうなだれてしまうことがあるのだろうか。まず考えられるのは、この渇望自体が弱まって心の中で消えたからである。もう一つ考えられるのは、得てして妙な自信と大胆な想念が心の中に上がりこんで居座り、やれやれと思っているうちに何が襲ってこようとへっちゃらさと開き直ってしまったからである。開き直っているからこそ、すすんで覇気という武器を捨て去り、ちょうど警護していない家のようになってしまうのだ。すると番犬も寝入ってしまい、長期間、警護にあたることはない。

実際、このような大胆な想念に中身を盗まれてしまっている思考の家(頭脳)はかなり多い。まさに聖なる知恵に照らされた清純な心を失ってしまったから、このような惨状に陥ってしまうのだ。どうして清純な心を失ってしまったのか。言わずもがな、傲慢さからくるもっとも見えにくい想念を忍び込ませ、心に巣食わせてしまったからである。あるいは、世塵に没頭しすぎたか、しょっちゅう世と関わっているうちに魅了されてしまったからである。あるいは、諸悪の主人である胃袋を満たしたからである。修行者は、いつでも世と関わるなり霊的に弱まってしまうものだ。また、多くの人と関わるとつい見栄を張ってしまい、悲しみを覚えるものだ。つまり修行者が修行から逃げて世と関わるとき、その知性は、やすやすと海を渡っていたのに突如暗礁に乗り上げて沈没していく船長にそっくりなのである。国と力と光栄と尊貴は、われらの神に世々に帰す。アミン。

第33訓話 心から祈ったときに生じる多くの変化について

人間は善い志を選ぶことはできる。だが、その善い志を成しとげるのは人間ではなく神である。ゆえに、神に助けてもらわなければならない以上、善いことを求めた瞬間からひんぱんに祈るようにしよう。ただ助けを乞うばかりでなく、その願いが御旨に適っているかどうか問いただそう。というのも、善い願いが必ずしもすべて神から来るわけではなく、唯一ためになる願いのみが神から来るからである。いかに善いことを求めていても、神に助けてもらえないこともある。なぜなら、あたかも善いことに見えてしまう願望が悪魔から来ることもあるし、それをすれば役立つような気がしてしまうこともあるからだ。だが実際には、その願望が力量を超えた願望であることも少なくない。たとえば悪魔自身が人をダメにしようと目論んで「ほれ、求めたことをやってみろ」と強いてくることがある。しかし実際には、その人がまだその願望にふさわしい生き方に達していなかったり、とてもそんなことを求めうる生活をしているわけではなかったりする。あるいは、その願望を叶えるには時期尚早だったり、状況的にまだ着手しようがなかったりする。あるいは、その業を成しとげる技能や知恵や体力を持ち合わせていない場合もあるし、どうも時や場所がそぐわない場合もある。だからこそ悪魔はあらゆる手立てを尽くして、あたかも善いことに見せかけて人を惑わし、無理をさせて体調を壊させ、知性に罠を仕掛けてくるのだ。もっとも、すでに述べたように、われわれは善い願望が芽生えた瞬間から必死に祈り続けようではないか。こう心の中で呟くのだ。

「御旨にさえ適っていれば、こんな善いことに挑戦してみたいと思ったが、まずは祈ることにしよう。主よ、どうか御旨のままになりますように。求めるのは楽ですが、あなたに与えられなければ成しとげることはできないからです。もっとも、求めることも行うこともすべてあなたから授かるものなのですが(フィリッピ 2 : 13)。なにせ恩寵を送ってくださらなければ、せっかく善いことが閃いたとしても求められなかったでしょうし、尻込みしていたに違いないからです」と。

善いことを求める人というのは、このような習慣を持つものである。つまり冷静に判断して行動する前に祈り、賢慮を得るために祈り、そうやって真実と虚偽の違いを見極めようとする。そしてたくさん祈って徳を積み、つねに自分自身を守って汚れなく保ち、よく涙を流して謙虚に天の助けを得ようとする。とくに高慢な思いが頭をもたげてきたときにそうする。というのも、高慢の想念があると神の助けがここまで届かなくなってしまうので、その想念の動きを止めるためにこそ祈りに向かうのだ。そのようにしているとき、ほんとうに善いことが見えてくる。

第34訓話 だれよりも神の近くで生き、知恵に富む日々を送っていた人々について

僧房の壁にいろいろな言葉や考えを書き留めていた長老がいた。そして、「これは何を意味しているのですか」と訊ねられるたびにこう答えていた。「それは、守護天使が教えてくれた正しい想念で、おのずと心に湧いてきたものです。正しい考えが心に湧いたときに書き留めておけば、迷ったときに目を覚ましてもらえると思ったのです」と。

別の長老は、「過ぎゆく世を捨ててきた代償として、見事に朽ちない希望を得たじゃないか」と邪念におだてられたとき、「やつら」に対してこんなふうに答えていた。「まだ道中にある者を誉めたところで何になる。まだ歩き終えてもいない身だ」と。

すばらしい徳行に励んでいるはずなのに、どうも得るところがない気がしても驚くな。というのは、いくら徳行をしていてもへりくだらないかぎり恩賜を得られないからである。徳行をしたからといって恩賜を得られるわけではない。へりくだったときに恩賜を授かるのであり、へりくだろうとしなければ恩賜を手にすることはない。善良な生活によってすでに恩賜を授かった人は、いま徳行に励んでいる者よりも上である。そもそも徳とは悲哀を生むものだ。その悲哀から謙遜が生まれ、その謙遜に恩寵が降る。だから、われわれは徳や修行をしたからではなく、ひとえに徳や修行をとおして謙遜になったときに報いを受けるのである。謙遜にならなければ、どんなに徳や修行に励んでいても空しい。

徳を行なうということは、つまり主の戒めを守るということである。よく考えて慎んで戒めを守っているとき、たくさん徳を行なうことができる。そして、ついに戒めを必要としなくなったとき、戒めの代わりに謙遜を抱くようになる。そもそもハリストスは戒めの実行ではなく霊たましいを健全にすることを要求されたのであり、戒めは霊たましいを健全に戻すための法則として定められたにすぎないからだ。現に、見た目で戒めを守っていれば正しいと認められ、戒めを破れば間違っているとみなされる。しかし知的には何を思っているかによって正しいか否かが決まるのである。たとい曲がった行動に見えても神の叡智のうちに人生を築き上げてゆく人もいれば、義人のふりをしながら罪を犯している者もいる。

自制する者は、つい犯した失敗でさえも自負心予防のために役立てる。なんの苦心もせずに賜を得たりした日には滅びてしまうからだ。もし神の前で善いことをして賜を受けたのであれば、どれだけへりくだるべきか教えてくださいと神に祈れ。あるいは賜を守る者(天使)を置いてくださいとか、いっそ賜を取り除いてくださいと祈れ。賜が滅びの原因とならないようにするためだ。なにせ皆が皆、富を手にして無傷でいられるわけではないからである。

神を畏れて注意深く生きながら徳についても気にかけるとき、悲哀を覚えずに日々を過ごすことなどできない。なぜなら徳というのは悲哀を伴うからだ。つらい苦難から逃げる者は、あきらかに徳からも遠く離れることになる。徳を求めるなら、あらゆる苦難に身を委ねよ。苦難を乗り越えればこそ謙遜になるからだ。気苦労せずにいることは神に求められていない。気苦労したくないと思う者は、小賢しくも御旨に合わないことを考えている。ここでいう気苦労とは衣食住を慮ることではなく、徳にしたがう者がぶち当たる壁を意味する。真の知恵、つまり奥義の啓示を受けるまでは、試練をとおして謙遜へ近づこう。つらい苦難を避けて自分勝手な徳に生きる者には、高慢の門が開かれている。

というわけでこの期に及んでもまだ、とにかく悲しい思いだけはしたくないと思う者がいるだろうか。なにせ屈辱を味わっていないと謙虚に考えられないし、謙虚な思いがなければ清く祈ることなどできないのである。そもそも思いがしかるべき気苦労から遠のいてしまうから、自負心が湧く。しかも自負したままでいるから摂理の天使が去っていき、去っていくなりよそ者の使い(悪鬼)が近づいてきて、その瞬間から正義について一切慮らなくなるのである。

智者ソロモンは「痛手に先立つのは驕り」だと述べた(箴言 16 : 18, 18 : 12)。ならば、賜に先立つのは謙遜だ。どれだけ霊たましいが驕っているかによって、神から教育目的で送られてくる痛手の度合いも異なる。ここでいう驕りとは、つい頭の中に生じる高慢な想念とか、抑えがたい一時的な思い上がりではなく、つねに人の中に巣食っている傲慢さを意味する。一時的に思い上がっていれば痛手を蒙るが、ふんぞり返って開き直った日には一切痛手を受けることがない(神に見離されてしまう)。光栄と威厳はわれらの神に世々に帰す。アミン。

第35訓話 世を愛することについて

主は、世を愛しながら神を愛することはできない、といみじくもおっしゃった。つまり世と関わりながら神と関わることはできない、世のことを気にかけながら神のことを気にかけることはできない(マトフェイ 6 : 24 参照)、と告げられたのである。しかし世間に知られたくなったり必需品に欠いたりしたせいで、神の道を捨てて違う方向へ逸れていってしまう修道士は多い。なかには天国のために働きますと宣言しておきながら、主に「天国を求めるなら食糧や着物に事欠くことはない。それ以外の物もすべて加えて与えられる。衣食を思い煩わないで済むように神が取り計らうからだ」(マトフェイ 6 : 25~34)と言われたことを忘れてしまう者もいる。主は人間のために造った一羽の鳥のことまで慮っておられるというのに、どうしてわれわれ人間のことを心配されないわけがあろうか。そんなことはありえない。人は属神的な事柄やそれに関することを気にかけていれば、あえて身体的なことまで思い煩わなくても必要な時に必要な分だけ与えられるのだ。

ところが必要以上に身体的なことで気を揉んでしまうのなら、知らず知らずのうちに神から離れていくことになる。その逆に、どのようにして主の名を讃栄すべきか考えていれば、修行した分だけ属神的なことも身体的なことも主に慮ってもらえるに違いない。

だが、霊的なことをしているからといって身体的なことで神を試みてもいけない。むしろ来世の福のために何もかも行なうことだ。ひとたび霊たましいを愛するがゆえに徳の道に歩もうと決心し、徳を成しとげたいと渇望した者は、そもそも体に必要な物が有るか無いか気にしないものだ。ただし体のことを心配していないかどうか確認する目的で、あえて何かしらそういう物資で少なからず困ることもある。それもこれも神が許容されたからである。たとえばイオフのように、病気にかかったり赤貧に陥ったり、全人類に見離されたり汗水垂らして得た財産を失ったりする。ただし霊たましいだけは守ってもらえる。そもそも徳に生きる道を愛した以上は、そういう正道を歩みながら悲しい目にも遭わず、病も苦労もなく健康体であり続けることなど不可能なのだ。もしもやりたい放題に生きて、嫉妬に燃えたり罪深く生きたりすれば断罪されて終わりだ。しかし神へむかう正道を歩んで、すでに気の合う仲間も得ているというのに、ちょっとやそっとそういう苦難に見舞われたからといって、この道から逸れてしまうのはよろしくない。むしろ面白半分ではなく真心から喜んで、その苦難を受け入れるべきなのだ。そしてこのような恩寵を授かったこと、つまり神に向かうがゆえに試練に遭わせていただいたことを神に感謝しなければならないのだ。なにせ試練を受ければこそ、この道の受難を耐えぬいた預言者や使徒や聖人たちの仲間になれるからである。たとい他者や悪鬼からくる誘惑や、肉体からくる誘惑に襲われたとしても(それさえ神の許容なくしては起こり得なかったことだ)、むしろそれを逆手にとって身を正す契機とせよ。というのも神の目からすれば、そもそも神と共にいたいと思う者は、真実のために篩に掛けられることこそ極上の恵みだからである。なぜなら人はハリストスの恩寵なくしてこのような偉業に与ることなどできず、つまり自力でこのような試練に飛びこんで聖なる苦労を喜ぶことなどできっこないからだ。これについては使徒も証言したことである。聖パウェルは、これがどれほど大きな偉業であるか示そうとして、神に信頼をよせて苦難に向かおうとする心構えを「賜」だと断言した。まさに「ハリストスのことに関してなんじらに賜りしは、ただ彼を信ずるのみならず、また彼のために苦しみを受くるなり」(フィリッピ 1 : 29)と述べたのである。パウェルと同じように、聖ペトルも「義のために苦しみを受くとも、なんじら幸いなり」(ペトル前 3 : 14)と公書に記している。なぜなら主の受難に与ることになるからである(フィリッピ 3 : 10 参照)。したがって、ただ悠々自適に暮らしている時にだけ喜び、苦難に遭うなり顔を曇らせて「これが神の道と言えるのか」などと思ってはならない。なにせ古来よりこの道は、どの人に対しても十字架と死をもって臨んだからである。だというのに、どうして苦難が神の道にそぐわないなどと思うのか。そう思ってしまう自分自身こそ、邪道を進んで神の道から離れていっていることを悟れ。はたしてそれでも本当に聖人の跡に従って歩んでいきたいと思っているのか。それとも独自の道をこしらえて苦もなく歩んでいきたいと思っているのか。

神の道というのは、来る日も来る日も十字架を担ってゆく道だ。これまで楽をしながら天に昇った人はいない。楽な道がどこに行き着くのかは周知のとおりである。心から神に献身した者が憂慮せずに生きることは神の喜ばれる生き方ではない。献身した以上はつねに真実について憂慮すべきである。よっていつも神から憂いを与えられているとき、その人が神の摂理の下にあることが分かる。

神の摂理としては、修行者が試練のせいで悪魔の手に落ちるようなことは絶対にお許しにならない。とくにその人が兄弟の足に接吻し、兄弟の咎をおのが咎のように赦して匿っている場合には尚更だ。この世で憂慮(真実のための修行)をせずに徳を身につけたいと望む者は、徳の道から外れている。というのも義人と呼ばれる人たちは、ただ単にすすんで徳を積んでいるだけでなく、ふいに襲ってくる試練と死闘しながら忍耐力も鍛えているからだ。もし心から神を畏れているのなら、いかなる身体的困苦も怖がらない。なぜならば、今もいつも世々に神のことを信頼しきっているからである。アミン。

第36訓話 必要もないのにあからさまに奇跡を行いたいと願ってはならないことについて

主は、たとい聖人の傍にいたとしても、いつも聖人を助けようとして目に見える奇蹟を行なわれるわけではない。そんなふうに御力を見せて無意味に助けて逆に害を与えることにならないよう、必要に迫られないかぎり救いの手を差し伸べられることはない。これもひとえに聖人のことを日夜ひそかに慮りつづけておられることを示したいと望まれつつも、あえて聖人が万事においてなるべく修行して祈れるようにするためである。ただし聖人がひどい難題にぶち当たり、弱り切ってやり遂げようがないとき、ご権能を発揮されてやり遂げてくださることがある。つまりこれだけ必要だとご存じの分だけ聖人を助けつつ、聖人が苦難になんぞ負けるものかと立ち上がるまでひそかに許されるかぎり力付けくださるのだ。というのも、よく苦難の意味を悟らせることで苦難の枷を取き、聖人が理解を深めて讃美したくなるように仕向けられるからだ。讃美することこそ、苦難の中であろうとなかろうとためになるものである。もちろん主があからさまな形で介入すべき時には、必要なかぎりあからさまに助けてくださることもある。それも思いつくままに助けるというのではなく、聖人がどのくらい追い詰められているか、どのくらい助けを必要としているかに応じて最も賢明なかたちで助けてくださるのである。

ところが必要に迫られてもいないのに、これらの助けを神に祈って奇跡や力を手に入れようとする者は、良心が鈍いせいで自慢したいという下心を晒して悪魔に笑われることになる。なにせ神の助けというのは苦難のときに求めるべきものだからだ。必要に迫られてもいないのに神を試みるなど危険だし、試みようと思う気持ちはよろしくない。だが聖人であれば、主の祝福によって奇跡を行なえるようになることもある。だが必要でもないのに自分勝手に奇跡が欲しいと求めるのならば、天使に守られなくなって堕落し、真偽の見境がつかなくなるだろう。というのは、もしも厚かましく神に願っていたことが叶ってしまった場合、そこには邪悪な霊が働きかけ、さらにもっと偉大なことを求めてみろと唆してくるからである。真の義人はそういうことを求めないだけでなく、そういうことが与えられたときにはむしろ拒むものだ。しかも人々の目の前でそういうことを祈願しないだけではなく、心の中でさえ微塵たりとも求めたりはしない。

そもそもある師父などは訪問者を事前に見分ける能力を賜ったとき、しかもそれはそれで清さゆえに与えられた恩寵であったにもかかわらず、この賜を取り除いてくださいと神に祈ったではないか(しかもこの師父にお願いされた他の聖人たちまでも一緒に祈ったではないか)。もし聖人といわれる人たちが賜を受けとったとしたら、それは他人を助ける必要に駆られてか、あるいは素朴な気持ちで受けとっただけである。たしかに神の指図を受け取ろうとした聖人もいたにはいたが、それとて格別な理由もなく受け取ろうとしたわけではなかった。

かつて聖アンムンが聖大アントニイに会いに行って道に迷ったとき、神に何を言ってどうしてもらったか見てみよ〔聖アンムンが「主わが神よ、なんじの造物を滅ぼすなかれ」と祈るなり、天から手のようなものが見えて行くべき方向を示してくれたという〕。それに師父マカリイをはじめとした師父たちのことも思い出せ。真の義人は、いつも自分が神に値しないと考えているものだ。なんという呪われた身で神に配慮される資格のない者かと思い、それを胸奥でも人前でも認めることによって真に義人であることを明らかにする。そして聖神に導かれて痛悔の道を歩んで賢くなり、持つべき自省を失わないよう息のある限り努力する。休息するのは、神のもとで来世に入ってからだ。したがって、おのれのうちに生ける主を宿している者は、生ける主を宿しているがゆえに休みたいとは思わない。もちろん、ときおり属神的に慰められることもないわけではないが、決して苦難から抜け出したいとは思わない。

ついに徳をなしとげたぞと思って努力をやめて羽を伸ばしたとしたら、そんな徳はすでに徳とは言えない。むしろ聖神が宿った場合、かりにもっと楽にできる方法があったとしても始終自分を服従させようとするものだ。それが聖神の御旨だからである。聖神は人に住み着くと、その人をだらけさせはしない。それどころか一心不乱に修行に打ちこませ、よりつらい苦難に向かうよう仕向け、試練をとおして鍛え上げて賢慮に近づけてゆく。まさに「聖神に愛された以上は努力を貫け」と思っておられるのだ。

いっぽう、いつものんびり生きている者には、聖神ではなく悪霊がその心に住み着くようになる。ゆえに、神を愛した聖人は「日々死ぬことにいたします」と誓ったのである。神の子たちは辛い生活を送って抜きん出るが、世の子らは悠々自適に暮らして楽しむ。そもそも神は、ご自分の愛する者たちが体をまとっている間はのんびり生きることをよしとされなかった。むしろつらい苦難や重荷を背負って汗を流し、貧窮して孤独で裸でも、病気で見捨てられても耐えよと望まれたし、たとい心身が弱って親族に見捨てられて胸が引き裂かれようとも耐えよと望まれた。それに加えて、人目につかない場所に住んで風貌まで変わっても、隠遁して楽しめる物のない僧房で独り静かに黙修せよと求められたのである。隠遁者は泣き、世は笑う。隠遁者は嘆息をつき、世は喜び楽しむ。隠遁者は斎をし、世は贅沢にふける。隠遁者は追いつめられた環境で日中も働き、夜も修行に身を入れる。その中には、すすんで困苦に身を置く者もいれば、慾と闘って汗を流す者もいる。迫害される者もいれば、慾や悪霊にやられて苦労する者もいる。もちろん追放される者や殺される者、羊の皮を着て放浪する者もいる(エウレイ 11 : 37)。そのとき、かれらの上に「世にありてなんじら患難を受けん、しかれども我において喜ぶべし」(イオアン 16 : 33 参照)という御言葉が実現するのだ。主は、人がのんびり暮らしながら神の愛など貫けないことをご存じである。だからこそ、ご自分の愛する者たちに安楽な暮らしを禁じられたのである。救主ハリストスのうちにこそ、体の死をも恐れない愛がある。主よ、どうかわれわれにもなんじの愛の力を現わしたまえ。

第37訓話 神は、なぜ神を愛する者に試練を許されるのか

聖人は迫害されているとき、片時もそばを離れることのない主のご加護を痛感する。そして主の名ために受難に耐えて神への愛を見せた結果として、大胆に神に顔をむけて期待して祈れるようになる。大胆な祈りの力は絶大だ。だからこそ、悲哀という悲哀に耐えて神の助力や熟慮を体験するよう試練が送られてくるのだ。というのは、試練を越えればこそ賢くなれるからである。なにせ善悪の違いばかりは経験しなければ学びようがないので、神の導きによって万事を体験して知り、悪魔に鼻で笑われないようにしてもらっているのだ。なぜなら善だけで訓練していたら悪における訓練が足りず、いざ悪と闘うことになったときに右も左も分からず狼狽えてしまうからである。

だいたい聖人が神に善悪の認識をつけさせてもらえずに学ぶとしたら、自由意志のない牛かロバにされたようなものだろう。まずは悪において試されないかぎり、善を見抜きようがないからである。悪による試練を乗り越えていけば、善に出会ったときにまるで所有物のようにその善を自由に賢く活かすことができるようになる。苦心した実体験から出てくる知恵はなんと心地よいことか。そして長年の体験をとおして身につけた事柄はどれほど大きな力をもたらすことか。そのような知恵は、その知恵の作用を知っている者だけが理解できる。つまり本性の弱さや神の助力を痛感した者のみが捉えうる知恵である。というのも、人はまず神の助力を失ってみないことには何も分かっていないからである。神の助力を失ってみてはじめて本性の弱さを自覚し、誘惑の恐ろしさや敵の狡さを知り、いかなる敵と闘っているのか思い知る。そして慾との闘いをとおして、この弱い本性が神のご加護にどれだけ助けられてきたか、そのお陰でどれだけ勝ち抜いてこられたか振り返り、その力が去ってしまうなりいかに貧弱な身となってしまったか悟る。こうして少しずつ謙遜を身につけて神に近づき、神の助けを待って祈り続けるようになるのだ。逆に言えば、もしも神の許しによってこういったひどい誘惑に遭わず、とことん惨状を体験してこなかったとしたら、いったいどうやって神の強さや自分の弱さを知り得ただろうか。使徒でさえ「黙示の至大なるによりてわが高ぶらざらんために、一つの刺とげはわが肉体に与えられたり、すなわちサタナの使いなり」(コリンフ後 12 : 7)と述べ、ひどい誘惑に耐えていた身の上を公言しているわけだ。とはいえ、人は誘惑に遭ってたびたび神の助力を痛感していくことで信仰が強まる。信仰が強まれば何も恐れなくなり、たとい誘惑を受けても鍛え抜かれた経験によって泰然としていられるようになる。

だれだって誘惑や試練を受けた方がためになる。かのパウェルでさえ誘惑を受けてためになったというのなら(コリンフ後 12 : 7 参照)、もはやその事実に対して反論の余地はないだろうし、全人類はただ神の決められたとおりに従うしかない(ロマ 3 :19)。ただし、人によって誘惑や試練を受ける目的はそれぞれだ。修行者ならば、より経験を深めるために誘惑を受ける。だらけた者ならば、これ以上悪い方に行かないように病気にかかったりする。眠りこけている者ならば、目覚めるために事故や事件に遭ったりする。すっかり遠のいてしまった者ならば、神に近づくために災難に遭ったりする。しかし神の身内となった者ならば、大胆にも試練を楽しむことになる。神は、まず誘惑や試練を送って人を困憊させ、人が悩み抜いた末に賜を示されるのである。こうして苦い薬で病を治し、健康を楽しめる身にしてくださっている神にこそ光栄を帰すべし。

だれであろうと学習中はつらく、誘惑や試練の毒を味わえば苦い思いをするものだ。そういう苦い思いを体験しなければ意志の力は強まらない。かといって、誘惑や試練は自力で耐え抜けるものではない。陶器も窯で焼かないとぐにゃぐにゃして水漏れしてしまうように、人も恩寵の火を受けなければ慾の動きは止められない。われわれがへりくだって絶えず願い求め、忍耐して神に従うことができれば、主イイスス・ハリストスにおいて何もかも受け取ることができるだろう。アミン。

第38訓話 人が今どのような水準にいるかは、湧いてくる想念によって見分けられることについて

だれでも怠けているうちは、死ぬのが怖い。ところが神に近づいてゆくと、むしろ最後の審判を恐れるようになる。しかしもっともっと前進すると、愛によって一切恐れなくなる(イオアン一、4 : 18 参照)。なぜこんなにも違うのだろうか。まず肉の思いに基づいて生きているうちは、死は壮絶な恐怖としてしか映らない。ところが霊的知恵に基づいて善良に生きていくと、最後の審判のことばかり思うようになる。なにせ生来の霊的法則にのっとって正しく行動し、善良な生活をして神に近づきやすくなったからである。しかるに、もっと前進して真の知恵に至るや、真の知恵を用いて神の奥義を悟り、来世に期待していた事柄を確信するようになる。すると、かの屠殺を怖がる動物のようであった肉の人も、かの神の裁きを恐れていた理性的な人も、愛によってことごとく生まれ変わるのだ。そして神の身内となるや、もはや罰を恐れてではなく、ただ愛するがゆえに神に仕えるようになり、「私は一家をあげて主に仕えます」(ヨシュア 24 : 15 参照)と決意表明するのである。

神の愛へ至った者は、もはや二度とここに留まりたいとは思わない。なぜなら神の愛は恐れを締め出すからだ(イオアン一、4 : 18 参照)。愛する兄弟よ、私もこうして佯狂者になってしまった以上、秘密を隠して押し黙っていることができないので、愚かになって皆さんに役立つことを書き残しておこうと思う(コリンフ後 12 : 11 参照)。真実の愛とはそういうものであり、愛する者に何事も隠せないからである。じつを言うと、この文章を書きながら幾度となく紙の上を走る筆が止まり、あまりに心地よくて忘我状態になったほどである。とはいえ、つねに世俗的なものを避けて神のことを考え、ただ神と知的に対話しつづけている者は幸いだ。もし耐えつづけることができれば、ほどなくして成果を目にすることができるであろう。

この世で生きることよりも、神における喜びの方が強い。神において喜ぶようになると苦痛を物ともしなくなるだけでなく、命を奪われても平気になり、喜び以外の感情がなくなってゆく。もちろん本当にこの喜びがあった場合の話ではあるが……。そして、神を究明すればこそ愛するようになるのだが、そのような愛は蜂蜜や蜜房よりも甘く、この世で生きることよりも甘く、愛する者のために苦しんで死ぬことも厭わない。まさに長らく忍耐して霊的に健康になったとき、その健康力からくる知恵で愛するようになるのだ。

質問  知恵とは何でしょうか。

回答  不死の命を感じることだ。

質問  不死の命とは何でしょうか。

回答  神を感じることだ。いま「知恵で愛するようになる」と言ったが、そもそも神を知りたいという欲求ほど強い欲求もないわけだ。ゆえに心でもって神を知ると、もはやこの世の快楽などどれもこれも要らなくなる。神を知ることの甘さに匹敵する物事など存在しないからである。

主よ、どうか永遠の生命でわが心を満たしたまえ。

永遠の生命とは神における慰めだ。ゆえに神における慰めを得てしまったら、もはや世の慰めを必要としなくなるのである。

質問  しかし聖神から英知を得られたとき、得られたと自覚できるものでしょうか。

回答  英知自体から教わるはずだ。人は英知を得ると、心身ともに謙虚な姿勢を学ぶようになる。そして、どのように遜ったらよいか見えてくる。

質問  どのようにして謙遜に至ったと分かるのでしょうか。

回答  もはや交流や会話をとおして世を喜ばすのが厭わしくなったときだ。この世の名誉にすっかり嫌気がさしたときだ。

質問  慾とは何でしょうか。

回答  この世の事物と関わったときに湧いてきて、体にとって必要最低限なことを必要以上に刺激してくるものだ。しかもこの世の続くかぎり、慾が湧かなくなることはない。ただし神の恩寵にあずかった者は、世の快楽よりも高尚な何かを感じて体験したため、心に慾を入れない。なぜならより良い渇望に燃えているため慾を受けつけず、慾のせいで生じる事態も起こさせないからだ。つまり慾に活動させないからである。なにも慾がまったく湧かなくなったというわけではなく、ひとえに慾が湧いても心がそれに対して死んでおり、何か違うものによって生きているということである。もちろん思慮分別を失くしたわけでもなく、単に何が起ころうとも知性が動じず、意識が何か違う楽しみに満ちているということである。

心は属神的な手応えを感じてはっきり来世を観照するようになると、慾について思い出すなり、まるで高級料理で満腹のときにその料理に合わない一品を出されたのと同じ思いを抱く。つまりその一品に目もくれなければ欲しもせず、むしろうっとうしくて顔を背けるのだ。単にその一品がうっとうしくて厭うべき一品であるせいだけでなく、まさに最初に口にしたもっと高級な料理で満腹だからである。ちょうど、かの放蕩息子が父の財産を分けてもらっておきながら使い果たし、豚の食べるいなご豆でさえ食べたくなったのと真逆の心境だ。さらにこうも言えるだろう。そもそも宝の管理を任せられた者は眠りやしない、と。

覚醒して知恵をもって正しく判断しつづけることができたら(それが永遠の生命をもたらすわけだが)、知性はいちいち慾を刺激しにくるものと闘わなくて済むようになる。闘って心に慾を入れさせないのではなく、意識が冴えわたって心に知恵が満ち、霊たましいの内に生じる奇跡を観照したいと渇望しているからだ。その渇望が防壁となって、心に慾を入らせない。なぜなら先述したように、決して心を守らなくなったり分別を失ったりしたからではなく(むしろ分別こそ霊たましいを照らして真の知恵を守るものだ)、単に知性が右述の理由で闘う必要がなくなったからである。実際、富者は乞食の粗食を厭い、健康な者は病人食を食べたがらない。ここで「富者」とは覚醒者のことを意味し、「健康な者」とは用心深い者のことを意味する。よって人は息のあるかぎり、自分の宝を守るために用心深く覚醒していなければならない。この用心深く覚醒するという垣根を取っ払って油断して眠りこけていれば、病魔に侵されるだけでなく宝まで盗まれてしまう。単に修行の成果を実感するまで修行すればよいというものではない。むしろ息を引き取る瞬間まで修行すべきなのだ。なにせ熟した果実がいきなり雹に見舞われて傷んでしまうことなどよくあるではないか。ゆえに修行者が俗事に割り込んで話に花を咲かせた日には、すでに健康であれるかどうか分かったものではない。

祈るときは、「主よ、どうか本気で死んでこの世と口を利かずにいられるようにしてください」と祈れ。こう祈ったとき、あらゆる願いを打ち明けたことを悟れ。そして、そう祈ったとおりに生きよ。というのも、そう祈ったとおりに生きるならば、真にハリストスの自由の内にいることになるからだ。世に対して死ぬということは、世にあるものと関わらないだけでなく、頭の中でも世の富を欲しがらないことである。

善いことばかり思いめぐらすのに慣れてしまえば、慾とぶち当たるなり慾を恥じるようになる。そういう体験をしたことのある者ならば分かるだろう。しかし、まずは慾に気を取られることを恥じ、慾を刺激した日には成れの果てにどうなってしまうか思い出して、そうなる原因には近寄らないようにしよう。

神を愛するがゆえに何か成しとげたいと思ったら、死ぬ気になって成しとげたいと思え。そうすれば、慾と闘いながら文字どおり致命者の域まで昇らせてもらい、最後まであきらめずに耐え忍ぶことができれば、そして覚醒して用心することを忘れなければ、いかなる物事からも一切害を受けることがないだろう。理性が弱いと、忍耐力まで弱めてしまう。だがしっかり理性に従っていけば、生まれつき備わっていなかった力まで帯びるようになる。

主よ、なんじのうちに生きんがため、この生命を憎む力を与えたまえ。

この世の人生というものは、一覧表にある文字からいくつか文字を取って組み立てていく文章に似ている。だから、こうしよう、こうしたいと思ったら、その部分に必要な文字を足したり減らしたりして文章を書き換えることができる。だが、来世の生命というものは、きれいな巻物に筆で書かれて王の御璽が押され、もはや何の添削もできなくなった文章に似ている。だから、まだ修正できる人生を歩んでいるうちに自分自身に注意せよ。まだこうして綴っている「わが人生」という手記を意のままに添削できるあいだに、善く生きた年月を加筆できるように努め、過去の過失は悔改して消し去るようにしようではないか。

なにせ神は、人がこの世に生きている間は、つまり未知の国へ旅立つ瞬間までは、この地上で働いているわれわれの人生に「善き人生」ないし「悪しき人生」という印影の決裁印を押さないでくださるからだ。聖エフレムが言ったとおりである。

こんな風に思いめぐらすと良いだろう。われわれの霊たましいは、あたかも出航準備の整った船のようだ。ただし、いつ風を浴びて出航するのか分からずに待機している船だ。あるいは軍人のようだと言ってもいい。ただし、いつ「出陣せよ」というラッパの合図が鳴り響くのか分からずに待機している軍人だ。ところで、もしそういった船なり軍人なりが、ささやかな利益を得るために準備し、あわよくば再び挑戦できるかもしれないのに万全を期しているとしたら、いったいわれわれはかの恐るべき日のために、どれほど準備して武装していなければならないだろうか。それこそ新しい世へむかう橋に足をかけ、来世への門を開いて入ってゆく瞬間なのだから。

願わくはその念願の日、われわれも仲保者ハリストスによって堂々と信仰告白できますように。そしてそのために、今からしっかり準備してゆくことができますように。光栄と叩拝と感謝は、主に世々に帰す。アミン。

第39訓話 霊的な者は、なぜ直観できて属神的なものを見抜くのか。その直観は体の重ったるさ(世俗度)と反比例するが、知性はどうやってその重ったるさを乗り超えてゆくのか。そしてなぜ体の重ったるさから抜け出られないことがあるのか。さらに祈る際、どういう時にどれくらい夢想せずにいられるのか

われわれの前で門を開き、まっしぐらに神に邁進したくなるようにしてくださっている主はあがめ讃めらるべし。なにせこの門の向こう側を見ればこそ、何もかも捨てて神のみを希求することができ、主を観照するときの妨げとなる思い悩みも失せるからである。愛する兄弟よ。知性というのは現世のことを思い悩まず来世を望むようになればなるほど、まさに衣食に気を回さなくなった分だけ軽くなって明瞭に祈れるようになるのだ。体を物質の縛りから解けば解くほど、知性も自由になる。さらに思い悩みという縛りから解けば解くほど明瞭になり、明瞭になればなるほど身軽になって現世の重たるい理解水準を超えてゆく。すると自己流ではなく、神に失礼にならない形で神を理解できるようになる。まずは啓示に値するよう身を清めなければ、啓示を観ることはできない。清さに至らなければ、はっきり理解できないため神秘を観ることもできない。そしてことごとく目に見える受造物から自由にならないかぎり、目に見えるものに没した考え方から解かれることはなく、陰湿な想念から身を浄めることもできない。想念が陰湿でこんがらがっているところには慾がある。人は、右の状況やその原因から解かれて自由にならなければ、知性でもって神秘を見抜くことはできない。だから主は、まずは財産を捨てて貧しくなれ、そして世の波を避けて人類共通の思い悩みを捨てよと命じられたのである。まさに「なんじらのうち、およそその持てる所を捨てざる者は、わが門徒となるを得ず」と告げられ、全人類と自分自身を捨てるよう諭されたのである(ルカ 14 : 26, 33)。

人は何もかも捨てなければ、目にしたものや耳にしたものから痛手を受け、何をいつ手放したり入手したりしようかと煩い、対人関係でも思い悩んでしまう。よって主は、われわれがいろいろ考えあぐねいて憂慮することから自由になり、神と対話したくなる方法を示してくださったわけだ。まさに、何もかも捨てること。それによって知性が何からも害を蒙らず、神に期待しきれるようになるからである。とはいえ何もかも捨てた後で、まだ祈る訓練が欠かせない。祈りつづけて知性を賢くするためだ。しかし、何もかも捨てて思いが縛りから解かれたはずなのに、なぜまだ祈りつづけなければならないのか。なぜなら知力というのは長いこと鍛えてこそ熟練の域に達し、どのように想念を退治すべきか弁え、積み重ねた経験でもって他の手段では学べない事柄を学んでゆくからである。というのは、およそ現在の生き方というのは過去の生き方から得られた成果であり、以前に成しとげたものの上に後続するものが与えられるからである。そもそも祈るために隠遁するわけだし、隠遁すればこそ祈れるようになる。では何のために祈るのかといえば、まさに神を愛せるようになるためだ。なぜなら祈っていると、少しずつ神を愛せるようになるからである。

愛する兄弟よ、しかし「祈り」といっても色々あることを心得ておこうではないか。祈ることで内なる対話ができるようになり、神のことを心にかけて属神的事柄を思えるようになる。そのような対話とか思いも「祈り」と呼ばれている。そのほか、いろいろ本を読むことも祈りだし、声を出して神を讃美することも祈りだし、主から離れた身を嘆き哀しむことも祈りである。また、体で叩拝することも祈りだし、聖詠を唱えたり聖歌を歌ったりすることも祈りだし、それ以外の真の祈祷手段となるあらゆる行為も祈りであって、そうやって祈りながら神を愛せるようになるのである。もとより隠遁することで祈れるようになり、祈ることで愛が芽生えるからである。神とふたりきりで語らう機会を持つためには隠遁するしかない。しかし隠遁する前に、まずは世を捨てなければならない。まず世を捨てて諸事から解放されて余暇ができなければ、独りきりになれないからである。さらに順を追って条件を手繰ると、世を捨てるためには忍耐が、忍耐するためには世を憎むことが、世を憎むためには畏怖と愛を持つことが必要だ。なぜならば、地獄を怖れて至福を慕わなければ世を憎めず、世を憎まなければ峻厳な環境を耐えられず、峻厳な環境を耐える覚悟がなければ人気ひとけなき荒野へ行けず、荒野へ行って隠遁しなければ祈りを貫けないからである。そして、広い意味での「祈り」でもって神と語らいつづけなければ、愛を感じようがないからである。

要するに、神への愛とは、神と語らうことから生じるのである。そうやって広い意味で祈りながら思いめぐらせるようになるためには、やはり黙修が必要。黙修のためには清貧が必要。清貧のためには忍耐が必要。忍耐のためには肉慾を憎むことが必要。肉慾を憎むためには地獄を恐れて至福を望む心が欠かせない。だからこそ、肉慾のせいでどんな至福が得られなくなるのか知っている者は、肉慾を憎むのである。このように、どの生き方もそれ以前の生き方と繋がっており、その段階を踏まえてより高度な生き方へ移ってゆく。したがって、もしいずれかの段階で諦めてしまうのであれば、その段階の次にくる生き方は成り立たないし実現しようもない。現段階でぶち壊されて、もみ消されてしまうからである。これよりも高度な事柄については、もはや言葉で語るには限界があろう。光栄と威厳は神に世々に帰す。アミン。

第40訓話 祈祷や叩拝や涙、読書や沈黙や聖詠朗誦について

いくら祈りに専念したって意味がない、などとのたまうな。しかも聖詠すら読めなくなってしまったという。とはいえ聖詠を読むよりは叩拝を愛することだ。うまく祈れたとき、それが奉神礼の代わりになるだろう。そして祈っている最中に涙が流れたときには、それが祈りに不要な甘美だなどと思ってはならない。なにせ恩寵によって涙が流れたとき、それは祈りきったしるしだからである。

気が散漫するときには、祈祷よりも読書に励め。ただし周知のとおり、どの書物でもためになるわけではない。労働よりもずっと深く黙修を愛せ。できれば立つことよりも本を読め。というのも、読書は清い祈りの泉だからだ。いちいち言い訳をこしらえて怠けてはならない。とにかくあれこれ思いめぐらさないよう覚醒することだ。なぜなら聖詠を歌うことでしっかり生きられるからである。もっとも気が散ったまま聖詠を唱えるよりは、よほど体を使って動いた方がためになることも弁えておこう。しかし知的に罪や弱さを悲しむことができれば、それは肉体労働よりも上なのだ。だらけてしまったときは正気に返り、少しずつ覇気を帯びてゆけ。覇気を帯びれば心も目覚め、徐々に霊的に考えられるようになるだろう。義憤こそ、だらけてしまったときに肉慾をやっつけてくれるものである。憤れば、無関心になっていた霊たましいが叩き起こされるからである。大抵は満腹のせいか仕事量が多すぎたせいで、怠惰に陥ってしまうようである。

良識を弁えた修行こそ、賢い判断による光だ。これぞ知恵というものに他ならない。日中の諸活動よりも夜中の祈りを重んじよ。夜中に起きた時に頭がどんよりしてあれこれ思いめぐらしてしまわないよう、とにかく腹を満たすな。そして下半身の自戒を解くな。解けば女みたいに弱くなり、霊たましいも曇って理解力も落ちて全然祈りに気が入らず、何も感じられなくて聖詠を味わえなくなってしまう。ふつう明瞭に考えられる知的状態であれば、快く聖詠の彩りを味わうことができるのに……。なにせ知性は、夜の自制を守っていないと昼の修行でも困惑して暗中模索し、いつものように読書を楽しむことができなくなるからだ。祈ろうとしても、教訓を得ようとしても、思考内で嵐が渦巻いているからである。ひとえに夜の修行の光を受けて清まったとき、はじめて日中の修行でも甘美を味わえるのである。

いかに功績のある賢い学者であろうとも、継続的に黙修をしたことがないのであれば、修道のもたらす恵みについて何か発見できるような気がしてはならない。

体が疲れきってしまわないように気をつけよ。疲れきって怠惰に陥り、修行する悦びを失ってしまわないようにするためだ。だれもが自分の生き方を、あたかも秤に掛けて精査するようにすべきである。たとえば食べ過ぎてしまったら、どんな些細なことでも隙を見せないようにする、などである。用を足さなければならないときには、貞操をもって座るようにせよ。とくに寝入るときに貞操で清くあるように心掛け、想念だけでなく肢体の節々まで注意を払え。なにか改善できたときには自惚れないように。自惚れやすい弱さや愚かさを主に打ち明けて祈り、主に見放されて汚れた誘惑に陥らないようにせよ。なぜなら思い上がれば淫欲に歯向かえず、自惚れれば妄想に嵌まってしまうからだ。

手仕事は必要な分だけ行なえ、というか、黙修を貫くためにこそ行なえ。ひたすら主の摂理を信頼してひるまないことだ。なぜなら、人気ひとけなき荒野で主に寄りすがって忠実に生きている者は、主ご自身に救われながら見事に導かれてゆくからである。よく霊たましいのことを気にして修行しているときに、ふっと主から必需品を賜ることがある。その途端に人殺しの悪魔が盗みに忍びこんできて、こんな邪念を吹き込んでくる。「それ見ろ、これも努力の賜物に違いない」と。そう思ったが最後、主の摂理の手が止まり、たちまち次から次へと誘惑が降りかかってくる。それは主に見放されたせいか、あるいは体に潜んでいた慾や病がまたもやぶり返してきたせいなのである。

ちょっとやそっと邪念が湧いただけで、神から見放されるということはない。むしろその邪念に目を留めていたせいで、神の手が離れてしまうのである。つい揺らいでしまったり邪念をしばし受け入れてしまったりしただけでは断罪されないからだ。たとい邪念を受けいれてしまったとしても即座に慾を断ち切って嘆くならば、その一時的な怠慢を神に咎められることはない。でも何となくその想念を味わって危険視せず、「まあ人間なんて所詮こんなもんだし、ひょっとしたら、これはこれでためになるかもしれないぞ」などと思ったりした日には、そのだらしなさを咎められる。

いつも主に対してこう祈ろう。「真実そのものであるハリストスよ。どうかあなたの真実の光でこの心を照らし、どうすれば御旨どおり主の道を歩めるかご教示ください」と。

何かしら邪念が湧いてきたときには、それが初めての邪念であろうが昔ながらの邪念であろうが、しつこく知性に湧いてくる以上は、悪鬼に罠を仕掛けられている証拠だと思え。ただし、折よく気合を入れ直して覚醒すべきだ。逆に、善良な正念が湧いてきたときには、それは「こんなふうにも生きられるよ」と神に提案されているから、いつになくそういう想念が湧いてくるのである。万が一その想念が、どうも陰湿で信じがたい想念なのであれば、つまり身内なのか泥棒なのか分からず、助けに来ているのか騙しに来ているのか見分けられず、単に良く見えるだけかもしれないとも思ったら、武器を取ってすばやく熱心に祈り、夜を日に継いで眠らずに祈れ。あえてその想念を断ち切ることも受け入れることもせず、ひたすらその想念をめぐって必死に祈りつづけ、口を閉ざすことなく主を呼びつづけることだ。そうすれば、主がいったいどこから来た想念なのか示してくださるだろう。

第41訓話 沈黙について

何よりも沈黙を愛せ。黙っていれば少しずつ身につくものがある。まさに何が身につくのかという点については、言葉では伝えようがない。なるべく黙っているように心がけていれば、無言でいるうちにもっと黙っていたくなる何かを見出すだろう。願わくはあなたもその何かを感じとることができますように。それにしても沈黙生活を始めると、どれだけ見通しが良くなることか。兄弟よ、誤解しないでほしい。かのアルセニイは、師父や兄弟に訪問されたとき黙ったまま対応して一言も口をきかずに帰らせたといわれているが、それは決して端から楽々やってのけたわけではない。黙りつづけて少しずつ沈黙が心地よくなると、黙修せずにいられなくなって涙がとめどなく流れるようになる。すると心は泣きながら神秘的に観照し、時に辛うじて、時に驚きながら、何かを感じとる。なにせ小さくなって嬰児のような心になるため、祈り始めるなり涙を流すのだ。こうして肉体を制御して霊たましいの奥で驚嘆すべき習慣を身につけた者は偉大だ。かりに右手に修道生活の行ないをすべて置き、左手に沈黙を置いてみれば、沈黙の方が重いことを目の当たりにするだろう。ためになる助言はたくさんあるが、人は沈黙を覚えるなりそういう助言どおりにしなくてもよくなり、今まで取りくんできた修行も不要となり、それらを超越したわが身を見る。完徳に近づいたからである。沈黙さえ守っていれば黙修に近づけるだろう。というのも修道院に住んでいる以上は、まわりに人が多くて一切人に会わずに黙修することなどできないからである。

天使同然だったアルセニイでさえ、ひときわ黙修を愛しているのに一切人に会わないようにすることはできなかった。現にわれわれも教会に行ったり他の場所へ行ったりするとき、ご近所の師父や兄弟とすれ違わないわけにもいかず、ふいにあちこちで出くわすではないか。かの福なるアルセニイもそのような状況の中にいて、修道院の近くで暮らしているかぎり人に会わないことは不可能だと悟った。そして人々や修道士に出くわす日々が続いたとき、恩寵によって「絶えず沈黙せよ」という術を身につけたのである。すると避けがたい理由で僧房の扉を開くたびに、顔を見せただけで人々に喜ばれ、もはや言葉による会話を求められなくなったのである。

そんなアルセニイの姿を見て教訓とし、身を守って属神的に富んでいった師父は多い。中には、人に会いたくなるなり全身を石に縛り付けたり縄で縛ったり、あえて空腹に堪えたりした師父もいた。空腹だと、かなり感覚を抑えやすくなるからである。

兄弟よ。私は驚嘆すべき偉大な師父を見てきたが、かれらは行ないよりも五感や体の習慣に注意を払っていた。そういった点から想念が正されるからである。生きていれば、やむなく不本意なことをしてしまったり思ってしまったりすることがある。ゆえに普段からたゆまず五感を守っていないと、ひょんなことから平安の状態を失ってしまい、長らく我に返ってこられないなんてことも起こりかねない。

心は成熟してくると、期待してきた永福のことばかり思うようになる。そして生活水準が高尚になればなるほど、何もかも捨てるようになる。さらに死を見据えていると、体のどの部分でも羽目を外さなくなる。やがて心に希望が溢れることほど嬉しいことはない。そうやって日々内面的な篩に掛けられながら知恵を深めていくのだ。なにせ孤独ゆえに落ち込むことがあったとしても(これも神の摂理なのだろう)、心に宿る信仰の言葉にとびきり励まされるだろう。それに、ある捧神者がいみじくも言ったように、信者は神を愛しているというただそれだけで、たとい霊たましいが滅びそうな状態であっても慰められるのだ。なぜならその捧神者も言ったように、心から快楽や安逸を疎んじて永福のみを求めている者にとって、はたして苦痛をもたらすような損害などこの世にあろうか。

兄弟よ。こんな戒めを遺しておこう。自分自身の中で神の慈悲深さを実感するまで、とにかくすすんで施せ。この施しを鏡と思って手にして持ち、もとより神の本性にある真の像と肖を自分自身のうちに見届けるのだ。こんなふうにして照らされて、明るい動機で神に喜ばれる修行生活に取り掛かろう。憐みを垂れない頑固な心は一向に清まることがない。憐れむ人は、おのれの霊たましいを癒す医者だ。まるで強風で巻き上げるかのように心から慾の闇を追い払えるからだ。これこそ「神に貸与する良き負債」である、と福音書にも書いてある(マトフェイ 25 : 40, 箴言 19 : 17 参照)。

寝床に入る直前に、寝床に向かってこう語れ。「さあ、今晩この寝床にもぐりこんだが最後、とうとう棺桶へ移ることになるかもしれない。朝まで眠るつもりでも、もはや永眠して来世へ連れていかれるかもしれない」と。だからこそ、まだ足のあるうちに修行に向かえ。ほどけない足枷に縛られてしまう以前に、足を動かして仕えるのだ。まだ手のあるうちに祈れ。息絶えて動けなくなる前に、十字を描かいて祈るのだ。まだ目のあるうちに涙で満たせ。塵埃に覆われてしまう前に、泣いて赦しを乞うのだ。そう、ちょっと風に当たっただけで萎えてしまうバラの花のように、体内の構成要素のどれかが壊れただけであなたは死ぬ。人間よ、いつだって旅立ちの時が迫っていることを弁えて、こう自分に言い聞かせるのだ。「見ろ、もうお迎えが戸口までやってきたぞ。何をぐずぐずしている。これより永世に移住して、もう二度とこの部屋へは戻ってこないのだ」と。

ハリストスとの語らいを愛する者は、独りきりになることを好む。大勢と交流したがる者は、この世の友だ。悔改を愛するのなら黙修を愛せ。なにせ黙修せずに悔い改めきることなどできないし、そんなことないと異議を唱える者がいたとしても言い争うな。悔改へいたる黙修を愛するのなら、喜んで貧窮をも愛し、黙修に対して放たれる叱責や侮辱をも愛せ。そう事前に心構えしておかなければ、自由に黙修生活を送って苛立たずにいることなどできないからだ。そういった些事をいちいち気にしないでいられれば、御旨によって黙修に与り、神がよしとされる分だけ黙修を貫くことができるだろう。黙修を愛するということは、つねに死を待ち受けるということである。この思いなくして黙修に入るならば、死ぬ気で耐えるべき境遇を持ちこたえることなどできない。

賢明な者よ、さらに次の点を弁えておくがよい。われわれがこうして独居を選び、黙修したり隠遁したりしているのは、規程外のことをするためでもないし、それを成しとげるためでもない。もし何かを成しとげたいのであれば、よほど人々と交流しながら力を合わせて取り組んだ方がふさわしいからだ。それに、もし本気で何かを成しとげるためだったとしたら、師父たちとしても人的交流を絶つまでもなかっただろうし、ましてや棺桶の中で暮らしたり、わざわざぽつんと建てた庵に隠遁したりする必要もなかったはずだ。師父たちは隠遁して体を弱め、こうしようと思った規程も行なえないまま、身体的疲労と無力の極みを襲ってくる重病に耐えた。そして、もはや立てなくなろうとも通常の祈祷文を唱えられなくなろうとも、声を出して讃美できなくなろうとも聖詠を読めなくなろうとも、そのほか体で行なえることができなくなろうとも、生涯にわたって喜んでその無力に耐えたのである。むしろそういう規程をこなす代わりに、弱りきった体で黙修するだけで充分だった。そうやって全生涯の日々を過ごし、これほど無駄とも思われる生き方をしながらも、だれ一人として僧房を捨てようとは思わず、たとえば規定をこなせなくなったからどこか遠くへ赴こうとか、教会へ足を運んで他人の奉神礼や聖歌を聴いて喜び楽しもうとはしなかったのである。

おのれの罪を痛感した者は、人々の前で祈って死者を復活させられる者よりも上だ。半時ばかりおのれの霊たましいを嘆いた者は、顔を見せただけで全世界に役立つ者よりも上だ。自分自身を見つめることができた者は、天使を見ることができた者よりも上だ。というのも、後者は肉眼で天使を見るが、前者は心眼で観ているからである。独りきりで涙を流してハリストスに従っている者は、集会で自慢話をしている者よりも上だ。「いや、使徒パウェルは『ハリストスより絶たれんことをも或いは願うなり』(ロマ 9 : 3)とまで言って、伝道に身を投じたじゃないか」などと言うな。もしパウェルと同じ力を得たならば、伝道すべきである。だが、パウェルは人類のために聖神を受けたのであって、本人も証言しているとおり伝道したくて伝道していたわけではない。なにせ「これわが分のなすべきところなればなり、もし福音を伝えずば、われ禍なるかな」(コリンフ前 9 : 16)と述べているではないか。それに、自分自身の悔改を見届けるために召し出されたのではなく、人類に福音を伝道するために召し出されたのである。ゆえに、絶大な力を得たのである。

もっとも、兄弟よ。われわれとしては心の中で世が全滅するまで黙修を愛そうではないか。いつも死を覚え、死を思いながら心で神に近づいて、世のことをあれこれ思い煩わないことだ。世の快楽を蔑み、病身や黙修による無為な日々を気持ちよく耐えよう。そして、ぜひとも巌穴や地窟(エウレイ 11 :38)にて主の啓示が天から降ってくるのを待望している人々と共に、楽しみに与れるようにしようではないか。光栄と尊貴と国と威厳は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

第42訓話 聖イサアクが愛していた兄への書簡。この書簡の内容は次のとおり。1)黙修の奥義に関する教え。この奥義を知らぬがゆえに、この素晴らしい修行をしない者が多く、大半は修道士の間で言われている伝承だけに頼って僧房に留まっているという現状。2)黙修についての簡潔なまとめ

かねてより約束してきたとおり、貴君に最低限必要なことを教える立場として述べておこう。兄よ、ついに黙修へ入る準備が整ったようだね。これより黙修について賢明な方々から聴いてきた言葉をしたためておこうと思うのだが、ついでに身近な経験も付け足して覚えやすく簡潔にまとめてみたい。単にこの手紙を注意深く読むだけでなく、ぜひとも従来どおり熱心に役立ててほしい。なぜならここに収めた言葉はただ読むのではなく、じっくり理解しながら読みこみ、そこに秘められた大いなる力を汲み取って他の文章を読む際にも光のように用いて役立てるべきだからだ。そうすれば、黙修に徹するとはどういうことで何をするのか、そこにはいかなる奥義があるのか、なぜきちんとした共同生活の価値を低めてまでも黙修による苦行を選ぶ人がいるのか悟ることだろう。兄よ、もし短い人生を終えるまでに朽ちない生命を得たいと望むのなら、よくよく見極めてから黙修に入りなされ。ただ単に黙修するために黙修するのではなく、きちんと黙修という営みを研究して本質まで洞察し、諸聖人と共にこの道の深みと高みを悟れるように修行することだ。というのは、人は事業に着手するとき、どんな事業であろうともあらかじめこうすればこうなると思い描くものだからである。すると、腰を据えて取り組む気になり、途中で壁にぶち当たっても目的を見据えて踏ん張り、意義のある汗を流していると思える。また、巷でも事業の完成までは気を抜かず、つねに緊張して頭を働かせているのと同じように、誉れ高い黙修という業においても、その着手から完成までどんなに疲れることがあろうとも、やはり考え抜いた目的をじっと見つめて乗り越えることで、たくさんの奥義が見えてくるようになるわけだ。ちょうど船乗りがいつも目を上げて星を眺めているのと同じように、隠遁者は黙修という荒海に出たときに定めた目的を心眼で見据え、この捉えがたい黙修の海の底に潜りつつ、探した真珠を見つける日まで目を離さない。そのように希望をもって見つめていれば、この道で遭遇するひどい危険や苦行も耐えやすくなる。ところがそういう準備もせずに、黙修に入る前に修行の目的を見定めない者は、空気と取っ組み合うような愚かな真似をしているので、一生涯どうしても倦怠感から逃れられず、次に述べる惨状のいずれかに陥ってしまうのである。あるいは耐えがたい重荷に持ちこたえられなくなって黙修をやめて逃げ出すか、あるいは我慢して黙修を貫く代わりに僧房を監房に仕立て上げて悩み抜く。なぜ僧房が監房と化してしまうのかというと、どうすれば黙修によって慰めを得られるのか、その確実な方法を知らないからである。だから黙修による慰めを求めているにもかかわらず、心痛をもって求めることも祈祷時に涙を流すことも一向にできないのである。そのため師父たちは、かわいそうな教え子を愛するがゆえに、黙修に取り組む上でのヒントをすべて書き残し、われわれに必要なことを教えてくれた。

ある師父は、「私にとって黙修の長所とは何か。それは、住み慣れた家を離れなり知的に防御する必要がなくなって、より良い祈りに向かえたことだ」と述べた。

これと似たようなことを言った師父がいる。

「私は、書物の文章や祈祷文を味わうために黙修している。文の意味を汲み取って心地良くなると、もはや口では唱えられなくなり、まるで夢の中にでもいるかのように意識も思いも絞り込まれた状態になる。また、独りきりで黙修していると、思い出の嵐が過ぎ去って心が静まってくれる。すると内面で波のように嬉しい思いが次々と湧いてきて、ふいに心が期待していた以上の楽しみに満たされるのだ。そして、霊たましいが舟のようにその波を受けたとき、世の情報や肉的生活から出航してどんどん深く黙修へ入りこみ、神における真の奇跡にどっぷり浸かるようになる」と。

これと似たようなことを言った師父もいる。「なにせ新しい邪念を湧かせないためには黙修が一番だ。しかも黙修という防壁の中にいると、昔の思い出がどんどん薄れていって弱まってくれる。そして思考内で古い素材が朽ち果てたとき、知性はその素材を修復して元来の状態に戻るのである」と。

そう、次のように言った師父もいる。「ふだん何を考えているのか、その内容の違いでもって自分の内なる状態を読みとれ。ただし、ちょっと湧いて一時間したら忘れてしまうような考えは除外して良い。まだ生身の人間である以上は、外出したら上下どちらか、すなわち好転するか悪化するかせずに帰宅できる人はいない。求道者ならば、小さな害(些細な執着心)を捨てて帰ってこられるだろう。心が清いからこそ捨てられるのだ(人性は神に清く造られたため、その人性から生じる想念も清い)。ところが無精者は、いっそ大きな害(高慢)を捨てて帰ってくるのかもしれない。しかし、これは「罪の増しし時には、恩寵溢れたり」(ロマ 5 : 20)という使徒の指摘のとおり、ひとえに神の恩寵を受けた場合にしか実現しないだろう」と。

さらに、こんな風に言った師父もいる。「より楽しめる修行を選べ。つまり、夜が来るたびに儆醒することだ。師父たちはみな夜の修行で『古き人』を脱ぎ捨て、知性を生まれ変わらせた。人の霊たましいは夜になると不死を感じて闇の服を脱ぎ、聖神を受け入れるのだ」と。

さらに、こう言った師父もいる。「次から次へと人の面を見て、属神的任務にそぐわない談話を聞いて、しかも議論したり交流したりした日には、自問自答するための自由時間が無くなってしまう。本来ならば、その時間を用いて静かに自分自身を見つめ、罪を思い出して想念を清めることができたであろうし、忍び寄る想念にも注意を払い、祈りながら神秘的に対話できたであろうに」と。

他にこんな師父もいる。「人里離れて黙修しなければ、五感を統御できない。いくら理性的な人でも五感や想念に付きまとわれる以上は、内なる祈りで日夜目覚めていないと、つい邪念に魅せられてしまうのだ」と。

別の師父はこうも言っていた。「自分を鞭打って覚醒しながら祈ったり読書したりしていると、いかに霊たましいが喜び楽しみながら清まっていくことか。これは、死ぬまで覚醒して厳しく修行した者ならば分かるだろう」と。

したがって、貴君も黙修を愛する以上、上記の指示やヒントを目の前に置いて目標のようなものとし、少しでもその目標に近づけるよう努力せよ。まずは、目標に対して自分のどんな部分がそぐわないか突き止めよ。というのも、その点を把握しなければ真の知恵は得られないからだ。そして、そぐわない部分を直していきながら、忍耐力を見せよ。

沈黙とは、来世の奥義である。言葉は現世で使われる道具に過ぎない。斎行者は、いつも沈黙して斎をしながら、自分の霊(たましい)を属神的にしようとする。そのように黙修に徹して内面的神秘のうちにいれば、やがて聖なる奥義に満たされる。その奥義をとおして目に見えない天軍の力を受けたり、受造物を支配する聖性や権力も授かったりする。現に聖なる奥義に入ろうとしてしばらく引きこもるなり、そのような能力を受けた人たちがいた。そのうちの何人かは、主の隠しておられた知られざる奥義を観ることまで委ねられ、中級者たちを啓蒙した。なぜならそういう神秘的な任務は、自制もできず満腹で思い乱れている者に託すわけにはいかなかったからである。

とはいえ聖人でさえ、不遜にも神と語らおうとはしなかったし、奥義まで昇りつめようともしなかった。たといそうしたとしても、まずはすすんで腹を空かせ、痩せ細って顔面蒼白となり、地上の想念を何もかも捨て去った後でのこと、つまり知的静寂に至った後でのことであった。というのは、長いあいだ僧房で修行して内なる神秘を守り、五感を鎮めて人と会わずにいて黙修の力が降ってくれば、まずはふいに霊的な喜びに満たされてじきに心眼が啓き、それが透きとおっていればいるほど森羅万象の力を見抜いたり受造物の美を観たりするようになるからだ。そして知性がそういう奇蹟的直観に導かれてゆくようになると、神の受造物の栄えある奇蹟に魅せられて昼夜の区別もつかなくなる。すると、あまりに心地よいこの直観によって慾を感じにくくなるのだ。かくして、知性はこの清い段階よりも上の段階へ、さらに深い思考的啓示を受けながら二段階ほど昇ってゆくことになる。願わくは、われわれも神によってそのような段階に至らんことを。アミン。

第43訓話 いろいろな事柄、及びそのような事柄の必要性について

われわれは、属神的直観で物事を洞察する。ちょうど瞳で光を見ているように、属神的直観で洞察をするわけだ。いっぽう頭で物事を見抜こうとする際には、生まれもった知恵を働かせている。そのとき生来の状態のまま物事を見ているため、この状態をふつうの明察という。この明察から洞察へ向かう間にあるものが聖なる知力であり、それが「分別の太陽」となっている。分別のある人は、自然界や本性など平凡なものを明察しているのだが、慾というごつい物体のようなものが割り込んでくるなり、観ている対象に光が当たらなくなって洞察しにくくなる。もとより人の内面は、思考内の空間を飛ぶようにできており、その空間が清ければ明瞭に物事が見えるのだが、知性自体が病んでいると、せっかくの知恵も活かしようがない。つまり五感も損傷すれば感覚が鈍るように、知性も何かのせいで損傷するなり洞察できなくなってしまうのである。その逆に、いかに健康な知性の持ち主であろうとも、そこに知恵(知力)がなければ属神的なものまで見分けようがない。ちょうど申し分なく健康に恵まれた肉眼を持っているというのに、しばしば視力が弱いことがあるのと同じである。ところが、たといこれらすべてに対して、あるべき性質をあるべきところに収めることができたとしても、もしも肝心な恩寵(分別の太陽)に照らされていなければ、物事を判断する上で何の役にも立たない。ちょうど闇夜に時計を見ようとするのと同じように、日光がなければ対象物を見分けられないわけだ。したがって、これら(目と視力・知性と知力)がすこぶる健康でしっかり対象物を捉えることができ、しかも見分けられなかった物事や見分けがたいものまで見抜いているとき、まさに「われらなんじの光において光を見ん」(聖詠 35 : 10)という聖句が実現しているのである。しかし知性が汚れていると、せっかく思索の太陽(ハリストス)の恩寵に照らされて奮起できたとしても観照しようがない。その思考内の空気はどよんでおり、濃い雲や暗い物体に覆われているので光が入ってこないからだ。この濃い雲や暗い物体を取っ払うことができれば、光を目にして楽しむことができるだろう。

このように、われわれの洞察力だけではろくに物を見分けられない以上、本性の力なんぞ高が知れている。なにせ霊たましいが物質的なものに覆われているせいで、いくら真実の光を見ようとしても、どんなに万物の上に輝く第二の太陽(ハリストス)の甘美を感じようとしても、真実の光がわれわれのところまで届かないのである。ゆえによほど努力をしなければ、以上に述べたような洞察などできないわけだ。なぜなら非の打ちどころのない洞察力を備えた人などいないし、完璧な属神的知恵までたどり着ける人などほぼいないからである。なぜ完璧な属神的知恵までたどり着けないのかというと、知恵が足りなかったり意志が乱れていたり、目的にそぐわない立場にいたりするからである。あるいは清さが足りなかったり教師や指導者がいなかったり、恩寵が与えられていなかったり(「けちな人に、富みはふさわしくない」と言われている《シラ 14 : 3》)、状況とか場所とか風習に妨げられているからである。

真実とは、神を感じたというその手応えである。それは属神的直観で捉える知的な味わいである。愛とは、祈りの成果である。人は黙修して熱い思いで祈っていると、その観照から昇ってどこまでも愛を渇き求めるようになる。祈っていれば、肉の人生に付きまとっていた肉慾の思いが死に絶えてゆく。なぜなら熱心に祈る者は、世に対して死んでゆくようなものだからだ。忍耐強く祈りに徹するということは、まさに自分自身を捨てることに他ならない。だからこそ、かくなる霊的な自己犠牲において神の愛が身につくのである。

斎で流した汗が種となって貞潔の実を結ぶように、腹を満たせば放縦になり、食べ過ぎれば穢れてしまう。胃袋が空っぽでおとなしければ、不浄な想念が霊たましいに押し入ってくることもない。いかなる食料も飲みこめば体に水分を与え、それが自然な体力となる。そして全身に行き渡った力が下半身も満たしたとき、その状態で身体的なものを見たりすれば、あるいはつい心に想念が生じたりすれば、その想念からいきなりある種の快感が走って全身に広がるのである。たしかに汚れなき貞潔な知性の持ち主であれば想念には揺らぎにくいものの、いわば身体を貫く「かの感覚」によって理性はたちどころに困惑し、もともと占めていた高所から落ちてきてしまうのである。そして聖なる想念も侵入してくる慾の嵐に揺らいでしまい、明るかった貞潔さも汚されてしまう。すると判断力も萎えて当初の目的も忘れ、闘う以前に闘わずして虜となり、敵に強いられずして弱い体の肉慾に隷従するようになる。善良であった人がこうなってしまうのも、ひとえに常時たらふく食べておきたいという強い欲望があるからだ。

どんなに貞潔の港にしっかり留まっていたとしても、食べすぎたが最後、死ぬまで決して心に入るのを許さないつもりだった事柄にまでずるずると引きこまれてしまう。そしてようやく想念が一つ収まったかと思いきや、次から次へと汚れた妄想が湧いてきて、せっかく清く保っていた寝床も、恥ずべき幻覚や淫乱の巣窟と化してしまうのである。この幻想に酔って想念と交わった日には、克肖なる肢体でさえ女に触れずして汚れてしまう。いったい食べすぎて知性を襲いにくる肉体の荒海ほど、暴風にそそり立つ荒海がどこにある。

ああ、なんと貞潔は麗しいことか。地べたに寝て、眠れなくなる空腹をこらえて苦しみ、美食を自制した末に肋骨と胃袋のあたりに深い溝ができたとき、どれほどの貞潔が光り輝くことだろうか。だいたいご馳走を食らって呑気に暮らしているから、汚れた想像や乱れた幻想が湧き出てくるのだ。そして、それらが脳裏に浮かんで目に見える像となり、いっそだれも見ちゃいないのだからしたい放題交わってしまえと急き立ててくるわけだ。いっぽう胃袋が空であれば、われわれの脳内も砂漠の国となり、想念の嵐に脅かされることも襲われることもなく静寂を保つことができる。ところが食べすぎて腹いっぱいになるや、胃袋は妄想の産地となり、せっかく荒野で独りきりでいるというのに愚かな夢想ばかり見るようになる。よく言われているように、食べすぎると欲望が際限なく湧いてくるからだ。

いつの日か聖なる恩寵によって霊的無欲を授かった暁には次のように理解せよ。なぜ無欲になったのだろうか。それは、決して淫らな想念が浮かばなくなったとか、肉体的想念(これなくして生きられる人はいない)が掻き立てられなくなったとかいうわけではない。あるいはどの想念も弱まって退治しやすくなったからでもない(もちろん執着のない想念は思いが特に高尚でなくとも退治しやすく、汚されにくいものだが)。そういった理由なのではなくて、むしろより良いことを思いめぐらしていた結果として、知性が否応なく肉体的想念と闘ったり撃退したりしなくても済むようになったからなのだ。つまり想念が侵入してくるなり、ふいに知性がすごい反撃力でその想念を撃退してくれるのである。これは習慣と恩寵によって心の底に温存される知力である。

修行者の知性というものは、神品の位階とは別次元のものだ。知性が天の憐みによって世に対して死ぬと、もはや闘ったり修行したりするまでもなくなり、ただ純朴に限られた物事についてだけ考えるようになる。たとい王者のごとく血肉の想念を支配できるようになったとしても、やはり生身の人間である以上は血肉や本性からくる想念を抑えきることはできない。しょせん四元素界で生活しながら思いめぐらしているうちは知性の基が揺れ動いており、四つの水分から絶えず変化を蒙っているからである。光栄はわれらの神に世々に帰す、アミン。

第44訓話 思慮深い者は黙修に留まるべきことについて

もし無駄なことで残りの日々を浪費したくない、期待どおりに黙修を成功させたい、と思うのであれば、よくよく考えてから黙修に入りなされ。よくやってしまうように淡い期待をよせて入るのではなく、しっかり見通しを立ててから日々の修行に取り組んでいくことだ。とくにこの道を熟知している人によく質問するがよい。ただし頭のみで知っている人ではなく、実際に経験して知っている人に質問せよ。しかもうまく黙修できるようになる日まで問いつづけなければならない。自分のしたことを一つ一つ話し、きちんと正道を歩めているのか邪道に逸れてしまったか訊いて確かめることだ。いくら善行を積んだからといって、それだけで正しく黙修生活を送っているなどと思いこんではならない。

もし何かを得たいと思うのなら、しかも経験を積んでそれに達してみたいと思うのなら、自分の一歩一歩をしっかり心に刻み込め。刻んだ足跡を振り返りつつ、いかに師父の教えが正しく、いかに敵の迷妄に嵌りやすいことか思い知れ。まだこの道を歩き慣れていないうちは、判断基準として次の数点を覚えておくとよいだろう。

あなたが黙修中に自由に善いことを考えることができ、とくに無理しなくても善く思うことができているとき、その黙修は正しい。

また、祈祷文を唱えながらそれなりに集中でき、ふいに唇が止まって霊たましいもろとも絶句したら、しかも黙修に長らく徹した後にそうなったならば、うまく黙修して温柔になり始めたしるしだ。黙修に引きこもっているだけではダメだ。まさに良識に基づいて賢く修行できればこそ、他者の手を借りなくてもやってゆける黙修になるのである。

さらに、黙修しながら何を思っても涙があふれ、観照中に思いつく事柄に涙が頬をつたっていることに気づいたら、いよいよ突破口が開いて敵を打ちのめしやすくなった兆候である。

しかもそうしようと思ったわけでもないのに、いつになく内面的思索に耽り、その状態で半時ないしそれ以上留まっていることが時々あるなと気づいたら、しかも体も疲れきって想念も穏やかになることが増えたとしたら、ついに恩寵の雲が僧房に近づいたしるしだ。

ところがずっと黙修しているのに、心がいろいろな想念に引っ張られて牛耳られ、頭もその想念でいっぱいになり、思いで犯した罪のことばかり考えてしまうのなら、あるいは現世のことを探求したくなるのなら、そんな黙修は骨折り損のくたびれ儲けであることを悟れ。頭であれこれ思いめぐらして時間を無駄にしているだけだ。なぜそんな風になったのかといえば、内面か外面を問わずやるべきことに背を向けて怠ったせいであり、とりわけ儆醒と読書を怠ったせいである。このことに気づいたら、ただちに生活を改めよ。

黙修を始めたばかりのうちは、慾におびかされて平安でいられなくても驚くな。ちょうど香油を溜めた樽が、日が落ちてもたやすく冷えないように、黙修に入ればすぐに慾が治まるというわけではない。それに香油から放たれた薫香も、霧散するまでしばらくそこに留まっているように、慾というのもすぐに消散するわけではない。ちょうど野良犬が肉屋で血を舐めるのに馴れたとき、餌をもらえないと入口で吠えまくるように、習慣づいた力は弱めるまでに時間がかかるのだ。

いっぽう怠け心が泥棒のように忍びこんできて、どんより過去を振り返って気分が暗くなったときには次のような兆候があるだろう。ひそかに信仰が弱まったと感じ、目に見える物事に夢中になり、神の摂理を信じていた気持ちが薄らぐ。身近なものを失うのがつらく、何もかも不満に思えて愚痴をこぼし、心の中で片っ端から他人や物事を非難する。どの考え方も感じ方も気に喰わず、神に対してさえ不満を持ち、体を傷つけるものが怖くて臆病になり、ときどき自分の影にびっくりして逃げ出すほど怖気づくこともある。なぜなら不信でもって信仰心を覆ったからだ(ここでいう信仰とは、いわゆる基本的な信仰告白ではない。むしろ明るい思考力で心を強め、良心に裏付けられた霊たましいで大いに神を信頼し、自分自身のことを気にかけず何の心配もなく神に任せきった信仰心を指す)。

しかし信仰の道で上達すれば、明らかに次のような手応えがある。どんなことでも前向きに捉えてふんだんに祈り、そこから属神的に役立つことを思いつき、いかなる目に遭っても人性の弱さを痛感しながら、つねに高慢に陥らないよう気をつけるようになる。すると他人の欠点を重く見なくなり、どうにかしてこの至福感のまま来世に入れますようにと願うようになる。たといつらい出来事が身の内外で起ころうとも、毫も知ったかぶるわけではなくただ単に用心深く、こういう出来事は神の公平な裁きによって送られてきたものだと捉える。そして、すべてに対して讃美と感謝を捧げるのだ。これこそ、覚醒して用心深く、厳しく生きようとする黙修者の姿である。

だらけている者は、おのれの堕落ぶりをあばく右のようなこまやかな判断基準を必要としない。なぜなら霊的な徳とは無縁だからだ。以上の判断基準のどれかを心の内に見届けたら、自分がどちらの方向へ傾き始めたのか分析せよ。そうすれば、いまどちらに与くみした身分であるのか、まもなく気づくであろう。願わくはわれわれも、神によって真の知恵を授からんことを。アミン。

第45訓話 的確に見極める手順について

愛する兄弟よ。いつも自分自身に注意せよ。そして修行中に降りかかる苦難にも目を凝らせ。たしかに荒野で修行してきたわりには物分かりが悪いとはいえ、それでも黙修のおかげでいかに癒されてきたことかよく見極めよ。つまり「内なる人」を健康にするために、どんな試練が真の医師である神から送られてきたか思い出すのだ。たしかに悪霊にやられたこともあれば、病気や苦労を負ってひるんだこともあろう。臨終時や死後にどうなるか想像して身震いしたこともある一方で、恩寵のおかげで心が温まったり感涙を流したりして属神的に喜んだこともあるだろう。いやもっと率直に言おう。右のような試練を乗り越えてきて、あなたの傷は完治しただろうか。つまり慾は弱まり始めたかという問題だ。ぜひとも以下の判断基準を設けて絶えず自省せよ。気づける範囲のなかで、はたして弱まって消え失せた慾はあるだろうか。それも悩ましい対象から離れたからというわけではなく、まさに心が健康になって慾が鎮まっただろうか。また、欲したくなる原因を取り除いたからというわけではなく、まさに知力で克服できるようになった慾はあるだろうか。さらに、相変わらず膿んだ傷口だけでなく、新しい皮膚に覆われた傷口も見当たらないだろうか、つまり、たまには霊的な平安が訪れることもなかろうか。その一方で少しずつ湧いてきたり、いきなり湧いてきたりする慾はあるだろうか。あるとしたらどれほどの時間差で湧いてくるだろうか。それは体の慾か、心の慾か、あるいはその両方が複雑に絡み合った慾なのか。それは記憶の彼方でうっすらと湧いてくるだけなのか、それとも激しく霊たましいを襲ってくるのか。しかも暴君のごとく有無を言わせないのか、それとも泥棒のように忍びこんでくるのか。そして侵入されたとき、意識をつかさどる知性はどんな注意を払っているか。想念がくるなり気合を入れて闘って退治しているのか、それとも目もくれず泰然としていられるのか。さらに、打ちのめした過去の慾はあるか、その逆に新たに形づくってしまった慾はあるか。はたして何らかの対象を目にしたせいで慾が湧くのか。あるいは追憶の中で慾を感じるだけで、感じても欲せずにいられるのか。これらの点を物差しにして、どれくらい心がしっかりしているか測ることもできるだろう。

まだ慾と闘っているうちは修行すべき状態にあるため、いくら努力していたとしても心は揺らいでいる。もはや闘わずして慾を克服した状態になったとき、泰然とするのだ。その泰然とした心は、聖王ダヴィドになぞらえて聖書にこう記されている。「ダヴィドは王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった」(サムイル下、7 : 1)と。以上は特定の慾に限った話ではない。とうぜん三大欲求や野心や憤怒をはじめ、功名心や金銭欲をも含んだ話である。現に功名心を抱けば、他人の顔を思い浮かべて肉慾が掻き立てられて自分を認めてもらいたくなるし、金銭欲を持てば、買う気もないのに憧れの物を思い描いてしまう。すると何となく物を集めて富んでみたいと思うようになり、しだいにあれもこれも欲しくなる。

とはいえ、どの慾も想念をとおして闘いを仕掛けてくるわけではない。単にずしんと気が重くなる慾もあるからだ。たとえば怠惰や倦怠や憂鬱などは、いきなり想念や快感をとおして迫ってくるわけではなく、ただ霊たましいに重くのしかかってくる。しかるに霊たましいの力量というものは、想念をとおして闘いを仕掛けてくる慾に勝利するかどうかで決まる。だから、人は右の事柄を心に留めて判断基準とし、自分の霊たましいがいまどの領域を歩んでいるのか、つまりハナアンの土地へ踏みこんでしまったのか、それともイオルダンへ向かって歩いているのか自覚すべきなのだ。

いっぽう次の点にも注意せよ。はたして右の事柄を見分ようとするとき、霊的な光を十分に受けているだろうか。もしや頭がぼんやりしていたり、全然見分けられなかったりすることはなかろうか。霊たましいの理性的部分は本当に清まり始めただろうか。祈り始めるなり気が散らなくなっただろうか。祈ろうとするときに知性を乱してくる慾はなかろうか。「ああ、黙修のおかげで心が穏やかになったな」とか「気が落ち着いたな」という手応えはあるだろうか。知性は望まなくても常に昇って霊界を捉え、五感では説明しがたい世界に感嘆しているだろうか。ふいに比類ない甘美に絶句して胸が高鳴ることはなかろうか。いつも心から甘美なるものが流れ、知性をすっかり惹きつけているだろうか。ときどきふと全身に言いようのない楽しみや喜びが湧いて、世の中のすべてが空しい塵に思えたりすることはなかろうか。というのも、かの甘美が心から流れ出るようになると、祈祷中や読書中ないし学習後や熟考後に、よく達観するようになるからである。いや、たしかにそういうことがなくても達観することは多々ある。たとえば手仕事の最中に悟ることもあるし、夜中に夢と現の狭間で、いわば寝つつ寝入らず、意識がはっきりしたりしなかったりしながら悟ることもある。ただ人はこの心地よさに全身を貫かれると、「天国とは他でもない、まさにこれだ」と思うのである。

さらに次の点も見極めよ。心から溢れる希望のおかげで感覚的な思い出をうまく活用でき、疑うべくもない真実を心から確信できるようになっただろうか。そして地上のものに気を取られないよう注意しなくても、心はいつも神と対話して絶えず救主とともに内的修行に励んでいるだろうか。

神の声を耳にしたときには、その声色や内容を聴き分けられるようにせよ。じきに神と対話できるという可能性があればこそ、日々絶えず黙修して修行しつづけられる。だいたい努力もせず神と対話できた日には、たちまち対話できなくなってまた長いことそのような恩寵には与れなくなってしまうだろう。

かくして、使徒パウェルのように、はたして本心からこう言いきれるだろうか。「われ篤く信ず、死も、生命も、現在も、未来も、他のいずれの受造物も、われをハリストスの愛より離すことあたわず」(ロマ 8 : 38~39)と。つまり心身に苦痛を受けても、迫害されて飢えて素裸になっても、隠居の独り身で災難に遭おうとも「ハリストスを愛しつづけます」と言えるだろうか。さらに斬首されそうになっても悪賢い悪鬼にやられても、要らぬ名誉を受けたり中傷されて殴打されたりしても、「ハリストスを愛しつづけます」と言えるだろうか。

兄弟よ。もしもこれらの思いが、いくばくか溢れたり乏しくなったりし出したのを見出せなかったとしたら、いくら黙修していても骨折り損のくたびれ儲けだ。たといその手で奇跡を起こしたり死者を復活させたりできたとしても、右のような心境が一向に生じていないのであれば、すみやかに霊たましいを鞭打って主にすがりつき、心の扉を塞いでいる幕を取り除いてくださいと乞え。そうすれば、救主に慾の嵐の闇を吹き払ってもらい、永遠の闇にいる死者のようにではなく、むしろ内面の岩の上で沈まぬ太陽(ハリストス)の光を目にするようになるだろう。

いつも儆醒して読書し、師父に教わったとおり叩拝していれば、その熱心さに対してほどなく右の恩恵(神との対話)を受けるだろう。ちなみに右の恩恵に与った者たちは、まさにそのような手段をとおしてその恩恵に与ったのである。あなたもその恩恵に与りたいのであれば、黙修しながら本訓話に述べてあるとおり修行して霊たましい以外のことを思わず、だれに対しても執着せずに内面的徳行に励まなくてはならない。しかしわれわれ自身も実際にどれだけ体験してきたのかといえば、やや実感できた部分もあるかもしれないという程度であり、その実感した部分を拠り所として他の部分もきっとそうだろうと確信しているにすぎないのだ。

そもそも黙修して体験的に神の恩寵を知っている人ならば、これ以上の説得を必要としないどころか、信仰の弱い輩のように疑ったり苦しんだりすることが一切ない。なぜなら積み上げてきた経験による論証だけで十分に納得し、その論証が未経験で語られる無数の言葉よりもずっと説得力があるからである。光栄と威厳は神に世々に帰す。アミン。

第46訓話 真の知恵について。しくじりやすい初心者だけではなく、ほぼ無欲に達して清く考えられる義者さえも、きちんと把握しておくべき誘惑について。要するに、高慢になると慈憐によって送られてくる誘惑について

罪を犯しては悔改し、霊たましいを恩寵に癒してもらっている人がいる。理性ある身はひっきりなしに揺れ動くため、だれでもつねに変化を蒙らずにはいられないからだ。じっと観察していれば事あるごとにこの変化に気づくが、さらに覚醒して省察していれば、人が毎日誘惑に遭ってどれほど堕落しやすい危険状態にあるか悟るだろう。いくら温柔で謙遜であろうとしても、その日ごとに考えが変わり、そうなる原因が目に付くかぎり知性がふいに乱れて困惑してしまうさまを見届けるからである。

だからこそ聖マカリイは、遠い未来を見越して、念には念を入れてこの現実を肝に銘じておくよう書き残してくれたのである。心変わりしたときに絶望しないためだ。なぜなら清さを保っている者でさえ、だらけたり挫折したりしたわけでもないというのに、ちょうど気温が下がるようにいつでも堕ちることがあるからである。それどころか、しかるべく生活していても、意に反して堕ちてしまうことがある。この点、福マルクも実体験に基づいて自著でくわしく論証している。そのおかげで、聖マカリイが机上の空論を述べたわけではないことが立証され、かくも偉大な聖人が二人そろって証言した以上、われわれも困ったときに確信をもってこれでよいと胸を撫でおろせるようになったのだ。つまり何と言ったのか。聖マカリイは「だれしも気温のように変わる」というのである。この「だれしも」とは「だれしも本性は同じだ」という意味である。だからユーチテス(メサリアン)派が言い張るように、「変わりやすいのは凡人か下賤の者だけだ。完徳に至った人ならばいつも同水準で邪念も湧かずに変わらない」というわけではない。だからこそ「だれしも」と言ったのである。

聖マカリイよ、いったいどういうことなのか。たしかに、おっしゃるとおり寒い日もあれば猛暑もあり、あられが降ったかと思えば土砂降りの雨に見舞われたりもする。つまり闘いの日もあるし、恩寵に助けられる日もある。ひどい誘惑にもだえ苦しんだかと思いきや、平安がふたたび訪れることもある。なにせおっしゃるとおり恩寵が降ってきて神の喜びで満たされ、貞潔な想念に安心するからだ。聖マカリイはここで「貞潔な想念」と言い表し、暗にそれ以前には不浄な肉の想念に見舞われていたことを示している。「貞潔な想念でへりくだっていた後で、いきなり激情が襲ってきたとしてもがっかりして絶望してはならない。むしろ恩寵に救われているときにも自慢してはならず、喜びのときにこそ苦難を待ち受けよ」と。つまり醜態に陥っても顔を曇らせるな、醜態から逃げようと目論むのではなく、むしろ人間固有の自然な症状として喜んで受け入れよ、と助言しているわけだ。修行すれば変わらない平安を得られるだろうなどと期待してはならない。修行も落胆も敵の揺さぶりも無くなるような完全な平安に期待して、逆にその平安を得られないからといって絶望しないようにせよ。主なる神は、人がこの世にいるあいだ変わらない心を与えようとはされなかったのだ。

聖マカリイは、われわれが変化に懲りたと言って修行に背を向けて暇になり、だらだら伸び悩んで日々を送らないようこう助言してくれたのだ。さらにこう言葉を紡いでいる。

「聖人もみな変化を蒙りつづけていたことを弁えよ。この世に生きているうちは、苦労した後にひそかに溢れんばかりに慰められることもある。なぜならわれわれは誘惑と闘って神を愛したという体験を積むべきだからだ。つまり修行者は落胆したり諦めたりするな、ということだ。そうすれば、この道を無難に突き進むことができるだろう。もしも諦めたり脇へ逸れたりするのならば、見えない狼の餌食となる」と。

それにしても人間の変わりやすさをたった一言で言いつくした聖マカリイは本当に偉大だ。知恵に満ちた一言で、読者の疑念をすっかり晴らしてくれたのである。「まさに師父の道を打ちやって独りよがりな道を歩もうとしたからこそ、狼の餌食になったのだ」と。しかも「喜びのときにこそ、苦難を待ち受けよ」と激励する。つまりこういうことだ。たしかに恩寵によって一気に高尚なことを思うことがある。そして聖マルクのいうように神性を観て驚嘆し、天使に支えられて観照している間は敵対者が遠のいて、しばらく得もいえぬ平安に包まれることがある。しかし恩寵や聖天使に守ってもらったからといって思い上がってはいけない。穏やかな港に着いたとか、もう気が変わらなくなったとか、あらゆる敵から逃げきったから大丈夫などと思ってもいけない。なぜなら福ニールも述べたように、そのように舞い上がってひどいしっぺ返しを受けた者は多いからである。あるいは、人よりも優れているからこうなったのも当然とか、ほかの連中はちゃんと生活していないのでこうなれなくても仕方あるまいなどと思うのも良くない。または、こういう賜を得られない愚かな連中とは違って俺なんかは完全な聖性に至り、その属神的水準で不変の喜びを得ているのだなどと思うのもまずい。むしろ穢れた想念を注視し、誘惑の渦中で悶々としていたときに脳裏に浮かんだふしだらな像を思い出せ。ちょっと前まで暗澹とした気分でふしだらなことを考えていたではないか。いかにいそいそと慾に傾き、神から直観や才能や恩賜をいただいた身分を恐れもせずに、朦朧な頭でその慾と交わったことか。それもこれも、われわれが無力を思い知るために送られてきた試練なのだ。だれがいつどうなったらよいかご存じの神から送られてきた試練なのだ。ゆえに、恩賜を授かった分際で思い上がったりしたら、神に見放されてしつこい想念にとことん悩まされることになるだろう。

もはや自力や徳行では、自分自身をしっかり保てないことを悟れ。もし保てているとしたら、それは恩寵が手の平にあなたを乗せて守っていてくれているだけのことだ。この事実を、喜びのときに思い返せ。想念が思い上がってきたら聖マカリイの言ったように涙を流して泣き、かつて誘惑の渦中でどんな罪に陥ったか思い出して叩拝し、そうやって自負をへし折って謙遜を身につけるようにせよ。ただし絶望してはならない。絶望することなくへりくだった想念で神をなだめ、罪を赦してもらえるようにすることだ。

謙遜があれば、行いがなくても罪の多くを赦される。逆に謙遜がなければどんなに修行しても無意味で、むしろ悪いことばかり引き寄せる。だからいま言ったように、謙遜でもって不法を赦してもらえるようにせよ。ちょうど塩がどんな食事にも欠かせないように、謙遜はあらゆる徳に欠かせない。謙遜があればどんどん罪の砦を打ち壊すことができるだろう。というわけで、どうやって謙遜を得るべきか、いつも心痛をもって思いめぐすことだ。もし謙遜を得ることができれば神の子となり、善行がなくても神の前に立つことができるだろう。いっぽう謙遜がないとどんな行為も空しい。いかなる徳行も修行も、水泡と帰してしまうからだ。

要するに「思いを変えること」、これこそ神の望まれていることなのだ。われわれは何を思っているかでより優秀にもなり、より役立たずともなるのである。謙遜さえあれば、弁護士がいなくても神の前に立って弁明できるだろう。何よりも神に感謝すべきことは以下の点だ。かくも揺らぎやすい弱い身でありながら、ときに恩寵に支えられて高みに昇り、そこで賜を授かって本性を超えることがあるか。ところが神に許容されるなり、どれほど堕ちて知性が豚になることか。ゆえにこの身の弱さと変わりやすさを胸に刻み、聖師父の次の言葉を肝に銘じておくことだ。「もしも『ずいぶん徳を積んできたじゃないか』という傲慢な心の声が聞こえてきたら、『この老いぼれが! おのが淫行を思い出せ』と言い返せ」。もちろん想念のなかの淫行を指してそう言っているわけだが、なぜそんな誘惑に遭うのかと言えば、これもまた霊たましいの救いのために恩寵が機を捉え、淫らな誘惑と闘わせたり助け出したりしてくれているのである。

しかし言い得て妙ではないか。つい高度な生活をしているぞという自負が湧いたときには「この老いぼれが! おのが淫行を思い出せ」と言って戒めよ、いう。これが高度な生活を送っている者へ向けた助言であることは言うまでもない。というのも賞賛に値する高水準を保っている者でなければ、おのれの淫乱ぶりを思い出しただけで身の毛がよだつことはないからだ。それに徳を積み重ねてきたからこそ、徳を無に帰すためにこのような自負心も湧いてくるわけだ。たとえば聖マカリイが愛弟子に残した書簡を読んでみよ。すると、聖人がいかに高度な水準でこのような試練に遭うのか分かる。そこには以下のような内容がはっきりと書いてある。

われわれは、闘ったり恩寵に救われたりしながら、どれだけ神に考慮されて人生を歩んでいることか。なにせ聖人が最期の一息まで徳のために罪と闘うことは、神の叡智から見れば良いことだからだ。いつも視線を神に向けて、絶えず慾にずり落ちないよう畏れ惑いながら神へ向かうことほど、神への聖なる愛を育みやすい方法もない。そのようにして、より確かに神を信じ、神を望み、神を愛するようになるからである。

そしてこれこそ、もはや方々に出歩いたり仕事に追われたりする者や、不浄な想念で汚れている者に対して述べた言葉ではないのだ。また、正義を死守しながらも世俗にいて五感に惑わされ、(ふいに避けがたい状況に陥るため)いつ落ちるかわからない危険の中で、想念はおろか五感も守りきれないような者に対して述べた言葉でもない。むしろ体も想念も守れる環境にいて、あらゆる喧噪や交流から身を離し、思いも何もかも切り捨てて祈りで知性を守っている者、まさに恩寵によってものの見方も変わり、主の知恵の力によって生きている黙修者に対して向けた言葉なのである。つまり、ひそかに神゜で黙修法を悟り、世を離れて俗事を見ず、俗っぽい想念の失せた者に対して述べた言葉なのだ。なぜならそういう者ならば、世の事物を避けて恩寵に救ってもらうことで、たとい慾は死んでいなくても想念が消え失せるからである。願わくはこのような恩寵がわれわれにも降り、想念が消え失せた状態を維持してくださいますように。アミン。

第47訓話 この章の概要と祈りについて

この章の主旨は、ひとことで言えばこうなる。われわれは昼も夜も24時間、いつも悔い改めていなければならない。「悔改」という言葉は、体験によって突きとめたかぎり次のことを指す。「嘆きつつ祈って神に近づき、ひたすら罪過の赦しを乞い、どうか今後とも守ってくださいと祈ること」である。だから主も、人の弱さを支える祈りを示して、われわれに「儆醒せよ、祈祷せよ、誘惑いざないに入いらざらんためなり」(マトフェイ 26 : 41)とおっしゃったのである。さらに、怠けずに祈れ、いつも目を覚まして祈れ(ルカ 21 : 36, コロサイ 4 :2 参照)と告げられ、「求めよ、しからばなんじらに与えられん、尋ねよ、しからば遇わん、門を叩けよ、しからばなんじらのために啓かれん」(マトフェイ 7 : 7~8)と畳みかけられた。その極めつけとして、真夜中にパンをくれと友人に頼みこんだ人の話を引き合いに出して、「われなんじらに告ぐ。もし彼は友なるがゆえに、起きて彼に与えずば、すなわち切迫によりて、起きてその求むるごとく彼に与えん」(ルカ 11: 8)と論証し、熱心に求めるよう励まされたのである。だから、あなたも怠けずに祈りなさい。なんという呼びかけであろうか。もっと大胆になれという呼びかけなのだ。神聖な賜を授かるよう、どんどん求めよと告げておられるのである。いっぽうで神はどうすれば良くなるかご存じのうえ万事を見事に進めておられるのだから、あえてこちらから何か求めるまでもないはずなのだが、それでもこうして「求めよ」と励まされると、いっそ勇気をもって期待してみたくなる。なにせ与え主は、われわれの弱さを熟知されておられるからこそ、つとめて熱心に絶えず祈れと命じられたのだ。まさにわれわれが生後から息を引き取る瞬間までまっすぐに歩みきれず、いつもぐらぐらして徳よりも悪習へ傾きやすく、すぐに敵を受け入れてしまいやすい性質だからである。かりにこの世に確実な国(天国)があるとしたら、人はその国に至りしだい人性を超越し、もはや心置きなく行動できるようになるであろう。その場合、神もそのような人に対してつとめて祈れとは命じないであろうし、御力のみですべて成しとげられるに違いない。なぜなら来世では、これをお願いしますと神に祈ることはないからだ。かの自由の祖国(天国)では、人性も敵におびやかされることがないので変化したり傾いたりしなくなるし、すべて完全になるからである。ゆえに、そうではない現世では単に自分を守るべく祈るのみならず、ふいに二進も三進もいかない不可解な状況に陥ることが多々あるため、そういう脆さを背負っている身分としても「祈れ」と命じておられるのだ。というのも、どんなに注意して善く生きようと心がけていても、主に放任されて誘惑に陥ることがあるからである。聖使徒パウェルがこう述べたとおりである。「黙示の至大なるによりてわが高ぶらざらんために、一つの刺はわが肉体に与えられたり、すなわちサタナの使いなり、われを撃たんため、わが高ぶらざらんためなり。われ三次みたび主にこれをわれより離さんことを求めたり。しかれども主はわれに言えり、我の恩寵はなんじに足れり、けだし我の能ちからは弱きうちに行わる」(コリンフ後 12 : 7~9)と。

つまりパウェルはこう思っていたわけだ。主よ、もしそれが御旨なのであれば、しかもわが幼さゆえに誘惑に遭って頭を冷やすしかないのであれば、よろこんで従うことにいたします。現にわたし自身がそうであるように、世を捨ててあなたを愛しつくして善を求め、得もいえぬ啓示や観照にあずかって天軍の声を聴き、あなたを観照するほどの聖性に与る身でありながらも脆さから逃れられないのであれば、これは受け入れるしかありません。つまりこのわたしのようにハリストスにおいて完全な者であろうとも自分自身を守れず、ハリストスの知恵を得ていようとも理解できない脆さがあるということならば、主よ、いっそ病もうとも苦しくとも投獄されようとも飢えようとも、人性や慾や悪霊にやられようとも、すべて喜ぶことにいたします。そして願わくは、この弱さを喜んで耐えることで、つまり誘惑への弱さを耐えることで、御力がこの身に宿ってくださいますように。これほどの賜を受けた後でも、なお内面にあなたが宿りやすくなるためには試練が欠かせず、その試練をとおしてあなたに近づきやすくなるという事実を目の当たりにして、わたしがあなたにだれよりも一番に愛され、人の上に立つ者となった事実を思い知るのです。そして、友である使徒たちも授からなかった奇蹟的な力を見事に授かったことも悟るのです。しかも、わたしはあなたの愛の掟を守る者として「選びたる器」(行実 9 : 15 参照)とまで呼んでいただきました。そればかりか、もしこの誘惑から解かれれば伝道がもっと成功するであろうことを念頭におくのであれば、本来ならばとっくに誘惑から解放してくださっていたはずなのです。もちろん、それがわたしに役立つならばの話ですが。ところが、思い悩まず気を抜いて生きることは、あなたによしとされませんでした。なぜなら世界中に福音が広まることよりも、むしろわたし自身が誘惑によってへりくだって驕らないことの方を重視されたからです。

というわけで、賢い者よ。こういった事柄がどれもこれも誘惑による大いなる賜であるならば、というのもパウェルのように属神界に昇れば昇るほどより慎ましく自己注視して誘惑から学ばなければならないのであれば、かの強盗が多くてなかなか入れないはずの(マトフェイ 11 : 12 参照)「確実な国」(天国)にたどり着いたと豪語する輩は、いったい何様のつもりか。聖天使でさえ、「われら(人間)と共にせずしては全きを得ざらん」(エウレイ 11 : 40)と言われるほど揺るぎやすいにもかかわらず、聖天使にも与えられなかった揺るぎなさを得たいと願い、神゜や体のつくりに反してでも全く揺るがない身となり、もう誘惑の想念になんか悩みたくないと願う者は何者か。この世の秩序というのは、聖書のどの箇所でもほぼそう述べられているように次の一言に落ちつく。「たとい毎日何千回撃たれようともひるむな。戦場にいる身でありながら闘う拳を下げてはならない。ふとした拍子に打ち勝って、勝利の冠を得ることもあるではないか」。

この世とは、つまり競技場であり、競い合うための戦場である。この世で生きていられる時間とは、戦いの時間である。戦時中は、どの国でも法律で縛られない。つまり王は戦争が終わるまでは戦士たちに限界を設けない。ただし戦争が終わったら、だれもが諸王の王(神)の門へ連れていかれ、そこで戦時中にどう戦ったか、つまり戦い抜いたのは誰で、逃げてきたのは誰なのかが問われるのだ。というのも、いくさ下手でいつも負けてばかりいる無力な戦士が、時にいきなり敵軍の旗を奪って名を挙げ、連戦連勝してきた名戦士よりも称えられて冠を受けたり、戦友よりも褒賞を多く手にしたりすることもあるではないか。だから、だれ一人として絶望してはならないのだ。ただひたすら怠けずに祈り、必死に主の助けを乞え。

まだこの世で生きていて肉体を着ているあいだは、たとい天の蒼穹まで昇ったとしても努力をやめて無為に過ごしてはならず、始終用心すべきことを肝に銘ぜよ。これぞ(つまり悔い改めてへりくだることこそ)、完徳なのだ(と言いきる私を赦せ)。そしてこれ以上に関する事柄は、身の丈に合わない思考の遊びに過ぎない。光栄と国と威厳は、神にこそ世々に帰すべし。アミン。

第48訓話 いろいろな徳と、修行者のあくなき向上について

修行を極めた先には、「痛悔」「清さ」「完徳」の三点がある。「痛悔」とは何か。過去の罪を捨ててそれを悲しむことだ。「清さ」とは何か。端的にいえば、どの受造物をも憐れむ心だ。では「完徳」とは何か。謙遜を深め、見えると見えざる万物、すなわち感覚的なものも思考的なものもすべて捨てきって、一切合切思いめぐらさないことである。

また、「痛悔とは何か」と訊かれたときに、「打ち砕かれてへりくだった心だ」と答えたこともある。さらに「謙遜とは何か」と訊かれたときに、「すべてに対してとことん死ぬことだ」と答えたこともある。そのうえ「慈悲心とは何か」と訊かれたときに、以下のように答えたこともある。「人々のことも鳥のことも動物のことも悪魔のことも、つまりどの受造物のことも熱く思う憐憫の情だ。受造物のことを思ったり見つめたりするなり、かわいそうと思う気持ちがぐっと込み上げてきて目に涙が溢れてくる。そしてどこまでも耐え抜いているために心が小さくなり、受造物の被害や悲しむ姿を見聞きしたりできなくなる。ゆえに動物や悪魔のことだけでなく、危害を加えてくる連中のことさえも、いつも神に守られて浄化されますようにと祈る。しかも地を這う爬虫類や昆虫のことも胸を痛めて祈る。かわいそうと思う憐憫の情が、神のそれに似て際限なく湧き起こってくるからである」と。

ちなみに「祈りとは何か」と訊かれたときにはこう答えたこともある。「現世に関することを何もかも忘れて知的に自由になり、心が来世に期待しうるものだけを求めて釘付けになることである。もしもあなたがこの状態から遠いとすれば、それは自分の畑に異なる種を同時に蒔いているということだ。つまり聖書が禁じている『牛とろばとを組み合わせて耕している者』(申命記 22 : 10)と同じことをしているのだ」と。

いっぽう「どうすれば謙遜を得られるのでしょうか」と訊かれたときには、こう答えたこともある。「絶えず罪過を思い、死に近づいてゆくことを望み、貧相な服を着ていつも末席を好むこと。いつでも一番つらい仕事を喜んで引き受けて逆らわず、集会に行くことを好まず、沈黙して無名になろうとして自分を何者とも思わず、思いどおりになる仕事を持たないことである。雑談や儲かる話を毛嫌いした上で、いかに非難されても咎められても妬まれても思いを高く持ち、人々に対して拳を振り上げず、人々からも拳を振り上げられることなく(創世記一六・一二参照)、ただ独りで自分のなすべきことを行ない、この世のことは自分のこと以外は一切慮らないことである。かくして謙遜が得られるのだ。端的にいうと、何も持たず貧しく独居しつづけてはじめて、謙遜になって心が浄まってゆくのである」と。

完徳にたどり着くと次のような兆しがある。人々への愛ゆえに一日に何十回焼かれたとしても満足しない。かのモイセイも、神に対して「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消して去ってください」(出エギペト 32 : 32)とまで祈った。そして福なるパウェルも「われはわが兄弟けいてい、肉によるわが親族、すなわちイズライリ人のためには、自らハリストスより絶たれんことをもあるいは願うなり」(ロマ 9 : 3)と吐露し、さらに「あなたがた(異邦人)のために苦しむことを喜びとする」とまで言い切った(コロサイ 1 : 24)。それにパウェル以外の使徒たちも、人々の生命を愛するがゆえに、あらゆる死を甘受したのである。

このような愛を突き詰めると、行きつく先は主なる神である。「神は世を愛して、その独生の子を賜うに至れり」(イオアン 3 : 16)とあるとおり、神は受造物を愛するがゆえに、世のためにご自身の子を十字架の死に引き渡された。なぜそうされたのかといえば、それ以外にわれわれを救う方法がなかったというわけではなく、むしろそのようにして「この溢れる愛から学べ」と諭されたのである。そしてご自分の独生子の死を用いて、われわれをご自身の方へ引き寄せられた。かりに神のもとに独生子よりも高価な何かがあったならば、それをわれわれに与えて人類を救い出そうとされたに違いない。しかも、その大いなる愛ゆえに、われわれをご自分のほうにやすやす引っ張れるのに引っ張らず、むしろわれわれが心から愛して神に近づくことを望まれたのである。しかも神子であるハリストスご自身に至っては、人類を愛するがゆえに神父かみちちに従い、喜んで殴打と苦痛を忍ばれたではないか。聖書に「彼はその前にある喜びに代えて、辱めを意とせず、十字架を忍びて」(エウレイ 12 : 2)と書いてあるとおりである。だからこそ裏切られた夜、「これ我の体たい、世が生命を得るために付わたさるるもの(ルカ 22 : 19 参照)、これ我の血、おおくの人のために流さるるもの、罪の赦しを得るをいたす」(マトフェイ 26 : 28)と宣告され、「我かれらのためにおのれを聖にす」(イオアン 17 : 19)といって御身を献じられたのである。これとおなじように、聖人たちは分け隔てなく人々を愛することで完徳を帯び、神に似た者となった。まさに真摯に神に倣って、隣人を愛しきれるようになろうとしたのである。現に師父や修道士たちはそのように行動し、いつも主イイスス・ハリストスの生き方に倣いながら、かの完徳を目指したのである。

福アントニイは、隣人よりも自分の役に立つことを断じてしなかったと言われている。隣人のためになることこそ、最も優れた営みであると信じていたからだ。同じく師父アガフォンも「皮膚病患者を見つけて、その病体と自分の体を交換したいくらいだ」と言ったという。かくも愛しきる愛に圧倒されないだろうか。しかも師父アガフォンは手元に何か物があったとき、その物を隣人に与えて喜ばせずにはいられなかったそうだ。あるとき、来訪してきた兄弟が僧房にあるナイフを欲しそうにしていたので、そのナイフを受け取るまでは帰らせなかったという。師父たちがこのような振舞いをしていたという話は、いろいろな書物に書き残されている。隣人のためならば、猛獣や剣や火に身を投じたほど人々を愛しきった聖人も多い。なぜこんな話をしているのかというと、いくら聖人とはいえ、もしもひそかに来世の手応えを感じていなかったとしたら、そこまで人々を愛しきれなかったはずだからである。現世を愛しているうちは、人々を愛することができない。しかし隣人愛を身につけた途端、神ご自身をまとう。そして神を身につけた者は、もはや神以外の何かを得ようとしてはならず、おのれの体までも脱ぎ捨てなければならないのだ。

かくして、現世を愛して現世とその生き方をまとっている者は、それらをすべて脱ぎ捨てないかぎり神をまとうことができない。なにせ神ご自身がこのことを証して、「人もしすべてを捨てておのれの生命をも憎まずば、わが門徒となるを得ず」(ルカ 14 : 26 参照)と告げられたではないか。すべてを捨てるどころか、いっそ憎まなければ門徒になれないという。ならば、すべてを憎めず主の門徒にもなれない分際では、とうてい主を宿すことなどできまい。

  なぜ聖人はかくも来世の希望を甘く感じ、やすやすとそんなふうに生活したり行動したりすることができ、心の徳も手際よく成しとげられるのでしょうか。

回答  聖人は希求心に目覚めて、属神的な美に酔いしれているからだ。だから、もはや苦労も苦痛も感じないし、いつ何をしていても人間の足で歩んでいるというよりは、むしろ空中でも歩いているような気分なのである。なにせ道中の困難も目に入らず、行く手をはばむ山もなければ泥流もなく、「険しい道は平らに」(出エギペト 40 : 4)なるからである。なぜならいつも神父かみちちの懐を注視し、絶えず遠くて見えないものを手に取るように望み、ひそかに信仰の目ではるけきものを見通しているからだ。その遠望を起爆剤にして霊感に満ち、手元に無いものでさえ有るものとして感じているからだ。しかも、いつもあちら側のことに思いを馳せ、いそいそとそちらへたどり着こうとする。ゆえに何らかの徳を行なおうとするなり、ただその徳だけを部分的に修めようとするのではなく、あらゆる徳を一挙にまとめて徳全体を仕上げるのだ。なぜなら他の人々のように王道を歩いているわけではなく、独自の最短の道を選び、あっという間に住まいにたどり着いてしまうからである。その心は希望に燃え、次々と押し寄せてくる奔流に乗りながら一息もつこうとせず、ひたすら胸を躍らせてその流れに乗る。福イエレミヤが「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉はわたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」(イエレミヤ 20 : 9)と叫んだとおりである。まさに心底から神の約束に希望をかけているからこそ、そんなふうに神を感じられるのだ。

徳行におけるこのような近道は、正道のうちの一つである。そもそも正道とは、こう歩もうともああ歩もうともさして変わらず、よく互いに連関しているものだからだ。つまり好機到来を待たったり環境のせいにしたりせず、今あるものを無駄にせずに一瞬で手がけて成しとげてしまうのである。

質問  無慾とは何でしょうか。

回答  無慾とは、慾を感じないことではなく、慾を自分に入れないことである。聖人の霊たましいは、心身ともに次々といろいろな徳を積んできたことにより、慾が弱まって安易に慾に乱されなくなる。すると冷静に慾を注視しつづける必要がなくなるが、それも高尚な事柄を見極めたり考えたりしていて忙しいからである。そして慾が湧き起こるや、福マルクが述べたように頭から直観的な判断が下ってその慾を追いやるため、慾は空しく取り残されるのだ。

知性は神の恩寵によって徳を積み重ねて知恵に近づくと、情欲や下々の慾をあまり感じなくなる。というのも知恵でもって高みに昇りつめ、現世のすべてに対して無縁になるからだ。しかも聖人は純潔を守って洞察眼を鋭くしたことにより、また、修行で肉体を干からびさせたことにより、知性が浄まって物事がよく観えるようになる。そして長らく黙修に習熟してきた結果として、どんどん内面的なものが与えられて観照しつつ感嘆するようになる。しかも日頃から観照に満ちあふれるようになるので、いつも洞察すべきものに事欠くことなく穏やかな心になる。長年の習慣によって慾をかき立てるような思い出も消え失せるので、悪魔も威力を発揮できない。なにせ脳内で慾をきっぱり切り捨てていけば、別次元の気苦労で忙しくなるため、もはや霊たましいに備わる属神的感覚が慾に釣られている場合ではなくなるのである。

質問  謙遜はいかなる点で優れているのでしょうか。

回答  かたや自負心が、好きなように雲上を飛んで次々と受造物を眺めまわして霊力を浪費するのに対し、謙遜は黙修に集中して自分自身に目を凝らす。ちょうど霊たましいというものが肉眼では捉えられず見えないように、謙遜な者は世間に知られることはない。そして、霊たましいが体内で人目につかず誰とも交際しないように、真にへりくだった者は人々から離れて清貧に徹するあまり人目を引こうとしないどころか、できれば自分自身からも隠れて自己に沈潜して静寂のうちに住みつきたいと思うものである。そして以前の考え方や感覚をどれもこれもきれいさっぱり捨て去って、あたかも受造物のうちに存在しない者のごとくなり、まだ生まれざる者のようになりたい、つまり自分自身にも知られざる存在になりたいとさえ思うのである。そして、そういう者が世を離れて自分自身のうちに隠れて留まっているうちは、全身全霊でおのが主宰(神)の傍に留まっていることになる。

謙遜な者は、集会を見たがらない。人だかりも熱狂も宣伝もどんちゃん騒ぎも耳に入らず、市場動向や娯楽にも興味がない。それらは自制力を奪うものだからだ。演説にも討論にも扇動にも惑わされず、何よりも現世を避けて黙修することを優先し、どの受造物からも離れて一人きりになり、静寂の国で自分自身のことを慮る。万事において少量と清貧を好み、赤貧のなかで欠乏を渇望するのだ。物をたくさん持って仕事に追われるのではなく、いつも自由な身で気苦労を持たず現世のことで思い煩わないようにし、どうか内面に集中できますようにと願う。多くのことに身を乗り出したら、思い煩わずにいられなくなると確信しているからだ。なにせ仕事量が増えれば心配事も増え、いろいろな思いが次々と湧いてきて、せっかく必要以上に生活を慮らず超越していた平安を失くし、高尚なことだけを考えていた視野も失ってしまうからだ。しかも所用に追われるあまり高尚なことを思いめぐらす時間がなくなれば、状態が悪化して躓いてしまう。その途端、抑えていた慾が解放されて冷静な判断が効かなくなり、謙遜も平安も吹き飛んでしまうのだ。だからこそ、へりくだる者はつねに多くの事柄を避け、いつも物音ひとつしない僧房で穏やかに温柔に敬虔であれるようにする。

謙遜な者は、あくせくしたり急いだり、どぎまぎしたりしない。軽い気持ちや極端な考えに飛びつかず、いつ何時も落ちついている。万が一、空が地にくっついたとしても驚きやしない。人は黙修しているからといって謙遜とは限らないが、へりくだる者はみな黙修している。高飛車な態度だと不遜なことがすぐに分かるが、謙虚そうに見えて実はそうでない人も多い。ゆえに謙遜であられる主は、まさに「われに学べ、われは心温柔にして謙遜なればなり」(マトフェイ 11 : 29)と告げられたのだ。謙遜であれば、いつも穏やかでいられる。そもそも動転したり衝撃を受けたりする対象がない。ちょうど山が泰然として微動だにしないように、謙遜な知性は不安な思いを抱かない。そしてもしこう表現することが許されるのなら(いや、こう言うのに絶好の文脈かもしれない)、謙遜な者こそ「この世に属せず」(イオアン 8 : 23)といえる人々なのである。なぜなら悲運に遭っても震えあがらず心変わらず、楽しいときにも飛び上がらず羽目を外さず、むしろ主においてのみ真に楽しんで喜ぶからである。へりくだった思いを抱いていると柔和になって凛とするのは、心意気が清まるからだ。声を荒げず無駄に語らず、自分なんかどうでもよいので服装も貧しい。歩くときにも慎ましく、いつも目線を落としている。とびきり慈愛深くてすぐに涙を流し、ひとりきりで心を痛め、おっとりしていて純情。持ち物を少なくしてあらゆる需要を減らし、何もかも我慢して持ちこたえ、この仮住まいの世を憎んで毅然としてびくびくしない。誘惑や試練にも耐え、じっくり考えて軽々しく考えず、想念をしずめて貞潔の奥義を守り、恥を知って敬虔に生きる。以上に加えて、つねに自分の無知を責めながら黙修に徹しているのだ。

謙遜であれば、困惑したりうろたえたりするような事態には遭わない。驚くべきことに、真にへりくだった者はときおり一人きりでいながら自分自身のことを恥入り、神に祈ろうとしてもおこがましくて祈る気になれず、何かを願う気にもなれないので祈れない。何について祈ったらよいのか分からないからだ。ひたすらあらゆる思いを鎮め、ただただ拝むべき偉大な方(神)が憐れんで良しとしてくださることだけを待ち望み、顔を地に伏して内なる心眼をいと高き至聖所の門に向ける。そこは、闇の向こうに住まわれるお方がおられる場所で、セラフィムの視力をもってさえぼやけてしまってよく見えない聖域。天使の全軍もそのお方の徳をほめ歌いつつ、驚嘆のあまり絶句する。ゆえに謙遜な者は、ただ「主よ、御旨のままにわれに行ないたまえ」としか祈れなくなるのだ。ぜひわれわれも自分のことを同じように祈るようにしよう。アミン。

第49訓話 信仰とへりくだりについて

ちっぽけな人間よ、生命に与りたいだろうか。与りたいと思うならば信仰と謙遜を手放すな。信仰と謙遜があればこそ神の憐れみに支えられ、いつも傍にいる守護天使をとおして神の声が聞こえてくるからだ。かくなる交わり、すなわち生命との交わりを持ちたいだろうか。持ちたければ神のことをあれこれ詮索せずに、神の前で素直に歩め。素直な心には信仰が生じるが、利口ぶって重箱の隅をつつくように疑ってばかりいたら自負しか生じない。自負を持ったが最後、神から離れてしまう。

神の前に立って祈るとき、あたかも地を這う蟻か蛭か、ろくに舌も回らぬ赤子になったようなつもりになれ。知識に基づいて神に話すのではなく、乳児になった気持ちで神に近づいて神の前を歩くのだ。そして子供が父親に養ってもらえるように、神に摂理してもらえる子となるようにせよ。「主は赤子を守る」(聖詠 114 : 5。七十七人訳)とあるとおりだ。ためしに赤子を見てみたまえ。よちよちと蛇に近づいて、素手で蛇の首を掴んでも噛まれない。大人が厚着する冬期でさえも一糸まとわぬ姿で凍えないし、寒波の日に素っ裸でいても病に罹らない。か弱い体でも純朴なため、主の手でひそかに見えない服をかけられ、いかなる被害も受けないように守られているからだ。

これも目に見えない摂理の力によるものだということが分かるだろうか。さもなくば、かくも柔弱な体が外敵に囲まれて屈しないことなどあり得ない。この「主は赤子を守る」(聖詠 114 : 5。七十七人訳)という聖句は、生後まもない赤子だけを指すのではない。この世の知恵を捨てて賢者となった「赤子」のことをも意味する。後者の「赤子」は自分の知恵を捨て、万事に満ちる神の叡智だけを頼って嬰児のごとくなり、その上で、どんなに学んでも捉えがたい叡智を身につけていくのである。使徒パウェルも神の知恵を得て、きっぱり「この世において智なりと思う者あらば、智とならんために愚となるべし」(コリンフ前 3 : 18)と断じた。何はさておき、「本物の信仰を与えてください」と神に乞い求めよ。心から信じきる楽しさを掴んでしまえば、もはやハリストスからあなたを引き離すものはない。朝から晩まで世とかけ離れた事柄に没頭しやすくなり、この病んだ世のことを思い出さなくなるだろう。ぜひそうなれますようにと弛まず熱心に祈り求め、求めたものが与えられるまで拝み倒せ。さらに、気が弱りませんようにとも祈れ。慮りを神に委ねて信じきり、心配事を神の摂理に任せきったときにそういう信仰に与れるのだ。そして、ついに自分自身よりも神を信じきって無垢な思いを持ち、自分の精神力よりも神に期待している姿が神に認められたとき、かの目に見えない力が降ってくるのを肌で感じるだろう。まさに炎へも入り、水の上を歩いても一切恐れなかったあの力が降ってくるのだ。なぜなら信仰によって心が強められ、さながら目に見えない何かに後押しされて、「ぞっとする光景を見て何になる。常識を超えた現象は目にするだけ無駄だ」という気になるからである。

しかし読者の中には、「どうせ平凡な霊的知恵さえあれば、そういう属神的知恵も得られるだろう」と思う人もいるかもしれない。いや、平凡な霊的知恵では属神的知恵を得られないどころか、どんなに努めたところで属神的知恵の足もとにも及ばないのが現実である。むしろ聖神の知恵に至りたければ、霊的知恵を捨てるべきなのだ。霊的知恵に特有の鋭い駆け引きや複雑な考え方を捨てて赤子の考え方に至らないかぎり、一歩たりとも属神的知恵に近づけない。しかも霊的知恵を少しずつ捨てていかないと、その知恵で身につけてしまった知識がひどく邪魔になる。それに、霊的に思いめぐらしているうちは、純朴な聖神の知恵が見えてこない。人は想念の数々を捨ててひたすら純朴に見るようにならないかぎり、かの属神的知恵を捉えることなどできないのだ。

以上は、属神的知恵の鉄則である。つまり永世で味わう生命の楽しさを感じたければ、煩雑な想念を捨てよということだ。霊的知恵の中では想念が入り乱れており、純朴な知性が捉えうる事柄を一つも把握できない。主が「なんじらもし転じて幼児おさなごのごとくならずば、天国に入いるを得ず」(マトフェイ 18 :3)と断言されたとおりだ。この純朴さまでたどり着ける人はほぼ皆無だが、それでも善行を積んで天国の一部を受け継ぐことは誰にでもできよう。なぜなら、福音書のいう「至福」の意味するところを汲み取るならば、どんな生き方でも大いに変われる可能性があるからだ。そもそも人はめいめい神に向かって歩みながら、その努力に応じて天国の門を開くことができるからである。

ただし子供のようにならないかぎり、誰一人としてかの属神的知恵を得ることはできない。なにせ子供のようになってはじめて、かの天国による楽しさを感じられるからである。そもそも天国というのは属神的観照のことだ、とも言われている。それは想念を働かせて得られるものではなく、恩寵によってのみ味わえるものだという。心身を浄めないかぎり天国の話が耳に入らないのも、ひとえに天国とは学習して得られるものではないからだ。信徒よ、もし人里離れて黙修して心の清さに達し、この世で知ったことをしばし忘れて思いもしないくらいになれば、探したわけでもないのにいきなり属神的知恵が湧いてくるだろう。「柱を立てて、その上に油を注げ。そうしたら自分の懐に宝を見出すだろう」(創世記 35 : 14 参照)と書いてあるとおりだ。もしも霊的知恵という網に絡まっているのならば、その網から解放されるよりも鉄鎖から解放される方がずっと楽だ。霊的知恵に絡まった身では迷妄の罠に捕われやすく、どうすれば思いきり主に期待できるか一向に分からず、朝から晩まで危ない橋を渡って年がら年中悲しむことになる。だからこそ弱さを痛感して素朴に祈り、どうか神の前で一切心配せずより良く生きられますようにと祈れ。なにせ体に影が付きまとうように、謙遜には憐れみが付いてくるからだ。したがって属神的に生きたければ、もう病んだ邪念には断じて耳を貸すな。どんな誘惑に遭おうとも、いかなる悪意や危険に脅されようとも、気にかけず洟はなにも引っかけないことだ。

わが身を主に預けて主に従って歩み出した者は、主に十分守っていただいているのだから、もう昔のように慮らず心にこう言い聞かせよ。「いちど霊たましいを預けた身である以上、何事においても主を信頼しているだけで十分だ。どうせわたしはここにいない。主はそのことをご存じだ」と。そのとき、万事において神の奇蹟を見るだろう。どれだけ神がいつも傍にいて神を畏れる者を助けてくださり、身の周りで主の摂理どおりに事が運んでいることか。いくら肉眼では御手が見えないからといって、そんなご加護があるのだろうか、などと疑ってはならない。というのも、しばしばあなたを勇気づけるために、肉眼でも見えるかたちで主の業が見えることもあるからだ。

そもそも人は、目に見える助けを拒んで他人に期待せず、清く信じて神にしたがい始めた途端、恩寵が付いてきて手とり足とり助けてもらえる。まずはもろに見えるこの体に関することで助けてもらえるのも、どれだけ神に慮ってもらっているか感じやすい次元だからである。そして、こうもあからさまに配慮されている身を理解することで、見えない部分も配慮されていることを確信する。これは、まだ初歩的に考えたり生活したりしている人にとっては自然なことだ。でなければ、なぜ探してもいなかったのに必要物資が与えられたのか。なぜ用心すらしていなかったのに間一髪で危機をすり抜けてこられたのか。だが実際には、親鳥の羽に包まれた雛のように、気づかぬうちに恩寵に守られて見事に敵の矢を逃れてきたのである。そして恩寵によって目が啓いたとき、いかなる危機を無事に切り抜けてこられたかに気づく。

こうして人は目に見えない神秘を学び、見抜きにくい邪念や捉えがたい想念の綾まで見破るようになる。また、やすやすと想念同士の結びつきや危険度を見抜き、どの想念に執着しがちか、どの想念からどの想念へ引っ張られて霊たましいが滅ぼされるかも見抜くようになる。さらに、恩寵によって悪鬼の奸計や想念の巣窟も暴き出し、将来まで見とおす分別を持つようになる。つまり、純朴であるがゆえに神秘的な光に照らされて、かろうじて想念にやどる智略を見抜き、もしその智略を見破っていなかったらどんなにひどい目に遭っていたかも見えるようになるのだ。そのときから、小さなことでも大きなことでもすべて創造主に祈って助力を乞おうと思うようになる。

そして、何事も神に期待しようという考えが恩寵によって固まったとき、背負える分ずつ試練を受けるようになる。しかも尻込みしないで済むように、知恵を体得する日まで、いずれ神に期待して敵を軽視できるようになる日まで必ず助けてもらえる。なぜなら血と汗を流して試練を乗り越えなければ属神的戦いに長けることもなく、ひそかに神の摂理を身近に感じて信仰が強まることもないからだ。

しかし、ひそかに自負して思い上がるなり強い誘惑に嵌まり、自分の弱さを痛感して神に走りついてへりくだる日まで恩寵に見放されてしまう。

このようにして神の子を信頼しきる日まで、信仰を深めて愛まで昇りつめることになる。まさに絶望しそうな状況においてこそ、神の悟りがたき愛を悟りうるからだ。絶望的状況から救われた者は神の力を見る。というのも、満たされて自由に生きているうちは、神の力を知ることなどできないからだ。現に会話も噂話もない荒野の黙修においてほど、神の力が強く現われた試しはない。

徳に向かって歩み出したとき、ありとあらゆる艱難辛苦に見舞われても驚くな。なぜなら楽にできてしまう徳など、徳とは言えないからだ。むしろ「徳とは四苦八苦するものだ。楽にできる徳行など言語道断だ」と聖イオアンが述べたように、苦しみに堪えてこそ「徳」と言えるのである。福なる修道士マルクも「聖神の戒めどおりに徳を行なうならば、その徳は十字架となる」と述べている。だからこそ、使徒も「およそ敬虔をもって、ハリストス・イイススにありて生いのちをわたらんと欲する者は、皆窘逐きんちくせられん」(ティモフェイ後 3 : 12)と述べ、徳の道が十字架の道であることを示したのだ。そもそも主ご自身が「われに従わんと欲する者は、おのれを捨て、その十字架を負いてわれに従え」(マルコ 8 : 34)と命じられたではないか。つまり、ゆったりした生活に背を向けて、ハリストスのために「おのれの生命いのちを喪うしなわん者は、これを得ん」(マトフェイ 16 : 25)という。しかも実際に十字架を背負って見せられて、まずは死を覚悟してから全霊で主にしたがえ、と見本を示されたではないか。

死を覚悟するほど強いものはない。死を覚悟して現世へ対する望みを断てば、左右どちらから攻めてこられようとも負けやしない。この世の人生に対する望みをことごとく断ち切ることができれば、これ以上に勇壮な者はいない。これぞ、どんなひどい話を聞いてもぐらつかない無敵の賢者である。なぜならどんな苦しみに見舞われようとも死ぬよりは楽だし、とうに死を受け入れるべく首を垂れているからである。

「この身は汗水垂らして苦しみを耐えるべき分際だ」という自覚を持てば、いつどこで何をするにせよ、達成したいと思った万事において勇敢に壁に立ち向かえるだけでなく、弱々しい想念が「ついに野垂れ死ぬかもしれないぞ」と脅してきても知力でやすやす退治できる。そして、どんなに越えがたい難関にぶち当たろうとも楽々と越えてみせるだろう。ときに思わぬ窮地に陥ることもあるかもしれないが、場合によっては一切そういう目に遭わないことだってありえる。

あなたも知っているだろう。いつの時代も大半の人が、安穏に生きたくて偉業や善行や徳に励むのを諦めてしまったことを。しかしだ。現に日々の生活に追われている人でさえ、ひそかに辛苦を耐え抜くぞと腹をくくらなければ、望んだ事柄を成しとげることなどできやしないではないか。これは体験的に知られていることなので、あえて御託をならべて説得するまでもなかろう。どの民族も太古の昔から、まさに安穏に生きたくてへこたれて降服しただけでなく、至高のものまで手放してきたからだ。それは現代でも変わらない。だから一言でいってしまえば、もし人が天国をあきらめるとしたら、この世のちっぽけな慰めが欲しいというただそれだけの理由に過ぎないのだ。しかも天国をあきらめて好きなように生きていれば、おのずと肉慾に釣られていくため、痛ましい事件や生き地獄に嵌まってしまうことも稀ではない。

鳥でさえ安息を求めて罠に近づいてしまうのは周知のとおりだろう。だが、人間の知恵も罠に気づけないという点においては、鳥の知恵と大差ないようだ。悪魔は場所や状況をうまくこしらえて、それとなく「さあ、こんなふうにくつろいでみたらどうだ、たんまりのんびりできるぞ」などと囁いて、ずっと昔からわれわれを釣ってきたのである。

とはいえ思いつくままに述べたことにより、この訓話の当初の狙いからやや逸れてしまったようだ。要は、主に向かう以上は、どんな苦難も甘んじて受けるぞという覚悟を忘れず、その初心にそって修道の終点を見失わないこと。主のために何かしようとするとき、ついこんなふうに自問したりしないだろうか。「このまま進んでも大丈夫かな。もうすこし楽にできる方法はないのかな。体が持たないくらい苦しむのは勘弁してくれ」と。ごらん、いかにわれわれは常時、ありもしない安息を天にも地にも求めてしまうことか。人間よ、何を言う。天に昇ってかの国を得たい、神と交わってかの福楽に安らぎたい、天使と交わって不死の生命を得たいと申し出ておきながら、どの面下げて「もしや痛い目に遭わないだろうか」などと訊く。この世のはかないものを求める者でさえ、困難に遭っても克服するぞといきり立ち、目の前のそそり立つ荒波の海を泳いで渡ろうとするとき、いちいち大変な目に遭ったらどうしようなどと口にしないではないか。なのに、いつでもどこでも楽をしたがるわれわれの根性よ。もとより十字架の道を念頭に置いている者にとって、はたして十字架よりもつらい苦しみなど存在するのだろうか。

この戦いは、困苦を屁とも思わないくらいでないと勝てない。このことを、この期に及んでもなお納得できない者がいようか。現に、楽をしたがる思いを断ち切らなければ、朽ちる冠でさえ得られず、すばらしい望みも果たせず、神の事業も徳行も何一つ行えないではないか。楽をしていればおっくうになり、倦んで怠けて不安になり、そうやって万事においてひ弱になっていくではないか。

知性が徳にむかって意気込んでいれば、五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)は不自然な異常事態に置かれても惑わされない。義憤にいきり立っていれば、身体的生命なんぞゴミ屑よりも軽んじられる。というのも、心に覇気があれば、逆境に出くわしても苦にならずびくともせず、知性がまるで金剛石のように固い防壁となってあらゆる試練に立ち向かうからだ。だから、われわれもイイススの御旨にそって属神的覇気に燃えよう。そうすれば、だらけたくなる気持ちをことごとく追い払えるだろう。なぜなら覇気を持っていれば大胆不敵になり、霊力も体力も倍増するからだ。霊たましいが覇気を帯びたとき、悪鬼ごときに何ができよう。まさに覇気から熱心が生じ、無敵の闘魂となるのだ。修行者も致命者もこの「覇気」と「熱心」でもって苦行に耐え、致命の冠を授かってきた。この二つがあれば、身を引き裂かれるような拷問にあっても苦痛を感じない。願わくはわれわれも神からそういう熱心さを賜わり、そういう熱心さでもって神を喜ばすことができますように。アミン。

第50訓話 世から逃げることの益について

世間で生活しているうちは、どうあがいたって修行しにくい。どんなに無敵な強者になりえたとしても、ちょいとでも魅惑的なものが目に入るなり堕落しそうになり、よほど悪魔と直接対決した方がましなくらい気が弱まる。

かるがゆえに、人たるもの、心を惑わすものから遠ざからないかぎり、いつだって敵の思う壺なのだ。少しばかりぼうっとしたかと思いきや、あっという間に敵にやられてしまう。なにせ世の渦中にいれば、魅惑的なものを目にしただけで心が刺し貫かれてしまう以上、出会い頭にやられてしまうのも無理はない。そのためこの道を歩んだ古代の師父たちは、ずっと気を引き締めつづけていられない身の程と、時には有害なものすら見抜けない弱さを熟知した上で、かしこく清貧によって武装し、聖書のいうように持ち物を手放してあらゆる闘いから自由になったのである(物を持たないことによって罪の大半に堕ちないようにするためだ)。そして日常生活に追われない荒野に赴き、あれこれ慾を抱かないようにし、気が弱ったときでも罪に堕ちる原因に会わないようにした。つまり荒野に身を置いて、興奮や願望や怨念や名誉などを呼び起こすものを忘れ去るようにしたのである。そして荒野を利用して身を守り抜き、さながら無敵の柱となったのだ。ゆえに黙修中に誘惑に遭っても、五感で負けて敵に塩を送るということがなかった。なにせ生きながら堕落してしまうよりは、よほど死んででも修行した方がましなのだ。

第51訓話 人は身の振る舞いを変えることにより、なぜ内なる思いまで変えることができるのか

人は清貧を貫いているかぎり、絶えず移住先のあの世のことへ思いを馳せている。そして復活後の生き方について慮りつづけ、寝ても覚めても来世で出会う事柄を思って忍耐し、この世の名誉や安息を欲しがる想念をどれもこれも切り捨てている。ゆえに世を疎んじつづけながら穏やかな心で考え、いかなる時にも心を強くして、生命にかかわる危険や恐怖にも立ち向かえるのだ。こうして死を恐れないのも、ひとえに昼も夜も死を見つめ、まるで今やってくる訪問者を迎えるかのようにして死を待ち望み、心配事を神に委ねきって毫も疑わないからだ。だからつらい目に遭おうとも、ここを耐えれば冠を得られると確信して悟っているため、心から喜んで困苦を耐え、わくわくしながら困苦を受け入れる。困苦というものが、はかり知れないご計画に基づいて送られてきて役立つことを理解しているからである。

ところが、かのしたたかな奴(悪魔)の暗躍によってふと過ぎ去るものを手にした瞬間、ふいに体への愛が芽生え、長寿について思いめぐらしてしまう。昼も夜も安息を思いめぐらして体のことばかり考えるようになり、いかにしてこの安息を保とうか考え始め、どんな恐怖にも揺るがなかった自由の領域から抜け出てしまう。すると何を見てもおっかなびっくりして口実をこしらえるようになるが、それというのもかつて貧しかったときに世を超えていた心の強さがたちどころに失われたからだ。なぜならこの世のものを手にした分だけ、この世を受け継いだからである。それも神の定められたとおり不安に陥っていく。使徒の言葉にもあるように、人は体で仕えようとした対象に隷属し、おどおどして仕えるしかなくなるからだ(ロマ 6 :16, エウレイ 2 : 15 参照)。

自己愛に走るからこそ慾が湧く。安息を厭うことから徳が生じる。のんびり休んでいれば、平和な国にいても困り出す。青年期に楽しんでいれば晩年に慾の奴隷となり、残された日々は嘆息ばかりつくことになる。水中に潜ると爽やかな空気を胸いっぱい吸い込めなくなるように、この世の雑事に埋没すると来世の感触を胸に取りこめなくなる。ふしだらな見せ物は、肉体構造を破壊していく死臭のように知性の平安を壊していく。体内では健康と病気が同時に維持されることはないように、家庭内では大金と隣人愛が同時にあることはない。どんなガラスも石にぶつかれば傷つくように、女と語らって穢れずにいられる聖人はいない。豪雨によって根っこからもぎ取られる大木のように、どんどん降りかかる身体的試練によって世への執着心が拭いとられる。

体内の毒素を除いてくれる薬ように、辛苦はあくどい慾から心を清めてくれる。死者が人々の生活を感じないように、修道士も黙修という棺に入っていれば世間の俗っぽい息吹を感じない。兵士が敵に譲歩すればとばっちりを食うように、修道士が自分の体に譲歩すれば霊たましいを滅ぼす。子供が大惨事から逃げて両親の服をつかんで助けを求めるように、厳しい試練に追いつめられた霊たましいも神に走りついて日夜神に祈り求める。そして試練から逃れるまで祈りを増し加えるのだが、まずいことに試練から解放された途端、またもや思考が飛び回るに任せてしまう。

たとえば、犯罪者が裁判官のところに連行されたとする。そこで拷問を目の前にして罪を自覚してへりくだれば、軽い罰で懲らしめられて解放されるが、頑なに罪を自認しなければ拷問をどんどん加えられ、全身が傷だらけになってから仕方なく罪を認めたとしても何の益もない。これと同じことがわれわれにも起こるのだ。うっかり罪を犯したとき、神の憐れみによって万人の裁判官(神)のところに引き出され、そこで試練という神の権杖に打たれる。この試練を目にしてへりくだり、罪を認めて悔い改めれば、少しばかり試練を受けて解放され、来世で受ける罰も軽い。ところが罪を認めようとせず、とことん苦しむべき身であるという自覚もないばかりか、苦しみながら意地を張って人々のせいにしたり悪鬼のせいにしたり、あるいは神の正義こそ間違っているなどと主張し、こんな辛苦に遭うのは不公平だとわめいたりしたらどうなるか。つまり本来ならば「神はわれわれ以上に何もかもご存じなのだから、どの受造物も神の命令をうけずに罰せられることはないはずだ」と悟るべきなのに、そのように悟ろうとしなければどうなるか。言うまでもない、突きあたる万事がつらくて倍にしんどくて、とことんやられて縛られるだけだ。いったん罪を認めてへりくだって不法を痛感するまでは(というのも罪を痛感しなければ修正しようがないので)、そういう辛苦ばかりが続くだろう。そして、とうとうこっぴどく苦しめられて疲れ切ってから痛悔したとしても、何の益もないし慰められることもない。とは言ってみたものの、じつはこの「自分の罪を痛感する」という心境は、神からいただく賜なのである。つまりわれわれが無駄に辛酸をなめて現世を去ることにならないよう、試練に疲れ果てたわれわれに目を覚ませと神が送ってくださる心境なのだ。そして、なぜわれわれが試練の意味を悟れないのかというと、決して試練が悟りがたいものだからというわけではなく、ひとえに理解力が足りないからなのだ。たまに罪を犯して試練に遭いながらも咎を自認せず、他人や神のせいにして現世を去っていく者がいる。それもこれも慈悲深い神が、いつ本人がへりくだるだろうかと手をこまねいて、もしへりくだって少しでも心から痛悔すれば試練から解き放つだけでなく、罪過でさえも赦してあげようと待ち構えていたにもかかわらずそうなのである。

とびっきりの献げ物を王に献上すれば、王に優しい目で見てもらえるように、祈りながら涙を流せば、永遠の大王である神に罪過をすべて赦されて慈しみの目で見てもらえる。だが、群れを離れた羊が迷子になって狼の巣の前で立ちつくすように、黙修に入るという口実で友から離れた修道士は町中をぶらぶら徘徊するようになり、見世物や恥ずべき演劇に目を奪われてしまう。

高価な真珠を持っている者は、強盗のいる界隈や悪い噂のある路地を歩くとき、絶えず襲われないかびくびくする。貞潔という真珠を持っている者も、現世という敵軍のただ中を歩くとき、強盗や盗賊に襲われないという保障はない。まさに墓中の暮らしに至るまで、つまり慕ってきた天国に入る日までその危険性は続く。だいたい高価な真珠を持ち歩いている身で警戒せずにいられようか。修道士もそれと同じで、いつどこでどう襲われて大切にしてきた貞潔を失ってしまうか分かったものではない。やっとの思いで家にたどり着いたかと思ったその矢先、つまり老身になって気を抜いた途端、貞潔を失ってしまうこともあるのだ。

哀しくてもワインを飲めばつらい状況を忘れるように、神の愛に酔えば現世(哀しみの家)での悲苦を忘れ、罪深い慾を感じなくなる。その心は神を希望して強まり、その霊たましいは鳥の羽毛のように軽くなる。その知性は日頃から人間的なことを超えて地上から昇り、つねに教訓に満ちた事柄を思いめぐらして飛ぶ。かくして、至上なる神の傍にいる常生の者(天使)たちと共に楽しむようになるだろう。光栄と国は世々に神に帰す、アミン。

第52訓話 夜にはどのように儆醒すべきか

儆醒したければ神の助けを得て次のようにせよ。いつもどおり伏拝してから立ち上がること。そしてすぐ儆醒に入ろうとせず、ひとまず冒頭の祈祷文のみ唱えること。唱えて心と体を聖号で画したら、しばし黙って立ったまま感覚や想念がしずまるのを待つこと。心が鎮まったら、いよいよ心眼を主に向けてわが弱さを強めてくださいと乞い、御旨にかなう祈りや思いを献じられるようにせよ。そして、黙したまま心の中で次のように祈るのだ。

主イイスス、わが神よ。御手による万物をご覧になり、人の慾も弱さも敵の力も知りつくしておられる方よ。どうか敵の悪意からこの身をお守りください。敵の力は猛烈に強いのに、人の本性は弱すぎて太刀打ちできないからです。だからこそ善なる主よ、まさに人性の弱さを御身で味わいつくされたお方よ、あなたに願い求めるのです。心を乱す邪念と慾の濁流をせき止めて、わたしを儆醒という聖なる奉仕に向く者としてください。そして慾でもって儆醒の甘美を貶めたりせず、恥知らずにも土足で上がりこんで御前に立つ者とならないようにしてください。

儆醒するときはしっかり心身を制御し、少年のように思い乱れてはならない。時間が押してしまって規定を祈り終える前に日が昇りそうなときには、かしこく通常の規定よりカフィズマを一つか二つほど割愛し、いちいちあたふたしてはならない。あたふたしたら儆醒の醍醐味を味わえなくなり、一時課もしかるべき唱え方で唱えられなくなってしまう。

祈るときに想念が「やることもいっぱいあることだし、ちょっとだけ早口で読んでしまえ。そうすれば早く解放されるさ」と囁いてきても耳に入れるな。もししつこく惑わしてきたら、わざとカフィズマを一つ前まで戻ってから読み直すか、あるいは好きなだけ前まで戻ってから読み直し、一言一句の深みを味わいながら何度も唱えよ。それでもまだ想念が惑わしてきて二進も三進もいかなくなったら、いっそのこと祈祷を唱えるのをやめ、祈りにむかって跪いてこう言うのだ。「ただ祈祷文を唱えきれば良いと思っているのではない。天の住まいにたどり着きたいのだ。きちんと祈ることさえできれば、あっという間に見えてくるはずだから」と。思い出してもみよ。かの民は荒野にていて雄牛を屠り、40年間も荒野をさまよった。山をこえ谷をこえ、ふんだんに汗を流して苦労したわけだ。にもかかわらず、はるか遠方にさえ約束の地を望むことはできなかったのである。

儆醒してずっと立ちつづけていれば、とうとう限界がきて疲れることもあるだろう。そのときに想念が、いやより正確にいえば狡猾な奴が想念をとおして蛇のように「休め、もう立てないだろ」としゃしゃり出てきたら言い返せ。「いや、カフィズマをひとつ分だけ座ることにしよう。その方が眠ってしまうよりはましだ。それに、たとい声に出して聖詠を唱えられなかったとしても、脳内では神に祈って神と語らえる以上、目覚めていることは眠ることよりも有益なはずなのだ」と。儆醒とは、ただ立っていたり聖詠を唱えていたりすればよいという代物ではない。そうではなくて、むしろ徹夜して聖詠を唱えたり、痛悔して傷感のうちに伏拝して祈ったり、涙を流して罪を嘆いたりすることなのだ。

ある師父などは四十年間、ただひたすら「いかにも人間らしく罪を犯しました。どうか神様らしく赦してください」とだけ祈りつづけたという。嘆き悲しんでこの一句ばかり唱えていたという噂は他の師父たちも聞いていたが、じつに黙すことなく泣きつづけていたらしい。そしてこの祈りだけが、ひたすら夜に日を継いであらゆる奉仕の代わりとなっていたのである。その師父以外にも、夕方に少し聖詠を唱えてからは朝まで讃詞のみ歌って過ごしていた師父もいたし、神を讃美して読書に明け暮れていた師父もいた。もちろん立ち続けるという規則を自分に課して、襲いくる淫乱の想念と闘っている師父もいた。ひとえに光栄と国はわれらの神に世々に帰すべし。アミン。

第53訓話 謙遜というものはいかに誉れ高く、高尚であるかについて

兄弟よ。いまから高尚なこと、つまり謙遜について話そうと思ったのだが、つい何も分かっていないくせに神について御託を並べてしまいそうで気が引ける。そもそも謙遜とは、神性の祭服なのだ。現に神言かみことばは謙遜をまとって藉身し、へりくだって人の姿でわれわれと交流された。ゆえに謙遜をまとう者はだれであろうと、天から降ってこられたお方に似た者となるのは確かである。そもそも神はご威光で人間の目を焼いてしまわないよう、ご自身の大いなる美徳を謙遜という布で覆ってわれわれにお見せにならなかった。神が受造物の一部をとって受造物と語り合ってくださらなければ、受造物としても神を目にすることなどできなかったし、向かい合って神の唇から言葉を聴くことなどできなかっただろう。現にイズライリの子らは、雲上から神の声がしても聞くことができなかった上、モイセイに対して「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」(出エギペト 20 : 19)と頼んだくらいではなかったか。

だいたい受造物の分際で、あからさまに神を見ることなどできようか。神との仲介役をひきうけた預言者モイセイでさえ、「われ畏れ慄く」(エウレイ 12 : 21)と身震いしたように、神を見ることほど恐ろしいことはない。現に、かつてモイセイがこの「神を見る」という偉業に与ったとき、受造物はどう反応したか。シナイ山は煙に包まれ、おのが上で与えられた啓示に恐れをなして震動した。獣たちも、山の麓に近づくなり息絶えた。モイセイの命令によって身を浄めていたイズライリの子らも、神の声を聴いて啓示を観ようと三日間も備えていたにもかかわらず、まさに啓示が降ってきたその瞬間、神の光を観ることも轟く声を聴くこともできなかった。

ところが、主が恩寵を与えるために世に来られた時はそうではなかった。地震も起こさず火災も起こさず雷を轟かせることもなかった。そんなふうに厳いかつく降り立たれたのではなく、むしろ羊毛にそそぐ雨のように、しずくのようにそっと地に降り、全く異なる方法でわれわれと語らうべくお見えになったのである。つまり生神童貞女マリヤの腹のなかで身をとり、あたかも「その帷とばりなる肉体」(エウレイ 10 : 20)の中にご威光を秘め、肉体を着てわれわれと過ごして語り合ってくださったのだ。それもこれもわれわれが、われわれとおなじ人間の姿で語らう主を見ることで、じつは神を目のあたりにしているという恐ろしい事実に打ちのめされないようにするためであった。

右のように創造主ご自身が人体をとられ、謙遜という服をまとってお見えになった以上、人間もこの謙遜という服を身にまとうなら、ハリストスご自身を着ることになる。なぜならハリストスが人々といらしたときに見せてくれた服を内なる人にまとおうとし、それにそっくりな服を着ることによって、勲章とか外面的栄光に代わって人々の前で着飾ることになるからである。ゆえに受造物は霊智(言語能力)があろうとなかろうと、この謙遜にちかい服をまとう者を目にするなり、いつも主宰に対するように首を垂れ、かつてこの服を着て共にいらしたお方をうやうやしく思い出すのである。だいたい謙遜な者を目にして畏敬の念を抱かない受造物などあろうか。もっとも、まだ謙遜という光栄が知れ渡る前までは、この聖性にあふれた風貌は疎んじられていたのも確かである。しかし現在では、世界のすみずみまで謙遜の偉大さが明らかになった以上、人々はどこであろうと謙遜らしきものを目にするなり首を垂れずにいられなくなった。謙遜の向こうに、自分を造ってくれた造物主を観るようになったからである。よって、真理の敵でさえ謙遜を侮らない。たといへりくだった者がいかなる受造物よりみすぼらしく見えても、謙遜を帯びたことによって冠や王服で着飾っているようなものだからだ。

へりくだる者は、人に嫌われたり毒舌を吐かれたり蔑まれたりしない。神に愛されているので皆に愛され、人々を愛しているので皆に愛される。どの人にも会いたいと思われ、どこへ行っても光の天使のように眺められて尊ばれる。たとい賢者や指導者が演説しかけても口をつぐんで発言権を回してくる。みな何を言ってくれるか心待ちにし、神のことばでも聞くようにしてその発言を待ち望んでいるからだ。ひとこと口を開くだけで賢者の論証のごとくなり、さらに言葉を紡げばそれを解す者には果汁や蜂蜜よりも心地よい。たとい学識に乏しくみすぼらしい恰好をしていても、まるで神をもてなすかのように歓迎される。

へりくだる者を見下げて人間とも思わないような連中もいるが、そんなのは神に対して楯突いているようなものだ。でもそういう連中にどんなに軽蔑されようとも、他の受造物から受ける敬意は変わらない。たとえば猛獣に近づいて眼差しを向けるなり、荒れ狂っていた猛獣すらも大人しくなる。まるで主人になびくかのようにすり寄って頭部を下げ、謙遜な者の手足を舐めてくる。なぜならば、かつて天国でアダムが自分たちを名付けてくれたときに放っていた陥罪前の芳香を嗅ぎとったからである。われわれは、この芳香を失ったのだ。しかしイイススが現れて再度みずみずしい芳香を賜り、こうして人類の芳香に恩寵の油が注がれた。だから謙遜な者は猛毒系の爬虫類に近づいても、手を伸ばして触れるが早いか解毒作用を及ぼし、素手でバッタを掴むように爬虫類を押さえつけることができる。また、人々に近づくなり、まるで主に耳を傾けるかのように聴いてもらえる。いや、人々が何だというのだ。悪鬼でさえ、あれほど憎悪に燃えてふんぞり返っているというのに、謙遜な者に近づくなり埃のように縮こまってしまうではないか。ふくれあがった悪意も萎え、奸計も水泡に帰し、仕組んだ罠も効かなくなってしまうではないか。

というわけで、ここまでは神から降る謙遜がいかに無敵なもので、どんな作用を及ぼすか考察した。ここからは、そもそも謙遜とはいかなるものか、どれくらい完璧になると謙遜になれるのか示すこととしよう。そのうえ見せかけの謙遜は、真の謙遜とどこがどう違うのか明示しておこう。

謙遜とは、神秘的な力のようなものである。聖人は、聖なる生活を送りつづけた結果として謙遜になる。完徳に至ってはじめて、御旨が下りしだい謙遜を受け入れられる品性になり、恩寵によって謙遜になる。なぜならあらゆる徳を帯びていなければ、謙遜にはなれないからだ。よって、どんなに優れた者であろうとも、皆がみな謙遜な者と呼べるわけではない。ただ恩寵によって謙遜になった者に対してのみ、そう呼ぶことができるのである。

生まれつき控えめで寡黙だからといって、あるいは賢明だったりおとなしかったりするからといって、すでに謙遜の水準に至ったわけではない。むしろ真に謙遜な者とは、驕ってしかるべき何かを内に秘めていても、それを誇りもせず思い浮かべもしない。もっとも、人によっては陥罪や罪過を思い出してはへりくだり、心を鎮めて頭を傲慢な思いから引きずり下ろすまで罪を忘れないようにしている人もいる。それも立派なことなのだが、まだ謙遜になったとはいえない。なぜなら、相変わらず思いあがった想念が巣食っていて謙遜を得ておらず、単に謙遜をまとおうと工夫しているだけだからだ。たしかにこれとて既述したように立派なことなのだが、やはりまだ謙遜になったとはいえない。つまり謙遜になりたいと願っているだけであって謙遜ではないのだ。本当に謙遜な者とは、頭をしぼってへりくだる手をひねり出すまでもなく、強いずとも自然な謙遜を帯びているものである。そして受造物や自然界を超えた偉大な賜物のようなものを得ているにもかかわらず、自分自身のことは、なんの取り柄もない罪人のように見下している。そしていろいろな属神的実体の奥義を極めつくし、受造物として余すところなく完璧な知恵者となっているのに、やはり自分自身なんぞ取るに足らない屑とみなしている。そしてこれこそ、ひねり出したわけでもなく、かといって強いるわけでもなく、そういう心となった人間なのである。

はたして本当にそのような人間になり、本性においてそれほどまでに自分を変えることなんてできるのだろうか。

いまこそ疑念を拭い去れ。機密の力さえ降ってくれば、強いずともその力であらゆる徳を成し遂げてもらえると信ずるべきだ。この機密の力こそ、使徒たちが火のかたちで授かった力である。救主はこの機密の力を指して、上より力を賜うまで「イエルサリムを離れずして」待て、と戒められた(行実 1 : 4)。ここでいう「イエルサリム」とは徳を指し、「力」とは謙遜を指す。「上よりの力」とは撫恤者、つまり「聖神」(慰むる者)のことである。これぞ「へりくだる者は奥義を観る」と聖書に書かれていることの意味である。つまり「啓示の聖神」を心奥で得たときに、奥義が啓かれるわけだ。ゆえに聖人らも、へりくだった者は聖なる観照に与ると言っていたのである。

というわけで、自力で謙遜の域に達したなどとゆめゆめ思ってはならない。しばらく傷感な思いを抱いたとか、少しばかし涙を垂らしたとか、ちょっとした善良な性質を持って生まれたとか努力して身につけたとか言って、奥義に満ちた徳の宝庫である謙遜を得たなどと思ってはならない。そんなのは、私に言わせれば片手間で得ただけの謙遜であって、賜として得た謙遜ではない。そうではなくて、むしろあらゆる悪鬼に打ち勝ち、どの徳も実践して心に根付き、敵の砦という砦を打ち破って征服した上で、なおかつ使徒の言うように聖神に助けられているのだと感じたとき(ロマ 8 : 16 参照)、それこそ非の打ち所のない謙遜の賜を受けた証なのだ。この謙遜を得た者は幸いである。なぜならいつもイイススの懐に口づけし、その懐を抱いているからである。

あるいはこう尋ねてくるかもしれない。「でもどうしたらよいのでしょう。どうやって謙遜など身につけられましょう。謙遜という賜に与るためには何をすればよいのでしょうか。だってこんなにも努力してきたというのに、謙遜を得たかと思いきや真逆の想念に見舞われてばかりで気力も失せました」と。

こう答えられるだろう。そもそも「門徒はその師のごとく、僕はその主人のごとくなりて足れり」(マトフェイ 10 : 25)と言われているではないか。まずは、謙遜を賜ってくださる師ご自身が、どのように謙遜を得ていらしたか思い出せ。そして師に倣って謙遜を得ることだ。主は「この世の君は来たる、かれはわれのうちに有たもつところなし」(イオアン 14 : 30)と言われたほど、ご自身を無とされていたのである。たしかに完徳の身でありながらも、どれだけへりくだれるものか分かっただろうか。何としてでもこの主に倣おうではないか。主は、父と聖神とともに永遠の光栄のうちにあり、世界中の成聖を帯びた完徳者たちから讃美される身であるというのに、なんと「狐には穴あり、天空そらの鳥には巣あり、ただ人の子には首を枕するところなし」(マトフェイ 8 : 20)といわれたほど御身を砕かれたのである。アミン。

第54訓話 いろいろな事柄について。質問と回答

質問  あれやこれや慾を刺激するものを避けるのは良いことでしょうか。闘わずに逃げて心を落ちつかせたとき、それで勝ったといえるのでしょうか、それとも負けたと捉えるべきでしょうか。

回答  簡潔に答えよう。修道士はいつだって邪慾を刺激するものを何もかも避けなければならない。とくに慾の原因となるものを断ち切り、取るに足らない慾でさえ呼び起したり強めたりしないようにすべきだ。もしも属神的観照の最中にうっすらと誘惑に遭い、慾と闘わざるを得なくなったときは、なめてかからず手際よく闘え。そもそも人は慾を思いめぐらすのではなく、生まれもった善いことをこそ考えるようにしなければならない。たしかに悪魔にやられて真偽の見極めがつきにくい身とはいえ、それでも生まれつき造物主から授かった善について考えることだ。しかも強いて言えば、人はしつこい慾だけでなく五感からも逃げて「内なる人」に潜りこみ、そこで心を耕しながら、正式な修道士であろうと隠れ修道士であろうと、その名にふさわしく自律できるようになるまで孤独に徹するべきなのだ。

そして、こうして「内なる人」のもとに留まれたとき、あわよくば正教徒の希望であるハリストスが内奥に生きておられるのを見届けるだろう。なにせ人々を避けて独りで黙修に徹していれば、もはや理性で慾と闘うのではなく、恩寵が慾と戦ってくれるからだ。もちろんその慾も、表に出てこないくらいうっすらしたものではあるのだが。

質問  たとえば人が霊たましいを清めるために何かに取り組んでいるとき、他人がその属神的生活を見て理解できず、そんな生き方はおかしいと勘違いしてつまずいたとします。そのような場合、他人をつまずかせないために神聖な生活をやめるべきなのか、それとも、それを見てつまずく者がいようとも、やはり自分の目標に近づくことをなすべきなのでしょうか。

回答  つまり、人が師父から受け継いだ規則にのっとって心を清め、清さに至ろうとしているのに、他人がその目当てを知らずに生活ぶりだけを見てつまずくということだね。そのような場合、前者ではなく後者のほうに責任がある。そもそも修行者は他人をつまずかせようなどと端から思っておらず、ただ自分の心を清めようとして自制したり斎したり、情け容赦なく隠居したりして目標に至ろうとしているだけだからだ。しかるに他人は修行者の生活目標など見当もつかずに非難してつまずき、真実に対して罪を犯している。なぜならすっかり怠けているせいで、修行者の立てた属神的目標、すなわち心の浄化なんぞ理解しようにもできないからである。使徒パウェルはそういった連中のことを指して「十字架の言ことばは、滅ぶる者のためには愚なり」(コリンフ前 1 : 18)と書いた。いったいパウェルはどうすべきだったというのか。言葉の力を感じない連中に愚か者に見えてしまうからといって、布教せずに黙りこくるべきだったというのか。しかし見よ、現にこの期に及んでもギリシャ人やユダヤ人は十字架の教えにつまずいて惑わされているではないか。かれらが惑わされているからといって、われわれまでかれらをつまずかせないように真実について語るなと言うのだろうか。しかし、パウェルは口を開かないどころか、大声で「われにありては、われらの主イイスス・ハリストスの十字架のほかに誇るところなし」(ガラティヤ 6 :14)と叫んだのである。決して他人をつまずかせるために「十字架のほかに誇るところなし」と叫んだのではない。ただ十字架の力が強すぎて布教せずにいられなかったのである。したがってあなたも神の前で決めた目標どおりに生活し、良心に責められないように暮らし、聖書と聖師父の戒めを鑑として自分の生き方を点検せよ。そして点検した結果、良心も咎めず戒めにも逆らっていないのであれば、いかに他人に誤解されようとも恐れるな。というのも万人に満足してもらうかたちで、隠遁生活を送ることなどできっこないからである。

おお、一心不乱に霊たましいの浄化につくす修道士はなんと幸いであることか。その修道士は師父たちが清まっていった正当な道を歩み、師父が一段一段踏みしめていった階段を上って、苦難に耐えながら賢明になって清まってゆく。邪道とかずるい手段に訴えたりはしない。

霊たましいの清さというものは、われわれの本性が造られたときに授かった原初の賜だ。霊たましいを慾から清めなければ罪の病も癒えず、陥罪後に失くした光栄を取り戻すこともできない。ひとえに清さに与ったとき、つまり霊たましいが健康になったとき、これぞ属神的な喜びというものであったかと悟るだろう。というのも、神の子となりハリストスの弟となった嬉しさのあまり、いかに良いことや悪いことが起こってもいちいち気にしなくなるからである。

願わくは、われわれも主イイスス・ハリストスの仁愛と恩寵によって御旨を悟り、つねに御旨を行なって永遠の安息にたどり着くことができますように。あらゆる光栄と尊貴と伏拝はハリストスに帰す、今もいつも世々限りなく。アミン。

第55訓話 克肖なる奇蹟者シメオンへの書簡

聖なる兄よ。いただいたお手紙は単につらつら書かれたものではない。むしろ鏡のように貴兄の愛が映し出されたお手紙だ。しかも、私のことをすこぶる愛されすぎて、その強い愛ゆえにずいぶん買いかぶっておられるようだ。というのは、もし私自身が本当に救われたいと思っているのなら、むしろこちらから克肖なる貴兄に質問をして、このたびこうして質問形で示してくれた真実について教えを乞うべきところなのだ。いや、もしや巧妙に、こんなふうに冴えた属神的質問でもって、ぐうたら眠りこけたこの霊たましいを呼び起こそうとしてくれたのかもしれない。もっともこちらとしてもその桁違いの愛に圧倒されたあまり、つい青二才であるという自覚がストンと抜け落ちてしまったため、もはやこうなってしまったからには自力ではなく、ひとえに貴兄の祈りのなしうるところに目を向けてみようと思う。いかんせん身の程を忘れるという愚を犯したとしても、貴兄さえその願いが叶うよう神に祈ってくれるのなら、きっと神は献身的なしもべの祈り求める事柄に耳を貸してくださるに違いないからである。

というわけで、最初の質問は下記のとおりであった。

質問  主の戒めはすべて守らなければならないのか。戒めを守らずに救われる方法はないのか。

回答  ちなみにこの点こそ、わざわざ訊くまでもないと思ったのだがいかがだろうか。というのは、いかに戒めがたくさんあるとはいえ、やはりどうしても守らなければならないものばかりだからだ。そもそも救主は余計なことを語ったり行なったりされなかったため、もしも守らなくても良いような戒めであれば、そんな無駄なものをわけもなくお与えにならなかったはずだからである。第一、この世に降臨されたのも、ひとえに人間の霊たましいを原罪の咎より浄めて原初状態に戻すためであったし、そのために戒めという「命の薬」を授けて貪欲を治そうとされたのである。ちょうど良薬が病身に効くように、戒めは慾にやられた霊たましいに効く。現に戒めが慾に対する特効薬であり、陥罪した霊たましいを治せることは主も明言されたとおりである。弟子に「わが戒めをたもちて、これを守る者は、これすなわちわれを愛する者なり。われを愛する者は、わが父に愛せられん。われも彼を愛し、かつおのれを彼に顕さん。かつわれら彼に来たりて、彼に住まいをなさん」(イオアン 14 :21, 23)と告げられたうえ、「人みなこれによりて、なんじらのわが門徒たるを知らん。(中略)なんじら相愛すべし」(イオアン 13 : 35, 34)とおっしゃったからである。人は霊的に不健康なうちは、愛することができない。霊的に健康になってはじめて愛せるようになる。つまり戒めを守れない精神状態というのは、霊たましいが病んでいる証拠なのである。

戒めを守ること自体は、まだまだ属神的な愛には及ばない。よって主は、われわれが愛ではなく死後への恐怖ないし報いのために戒めを守ろうとしがちであるのを見抜かれて、なるべく愛ゆえに戒めを守れと説得された。そうすれば、霊たましいに光が入るからである。さらに、望むらくは「人々がなんじらの善き行おこないを見て、天にいますなんじらの父を讃栄せん」(マトフェイ 5 : 16)となるよう命じられた。ただし主から教わった「善き行」というのは、戒めを守らずして霊たましいの中に見出せるものではない。それでも戒めを守ることは、真実を愛する者にとっては負担にならないことを示され、「およそ労苦する者、および重きをになう者はわれに来たれ。われなんじらを安んぜしめん。けだしわが軛はやすく、わが任には軽かろし」(マトフェイ 11 : 28, 30)と告げられたうえ、いかなる戒めも忠実に守るべきことを示して、「このいと小さき戒めの一つを毀こぼち、かつかくのごとく人に教えん者は、天国においていと小さき者と称となえられん」と警告された。かくして、救いのためには戒めを守れという訓告がたくさんあるというのに、どうして「戒めは全部守らなくても大丈夫」などと言えようか。だいたい霊自体が、戒めを守らなければ清くなれないではないか。まさに心を治療するために、心を慾や陥罪から清めるために、われわれは主から戒めを授かったのである。

ご存じのとおり、もとより戒めを破ったせいで悪が生じてしまったのである。ならば、戒めを守ってこそ健康な状態に戻れるのは言うまでもない。戒めを守っていない身で、つまり霊たましいを浄化する戒めの道を歩んでいない身で、霊たましいの浄化とか清さなど夢見ることさえおこがましい。「戒めなんて守らなくても、神様は恩寵で霊たましいを清めてくれるさ」などと口が裂けても言ってはならぬ。というのは、「恩寵で清まる」という事例は、あくまでも主の采配にすぎず、教会でも恩寵による清めを自ら求めてはならないと戒めているからだ。事例を出そう。かつてイウデヤ人は、ワヴィロンからイエルサリムに帰るとき、ごくふつうの道を歩きつづけて聖都にたどり着き、そこで主の奇蹟を見た。いっぽうイエゼキイリは、超自然の方法で、すなわち啓示の力で上げられてイエルサリムに着き、聖なる啓示をうけて来たるべき復生を観た。右のような違いが、霊的な浄化においても生じるのである。たしかに踏みならされた正道を歩み、戒めを守って血と汗を流して霊たましいの清さにたどり着く者もいる。だが、恩寵の力ですんなりそこに至ってしまう者もいる。したがって、恩寵の力による清さなど祈願するなと教わっているというのに、無謀にも戒めを避けて生きようとするとは何事か。なにせ主も、かつて富める者にどうすれば永遠の命を得られるのかと問われた時(ルカ 10 :25)、はっきりと「戒めを守れ」と言われたではないか。そして具体的にどのような戒めかと聞き返されるや、まず悪を行うなと命じてふつうの戒めを思い出させた。さらにそれ以上のものを知りたいと訊かれたため、とうとう「なんじ完全ならんと欲せば、ゆきてなんじの所有を売りて、貧者に施せ。しからば財たからを天に有たもたん」(マトフェイ 19 : 21)と告げられたのである。これを言い換えれば、「自分の持ち物に対して死んでから私に従え。古き世と慾をかなぐり捨ててから、属神的世界に生きよ。人間くさい知恵や攻略を脱ぎ捨ててから、まじりけのない真実の知恵をまとえ」ということだ。というのは、主は「おのれの十字架を負え」(マトフェイ 16 : 24)という一句でもって、世の中のすべてに対して死ぬべしと教えられたからである。そして古き人、つまり「慾」を主の力で殺した後で、「われに従え」(マトフェイ 19 : 21)とおっしゃったのである。古き人は、ハリストスの道を歩めない。実際、福なるパウェルも、古き人のことを指して「血肉は神の国を継ぐあたわず、朽つる者は不朽を継がざらん」(コリンフ前 15 : 50)と明言した。また、古き習わしを指して「慾のうちに朽つる古き人の先の習わしを」脱いではじめて、どうすれば造物主に肖って新しい人になれるか分かるようになる(エフェソ 4 : 22, 24 参照)と述べた。さらに、古き思いをも指して「肉の念おもいは神に対して仇なり、神の律法に服せず、かつ服するあたわざるなり」(ロマ八・七、八)とも断じた。なぜならば、肉に生きているうちは肉に関することを思い、属神的思念で神を喜ばせることができないからである。よって聖なる兄よ、もし本当に心の清さを愛し、おっしゃるように属神的に賢くなりたいのであれば、とにかく主宰の戒めにすがり付くことだ。主が「もし生命いのちに入いらんと欲せば、戒めを守れ」(マトフェイ 19 : 17)と告げられたように、まさに死後の保障とか報いのためではなく、ひとえに戒めを与えてくれたお方を愛するがゆえに戒めを守ることだ。というのも、人は正義を行なったときではなく、胸が痛むほど正義を愛するときに正義に秘められた甘美を味わうからである。同じく、罪を行なったときではなく、むしろ罪を憎まず罪を悔いないときに罪人となるからである。だいたい古代であろうと現代であろうと、戒めを守りもせずに清さに達して属神的観照に与った者などいないではないか。戒めを破って聖使徒の跡を歩まない者は、聖人と呼ばれるのに値しないと思う。

もちろん聖ワシリイや聖グリゴリイらは、おっしゃるように荒野を好んで教会の偉大な教師となり、そのうえ黙修を称えていたわけだが、それとて戒めを守らないまま黙修に入ったわけではない。まずは人々と安和に暮らしながらしかるべく戒めを守り、心を浄めて属神的観照に与った後で黙修に入ったのである。とうぜん町に住んでいたときには旅人をもてなし、病人を見舞い、裸の者に着せ、苦労人の足を洗い、力づくで「一里を行かしめ」る者がいれば、共に「二里」(マトフェイ 5 : 41)を行ったに違いない。そうやって社会生活で必要とされる戒めを守り、知性が原初のごとく慾に揺らがず神妙な観照を捉え始めたとき、ついに奮い立って黙修すべく荒野へ赴いたのである。そして黙修に入るなり「内なる人」に留まって属神的観照を観る者となり、やがては恩寵によってハリストス教会の牧者となるよう召されたのである。

ちなみに、聖大ワシリイは時に応じて共同生活を誉めたり隠遁生活を誉めたりしたではないかというご指摘については、こう答えておこう。真に熱心な者ならば、いずれの道も活用できるのではなかろうか。生活形態の違いなど、しょせん個々人が身の丈に応じて、どういった目的のためにどちらの道を選んだかという問題にすぎない。大勢と暮らす共同生活は、強者にとってためになることもあるし弱者にとってためになることもある(この点、隠遁生活も同様である)。なにせ強者ならば霊的健康に至り、何事も聖神で見極めて現世に対して死んでいるため、修行に目覚めているかぎり大勢と暮らしていても害にはならない。しかも自分のために大勢と暮らしているのではなく、むしろ他者の益となるために暮らしているようなものなのだ。なぜなら師父たちの名にかけて、そういう仕事を神に委ねられたからである。いっぽう、まだ戒めの乳で養われながら成長すべき弱者にとっても、大勢との共同生活はためになる。ほぼいつも試練に勝てるほど心が健康になる日まで、共同生活の中でつらい試練に耐え、闘い方を学んで経験を積めるからだ。つまり赤子が乳で養ってもらわなければ成長できないのと同じように、修道士も戒律という乳で養ってもらわないと成長できず、慾にも勝てず、清さに与ることもできないということである。いっぽう荒野生活もまた、上述したとおり共同生活と同じく、弱者が世を避けて救われるのに役立つこともあれば、強者にとって役立つこともある。弱者にしてみれば世の行ないを目に入れないことで慾の炎に油を注がずにいられるし、強者にしてみれば寂れた環境下で悪魔に誘われずに済む。そう、荒野にいれば慾が眠る、というご指摘は正しい。しかし慾は眠らせるだけではなく、根こそぎ取り除かなければならない。つまり、しつこくつきまとってくる慾に打ち勝たなければならないのである。ただ眠っているだけの場合、欲したくなる原因と出くわすだけで目覚めてしまうからだ。

荒野以外にも何か慾を眠らせるものはないか知りたい、とのことだが、病気や疲労困憊したときには、さほど強く慾に襲われないではないか。

しかも、しばしば慾同士で相手を眠らせて、ある慾が他の慾に場所を譲ることもあるだろう。現に、見栄を張って淫欲を抑えることもできれば、逆に淫欲に溺れて見栄なんぞどうでもよくなることがある。というわけで、どうか慾を眠らせる理由だけで荒野を求めるのではなく、むしろ万事を離れて感覚を鎮め、賢明になるためにこそ荒野を求めようではないか。そして内なる人を一新してハリストスにおける属神的人間となり、毎分毎秒自分自身を監視して覚めた知性で自分を守り、望んできた事柄をつい忘れないようにしようではないか。

もし最初の質問に答えるべきであったとしたら、このくらいで十分ではなかろうか。そこで次の質問に移ることとしよう。こんな質問であった。

質問  主は、慈悲深い天の父にならって慈善行為をせよと教えられたのに、なぜ修道士は慈善よりも黙修を優先するのか。

回答  答えは明快だ。まず貴兄が黙修という深遠な生活を研究する上で、福音書に事例を見出そうとしたことは良かった。われわれ黙修者は慈善行為に背くことになるが、決して慈善を無駄なものとして見下しているわけではない。主が天の父に似るよう慈善行為を促したのも、慈善をなせば神に近づけるからである。それにわれわれ修道士としても、慈憐のない黙修を尊んでいるわけではなく、ただできるかぎり心配事や騒乱から離れようと努めているだけのことなのだ。なにも慈善行為をすべき境遇に陥ってもあえて対抗すべしと思っているのではなくて、ひとえに神をひたすら思うためにこそ黙修しようとしているだけなのだ。黙修すれば、もっとも早く思い悩みから清さを取り戻して神に近づくことができるからである。

たとえば、われわれが兄弟を助けなければならないような事態になったときには、自分にできることをおっくうがってはいけない。つまり心構えとしては、つねにあらゆる理性的存在に対して慈しみの心を抱いているべきなのだ。主の教訓も慈しみの心を持てと暗示しているし、慈しみの心を持てばこそ、仕方なく行なった慈善行為にまさる黙修となるからである。しかも慈しみの心を持つだけでなく、必要な状況に迫られたときには身をもって愛を実証することをためらってはならない。もちろん黙修者が、人目を離れて一週間なり七週間なり黙修に徹しようと定めた場合には話は別だが、しかしそのような場合でさえ、つまり黙修に徹すべく定めた期間中であろうと、隣人に対する慈しみの心を抑えることはできないものである。よほど冷酷で堅物で非人間的で、他人に見せびらかすために黙修しているような偽善者ならば自制できるかもしれないが……。なにせ隣人愛がなければ、知性が神との対話や愛に照らされないことは分かりきったことだからだ。

修道士がまがりなりにも分別を持っているのであれば、手元に食料や衣服があるときに、隣人が飢えて裸でいるのを見て何も差し出さずに保管しようとする奴がどこにいる。あるいは自分と同じ肉体をもつ隣人が病に伏し、弱り果てて看病が欠かせないほど困りあぐねいているときに、黙修を愛するあまり隣人愛よりも隠遁の規則を守ろうとする奴がどこにいる。これを逆に言うと、そういう事態が身の回りで起こっていない期間にこそ、ぜひとも兄弟愛と慈憐の心を温めておこう。というのは、事態が差し迫ったときにかぎり、神はそれを実行して愛を示せと要求しているからである。言い換えれば、とくに手元に何も持っていない場合には、言わずもがな貧者のことを心配してあれこれ悩むべきではない。ただし何か持っている場合には、できることをしなければならない、ということである。

さらに同じくらい大事なことがある。もし共同生活を避けて人と会わない決心をして黙修生活に入った場合には、もはや僧房とか隠修の地を離れて世の中を渡り歩いたり、病人を見舞ったりして俗事に時間を費やしてはならないということである。というのは、そんなことをすれば明らかに高次のものから低次のものへ移行することになるからである。逆に、かりそめにも大勢いる社会の中で人々と暮らし、健康な時にも病める時にも他人の労働に助けられている場合には、同じように他人にもしなければならない。相手にだけ奉仕させておいて、同じ肉体をもつ相手が困窮に陥ったのを目にするや、というか、ハリストスのために困窮を耐えている姿を目にするや、その相手から離れて身を隠し、黙修するふりをしてはならない。そういう偽りをする連中は心が固まっている。

かといって、フィワイのイオアンやアルセニイなどを引き合いに出して、「はたして偉大な師父は、黙修を差し置いて病人や貧者に尽くしたりしただろうか」などと言ったりするな。そのような偉人の修行には、われわれは近づくことさえできない。もし彼らと同程度に人々との慰めから遠く離れて孤独に生活しているのであれば、あるいは主もわれわれに慈善を疎んじよと命じられたかもしれない。でもそのような完全性の足もとにも及ばず、日々労働して人々と交わってばかりいる分際でありながら、近づくのもままならない聖人の偉大な生活を送っているのだなどとうそぶいて、(本来ならば力量に応じて守るべき)戒めを守ろうとしないとは何様か。

ここで兄弟を大事に思わない者を暴くために、聖大マカリイの行為をしっかり思い出しておこう。あるとき、聖大マカリイは病気の兄弟を見舞いに行った。何か欲しいものはないかと尋ねたら、「少しばかり柔らかいパンを」という(当時その地方では、修道士はほぼ年1回しかパンを焼かなかった)。この願いを耳にするなり、90歳という高齢にもかかわらず、すかさず立ち上がって僧庵を出てアレクサンドリアへ赴き、革の上着にいれてあった乾パンを柔らかいパンに換え、兄弟のもとへ持ち帰ったのである。

この聖大マカリイと似たようなこと、ないしそれ以上のことをしたのが師父アガフォンである。まさに当時最長老、沈黙と黙修によってだれよりも尊敬されていた師父である。師父アガフォンは、盛大な市場の開催時に手作りのものを売りに行ったのだが、売り場まで来ると病気の旅人が横たわっているのを目にした。そこで、その病人のために家を借りて介抱することにした。一所懸命に働き、働いて得たものは病人のために使い、回復するまで半年間も看病しつづけたのである。(伝承では)この師父アガフォンが「皮膚病患者を見つけ出して、その身体とこの体を交換できればいいのに」と言ったという。これこそ、完全な愛である。

愛する兄弟よ。人は、神を畏れれば畏れるほど喜んで右のようなことを探求し、戒めを丹念に守るようになるのだということを肝に銘じておこう。そして実際に戒めを実行すべき状況になったときには、放置したら危険だという点も忘れてはならない。なにせ最高の戒めというのは、生命を賜う主によって二つ合わせられて他の戒めもそこに含められているからである。すなわち神への愛と、その神にそっくりな受造物への愛、つまり「神の像」への愛(隣人愛)である。人は神を愛することで属神的観照の目標に達し、隣人を愛することで観照も行動も充実してゆく。

右の結尾について敷衍しておこう。そもそも人は、いつも意識を働かせて何かを学んでいるわけだが、その際、いちいち体を用いたり手助けしてもらったり考えを実行したりするまでもなく学んでいる。むしろ意識を単純に働かせ、五感では捉えがたい単純な「おおもと」(神)に合わせて知的に観ている。なにせ神聖なものは目に見えないが単純明快であり、もともと存在していて完結しているからだ。しかし、もう一方の戒めである隣人愛には2つの側面があるため、両面とも注意する必要がある。なにせ隣人愛を抱くと実践してみたくなり、しかもあからさまに実践するだけでなく、ひそかにも実践したくなる。つまり、目に見える形で隣人愛を実践するなり、意識の中でも実践せずにいられなくなるのである。

人間は二つの部分、つまり霊と体からなるため、つねにその二面性の構成に応じて2つの事柄を配慮すべき存在である。そして何をするにしても行為が観照に先立つ以上、まずは低次にある行為を実践せずに高次の観照へ昇ることなどできない。ということは、つまり隣人愛を実践的に行なってこなかったのであれば、すなわち時と場所に恵まれたときに見える形でできるかぎり隣人愛を実践してこなかったのであれば、隣人愛において霊的にうまくいっているなどと言うことはできないのだ。というのも、ひとえに身をもって隣人愛を実践してきたか否かによって、その人がどういう中身の人間であり、観照の愛があるかどうかが確証されるからである。

そしてこの点、すなわち隣人愛の実践という点においてなるべく忠実かつ誠実であったとき、霊たましいに力が与えられ、単純な思考でもって神聖なものを観照するという高次元へ至るのである。ただし、身をもって隣人愛を実践したくてもしようがない状況下では、思いのうちに隣人を愛するだけでも神の前では充分である。とくに隠遁して黙修生活に徹し、しっかり修行して上達している場合には尚更である。

とはいえ、どう見てもうまく黙修できていない場合には、手応えのある戒めを実践することで欠点を補っておこう。それこそ肉体労働をしてこの静かな生活を守り、よりによって肉体の思うつぼになるために自由な隠遁生活を得たのか、などと言われないようにしよう。そもそも人的交流を断ち切って神のことだけを思い、万事から離れて万事に対して死者となっている身なのであれば、人々を助けて奉仕せよとは命じられないからである。しかるに規則として7週間なり1週間なり黙修した後で、人々と交わって互いに慰め合っている身であるというのに、困窮した兄弟のことは見放して、なにせこの一週間は黙修すると決めたのだから守らなきゃと思うとしたら、それほど無慈悲で残忍な話もない。そのような場合には、冷えきった心で自惚れて間違った考え方をしている以上、言わずもがな隣人愛には近づけない。

病人を疎んじるならば光を観ることはない。困窮者に背を向けるならば暗い日々を歩む。ひどい目に遭った人の声を蔑むならば、子孫が盲目のまま触覚をたよりに家を探すことになる。

とにかく自分の無知のせいで黙修という大いなる名を汚さないようにしよう。というのも、いかなる生活形態にも、その生活を送るにふさわしい時期や場所や資質というものがあるからである。ゆえに、しかるべき時期にしかるべき場所でしかるべき資質をもって黙修するのであれば、黙修に入り次第、どう修行すべきか神に訊けば分かる。でもしかるべき時期や場所や資質に適合していないのであれば、いくら完徳を目指して修行したところで骨折り損のくたびれ儲けだ。やはり自分だって困ったときにはぜひ見舞って慰めてもらいたいと思うのなら、隣人が試練に耐えているときにはへりくだって手を差し伸べるべきだ。そうすれば、自惚れや悪霊の迷妄とは縁遠いまま、黙修に入りしだい喜んで修行することができるだろう。ある聖人は、いみじくも「修道士にとっては、肉体的苦痛を耐えている病人を見舞うことほど高慢を避けやすく、淫欲に燃えたときに貞潔を保ってくれるものはない」と述べている。

黙修という天使のような営みにおいては、へりくだって右のようなことまで考慮できれば最高だ。というのも、われわれは思わぬときにつまずいてやられてしまうからである。兄弟たちよ。念のため断っておくと、なにも黙修自体を蔑んで取りやめよと言っているのではない。さんざん黙修せよと説得してきたはずなのに、いまになって前言を翻して慈善行為に励めと言っているわけではないことを明言しておく。どうか、これまでに述べてきた事柄の一部のみを取り出して、そのほかの事柄を全部脇へ追いやり、愚かにもこの一点だけを取りあげて納得しないでほしい。たしかに口を酸っぱくしてお願いしてきたではないか。そう、たとい僧房で弱さゆえに精進できなくなったとしても、すっかり僧房を離れたり、僧房内の修行よりも外での修行の方が優れているなどと考えたりしてはならない、と。ここで「すっかり僧房を離れる」というのは、なにも必要に迫られて数週間僧房を空けて諸用を足したり、隣人を助けたりすることを指すのではない。決してそういう諸用が無駄だとか、やるなとか言っているのではない。そうではなくて、むしろ自負心が湧いたときに、つまり「こうしていつも神の前にいて、とことん目に見えるものからも離れて、ここにいる誰よりも高度にして完全になった」という思いが湧いたときに、そういう思いを賢く退けよと言っているのだ。神に助けられてできる修行については、正しく見極めることが大事だ。そうすれば憐み深い神は、「人のなんじらに行わんを欲する事は、なんじらもかくのごとくこれを人に行なえ」(ルカ 6 : 31)と告げられたとおり、われわれの欲した事も行なってくださるであろう。光栄と誉れは神に帰す、アミン。

さらにお手紙には、「修道士は神を愛したいと思うのなら、何よりも霊たましいを清く保とうとしなければならない」と書いてあった。そしてそれを実践できるだけの力があればの話だが、じつに書きっぷりも見事であった。でも「まだ霊たましいにある慾を克服できておらず、祈るときに大胆に祈れない」とも書いてある。となると、どうもこの二つの台詞が矛盾して聴こえてならない。いや私自身が無知だから矛盾に聴こえるだけなのかもしれないが、そもそも霊たましいにある慾を克服できていないような状態で、どうやって霊たましいを清く保とうと慮ることなどできようか。というのは属神的規則でも厳命されているとおり、人は慾を克服していないうちはそれ以上のことを求めてはならないからだ。そもそも「何かを渇き求めている」から、それを愛していると言えるのではない。むしろ「何かを愛している」から、それを渇き求めていると言えるのだ。つまり愛が、渇望よりも先にくるはずなのだ(人は愛すればこそ、求めたくなる。愛してもいないものを、求める気にはなれない)。いっぽう慾は、清さの前に立ちはだかっている扉である。この閉じきった扉を開いてみないことには、だれもその向こうにある清い心の汚れなき領域に入ることなどできない。ゆえに「祈るときに大胆に祈れない」と漏らしたのは正直でよろしい。というのは大胆さとは、ただ慾よりも上にあるだけでなく、慾を超えた清さよりも上にあるものだからである。この慾・清さ・大胆さの三段階は、往々にして次のような順序になっている。人はまず清さを得るために、自分を強いて慾との闘いに耐える。そうして霊たましいが慾を克服すれば、清さを得られる。そして真に清くなれたとき、知性は祈るときに大胆さを得られるのである。

話しは霊的清さに入ってきたが、その一方で、たしかに霊的清さを祈り求めてはいけないという道理はない。しかも霊的清さといえば聖書にも師父の書にも示された点であり、修道士が隠遁までして求めようとしたものだ。その霊的清さを祈り求めたばかりに傲慢だとか、自惚れだとか言われる筋合いはない。だが聖なる兄よ、それでも修道士は次の点を弁えておいたほうがいいと思う。ふつう子は父を信頼しきっているとき、いちいち父に「こんな技を身につけさせて」とか「これこれを頂戴」とか乞うことがない。同じように、修道士も神に対して「これこれを与えたまえ」と乞わない方がよいのだ。というのも周知のように神は、父が子を思うよりもはるかに多くわれわれのことを慮ってくださっているからである。したがってわれわれは、ついうごめいてしまう罪深い動機について泣いてへりくだり、それが想念で犯した罪であろうとも身をもって犯した罪であろうとも、税吏にならって「神よ、われ罪人を憐れめ」(ルカ 18 : 13)と胸を打って嘆いているべきなのだ。そして主の教えを外面でも内面でも実行した上で、主に教わったとおり「われらは無益の僕なり、行なうべきことを行ないしのみ」(ルカ 17 : 10)と告げ、なんという役立たずで憐れんでもらわないといられない身なのかと本心から思っていなければならないのである。貴兄自身も痛感しているだろう。決して行動ではなく、ひとえに心の嘆きと霊たましいの謙遜が、慾で覆われた心の扉を開いてくれることを。まさに気負いで克服するのではなく謙遜で慾を克服したときに、それが開くということを。というのは、病人はまずへりくだって疾患を治して健康になろうとし、健康になってから王になろうとするものだからである。なぜなら清さや霊的健康というのは、霊たましいの王国そのものだからである。

この霊たましいの王国とは、いったいどういう王国なのであろうか。病人は父にむかって「王にしてくれ」とは言わない。まずは疾患を治すことに専念し、やがて健康になればおのずと父の王国がすっかり自分の王国となる。これと同じように、罪人も悔改して霊たましいが健康になれば、父なる神と共に清い本性の領域に入って力を帯び、父なる神の光栄をうけて君臨するのである。

ここで聖使徒パウェルの言葉を思い出しておこう。使徒パウェルは自分の罪過を並べ上げた上で、自分の霊たましいをとことん低めて最下位に置いてこう言ったのである。「ハリストス・イイススは罪人を救わんがために世に来たれり。罪人のうちわれ第一なり。しかれどもわが憐みを蒙りしは、イイスス・ハリストスがまずわれにおいて全き寛忍を示せり」(ティモフェイ前 1: 15~16)と。つまり自分自身がかつて暴力をふるって迫害までした冒瀆者でありながらも、「知らずして、信ぜざるによりてこれを行ないしゆえに」神に憐れんでもらえた身だからである(ティモフェイ前 1 : 13)。はて、この言葉は一体いつ放たれた台詞であったか。そう、偉大な修行を終えて、力のみなぎった業を次々に成し遂げた後である。ハリストスの福音を世界中に布教して何度も死ぬ目に遭い、イウデヤ人や異教徒から辛酸を舐めつくした後である。かほどの労苦を経た後にもかかわらず、相も変わらず最初に仕出かしてしまった過ちを見つめ、単に清さに至ったぞと思わなかっただけでなく、本来ならばハリストスの弟子であると自認してもよさそうなところを、なんと「われは使徒と名づけらるるに堪えず、神の教会を窘逐せしがゆえなり」(コリンフ前 15 : 9)と嘆き、ハリストスの弟子であるということすら自認しようとしなかったのである。そしてだれよりも慾を克服しきった身でありながらも、なおかつ「われの体を制してこれを服せしむ、他人を教えて、自ら捨てらるる者とならざらんがためなり」(コリンフ前 9 : 27)と自戒していたのだ。いやいやそうは言っても、使徒パウェルは他の箇所で自分の偉大な業績について並べ立てているじゃないか、と思うだろうか。使徒自身の言葉を耳にして、しかと目を開くがよい。なにせ使徒は、そういう事柄は好き好んで自分自身のために行なったのではなく、ひとえに伝道のために行なったのだと述べているからである。しかもそういう手柄を信者によかれと思って語ったときには、そのような自慢話をするのは理性を失った愚か者だという自覚から、「なんじらわれにこれを為さしめたり」(コリンフ後 12 : 11)とか「わが言うところは、主にしたがいて言うにあらず、すなわちこの誇りの分において、無智者のごとく言うなり」(コリンフ後 11 : 17)と吐露している。このような姿勢こそ、公正にして信頼に足る基準だと言えよう。聖パウェルが正義を貫いてわれわれに与えてくれた基準だ。ぜひともこの基準にのっとって熱心に生きてみようではないか。そして高度な事柄が神から与えられないときには、それをあえて神に求めないようにしようではないか。なぜなら神への奉仕に適した器が誰であるのかは、神ご自身がご存じだからである。というのは、福なるパウェルはそれ以降も霊たましいに王国を求めたりせず、「自らハリストスより絶たれんことをもあるいは願うなり」(ロマ 9 : 3)とまで言っていたからである。だというのに、どうしてわれわれが、ろくに戒めも守れず慾も克服できず負い目も返しきっていない身で、神から与えられる以前に霊たましいに王国を求めたりすることなどできようか。

というわけで聖なる兄にお願いしたい。どうかそういう考えが思い浮かぶことすらないように気をつけてほしい。何よりも大事なのは、どんな艱難辛苦にも耐えること。そして深くへりくだって心身に生じる慾や弱さを嘆き、罪の赦しと霊的謙遜を与えてくださいと主に求めよう。

ある聖人は「祈るときに罪人だという自覚がなければ、主に聴き入れてもらえない」と書いた。まあそうは言っても霊的清さとか健康とか無慾とか直観とは何ぞやということを書き綴った師父もいるじゃないか、と思うかもしれない。しかし、それはわれわれが時期尚早にそういう事柄を期待してねだるためではなかった。というのは、「神の国は顕わに来らず」(ルカ 17 : 20)と書いてあるからだ。つまり神の国は期待どおりに来るわけではない、ということである。そしてそういう意図を持ったが最後、人は傲慢になって堕ちてしまう。したがって、悔改を積み重ねつつ、神に喜ばれるように生きて心の領域を整えてゆこう。心が汚れを取り除いて清ければ、おのずと主の賜は降ってくる。それに神の教会では、高尚な神の賜があらわに降ってくるよう求めてはならないと禁じられている。そうやって求めて賜を得た者は傲慢に陥って堕ちたからだ。そういうおねだりは神を愛している証拠ではなく、むしろ霊たましいに疾患がある証拠である。そもそも神聖なパウェルは困苦を誇り、ハリストスのために苦しむことこそ神の高尚な賜だと捉えていたというのに、われわれはいったいどんな神の賜をねだろうというのか。

さらにお手紙には「心から神への愛を愛しているし、とても愛したいと渇望しているのに、どうもまだ愛までは至っていない」とも書いてある。しかも「荒野で修行したい」とも書いてある。なるほど、どうやら貴兄は心を清め始め、いつも心の中で神への思いが燃え上がって温められているようだ。そして、もしそれが真実であるならば偉大なことだ。だが、そう書かなければもっと良かったのにと思ってしまうのだ。なぜなら、どうも辻褄が合わないからである。もしこれが質問事項であったならば、もう少し違う言い方になっていたであろう。というのは、まだ慾を克服できず、大胆に祈れないと書いている身でありながら、どうして「心から神への愛を愛している」などと言えようか。だいたい慾を克服できていない分際であれば、霊たましいに神聖な愛が湧くこともないし、その愛に促されて神秘的に荒野で修行することもできやしない。お手紙を拝読すると、「まだ慾は克服できていないが、神への愛を愛している」とおっしゃる。これは、辻褄が合わない。慾を克服していないのに神への愛を愛していると言われても、何を言われているのか私にはさっぱり理解できない。

でもこう反論してくるかもしれない。「いえいえ『神を愛している』と言ったのではない。『神への愛を愛している』と言ったのだ」と。それすらも、霊たましいが清さに至っていない以上、言おうとしても言えない台詞である。もし口先だけで言いたいのであれば、なにも貴兄だけでなく誰もが神を愛したいと言っている。しかも正教徒だけでなく異教徒もそう言っている。それに誰もが自分自身の台詞としてそう言っている。しかしそういう台詞を発しているとき、よく口先だけ動いていて心は何を言っているのか感じていない。それに病人だって、自分の病に気づいていない人が多いではないか。なにせ霊たましいが病んでいるからこそ悪が生じ、真実が欠けているからこそ迷妄が生じるのだ。しかも、そういう疾患に病んでいる身でありながら、われこそは健康なりと公言して仰がれている人もたくさんいる。でも、そもそも人は、霊たましいに根づいた悪を治療し、創造時に生まれもった健康状態に戻り、その汚れなき神゜で霊たましいが息づくようにならなければ、超自然のものたる聖神の賜など渇望しようがないのだ。なぜなら霊たましいが慾に悩まされているうちは、属神界のことを感知できず渇望もできず、ただ耳で聴いたり聖書で読んだりしたことを拠り所にして渇望しているに過ぎないからである。というわけで、完徳を渇望するならばどの戒めも守るべし、と既述したのは言い過ぎではない。なぜなら、ひそかに戒めを守っていれば霊力が癒されるからである。それも、ただ気が向いたときに戒めを守ればよいというのではない。現に「血を流すにあらざれば、赦しなし」(エウレイ 9 : 22)と書いてあるとおりである。しかし考えてもみてほしい。そもそもわれわれの本性は、ハリストスの藉身によって一新し、ハリストスの受難と死に与ったのではなかったか。まさに十字架上の流血のおかげで一新して成聖され、新約以降の完徳の戒めを受け入れられる本性になっているのではなかったか。

もしもわれわれが救主の流血以前に新約の戒めを授かっていたとしたら、つまり人性が一新して成聖される以前に授かっていたとしたら、いかに最新の戒めとはいえ古代の戒めと同じように、かろうじて霊たましいの悪習を断ち切れても、その根っこまでは一掃できなかったかもしれない。しかし今は、そうではないはずだ。それどころか、心から神を畏れて属神的な新しい戒めを守ってひそかに修行していれば、霊たましいは一新して成聖され、目には見えなくても隅々まで癒えてゆくのである。なにせどの戒めによってどの慾がそっと癒されていくのかは、だれの目から見ても明らかであろう。そして血漏の女の事例を見るまでもなく、癒された本人も癒した側(神)も、その戒めの効果を実感できるものなのである。

愛する兄よ。かくして、霊たましいに根づいた慾を治療せずに霊的健康へ至ることはないのだ。つまり、ひそかに霊たましいを一新させて成聖させ、聖神と結びついた生活をしていない以上、肉体をもつ身としてぶち当たる悲しみから自由になれないのだ。そして、これは使徒たちを見れば分かるように、ひとえに恩寵による治療なのである。現に使徒たちは信仰でもってハリストスの愛を完全に身につけた。もちろん正道を歩んで霊的健康を得られることもある。とりあえず戒めを守って正しく生活し、汗を流して慾を克服すれば、しかるべくして霊的健康を得られるということは覚えておこう。まさに戒めという乳を飲みきってこの世の身体性を離れ、つい引きずられる過去の慾の印象を断つことができれば、まるで初めて生まれるかのように属神的に生まれ変わるのである。すると恩寵によって「内なる人」の思いのうちに聖神の目に留まり、かつてない素朴な平安を得るのである。

知性も生まれ変わって心も成聖すれば、そのようにして入った属神界にふさわしい思いがどんどん湧き出てくる。まずは神聖な願望が湧き起こり、心から天使と交わりたくなり、属神的知恵の奥義を観たくなる。すると受造物に属神的知恵が働いていることを知的に感じとり、眩しいほど聖三者の神秘を観照するようになる。と同時に、われわれのためにご計画された拝むべき奥義をもくまなく観照し、未来の希望を見る知恵にどっぷりのめり込んでゆくのである。

というわけで、以上の記述を読んで自分自身の状態を把握してほしい。もしも霊たましいが慾に埋もれたまま真に神を愛せるのだとしたら、わざわざ属神界の奥義について質問するまでもなかったであろう。でも言わずもがな、慾を抱いているうちは属神界の知識をいくら学んでもザルに水、かの清さを閉ざしている扉も開けられない。霊たましいから慾を取り除くことさえできれば、知性も生まれもった清い部分で物事をくまなく捉えられるようになり、質問する必要がなくなるはずである。なぜならそのままで入手できる恵みをはっきり見届けるからである。現に五感だって、わざわざ学んだり質問したりして目の前にある物やその本質を捉えているわけではない。むしろ問う以前に、目の前の物をじかに触れて感じとるであろう。なぜなら「感じる者」と「感じられる物」の間には、両者をつなぐ教えというのは存在しないからだ。たとえば盲人は、いくら太陽や月のすばらしさを耳にしても、あるいは無数の星や宝石の輝きを語ってもらったとしても、ただ名称だけでその美しさを思い描いて推測してみることしかできない。でもそうやって得られた知識や推量というのは所詮、実際に肉眼で見て得られる甘美とはかけ離れたものでしかない。このことから、属神界についても同じように思い描くがよい。というのも、もし知性が原初の健康状態で聖神の奥義を見抜くならば、十分にハリストスの光栄を観照することができ、あえて質問したり学んだりするまでもないからである。むしろ、いかにハリストスを信じて希望をかけているかに応じて、強いずとも新時世の奥義を楽しむほかにないからだ。まさに福なるパウェルが「人もしこれを見ば、あになお望まんや。(中略)忍耐してこれを待つ」(ロマ 8 : 24, 25)と述べたとおりである。

というわけであるから、やはりわれわれは待つべきだ。孤独に徹し、素直に内なる人と向き合うべきだ。内なる人と向き合っていれば、想念が焼きついたり込み入ったものが目に入ったりしてこない。なぜなら知性は見ているものの像を受け入れるからである。もしも世の中を見るのなら、流転する万物のさまざまな像や肖が目に入り、こうにもああにも変わりゆく沢山のものから想念が湧き起こってくる。そして湧き起こるなり知性に焼きついてしまう。しかし知性が内なる人に目をそそいで洞察していれば、そこには像の移り変わりをもたらすようなものは一つもない。そこでは複雑なものが他の複雑な像との違いで区別されることもなく、ただハリストスだけが満ちている。だからこそ知的に単純に観照し、その観照によって霊たましいは最高の甘美を味わい、祈るときに大胆になれるのである。なぜなら霊たましいは生まれつきそういうものを糧とするからだ。そのようにして知性が真実をつかみとれる領域に入ってしまえば、もはや質問するまでもない。というのも肉眼で太陽を見ようとするときに、だれもまず質問してから眺めたりはしないように、霊眼で聖神の知恵を知ろうとするときにも、まず研究してから観照するものではないからである。というわけで聖なる兄よ。兄が求めた奥義の観照とは、霊的健康を得ればおのずと知性に啓かれてくるものなのだ。研究したり質問したりしてそういう奥義を理解しようとするのは賢くない。なにせ福なるパウェルも「いいがたき言葉、人の語るあたわざるもの」を見聞きしたとき(コリンフ後 12 : 4)、学問とか具体的な認識方法に頼ったのではなく、感嘆のうちに挙げられて属神界にて奥義の啓示を観たからである。

というわけで、聖なる兄も清さを愛するのであれば、人々に注いできた愛を断ち切って心のぶどう園に入り、その園で霊(たましい)に根づいた慾を絶やし、人の悪を知ることのないよう努めよ。清い心こそ、神を観るのだ。決して質問によってではなく、どんな人の悪をも知らないことによって、心はどこまでも清まって神を観るのである。もし心に新時世の奥義をやどしたければ、まずは斎、儆醒、公祈祷、修行、忍耐、想念の克服など、身体でできる業を積み重ねよ。聖書を読むことに没頭し、深く読み込むことだ。目の前に戒めを書き記し、慾に負けても逆に打ち負かして挽回せよ。いつも内なる会話のなかで祈り求めて祈祷文に没頭し、かつて受け入れてしまった像や肖をことごとく心の中から消し去れ。そして救主のご計画どおりにすすむ万事の奥義を絶えず学べ。しかも言葉にならない属神的知恵や神秘的観照を求めたりせず、それらが時と場に合わせて与えられるがままにせよ。むしろ、ひたすら戒めを守って清さを得るべく汗を流すことだ。そして万物を思う火のような痛み(使徒や致命者や師父が主から授かった心痛)をくださいと主に祈り求めよ。その痛みで心を熱くして知的生活に与るがよい。知的生活とは、その始点も中間点も終点も次の一言に尽きる。つまり、すべてを断ち切ってハリストスに体合すること。もしどうしても奥義を観照したければ、ひたすら戒めを守って身につけるべきであり、ただ頭だけで戒めを知ろうとしてはならない。

われわれは内面の清い領域で属神的観照をする。だから、まずは聖神の神秘的領域にどう入るべきか見極めた上で、きちんと歩みだすがよい。

しっかり戒めを守っていれば、まずは清さという神秘を授かる。その上で、やがて驚嘆しつつ過去や未来のことを見抜く属神的直観を授かって観照するようになる。そこでは洞察しつつ、ありとあらゆる受造物に対する神のご計画に驚き、神の光栄と新時世の重みを悟る。すると、心は打ちひしがれて一新し、まるでハリストスにおける嬰児のようになり、「新約の戒め」という属神的な乳で養われて悪いことを思わなくなる。そして聖神の奥義を学んで知恵の啓示を受け、知恵から知恵へ、観照から観照へ、悟りから悟りへ昇ってゆく。そのように神秘的に学びつづけて明晰になれば、やがて愛に至って希望と喜びに満たされ、神の前まで昇りつめて受造時に授かった光栄で輝くのだ。

黙修者はこのように聖神の草場で養われながら知恵の啓示へ昇り、転んでは起き、勝っては負けという試練をとおして、まさに僧房という坩堝るつぼの中で洗練される。そして清まった後で憐れみを受け、お望みどおり聖三者も観照できるようになる。知的に学んで昇ってゆくと、3つの本性が観えてくる。うち2つは、受造物の本性である。つまり霊智ある本性(人・天使・悪鬼)と霊智なき本性、まさに属神的本性と身体的本性とを観照する。もう1つは、聖三者の本性である。ゆえに、まずは目の前にある受造物をあまねく観照することから始まり、少しずつ知恵をつけながら知的に洞察を深めてゆくことになる。しかも、五感では捉えがたいものも観照できることがある。

さらに知性自身をも観照できるのが知性の特質である。だから異教徒の哲学者は受造物を考察しながら、なんと頭脳とは賢いものなのかと思い上がってしまったのである。

しかし正教徒であれば、信仰でもって神秘的に観照し、聖書という牧草の上で成長する。ちょうど聖大ワシリイやグリゴリイがそうであったように、あちこちへ思いを馳せずに集中し、ハリストスに結ばれて聖書の不思議な聖句を思う。そして、知恵だけでは悟れない聖句に出会っても信仰で受け入れ、清ければ清いほど透きとおった洞察力で理解する。われわれは神から信仰を授かったおかげで、知恵や五感や理性では捉えがたい聖神の奥義が存在することを知った。そして、その奥義に触れられるかもしれないという希望を持てるようになった。まさしく信仰を授かったおかげで「神は主であり主宰であり、万物の創造主にして造物主である」と公言できるようになり、知恵が与えられたおかげで主の戒めをしかるべく守ろうと決心できた。そして御言葉どおり旧約の戒めを守れば畏怖心が生じることを悟り、ハリストスの戒めを守れば愛が生じることも悟った。主が「われもわが父の戒めを守りて、その愛におる」と告げられたとおりである(イオアン 15 : 10)。この句を見ると分かるように、神子は畏怖心から神父かみちちの戒めを守ったのではなく、愛しているからこそ守られたのである。だからわれわれにも、愛ゆえに父の戒めを守れと命じられた。「なんじらもしわれを愛せば、わが戒めを守れ。われ父に求めん、彼は別に撫恤者なぐさむるものをなんじらに与えん」(イオアン 14 : 15~16)と。この「撫恤者」(聖神)が与えられたとき、聖神の奥義が見えるようになるという。ゆえに使徒たちと同じように聖神を授かれば、属神的知恵を余すところなく身につけられるということだ。ちなみに主ご自身も、われわれのことを意味して「かれらに撫恤者を与えたまえ」と父に祈られたではないか。そして、戒めを守って心身を清めていれば撫恤者(聖神)がずっと傍にいてくれるだろうと約束されたではないか。

こうして論理の糸をたぐってみると、まだまだ考えが甘かったことがお分かりになるだろう。つまり貴兄の言うように、黙修中に戒めを守っていると神秘的観照がしにくくなるということはない。むしろ戒めを守っていればこそ、恩寵に照らされて神秘的観照に与り、聖神の知恵が見えてくるのだ。

だから、心からお願いしておきたい。もし愛の領域に達したと感じたときには、畏怖心からではなく、むしろ戒めを与えてくださった方(神)を愛するがゆえに、新約の戒めを守ってほしい。この点、使徒パウェルを見倣うべきである。使徒パウェルは神聖な愛に燃えるなり、「たれかわれらを神の愛より離さん」と叫んだ。たとい苦しかったり投獄されたり迫害されたりしたとしても、どうして神を愛せずにいられようか、と。そのうえで「けだしわれ篤く信ず、死も、生命も、現在も、未来も、われらをハリストス・イイススわが主の愛による神の愛より離すことあたわず」(ロマ 8 : 35, 38, 39)と言いきったのである。しかも報酬とか誉れとか、貴兄のように属神的賜物をふんだんに欲しかったから神を愛したわけではないことを証して、むしろ他の人たちがハリストスに結ばれるのであれば「自らハリストスに絶たれんこともあるいは願うなり」(ロマ 9 : 3)と言い添えた。さらに、黙修における神秘的観照なんぞ端から求めていなかったことを示して、「われ諸人の方言、および天使らの言葉を語るとも、もし愛なくば、われ鳴る鐘、あるいは響く鈸ねうはちのごとし。われ預言の能あり、およその奥義とおよその知識とを明らかにするあり、かつおよその信、よく山を移すありといえども、もし愛なくば、われ一も益なし」(コリンフ前 13 : 1, 2)と断言した。愛すればこそ、恩寵によって観照を授かるからである。なにせ観照に向かう正門とは、愛だからである。愛を身につければ、その愛によって観照に入る。まだ愛を身につけていないのに観照という恵みを受けたりすれば、いずれ観照できなくなるに違いない。なぜなら愛すればこそ高尚で聖なる生活を送れるようになり、そういう生活を続けられるものだからである。

修道士は愛を失った途端、心の平安を失う。なにせ心の中に神が宿られる以上、愛を失った途端に神の出入りする恩寵の門が閉じてしまうからだ。主も「われは生命の門なり。われによりて入る者は生命に入り、かつ(すこやかに属神的生活を送れる)草場を得ん」(イオアン 10 : 9)と言われた。つまり神秘的に観照するときに神聖な愛さえあれば、いつもハリストスの自由を得た者として出入りさせてもらえるということだ。どれだけこの言葉が正しいか理解したいだろうか。まさに属神的に生きることこそ聖なる観照そのものであることを理解するために、偉大なパウェルの言葉に耳を傾けておこう。先ほどの引用文を換言すると、こんなふうに叫んでいるからだ。「なにせ愛を身につけてもいない分際なので、そういう賜をいただくわけにはいかない。愛の門を通らずして観照に入ろうとは思わない。もし愛を身につける以前に恵みを受けたとしても、あえてその賜をほしいとは思わない。なぜなら、本来とおるべき愛の門からその領域に入ったわけではないからだ。ゆえに、まずは愛を身につけようではないか。愛こそ、聖三者を観る第一歩だからだ。愛さえ身につけておけば、わざわざ授かるまでもなく、おのずと属神的に観照できるであろう」と。どうか福なるパウェルの知恵を理解してほしい。パウェルは、いかなる恵みも度外視し、何よりも物事を支える根本的態度を求めた。この根本的態度があれば、賜を受けとって維持できるからである。あたかもこう言ったようなものだ。「モイセイが受造物を観照したように、そういう賜を得た人は多い。しかし常に観照していたのではなく、啓示をうけて観照したのである。いっぽう私は、聖神で受洗して恩寵に満たされている以上、この内面に生きておられるハリストスを感じとりたい。なにせハリストスがご自身の位格で人性を一新してくださったおかげで、われわれは水と聖神でハリストスを着、機密でハリストスと体合し、ハリストスの体の一部となれたのだ。とはいえ現世においては、あくまで担保として救主の体の一部となれたにすぎない。いずれ新時世がやって来れば、きっと他の人たちも神から生命を授かってハリストスの体の一部となるだろう」と。このように、神聖なるパウェルでさえ愛をもたずに観照することを避けていたというのに、愛をもっていない状態で観照を求めるとは何ごとか。

というのは、「戒めを守っていると観照しにくくなる」というお言葉は、あからさまに隣人愛をこけ落とすような台詞であるし、隣人愛よりも観照を選り好むことで、あたかも観照しようのないところで観照しようとしているようなものだからだ。まだ観照には値しない身だと自覚していても、しかるべき時がくればおのずと観照できるようになる。心も成長すれば知恵がつき、この世の事物を感じとり、日々学びを深めてゆくではないか。それと同じように、正しい生活を送っていれば、知性も属神的観照や神聖な手応えを感じとるようになる。そして愛の領域にたどりついた時、そのしかるべき場所で属神的に観照するのである。しかし観照というのは、どんなに属神的に観照してみせるぞと力んだところで、できるようなものではない。そこをあえて属神的なものを見てやろうと夢見たりすれば、しかも早合点して試したりすれば、あっという間に視力が弱まって事実の代わりに幻想や幻像を見るようになる。この危険性を痛感できれば、時期尚早に観照を求めることなど即刻やめるだろう。もしもすでに観照できている気がしているとしたら、それは幻想の影を眺めているのであって観照しているのではない。というのは、人は思いめぐらしながら真に観照することもあるが、似像や夢想を見てしまうこともあるからである。なにせ心身を合わせもつ者だから幻影を見てしまうこともあるわけだ。真に観照しているときには光を受け、現実にちかい形で対象を見る。その逆に、観照しているつもりでも真に観照できていない場合には、肉眼は現実の代わりにその影を見てしまう。つまり水のないところに水を見たり、地上に建っている建物が空中にぶら下がっているように見えたりしてしまう。物質的なものでさえそう見えてしまうことがあるのならば、いわんや霊的なものをや。

真に聖なる観照をするためには、まずは黙修して戒めを守り、心眼を浄めてくもりなく愛の光を浴びねばならない。なおかつハリストスのうちに生まれ変わって知恵を深め、めざすべき天使的生活の属神的性質に近づかねばならない。知力だけで属神的なものを思い描いても、そんなイメージは幻であって現実ではない。もとより知性が清まっていないからこそ、そんなふうに現実と取り違えて幻像を見てしまうのだ。本物は首尾一貫して変わらない性質である以上、似像に変わることなど絶対にありえない。そんなふうに夢みて幻像を見てしまうのは、ひとえに知性が清まっておらず病んでいるからである。

異教の哲学者もまさしく幻を見た。なぜなら神から真に教わってもいないものを、属神的なものとみなしてしまったからである。いろいろ思いめぐらして想念を見分けているうちに思い上がり、なかなかの賢者ではないかと自負した。ついでに人間がどこから来たのかという問いも突き詰めようとしたのだが、「人間の出自」(神)を見出そうとしながらも、その出自が「人間とは似て非なるものである」という区別ができなかった。そして禁じられた自負心から思い描いたことを言いふらし、唯一の神を多くの神々に分割し、そうやって想念が生んだ戯言を仲間と分かち合い、愚かにも絵に描いた餅をみて「本性を観照した」などと公言してしまったのである。

要するに、感じとれるものであろうと超自然のものであろうと聖三者ご自身であろうと、それらの本性を真に観照するには、ただハリストスに啓示してもらうしかないのだ。もとはと言えばハリストスが、人類に観照の道を教示してくださったのである。ご自身の位格で人性を一新され、人類に原初の自由を差し戻された上で、人が生命の戒めを守って真実へ昇ってゆく道を敷いてくださったのである。

人間というのは、ちょうど生まれたばかりの赤子が胎膜を脱ぎ捨てるように、まず苦難を堪え、苦行を積んで慾深い古い人を脱ぎ捨ててはじめて、ついに夢想ではなく真の観照をできる本性になる。そのとき知性は属神的に生まれ変わり、聖神の平安のうちに洞察し、かの祖国(天国)を観照できるようになるのだ。

というわけで、たしかに受造物を観照するのは楽しいことではあるのだが、所詮、そういう観照は観えた気がしているだけで、寝ながら心地よい夢を見ているのと変わらない。むしろ啓かれてくる来世を観照しながら属神的に悦んでいるときこそ、それは観えた気がしているのではなく恩寵によって悦んでいるのだ。そう、使徒パウェルが語ったそれに近い悦びである。「神が彼を愛する者のために備えしことは、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心にいまだ入らず。ただわれらには神おのれの神゜をもってこれを顕せり、けだし神゜は察せざるところなし、神の深きをも察するなり」(コリンフ前 2 : 9~10)と。そして、知性はそのような聖神による観照を積み重ねて、より高度なものを観照するようになる。というのも観照から観照へと導かれ、いずれ完全な愛の領域に入るからだ。なにせ心を清めて来世が見えるようになったとき、人は愛するようになるからである。愛の領域に入りしだい恩寵の作用を受け、属神的観照によって奥義を観る者となる。

知的観照の啓示に与るには、前述したように二通りの方法がある。熱い信仰ゆえに恩寵によって与ることもあれば、戒めを守って清くなったがゆえに与ることもある。恩寵によって与るというのは、現に使徒たちが戒めを実践して知性を浄めたというよりも、むしろ熱く信じたがゆえに観照の啓示に与ったことを指す。なぜなら素直にハリストスを信じ、一切疑うことなく熱い心で救主に従ったからである。使徒たちはハリストスが拝むべきご計画(受難と復活)を成しとげられたとき、ほんとうに撫恤者たる聖神が送られてきたのを悟った。そして知性がすっかり清められ、内面の慾深い古い人が死んで属神的な新しい人に生まれ変わったことを実感した。福なるパウェルもそのようにして神秘的に生まれ変わり、のちに啓示をうけて奥義を観照できるようになった。しかし、観照したいと望んでいたわけではない。たしかに恩寵も賜も受けとったわけだが、ひとえにダマスクへ派遣されたときに授かった恩寵に対して、生涯かけて応えようとしつづけただけであった。かの日、道端でアナニヤの口から「兄弟サウルよ、なんじの来る道に現れたる主イイススはわれを遣わせり。なんじが見るを得、かつ聖神に満てられんためなり」(行実 9 : 17)と告げられ(しかも主の声としてそれを聴いたのであった)、アナニヤから洗礼を受けるなり聖神に満てられ、秘められた奥義が啓かれてゆくのを感じたのであった。なぜなら聖使徒らがイイススから告げられていたとおりの事が起こったからである。「われなお多くなんじらに言うべきことあれども、なんじらいま容いるるあたわず。しかれども彼、すなわち真実の神゜来たらんとき、なんじらをおよその真実に導かん。(中略)かつ将来のことをなんじらに示さん」(イオアン 16 : 12~13)と。

たしかに福なるパウェル自身も、聖神を受けて生まれ変わるなり奥義の啓示を受け、その神゜による啓示を観照して楽しんだことは間違いない。まさに言いようのない声を聞いて本性を超えたものを観照し、天軍を観て喜び、属神的に楽しんだのではあるが、決してユーチテス派の異端が愚かにも主張するように、願望によってこのような上昇を成しとげたわけではない(知力ではどんなにあがいてもそこへ至ることなどできない)。

つまりパウェル自身も記しているように、啓示の聖神によって挙げられたわけであって、異端の連中のように浅はかな思い違いをしたわけではないのである。彼らときたら聖使徒に肩を並べられると自負し、夢のごとくえがいた想念を公言し、その想念を属神的観照と名づけて憚らなかった。こういう夢想にはまった異端者は多い。オリゲネス、ヴァレンティヌス、ディッサノフの息子、マルキオン、マニ(マネス)ら古代に悪影響を及ぼした異端の開祖をはじめ、使徒の時代から今日にいたるまであちこちに出没している。

こうした一部の汚れた連中が悪鬼に唆され、その夢想で福なる使徒の教えを汚そうとしているのを目の当たりにしたがゆえに、神聖なる使徒パウェルは異端者の自画自賛をこき下ろす任務を背負ったのである。謙遜と深い畏れをもって神聖な観照について描写する際に、あたかも他人がみた観照を記すかのようにこう叙述してみせた。「われハリストスにある一人いちにんを知る、この人は十四年前に、(肉体にありてか、知らず、肉体の外にありてか、知らず、神これを知る、)第三重の天に挙げられたり。(中略)楽園に挙げられて、いいがたき言葉、人の語るあたわざるものを聞きしを知る」(コリンフ後 12 : 2, 4)と。このように、挙げられたがゆえに挙げられたのだと断言し、あえて知力で観照しようとして第三重の天まで至ったのではないと主張した。たしかに「観照をみた、言葉を聞いた」と述べているが、どういう言葉を聞いてどういう像を観照したのかまでは書きようがなかった。というのは、知性が啓示の神゜をうけて実際にそれを観たときに、観たことをそぐわない場所で語ってもよいという許可を得なかったからである。たとい語ろうとしても語れなかったに違いない。なぜなら、身体的感覚で見たわけではないからだ。もし知性が身体的感覚でもって捉えた対象であったならば、ふたたび身体的感覚を用いて身体領域で説明することもできたであろう。しかし内面つまり属神的領域でじかに観照したり耳にしたり感じたりした対象は、身体に戻ってきたときに言葉にしようがなく、ただそれを観たことを思い起こせるだけなのである。思い起こすことはできても、ではいかにして観ていたのかと問われると、はっきり認識できないのである。

この点を判断基準にすれば、異端の開祖が「啓示」と銘打って書いた偽りの書が、悪鬼の夢想に汚れて書いた代物であることが暴かれる。異端者がみた「啓示」とは何であったか。勝手気儘に思い描いた物質的な住まいだとか、いかにも知力で天に昇っただとか、審判の日まで遠ざけられた場所だとか、天軍の隊形の多様性だとか、その戦いぶりについてである。これらはどれも自己陶酔して悪鬼と交わり、愚を極めた知ったかぶりに過ぎない。だからこそ福なるパウェルは、たった一言でもってあらゆる観照への扉を閉ざしたのである。つまり観照の奥で沈黙を守り、たといそれについて公言できたとしても、あえて口を割ろうとはしなかったのである。実際、口でもって身体的次元で説明しうる観照など、所詮どれもこれも霊的想念からくる夢想であって恩寵の働きではない、と断言したからである。

というわけで、克肖なる貴君よ。これらのことを心に留め、高邁に思える夢想を観察しないようにせよ。とくに鋭敏な知性に恵まれた修道士が空しい栄誉を求めたりすると、このような闘いに見舞われがちである。つい前代未聞の啓示などを渇望して、何事も人目に触れさせようとするからである。

そういえば、マルパという人がいた。エデッサの出身でユーチテス派という異端を捻出した男だが、異端を捻出した当時は高尚な生活を送り、労働と困苦の極みを耐えていた。なにせ通称サワという福イウリアンの弟子であったため、師と一緒にシナイ山やエジプトを短期間見学し、当時の偉大な師父や聖大アントニイを目にしたことがあったからである。しかも聖アントニイの口から霊たましいの清さと救いについて神秘的な言葉を聞きかじり、慾について眼識のある見解を耳にした。まさに戒めを守って古い慾を脱ぎ捨てれば、本性が原初の健康状態に立ち返り、清い心で聖神の奥義を観照し、恩寵によって無慾に与るという話である。

マルパはこれらの言葉を聞き終えるや、若気の至りで烈火のごとく奮い立って町へ帰り、見栄を張って隠遁の庵を選び、修行に打ちこんで貧窮と絶え間ない祈りに身を捧げた。そして身の丈を超えた偉業を求め、聖アントニイから聞きかじった高度な観照に与りたいと渇望するようになった。しかも真実に歯向かう敵との戦闘法を知らぬ身で、剛健な強者でさえやり込められてしまう敵の罠も嘘も奸計も見抜けぬまま、自分の努力・困苦・清廉・修行・自制だけに期待をよせてしまった。かてて加えて、敵襲時に必勝できる武器である自己卑下や打ち砕かれた心も持たぬ身で、「やるべきことを果たし、戒めを守り、苦難を耐えたとしても取るに足らない僕と思え」(ルカ 17 : 10 参照)という聖句も忘れたまま、おのが修行を見てすっかり思い上がって自負心に燃えてしまったのである。かくなる状態で、ひらすら聞きかじった高度なことだけを熱望した。ゆえに時間が経つにつれて、へりくだる気がないことや、聞きかじった奥義だけを観照したがっているのを悪魔に見抜かれ、ある日、目の前にとてつもない光に包まれた悪魔が現れたのである。「おぬしを慰めるために、父から遣わされてきた者だ。修行してまで求めた観照に与れるようにしてあげよう。無慾を与え、これからはもう修行しなくても済むようにしてあげよう」という。「ただし、」と不幸にも引っ掛かってしまったアルパは要求された。「わたしを拝むことだ」と。すると頭がいかれてしまったこの痴呆者は、これが悪魔との闘いであることを察知できなかったため、即座に嬉々として彼を拝み、拝んだ瞬間、完全に支配権を取られてしまったのである。

敵は、神聖な観照を与える代わりに悪魔がかった夢想でアルパを満たした。ゆえにアルパは思い上がってしまい、真実のために尽くそうと励んでいた修行をやめてしまった。そして敵に無慾という空しい希望を持たされたまま、「もはや修行するまでもなかろう。慾や肉慾と闘って体を痛めつけて何になる」と欺かれて、ユーチテス派という異端の開祖に成り下がってしまったのである。そしてとうとう異端者が増えていかに汚らわしい偽教であるか判明したときに、当時の主教によって追放されたのである。

ほかにも、同じエデッセ町民であったアシナという人などは、現在でも歌われている属神的讃歌を書き上げた御仁だったのだが、のちのち高尚な生活を送るようになり、愚かにも苦行を極めて栄誉を得ようとした。すると、悪魔が近寄ってきた。「さあ、立ち上がってそこを出よ」と唆されるがまま僧房を出、ストリイという高い山のてっぺんに昇り、悪魔の口説く声を耳にしたのである。見ると、馬をつけた馬車の像が目の前にあるではないか。「そう、おぬしをイリヤのように天に挙げるために、神から遣わされてきたのだ」という。アシナは赤ん坊のような知性でその嘘を信じこみ、つい馬車に足を掛けた。その途端、これまで見ていた幻想がすっかり消え失せて、高い山の頂上から地上へ落ち、笑うにも泣くにも情けない死に方で亡くなったのである。

なにも、意味もなくこんな話をしているわけではない。むしろ悪鬼がいかに聖人の滅びを欲し、ひどい罠をこしらえていることか、その点を認識しておくことにより、時期尚早に高度な知的生活を望まないようにするためだ。でないと、凶悪な敵の笑い物になってしまう。というのも、現在でも慾にまみれた若造が恐れ気もなく無駄口を叩いて、無慾の奥義について教えを垂れたりしているからである。

慾にまみれた輩が人間の天使性を探究するのは、病人が健康について講釈を垂れているのと変わらない。これについては次のように述べた聖人がいる。

「あるところに、慾にまみれたまま戒めを軽んじている弟子たちがいた。しかも心の清い者しか得られない至福や神秘的観照まで渇望しているというため、使徒パウェルは次のように言った。「まずは慾にまみれた古い人を脱ぎ捨てよ。その上で、生まれ変わって新しい人を着、奥義を学んで造物主に近づかせてくださいと乞え(コロサイ 3 : 9~10)。いくら使徒たちが恩寵によって奥義を観たからといって、それを渇望してはいけない。なぜならば、神は『その欲するところの者を憐れみ、その欲するところの者を頑なに』されるからだ(ロマ 9 : 18)。御旨には従うしかあるまい。たしかに神からただで授かることもあるが、まずは清めるべく汗を流し、その後で賜をいただくことも多々ある。しかも清めきっても現世では与えられず、しかるべき場所(天国)に行った後で観照に与ることもあるのだ」と。

何も「観照」とまで言わずとも、同じようなことが「罪の赦し」においても生じているではないか。洗礼時にはただで罪を赦され、信仰以外には何も神に要求されないが、受洗後に罪を痛悔する時はただでは赦されず、とことん悲しんで苦労し、心を砕いて涙し、泣きつづけたあとで赦されるからである。強盗は十字架上でひとこと信仰告白しただけで赦され、天国に入るという約束を受けた。罪女も信仰をもって涙を流しただけで充分であった。いっぽう致命者や表信者は心からの信仰だけではなく、困苦・苛責・拷問・苦悶・死という死を甘受するよう求められたのである。

というわけで、聖なる兄よ。以上の話に合点がいき、そういう方向で生きようと心を決めたならば、事の一部始終を見渡して、まだ観照すべきでない身のうちは観照を求めたりするなかれ。むしろこの体をまとっているうちは必死に痛悔して慾と闘い、我慢強く戒めを守り、とにかく悪鬼の笑い物とならないよう注意せよ。また、この移ろいゆく慾深き世において「変わらぬ完全性がある」などと口説いてくる輩に気をつけよ。

そんな完全性は天使にさえ与えられていないのだ。天使らは、神父かみちちや聖神に仕える身でありながらも完全性を与えられておらず、むしろ人類の成聖によって一新し、「敗壊の奴どより解かれて、神の諸子の光栄の自由に入らんこと」(ロマ 8 : 19, 21)を待ち望んでいるのである。そもそも太陽が昇っては雲間をおよいで沈むようなこの地上において、完全性など有り得ようか。だいたい雨が降ったり降らなかったり、人が喜んだり悲しんだりしているようなこの地上において、いかなる完全性が有り得ようか。この観点に異論をはさむ連中は思想上の狼だ、と言った師父がいるくらいだ。願わくは神が、われわれの生活を真の確信と聖なる教えによってどっしり固めてくださいますように。光栄と国と栄華はその神に帰す、いまもいつも世々に終わりなく。アミン。

第56訓話 神への愛について。世を断ち、神のうちに憩うことについて

神を愛する霊たましいは、ただ神のうちにのみ憩う。まずは外界とのあらゆる縁を切れ。そうすれば心が神とつながることができる。というのは、物質的なものを断たないことには神とつながることはできないからだ。どの赤子も卒乳してはじめてパンを口にできる。それと同じように、人はちょうど赤子が抱っこや母乳から離れるようにまず世から離れなければ神において成長できない。アダムだって土で形づくられたのちに霊たましいを吹き込まれた。それと同じように、人は身体的修行を積んだのちに霊的修行に入ることができる。身体的修行を積んでおかなければ霊的修行に入ることはできない。なぜなら麦の粒を蒔いてはじめて麦の穂がなるように、身体的修行を積んではじめて霊的修行が芽生えるからである。霊的修行に入れなければ、属神的賜物に与ることなどできない。

たとい真実のために苦しんだとしても、善のために苦難を耐えるのであればやがて比類なき楽しみが与えられる。涙を流して種をまけば喜びの穂を刈るように(聖詠 125 : 5, 6 参照)、神のために苦痛に耐えるならば喜びが待っている。ちょうど農夫が汗を流して収穫したパンをおいしく感じるように、心はハリストスの知恵を得ると正義のために喜んで修行できるようになる。善意をもって非難や卑下に耐え、神の前で大胆さを得よ。相手に不正をしていないのに暴言を浴びてそれに賢く耐えているとき、茨の冠を被らされているようなものだ。しかも予期せぬうちに不朽の冠も被ることになるので幸いである。

思慮深く空しい栄誉を避ける者は、霊たましいのなかで来世を感じ取っている。世を捨てたと公言しておきながら欠乏時に他人と言い争ってまで自分を満たそうとする者は、何も見えていない。進んで全財産を捨てたはずなのに、たった一銭のためにしつこく闘っているようなものだからだ。現世にて安息を避ける者は、すでに知性で来世を見ている。でも物欲に縛られているならば慾の奴隷である。単に金銀を入手することが物欲だと思ってはならない。何であれどうしてもそれを欲しいと思うとき、それが物欲なのである。いくら体で苦行していても感覚のままに生きている者を敬うな。つまり何でも聞きたがったりしゃべりたがったり、あれもこれも見たがる者のことだ。慈善行為によって救いの道を歩もうと心に決めたのならば、たとえば「これだけは絶対に赦せない」とか言ってその赦せない口実を探したりするな。右手で作っていても左手で壊しては意味がない。慈善とは、心を痛めることだけではない。心を広く持つことも、慈善なのである。心得ておきたいのは、自分に罪を犯した相手を赦すことも正義の業であるということだ。自分に罪を犯した相手を赦すことができたとき、明鏡止水の心境になるだろう。ただしそういう心境になれるのは、ひとえに「理不尽だ」と言いたくなる公正感をしのいで、万事に対して「なるがままになれ」と懐を大きく持ったときに限られる。

ある聖人は、公正感について次のように言った。「あくまで公正でなければ、いくら喜捨をしても意味がない。つまりせっせと苦労して入手したものの中から他人にあげるべきで、偽ったり第三者から分捕ったりした品物で憐れんでも意味がない」と。さらに違う箇所でこうも述べた。「貧者に施すのであれば、自分の持ち物の中から施せ。万が一、他者の持ち物を拝借して施そうかと思いついたときには、それほど苦々しい毒麦もないことを心得よ」と。どれもおっしゃるとおりなのだが、そこをあえて言うならば、じつは公正感を踏み越えないうちは真に憐れんでいるとは言えないのである。つまり、人はただ自分の持ち物から施すときだけ憐れんでいるのではなく、理不尽な仕打ちを甘受して相手を赦すとき、真に憐れんでいるのである。憐れむあまり公正感を乗り越えるとき、お決まりどおり義人の冠を戴くというよりは、福音に生きた完徳者の冠を戴くことになる。というのは、「自分の持ち物から貧者に施せ。裸の者に着せよ。隣人を自分のごとく愛せ。侮るな、嘘をつくな」といった事柄は、しょせん旧約の掟にすぎないからだ。福音書は「およそなんじに求むる者には与え、なんじの物を取る者には、またこれを促すなかれ」と命じ、どうすれば完徳に至るか示している(ルカ 6 : 30)。よって、物などを掠め取られても喜んで耐え、兄弟のためとあらば生命をも捨てること。これこそ慈悲深さなのだ。喜捨をして兄弟を憐れむ行為だけが慈悲深いわけではない。そのうえ兄弟の悲しむ姿を見聞きして心を痛めることも慈悲深い行為であり、かつ兄弟に殴られても不躾にやり返さないこと、やり返して相手を悲しませないことも慈悲深さなのである。

なるべく儆醒して、隣人を慰められる人になれ。黙修して読書し、心の目でつねに神の奇蹟を仰ぎ見よ。我慢強く貧困を愛し、思いをあちこち馳せずに集中せよ。快適すぎることを忌み嫌い、思考を穏やかに保て。内なる静寂を浪費しないために大人数と関わらず、ただ霊たましいのことだけを慮れ。貞潔であることを愛し、神の前で祈るときに恥をかかずに済むようにせよ。できるだけ清く行動し、祈るなり明るく死を思って喜べるようにせよ。小さな罪を犯さないよう目を配り、大きな罪に陥らないようにせよ。だらだら修行するな。そんな風に生活していれば、友達と会った時に恥をかいてしまうだろう。友達と会った時、来世に持参できる徳がないと分かれば、ひとりだけ置いてけぼりにされてしまう。身の程をわきまえて修行し、めくらめっぽう修行しすぎて全部放棄する羽目に陥らないようにせよ。息あるうちに自由を得、慾の嵐から解放されよ。おのれの自由を快感につながるものに用いるな。奴隷らの奴隷にならないためだ。好んで貧しい服を身につけ、図に乗らないようにせよ。

派手なものを好む者は、謙遜の思いを抱くことができない。なぜなら人は身の振りにあった心境を持つものだからだ。

いかにして、べらべらしゃべりながら心を清められようか。また、一躍有名になるつもりでへりくだった想いを持てようか。また、身を持ち崩すほど我慢できないくせに心を清めて謙遜になれようか。人は快感を追い求めていると、ケダモノのように考えるようになる。しかし知的探求に邁進していれば、天使のように感じるようになる。

へりくだっていれば、辛抱強く自制できるようになる。だが見栄を張っていれば淫らになって開き直ってしまう。へりくだっていれば、たゆまぬ自制のおかげで観照するようになり、心を貞潔にする。だが見栄を張っていれば、いつもそわそわしているせいで目にするすべてから卑猥な宝を集めて心を汚す。そうやって良からぬ目線で自然の事物を眺め、妄想にふけってしまうのだ。しかし、へりくだっていれば属神的観照で自分を切り詰め、謙遜に達するなり讃美せずにいられなくなるだろう。

たとい奇跡を起こして世間を騒がせる者がいたとしても、知恵深い黙修者と比べるな。乞食を満腹にしたり多民族に布教したりすることよりも、無為な黙修の方を好め。奴隷らを隷属状態から解放することよりも、自分自身を罪の枷から解放する方がましだ。言い争う連中に教えを垂れて和解させることよりも、自分の霊たましいと和解して三重(つまり体、霊たましい、神゜)の思いを一つにまとめあげた方が良い。聖グリゴリイも「神のために神学を極めるのは良いことだ。だが、それよりも神のために自分自身を清めるほうが優れている」と述べた。たとい経験豊かな知恵者であろうとも、すらすら教えるよりは口ごもる方がましだ。死者を復活させることよりも、慾に死んだ自分の霊たましいを神聖な想念で復活させた方がましだ。

多くの者が奇跡を行なって死者を甦らせ、迷える人々を熱心に啓蒙して偉大な奇跡を成しとげた。そのおかげで神を知った人々も増えたのだが、なんとそうやって他者を生き返らせた後で、ひどく忌むべき慾に陥って自分自身をダメにし、背徳が暴かれるなり人々のつまずきの石となってしまった。なぜならば、まだ霊たましいが病んでいるというのに霊たましいの健康を慮らず、この世の海に入って他人の霊たましいを癒そうとしたからである。しかし失敗し、へりくだって神に立ち直ろうとする気まで失ってしまった。まだ感じやすかったため、慾の炎に襲われたときに耐えうる力がなかったからである。本来ならば、まだ自分自身を守っているべきだったのだ。つまり一切女を目に入れず、楽な暮らしをせず、貴金属などの品物を手に入れず、人の上に立ったり指導したりしないようにすべきだったのである。

言い返さなければ無学な奴だと思われようが、不遜にも熱弁をふるって賢者と思われるよりはましである。へりくだるがゆえに不弁者であれ。あけすけに学識を見せつけるな。教えに歯向かってくる輩には、論理で畳みかけずに徳の力で説き伏せよ。反論してくる恥知らずには、温かい言葉で穏やかにさえぎって口をつぐませよ。だらしない輩には高尚な暮らしぶりで自制心がないことを気づかせ、無神経な連中の前では目を伏せて厚かましいことを感づかせよ。

生涯にわたってどこへ行こうと自分を旅人だと思え。そうすれば気心知れた仲から生じる害を防ぐことができる。どんなときにも自分は何ひとつ知らぬ者だと思え。そうすれば、他人の意見を変えようとしているのではないかという疑いからくる非難を避けられる。口を開くたびに祝福していれば、悪く言う人はいなくなる。悪口からは悪口が生まれ、祝福からは祝福が生まれるからだ。何事においても人様を教えられる分際ではないと自覚していれば、一生賢くあれるだろう。自分で身につけていない事柄を他人に教えるな。生きざまを見られたときに嘘がばれて赤っ恥をかかないためだ。有益な話をすることになったときには、不遜にも権威をもって語るのではなく、自分自身も学習中の身として語れ。そして冒頭から自分を責めて相手よりも至らぬ身であることを示し、つつましく礼儀正しく聴き手に対して向き合うことだ。そうすれば相手としてもこちらの話を最後まで聴いて実践しようという気になるし、敬意をもって聴き入れてもらえるだろう。もしそのような場面で涙まで流して話すことができれば、相手にも自分にも益をもたらして神の恩寵を受けるだろう。

神の恩寵を受けて属神的知恵の初期段階に至ったのであれば、つまり、神の裁定や目にみえる受造物の宿命を悟るようになったのであれば、身を引き締めて悪鬼の攻撃にやられないように武装せよ。そして、たちどころに放たれてくる矢や魅惑にやられて身を滅ぼしてしまわぬよう、その国にて丸腰のままぼうっと突っ立っていてはならない。涙と、絶え間ない斎こそ武器になる。異端の書は読まないようにせよ。誹謗してくる悪鬼の思うつぼだからだ。たらふく食べた後に神聖な概念や事物をあれこれ研究するのは不遜にも程がある。そんなことをすれば後悔してもしきれない。満腹の身では神の奥義を悟れないことをよくよく弁えておけ。なるべく腹を満たさないようにしながら師父の書を読んで神の摂理を学ぶことだ。師父の書を読めば、受造物や神の業がいかに調和しているか目の当たりにして知力が増し、その高雅な教えのおかげで明るく考えられるようになる。そして、清らかに神の受造物を理解できるようになる。全宇宙を知るために神から授かった福音書を読め。そうすれば何事にも神の摂理の力が働いていることを知って元気づき、神の奇蹟を思いめぐらすようになるだろう。かような読書は修道士の助けとなる。気を散らす物事のない静けさの中で読書せよ。そして体に関することや生活の雑用をすべて忘れよ。そうすれば書物の奥義を掴んで得も言えぬ甘美を味わい、その悦びのうちに読み続けられるだろう。使徒や師父の書き残した言葉を、聖書で儲ける連中の言いぐさや偽善者の放言と同列に捉えてはならない。そんなふうに捉えていたら死ぬまで闇に閉じ込められたまま聖書や師父の書から益を得られないだけでなく、霊的な戦闘時にも混乱し、問題ないと思いつつ穴に落ちてしまうからである。

何にせよ洞察しようと思い立ったときには、内部に入っていく兆候として次の現象があることを弁えておけ。恩寵のおかげで「本当にそれがそうあること」を見抜き始めたときには、いきなり涙が川のように流れ出して一度ならず頬をつたうだろう。すると感覚も鎮まって闘うまでもなくなるだろう。もしこれに反する教えを垂れる者がいたとしても信じるな。涙以外に目に見える兆候を探してはならない。ただし、知性がとうとう受造物を超越しきってしまったときには、涙も止まってどんな興奮も感触も感じなくなる。

「蜂蜜を見つけたら欲しいだけ食べるがよい。しかし食べ過ぎて吐き出すことにならぬように」(箴言 25 : 16)という戒めがある。霊たましいはもともと動きやすくて軽いため、感動しては本性を超えた高みに昇り、そこにあるものを知りたくなったりする。それに聖書を読んでいたり事物を見つめたりしているときに何かを悟ることも稀ではない。そして何かを悟った時、その悟ったことと自分自身を見比べて、属神的知恵の及ぶかぎり捉えたことに対して自分がいかに卑小な存在であることか気づく。すると畏れ多さのあまり震えおののき、かくも高尚な属神的事柄に触れてしまった身分を恥じ、もとの無能であった状態へ戻ろうとするのだ。そして属神的に受けた暗示を畏れて慎しくなり、冷徹に判断して霊たましいを黙らせる道を学ぶ。不遜にも自分を超えた事柄を探したり試したりするな、身を滅ぼすのが関の山だ、ということを学ぶのである。ゆえに、悟ることができたときには悟りなさい。ただし厚かましく奥義に触れてはならない。むしろ首を垂れ、黙ったまま讃美して神に感謝せよ。蜂蜜を食べすぎると良くないと言われているように、土足のまま聖書の奥義を研究してやれと身を乗り出す態度は良くない。そんなふうに手の届かない事柄を見抜こうとしたりすれば、道が険しいので目的地に近づく前に力尽きて、すっかり盲目になりかねないからである。

というのは、ときどき実在するものの代わりに幻想を見ることがあるではないか。そしてそういう事柄を知的探求しているうちに疲れきって落胆し、もともと目指していたものすら見失ってしまったりするではないか。だからこそ、ソロモンはいみじくも「侵略されて城壁の滅びた町。自分の霊を制しえない人」(箴言 25 : 28)とすっぱ抜いたのである。というわけで、人間たるもの、霊たましいを清めるに尽きる。与えられた本性以外のことまで思いめぐらしたりせず、思いも身のこなしも貞潔にしてへりくだり、もとからある本性を見出すことだ。なぜなら奥義というものは、へりくだることによって啓かれるからである。

祈りに没頭して知性を清めたいとか、儆醒して明るい理性を得たいと思うならば、世間を見ないようにして人々との会話を断つことだ。そして奥義を分かち合える同志以外には、いくらためになる気がしても友達を僧房に入れないという習慣を持て。とにかく内面の対話を乱さぬようにせよ。ふつう内面の対話は始めようとして始まるものではなく、むしろ外側の会話をすっかり断ち切って一人きりになったときに生じるものだからである。祈りに喜捨を加えれば、真実の光を見るだろう。というのも外側のことを心配しなくなればなるほど、思想を解釈して神聖な事柄を悟り、驚嘆することができるからである。なにせ少しでも努力をすれば、大抵はまたたく間に(人との対話を、神や神の言葉との対話に)交換できるからである。人との対話を神との対話に切り替えるには、聖書を読んだり聖人伝を読んだりして、ささやかに観照の道を見つけるとよい。もちろん最初のうちは物質の近くにいるせいでなかなか甘美を味わるものではないが、徐々に味わえるようになるだろう。

そのようにしていると、祈りや祈祷規程に向かった瞬間に世の中で見聞きしたことの代わりに聖書で読んだ事柄が思い出され、思いめぐらしているうちに世の中の記憶が薄れ、知性が浄められてゆくのである。「読書していると祈りやすくなる。そして祈ることで、よりよく書物を理解できる」と述べたのはこのことだ。つまり外側に振り回されやすい知性は、読書を糧とすることでいかなる祈りにも向かいやすくなり、霊たましいを照らしてつねに迷いなく熱心に祈れるようになるのである。

大食漢がふくれた腹を撫でながら属神的事柄の研究に乗り出すのは、まさに淫婦が貞潔について講釈を垂れるようなものだ。病みきった体では栄養たっぷりの食事を飲みこめないように、世の中のことでいっぱいになった頭では神聖なことなど究めようがない。薪だって湿ってしまえば火がつかないように、心もくつろぎたいと思っているうちは神聖な熱心に奮い立つことなどできない。淫婦が一人だけを愛しつづけられないのと同じように、霊たましいもいろいろな事物に執着しているうちは神の教えを守りきれない。太陽を目で見たことのない人が、聞きかじっただけで日光について描写したりその眩しさを感じたりすることができないのと同じように、霊たましいで属神的事柄の甘美を味わったことのない者は、属神的事柄について描写することも感じとることもできやしない。

日用の糧以上のものを持っているならば、思いきってそれを貧者に施してから潔く祈りを献じに行け。父と語らうようにして神と対話するためだ。喜捨よりも強く心を神に近づけられるものはない。しかもすすんで貧しくなることよりも豊かに、知性に静けさをもたらすものもない。素直なせいで無学な奴だと思われた方が、おもねってなかなかの賢人だと思われるよりもましだ。もし馬上の人が喜捨を求めて手を伸ばしてきたら背を向けるな。なぜならその瞬間、その人は間違いなく乞食と同じように困っているからだ。

喜捨するときには優しい表情で心あたたかく、ほしいと言われた分よりも多くあげよ。というのも「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見だすだろう」(コヘレト 11 : 1)と言われているからだ。その相手が富者なのか貧者なのか見分けず、はたして喜捨に値するかどうか等いちいち詮索しないことだ。どの人にも同じように情けをかけるがよい。というのも、そうすればこそ不届きな者も善の方へ引き寄せることができるし、そもそも身体的な事柄をとおして神の畏れを抱きやすいものが心というものだからである。現に主も、税吏や淫婦と共に食事をし、不届きな者を退けはしなかったではないか。そのおかげで多くの人が神に惹かれて畏れを抱き、身体的なことをとおして属神的なことへ心が向かったのである。したがって相手がイウデヤ人なのか浮気者なのか殺人犯なのか問うな。もともと同じ本性をもった兄弟なのに知恵が足りなくて真実から逸れてしまっただけではないか。とにかく万人にひとしく慈善をなして、一人一人を敬うことだ。

他人に善をなすときに報いを求めてはならない。神が二倍にして返してくれるだろう。そしてできれば来世で報われたいとか思わずに善をなせ。もし命がけで清貧に徹するぞと決めたのであれば、しかも恩寵によって清貧になって世を超えて慮りから解かれたのであれば、清貧を愛しきることだ。そして喜捨するために何かを入手したいなどと思わないことだ。そうやって人から何かをもらって他の人に与えようと思いわずらい、霊たましいを乱してはならない。他人に何かを求めた以上は借りができてしまうだろう。そんなことをして自分の誇りを踏みにじるな。生きていく上での雑用を心配したせいで高貴な知性にある自由を失ってはらない。なぜなら清貧に徹するぞと決めたあなたの水準は、喜捨をするという水準よりも上だからだ。水準を下げてはいけない。どうか、借りをもたない人であれ。

慈善行為をするということは、幼児教育を受けるようなものだ。しかし黙修するということは、完徳の頂点にある。もし何か持っているのであれば、一挙にすべて使い切ってしまいなさい。もし何も持っていないのであれば、持ちたがってはならない。贅沢とか余計なものから僧房を浄めることだ。そうすればその気がなくても知らず知らずのうちに自制できるようになるだろう。物が足りなければ自制することを学ぶが、物が増えるままにしておけば自制できなくなってしまう。

黙修者たちは、外部との関係を断つことで安心を得たため、つねに落ち着いて感受したり表現したりできるようになった。いっぽう気の緩んだ者は、何を聴くにしても語るにしても、つねに外部とやり取りする際に感覚的に闘わざるを得ない。しかも外部と関わったときにうけた残像によって心眼が曇ってしまう。すると、隠れた部分で抗ってくる闘いを見抜くことができなくなり、内面に生じる動乱を鎮める平穏さを失くしてしまうのだ。しかし町の門さえ閉じることができれば、つまり感覚を閉ざすことさえできれば、内面の闘いだけに終始できるため、町の外でどんな敵が待ち伏せしていようが恐れるまでもなくなる。

右の点を弁えて、黙修に留まる者は幸いである。忙殺されることなく黙修に徹し、いかなる身体的活動もすべて祈りに献げる者は幸いだ。まさに「昼も夜も神の力を借りて慮りを神に預けていれば、必要最小限のことは事欠かないだろう」と信じきった者は幸いだ。ひたすら神のために、仕事に励むことから身を引いて覚醒しているからである。手仕事をしていないと黙修に留まれないのであれば働くがよい。ただし儲けたいとかあれこれ欲しくて働くのではなく、ひとえに黙修の手段として手仕事を活かすことだ。手仕事は、まだ至らない者のためにある。だがより完全に近づいた者にとっては、手仕事は困惑をもたらすことがある。そもそも師父は初心者や臆病者のことをおもんぱかって仕事せよと指示したが、仕事すべきだと教えたわけではない。

神に与えられて心に傷感の情が湧いたときは、ひたすら叩拝して跪いて祈れ。悪鬼に何か他のことをしろと口説かれても聞く耳を持つな。そうやってまっすぐ集中していれば何を見ることになるのか、とくと見届けて感嘆するがよい。修行においては昼夜両手を後ろに縛り、ハリストスの十字架の前に伏していることほど意味深く難しい業はない。これほど強く悪霊に嫉妬心を催させる業もない。熱意を失わず涙が涸れないようにしたければ、右の業に励むことだ。もし昼夜この業だけに励んでそれ以外のことを一切求めずにいられれば、それほど幸福な人間もいないだろう。ほどなく内面に光が輝いて、胸に秘めてきた正義が光り出すに違いない。そして満開の花園のごとく、水の涸れることない泉のごとくなることだろう。

かくして、修行をするといかなる恵みが与えられるか分かっただろうか。人が跪いて両手を天に挙げ、ハリストスの十字架を見上げながら思いを集中し、涙を流して傷感のうちに神に祈っているとどうなるか。まさに次のような現象が起こる。ふいに泉が湧き出たように心地良くなり、体の力が抜けて瞼を閉じ、顔を地面につけて今までとは違うように思いめぐらすようになるのだ。そして全身を貫く喜びのあまり叩拝することもできなくなる。人間よ、いま読んでいる事柄に注意せよ。というのも、修行をしなければこういう事柄は得られないからである。そしてたえず勢いよく熱心に扉を叩きつづけていなければ、聴き入れてもらえないからである。

このような話を聞いて、なおも外側の正義を求める人がいるだろうか。いるとしたら、それは黙修に留まれない者だけであろう。もっとも黙修できない者であろうとも(なぜなら人が僧房内に留まれるのは神の恩寵だから)、もう一つの道を捨てないようにしよう。もう一つの道を捨てたりしたら、生命に至る道を二つとも、つまり観照の道はおろか実践の道まで失ってしまうからだ。人は外面のすべてに対して、つまり罪だけではなく、あらゆる体の業に対して死ななければ、聖神の甘美を感じることはない。おなじく内面にうごめく邪念を撲滅しなければ、つまり心が罪を甘く感じなくなるほど体の本能的動きを弱めきることができなければ、死ぬまでに清さを得ることはない。死ぬまでに清さを得られなければ、とうぜん霊たましいは神聖な考えを受けることも、感じることも、見ることもできないままになってしまう。要するに暮らしに関する必要最小限のこと以外の心配事をことごとく捨て、そういう慮りをすべて神の采配に委ねきらないかぎり、属神的陶酔が起こることも、使徒が味わったあの慰めを味わうこともできない、ということなのである(ガラティヤ 2 : 20, コリンフ後 12 : 3~4 参照)。

とは言ってみたものの、まさか完徳の頂点に至らない者は神の恩寵にも慰めにも与れない、などと言おうとしたわけではない。現に罪をかなぐり捨て、罪から遠く離れて善に向かった途端、ほどなく助けられたという感じがするではないか。その感じに努力を加えることができれば霊的慰安を得、罪が赦されて恩寵に与って恵みもたくさん得られるではないか。ただしそういう恵みは所詮、世を離れて来世の福の奥義を観た者の恵みとは比べようがないということ、ハリストスが求めた心境に達した者の恵みとは比べようがないということを言いたかっただけである。光栄はそのハリストスと父と聖神に帰す。いまもいつも世々に、アミン。

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Опубликовано пользователем: Rodion Vlasov
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