ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも出てくる名著。全文の邦訳は明治以来初、現代日本人に読みやすく訳しました。 至聖三者セルギイ大修道院で発行された最新版(2019年版)を底本としています。
第1訓話 世を捨てることと修道生活について
神を畏れることは、徳の始まりである。神を畏れる心は信仰の産物といわれ、世の中のことをあれこれ考えず、ただ来たる復活のことだけを考えるようになったときに芽生えてくる。
もし徳の土台を据えたいならば、いちばん良いのは世の務めを離れて光の法に向き合うことだ。つまり聖神が聖詠者ダヴィドをとおして名づけた「聖なる義の道」を学ぶことだ(聖詠 22 : 3, 118 : 35)。どだい人間なんぞ、たとい天使のような心の持ち主でさえ名誉を受けた途端にぐらついてしまう。どうもころころ変わりやすく生まれついていることが原因らしい。
さて、いかにして救いに至る道を踏み出してゆこうか。いつも神の言葉を学ぶこと、そして清貧に暮らすに尽きる。この二点には相乗効果がある。神の言葉に没頭していればたやすく貧しくなれるし、貧しい暮らしに慣れれば神の言葉を学ぶ余暇が増える。この二点を両立させれば、あっという間に徳の家を築き上げることができるだろう。
そもそも世を離れずして神に近づける者などいない。「世を離れる」とは、体から離脱せよと言っているのではなく、世の務めから遠ざかれという意味である。世の諸事で頭をいっぱいにしないこと、ここに徳がある。まだ外部の物事に気を取られているうちは、夢見がちな心を鎮めにくい。荒野で暮らさなければ体の慾も収まらず、邪念も枯渇することがない。要は、精魂を傾けて神を信じきった陶酔に至れるかどうかだ。ただ、この「神を信じきった陶酔」に至る日までは、どうしても感じやすい性質が治っていないので、つい目に見える物に気を奪われてなかなか内面に向かえない。ゆえに理性の指令どおりに動けず、慾の罠に絡まったまま「自由」を感じられないのである。したがって、こう言いきれるだろう。世を離れず(初級)して、神を信じきった陶酔(中級)など味わえない。ひとえに神を信じきって正しく陶酔できたとき、はじめて自由を操れるようになるのである(上級)。
人は豊かに恩寵に恵まれると、正しくあろうとするあまり死を恐れてなんぞいられなくなり、ここはいかに辛くとも神を畏れて耐えるべきだと思える理由を次々と見出す。そして体の負傷や自然災害でさえ取るに足らぬものとみなすようになる。将来に桁違いのものを望んでいるからだ。だいたい試練を受けずして真実を知ることなどできない。真実を知る道において試練が欠かせないことは、とくに神に身を捧げて迫害に耐えた人々を見ればよく分かる。現にわれわれがこうして生きているのも、ひとえに神の偉大な摂理のおかげであり、誰一人として摂理に導かれていない人などいないではないか。だからこそ、どんなつらい目に遭ったとしても真実を知るために耐えるべきなのである。
ところが、恩寵を得られなくなると、右記したことはすべてほぼ真逆の形で現れてくる。つまり研究を重ねて信仰よりも知識を増やすようになり、もはやすっかり神に期待することなどできなくなり、神の摂理も違う風に捉えるようになる。すると「闇に矢を放つ輩」(聖詠10 : 2参照)の陰謀に嵌まって、神の摂理を信じられずに苛まされることになる。
真の人生は、神を畏れることから始まる。ところが、あれこれ世俗のことを思いめぐらしているうちは神を畏れることができない。気が散っているようでは神を知る楽しみを味わえないからだ。というのも、何かを思いめぐらそうとするときに内へ向かうべき思考が外へ向かっていると、どうしても外の方へ引っ張られてしまうからである。
疑念を抱けば怖気づく。だが、信仰を持てば四肢を切られても揺らがないほど意志が強まる。肉体を愛する気持ちが強ければ強いほど、その愛する肉体を四方から攻めてくるものに対して大胆に立ち向かうことなどできまい。
名誉を求めているうちは、あれこれ思うようにいかずがっかりする。人は置かれた状況が変わっただけで、取り組んできたことが従来とは違って見えてくるものだ。もし「感覚をとおして欲望が生じる」と言われているとおりであるならば、遊興に身を委ねたまま冷徹に考えうるなどと豪語する輩は口をつぐむがよい。
貞潔な人というのは、苦行中に下品な想念が止むようになったと公言する人のことではない。むしろ心底から心眼を清め、ふしだらな想念を厚かましく覗きこまなくなった人のことを指す。そして、どれほど誠実に物事を見てきたかという点で良心が痛まなくなったとき、想念の至聖所に恥じらいという幕が掛かって淫らな思いを遮断するようになる。こうして貞潔な処女のごとく、ハリストスへの信仰でもって心身を汚さないようにするのだ。
かつて心を奪われたふしだらなものへの愛着を断ち、肉体に湧く乱れた思い出から遠ざかって炎の渦を逃れたければ、聖書をこよなく愛して学び、聖書の深い考えを悟ろうとすることほどためになるものはない。頭が聖句に秘められた叡智を悟る楽しみでいっぱいになると、聖句から理解を汲み取った分だけ世から離れていく。すると世に関する記憶も薄れ、生々しい具体的な形状も忘れ、思い出も心の中からどんどん消えてゆく。生理現象としてやってくる想念さえ消してしまうことも稀ではない。なにせ聖書という神秘の海の中を泳いでいるので、次々と新しいことを見出しては胸を躍らせているからである。
それどころか、たとい知性が水面を泳ぐだけであったとしても、つまり聖書という海の表面に触れるだけで根底の考えまでは悟れず、根底に秘められた宝をすべて捉えきれなかったとしても、その行為自体、すなわち聖書を理解しようと必死に頭を働かせていたこと自体が、すでに想念を縛りつけておくのに十分なのだ。それは、誘惑にやられて邪念に打ち負かされている惨状であっても変わらない。「体の慾を満たしたくなる気持ちを抑えるには、聖書の驚嘆すべき奇蹟をちょっとでも思い出せば足りる」と、ある捧神者が述べたとおりである。もはや心得ているでしょう。邪念というやつがどれほどやりきれないものか。要するに、心というものは知恵で満たしておかないと、体の欲求の嵐に耐えきれないのだ。
そう、天秤に重いおもりを載せておくと嵐の中でも揺れにくくなるように、心にも「恥じらい」と「畏れ」という重りを載せておけば揺れにくくなる。心というものは「恥じらい」と「畏れ」という重りが足りなければ足りないほど飛び回りたくなり、心という天秤は畏れを失えば失うほど空っぽになってふわふわ揺れ動く。しかし天秤にどっしりした重荷を置いておけば風に吹かれてもたやすく揺れることがないように、心にも「畏れ」と「恥じらい」という重荷を置いておけば篩ふるいにかけられてもそう簡単には揺れない。他方、畏れを失えば失うほど、たやすく思いが乱れて気移りするようになる。だからこそ、こう進んでゆこうと決めたその道の礎に、神を畏れる心を置いて賢く歩め。そうすれば数日もしないうちに、道に迷うことなく天国の門前に立っている自分に気づくだろう。
聖なる書物を読むときには、つねに言葉に込められた目的を探し当てよ。聖人の深い考えを洞察し、その考えをきっちり正しく理解するためである。神の恩寵に導かれて生活していれば、頭脳が明晰になるにつれて感じ取れるものがある。まるで光のようなものが文面に差し込んできて、いかにそれが霊的本質をうがった意味深長な文章であるか見えてくるのだ。霊たましいでうまく悟ったときに得られる聖なる力も楽しみも得られない。
およそ万物はおのれに近いものに引かれてゆく。だから聖神の恩寵に多少なりとも与っている者は、属神力を秘めた話を耳にするなりその内容を熱心に取り込もうとする。だが偉大な力を秘めた属神的な話は、だれもが聞いて驚嘆できるような代物ではない。心を世から離さなければ、徳に関する話は聴けたものではない。過ぎ去る事柄に振り回されて忙しいうちは、せっかく徳を目の前にしても愛し求めて身につける気になれない。
まずは物質を断たなければ、神と結ばれることはない。むろん万物を司るお方の恩寵のおかげで、物質を断つ前に神に結ばれることもある。なにせ神を愛するなり物質に惹かれなくなるからそうなるわけだが、それは恩寵が先に降ってきた場合の話であって、人類共通の順序とは異なる。われわれとしては人類共通の順序を守ったほうがよい。万が一、恩寵が先に降ってきたとしたら、それは恩寵の自由だ。もしも恩寵が先に降ってこないのであれば、先人たちが歩んだ道にそって属神の塔の高みへ登ってゆこうではないか。
思いの戒めを守っていても、その様子は何ひとつ肉眼には見えてこない。しかし、実践の戒めを守るときには、領域をまたがるようにして守ることになる。なぜなら「○○を行なうべし」という戒めは、じつは目に見える領域と目に見えない領域にまたがっており、「思い」と「行動」の両領域で同時に行なう必要があるからだ。そもそも思いと行動は、表裏一体のものだからである。
どんなに清くあろうと励んでいても、犯した罪を思い出すたびにざわつく感情を抑えることはできない。しかし犯した罪を思い出すなり悲痛が胸を貫くのなら、その痛みは賢慮から来たものだ。そしてそう胸が痛むようになった時から、罪を思い出すことが知恵を深めるのに役立つようになる。つまり、何が何でも徳を身につけたいと思っていれば、その思いは身体的欲求よりも強い渇望となるのだ。ただし、何事にも節度というものがある。もしも節度を越えたりしたら、活かせるものでも逆効果となってしまう。
さて、感覚にまどわされない楽しみを感じ、知的に神と交わっていたいだろうか。ならば、施しなさい。喜捨の精神を持てば、かの聖なる美があなたのうちに描き出されて神に似た者となるであろう。施せばこそほどなく霊的に神性に交わり、唯一の光栄なる神性に結びつく。
この神性との属神的一体感は忘れがたく、愛の炎となって心のなかで燃えつづける。そして人性を強いることも人性によることもなく、ただ戒めを守ることによってのみ一体感を保ちつづける。戒めを守っていればこそ、しっかり霊的に観えてくるからである。道理で、肉慾も邪念も断ちきるなり心が躍るわけだ。要するに、何はさておき父が完全であるのと同じくらい気前良くなろうとしなければ、属神的な愛へ至って神に似ることなどできない。まさに主が、主に従う者に対して「まずは施しなさい」と戒めたとおりである(ルカ 6 : 36, マトフェイ 19 : 21, 同 5 : 48参照)。
体験から滲み出た言葉は、饒舌に語りかける言葉とは違う。そう、身をもって体験していなくても、小賢しい麗句を並べて知りもせずに真実を語ることはできる。巷には、徳を体験せずに徳について解説できる人がいる。だが体験から滲み出た言葉が希望をよぶ宝であるのに対し、未体験の事柄をひけらかす賢さなど恥さらしのもとだ。
体験に裏打ちされていない訓話は、ちょうど画家が本物っぽく描きあげた水と同じで人の渇きを癒せない。それは眠りながらすてきな夢を見ているようなものだ。だが身をもって体験した徳を語る人は、まるで苦労して稼いだお金を他人にあげるかのように聞き手に徳を伝えることができる。そして、そのようにして自ら汗水垂らして得た教えを蒔きながら大胆に語り、属神的な教え子を育てていく。まさに年老いたイアコフが貞潔なイオシフに向かって、「お前には兄弟たちよりも多く、わが剣と弓をもってアモリ人の手から取った分け前の一部を与えることにする」(創世記 48 : 22)と言ったとおりである。
清く生きていないから、あるいは善とはどういうものであるか知らないから、この世の人生が愛おしいのである。「人は良心に咎があると、死ぬのが怖くて悲しむものだ」と言った人がいる。じつに言い得て妙ではないか。だが、心に善き証があるならば、生を求めるのと同じくらい死を待ち望むものだ。生き長らえようとしてびくびく怖がっているような人を真の賢者と思うな。肉体に生じることはすべて、良いことも悪いこともたかが夢でしかないと捉えよ。現に、肉体的な良し悪しなんぞ死んだらおさらばするだけでなく、しばしば生きている間にもこの身から遠のいていくではないか。ただ、何にせよ愛着を持ったものが、現世で得た財産として来世まで付いてくる。その財産が何がしか良いものであれば、喜んで神に感謝せよ。もしも悪いものであれば悲しんで嘆き、まだ体の中にいるうちに何とかしてその悪いものから逃れられるようにせよ。
そうする気があったにせよ無かったにせよ、何か善いことができたときにはハリストスを信じて受洗したおかげだと心得よ。われわれは信じて受洗して召し出されたからこそ、ありがたいことに主イイスス・ハリストスの善行へ向かえるのだ。光栄と尊貴と感謝と伏拝は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。
第2訓話 神への感謝について。簡潔に述べた初歩的な教訓を含む
受けとった側が感謝をすれば、与えた側としてはもっと大きな賜を与えたくなるものだ。だいたい小さなものにも感謝できないような者が、大きな物事を正しく忠実に扱えるわけがない。
病人は、病身であることを把握したら治療法を探さなければならない。病んでいる身を自覚すれば治りやすく、治療法も見つけやすい。だが意地を張って強がるのであれば、病は悪化するしかなかろう。いちいち医者の言うことに逆らおうものならば、痛みも倍増せざるを得ない。赦されない罪はただ一つ、犯したくせに悔い改めていない罪だけだ。また、増えない賜もただ一つ、与えられたのに感謝しなかった賜のみである。愚か者の目には、与えられたものがちっぽけなものとしてしか映らない。
自分よりも高徳な人々のことをいつも思い出し、その水準に対してどれほど足りていないか常に省察せよ。また、ひどい目に遭って苦しみを耐えている人々のことを絶えず思い出し、取るに足らない目下の些細な苦難にどう感謝すべきか思い、その与えられた苦難を喜んで耐えられる人となれ。
闘いに負けて落胆したり怠けてしまった時、または敵にやられて重罪の中で苦しんだりする時は、かつての熱意を思い出せ。以前、どれほど何もかも細部まで気を配っていたか、いかなる苦行を見せたか、歩みを妨げてくる力にどれほど激しく逆らったことか。さらに怠けてつまずいたことをどれほど深く嘆いたことか。そしてそういうことを思い出した上で、さらにどうやって勝利の冠を受けたかも思い出せ。なぜなら、そうすることで霊たましいはあたかも深い眠りから醒めて覇気を帯び、まるで死者が起き上がるかのようにどん底から立ち上がって昇り出し、ついには悪魔や罪に対して決戦を挑んで元の地位に戻るからである。
強者でさえ堕落することがあったという史実を思い出し、なにか徳行をした気がしても遜れ。逆に堕落しきってから悔改して見事に栄誉を授かった人々のことも思い出し、勇気を出して悔い改めていくことだ。
自分自身を追及する手をゆるめるな。ゆるめなければ敵は耐えきれずに離れ去るだろう。自分自身と和解せよ。和解すれば天とも地とも和解できるだろう。何とかして自分の内の倉に入れ。そうすれば天の倉を見出すだろう。なぜなら内の倉も天の倉も同じものであり、一方に入れば両方とも見出せるからだ。天国への梯子はわれわれの内、霊たましいの内に秘められている。罪を離れて自分自身の内に潜っていれば、そこに一歩一歩昇りゆく階段を見出すだろう。
聖書は、あの世でどんな福楽が待っているか解き明かさなかった。ただ、恩寵によって天に上げられないかぎり永福など感じとれまい、とだけ教えてくれた。たしかにわれわれが永福を欲するよう、「目いまだ見ず、耳いまだ聞」いたことのないほど途轍もない福楽が天にあると説明してくれたのだが(コリンフ前2 : 9)、むしろそう説明することで、将来の福楽なんぞ理解できるような代物ではなく、この世の福楽とは似ても似つかぬものだと宣言されたのである。
属神的に楽しむということは、人の外側に独立自存している物質を利用して楽しむことではない。でなければ「神の国はなんじらの内にあり」(ルカ17 : 21)とか「なんじの国は来たり」(マトフェイ6 : 10)という聖句が、あろうことか物質的な何かを取り入れて楽しむという意味になってしまう。第一、得るべき財産と担保には類似性がなければならず、全体と各部分には類似性がなければならない以上、属神的な事柄は属神的に感じるしかない。現に「鏡によりて見るがごとく」(コリンフ前13 : 13参照)と書いてあるように、独立自存するもの自体(神の国)は捉えられずとも、それに似たものは得られるはずなのだ。そして、聖書を説き明かした師父の証言どおりであるならば、属神的な手応えを感じたとき、その知的変化が聖神の作用なのである。つまりそのような知的変化こそ、すでにかの全体の一部分をなしているに違いないのだ。
徳を愛するということは、ただ必死に徳を行なうことではない。それどころか、徳行のつらさに耐えることでもなければ、快感の渦中で断固として理性的に善を選ぶことでもない。むしろ徳行の後に降ってくる苦難を喜んで甘受することこそ、徳を愛している姿勢だといえるのである。
高齢になって慾の嵐が収まってから悔いてみせたとしても、そんな後悔にはなんの喜びも褒美も与えられまい。
罪を犯した者を見たら、とばっちりを受けないかぎり庇ってあげよ。庇うことでその人を元気づけ、自分自身に主宰の憐みを呼び寄せるだろう。病人や悲しんでいる人には、手にしている物と言葉でめいっぱい支えよ。そうすれば、万物を治める全能者の御手があなたを支えてくれるだろう。嘆いている人とは、交流して心にかけて祈りつづけよ。そうすれば、あなたの願いに対しても憐みが降り注いでくるだろう。
いつも清らかな思いを抱き、傷感に満ちた心で神に祈るようにせよ。そういう心で祈っていれば、ふしだらな邪念を神に遠ざけてもらえるし、あなたのせいで神の道が非難されるような事にもならない。
つねに聖書を読んで正しく理解しながら、じっくり思索することだ。つい知性が暇を持てあまし、他人の卑しい不品行をみて美意識を汚してしまわないように。
何のこれしきと思う時でさえ、あえてふしだらな想念や惹かれる顔を見つめて理性を試練にかけてはならない。賢者ですら、そうやって理性がくらんで狂ってしまったのだ。炎を懐にかきこんで、肉体が激痛を受けずにいられようか(箴言6 : 27参照)。
青年期には属神的修行の仕方を教わらないと、なかなか聖なる重荷を負えないものだ。どうも奉神礼に出るのも私祈祷を挙げるのもおっくうになったなと感じたときには、それが何よりも知性の暗みはじめた証拠(霊たましいの暗みはじめた兆候)である。というのも、まずはこの点で霊たましいが落ちないかぎり、霊的に惑うことはないからだ。霊たましいは神から離れて神の助けを失うなり、敵の手に落ちやすくなる。
それと同様に、霊たましいは徳への関心が薄らぐや、必ず徳の反対側のものに引き寄せられる。なぜなら、どちら側からにせよ「居場所を移す」ということは、すでに反対側への第一歩だからだ。そもそも徳行とは霊的なものに気を配ることであって、この世のことに気を配ることではない。いつも弱さを痛感しながら神に祈っていれば、ご加護を失って孤立することもなく、よそ者の罠にかかることもない。
十字架は、二通りの背負い方がある。まずは体で背負い、後に心で背負う。これは人間が心と体からできているからである。
初期のうちは、慾と闘って肉体的辛苦を耐えしのぶことになる。体からくる苦痛を耐えしのぶため、その実態どおり「実動」と呼ばれている。
後期には、内面的修行に励んだり神聖なことを思い巡らしたり、祈りつづけたりするようになる。こちらは内から希求するため「観照」と呼ばれている。
初期すなわち「実動」の方は、覇気でもって欲情を清める。いっぽう後期の「観照」に達すると、心から溢れる愛を、すなわち生まれもった希求心を清めるようになる。すると物事を遠くまで見抜けるようになる。
初期の業に習熟していないまま、(さすがに初期の業がおっくうになって、とは言わないにしても)この後期の甘さに魅かれて後期の業へ踏み出す者は、あらかじめ「地にある肢体」(コロサイ3 : 5)を殺さなかったことに対して怒りを食らうことになる。つまり、十字架の恥辱に耐えて想念の病を治そうともせずに、さっさと十字架の光栄を夢見たからだ。これぞ古代の聖人たちが、「感覚の病を治してもいないのに黙修に入り、十字架に昇ろうなどと夢見れば神の怒りを買う」と述べた言葉の意味である。
きちんと初期の辛苦に耐えているのであれば、つまり肉体を磔にしているのであれば、そそくさと「十字架に昇る」こともなく神の怒りを買うこともない。むしろ初期の業をおろそかにして土足のまま、霊たましいの治療後に入るべき後期の観照に入ってゆくから怒りを買うのである。まだ恥ずべき慾で知性も汚れたまま、あれこれ高度なことを思い描いているから罰せられるのである。というのも辛苦で肉欲を抑えて知性を浄めようともせず、耳でかじったり読んだりしたことを頼りにして盲目のまま、真っ暗な道をいきなり前へ向かって走り出したからである。そもそも慧眼の士が恩寵に導かれてはっきり見えている状態にあっても、やはり日夜危険な状態にあるというのだ。かれらがはっきり見えているのに目を涙で潤し、朝から晩まで嘆いて祈って夜間も奉仕しているのも、ひとえにこの道の行き手には恐ろしい断崖があり、真実に見えてしまう偽物があちこちで待ち伏せてしているのを知っているからである。そう、この道には、真実に見せかけた似像が待ち伏せしているのである。
よく「神がくださるものは自ずと降ってくるものなので、感じることすらできない」という。それはそのとおりなのだが、ただし受け入れる場所が清ければの話であって、汚れている場合は話が別である。霊たましいの瞳が汚れているならば、その汚れた瞳で太陽の球体を見たりするな。しいて見たりすれば、いま見えている小さな光線(つまり単純な信仰、謙虚さ、心からの信仰表明、なしうる小さな行い)まで失って、「外の闇」と呼ばれている霊的領域に堕ちてしまう。一歩たりとも神から離れた場所など地獄みたいなものだ。だから、かつて不遜にも汚れた服で婚礼に出向いた者が追放されたように、まちがっても汚れた服で婚礼に出向いたりして「外の闇」に放り出されないようにせよ。
ひたすら心身を守っていれば、清く想えるようになって分別がつくようになる。すると五感では捉えがたく学びようのなかったものを、恩寵に助けられて知的に観るようになる。
かりに徳行を「体」のようなものとし、観照を「霊たましい」のようなものとして捉えてみよう。その両者がそろってはじめて、ちょうど感覚と知恵が神゜でつながったひとりの人間のごとくなるわけだ。そしてわれわれの霊たましいというものが、先に体ができあがらないことには勝手に生じて存在することなどできないように、この観照という「霊たましい」もまた、先に「体」となる徳行を成しとげておかなければ生じえない。ひとえに徳行を積んだ者だけが属神的に生まれ変わる可能性を持ち、この後期の観照に入って啓示を観るのである。まさに、分別によって啓示を授かる世界である。
そもそも観照とは、事物とその原因の奥にある神秘を実感することである。「世を離れる」とか「世を捨てる」とか「世のすべてから解放された清らかさ」とか聞いた際には、次の点を心得ておくべきだ。この「世」という呼称自体が、まさに一般的概念としてではなく属神的概念として何を意味し、いかなる多様性を秘めているのか。この点を押さえておけば、あなたも自分の霊たましいがどれほど世から離れ、逆に世から何を混ぜてしまったか見破ることができるだろう。
「世」という単語は集合名詞であり、「慾」と呼ばれているものを何もかも含む。あらかじめ世とは何であるか見破っておかないと、自分の体がどの部分で世から離れ、どの部分で世に縛られているのかきちんと認識できない。実際、肢体の二~三ヶ所では世を断ち切り、その箇所では世との交流が途絶え、ほれ世とは無縁になったぞと思い込んでいる人は多い。なぜなら肢体の二ヶ所で世に対して死んだ自分を目にして、じつはまだ他の部分では世に対して生きている自分を見抜けなかったからである。もっとも慾という奴を自覚できなかったわけだ。慾を自覚できなかった以上、その治療についても考慮できなかったわけだ。
ちなみに思弁的考察において「世」というときには、この集合名詞の元となる「成分」(諸慾)を意味することもある。ふつう諸慾をまとめて示したいときには「世」と呼び、諸慾の違いを区別したいときには「慾」と呼び分けている。そもそも慾とは、世の潮流からくる構成分子である。ゆえに、われわれが慾を断ち切れば、世はわれわれの外で堂々巡りすることになる。慾には以下の種類がある。富への執着(収集癖)、身体的快楽(ここから肉欲が生じる)、名誉欲(ここから嫉妬が生じる)。そして、人の上に立って仕切りたくなる欲や、権力を見せて威張りたくなる傲慢。さらに、美しく着飾って気に入られたいという欲求や、名声の追求(これがしばしば怨念の原因となる)。要するに、体にまつわる不安である。
これらの慾が生じなくなったところでは、世もまた死んだと言えるだろう。そして心の中で右の構成分子のどれかが欠ければ欠けるほど、世は心の外に留まってその分子には作用しなくなる。聖人というのは生ける死者だ、と言った人がいるが、まさに聖人は肉体で生きながら肉体によらずに生きていたのである。だから、あなた自身も右のどの分子によって生きているのか見極めよ。そうすれば、自分がどの構成分子で生きていて、どの分子で世に対して死んでいるのか見抜くことができるだろう。そして世とは何であるか悟ったとき、いったいどの点で世に縛られ、どの点で断ち切れたのか、右記した分子の種類の違いに基づいて正確に知ることができるだろう。
以上を端的に言えば、世とはつまり「肉的な生活」と「肉の思い」なのである。この二点から離れたか否かによって、その人が世から抜け出たか否かが分かる。現に世と無縁になった人には、次の二点を見出せるであろう。すなわち、とびぬけた生活形態と、考えていることの比類なき高尚さである。そして、ここから導き出される結論はこうだ。あなたの思考内では、あなたの理解水準で思いめぐらしている物事の見方が生じているのである。
したがって、自分が何を考えているのかを注視して自分の生活レベルを把握せよ。はたして本性は強いずともそれを渇望しているだろうか、なかなか引っこ抜けない悪の芽や、ふとした拍子に生じてしまう芽はなかろうか、知性はまったく目に見えない事柄について考えられるようになったか、それとも丸っきり物質上でうごめいているか、しかもその物質的な事柄に捕らわれてしまったか。というのも、具体的にどう徳行すべきか思いめぐらすこと自体は徳だからである。まさにその想像のおかげでひるまない集中力を得、身体的にも善良な目的に向かって一心不乱に突き進めるからである(ただしその想像が、徳を渇望するような想像であり、慾を刺激するような想像でなければの話だが)。とにかく、この秘めた想像を思い浮かべたときに、頭がくらみやしないか注意せよ。知性が神を求めてより良い方向に燃えていれば、くだらない思い出など断ち切れるものだ。
以上の点を押さえておけば、隠遁する黙修者の知性を照らすには充分だ。もはや多くの書物を読みあさるまでもなかろう。体に対する恐れはあまりにも大きい。それが理由で誉れ高いことや高潔なことを行えなくなる人もいるくらいだ。だが、その不安に霊たましいにまつわる不安がもたれかかれば、そんな不安はまるで火をつけられた蝋燭のように萎えるであろう。光栄は神に世々に帰す、アミン。
第3訓話 世と雑念から離れて黙修していれば、たやすく神の叡智と創造物を知ることができる。そして霊たましいの本性とその内に隠れた宝を知ることができる、ということについて
世の煩いを断ち切って霊たましいを本性の状態に保っていれば、しばらく努力しただけで神の叡智に通じるようになる。なぜなら世を離れて黙修していれば、おのずと神の創造物を見極めたくなり、見極めながら神へ向かって霊たましいが昇りつめ、じつに素晴らしいと驚嘆しつつ神と共に留まるようになるからだ。というのも霊たましいの泉には生来の水が湧いており、そこに外部からの水を取り入れなければ、絶えず神の奇跡をおもう思索が湧いてくるからである。ところが、くだらないことを思い出したり、意識が何らかの事象に触れてかき乱されたりすれば、そういう神の奇跡をおもう思索は途絶えてしまう。
黙修に閉じこもって意識を外へ向けず、黙修のおかげで思い出も薄れてゆくとき、霊たましいの本性からくる想念がどのようものであるか悟るだろう。そして霊たましいの本性を見抜き、霊たましいに秘められた宝のありようを見極めるだろう。霊たましいに秘められた宝とは、霊界の認識である。この認識は霊たましいの中に、あえて思い描くことも努力することもなく自ずと生じてくる。当の本人ですら、このような想念が人間に備わっていることを知らない。なにせだれに教わったというのだろう。他者に説明できないような認識をどうやって手に入れたというのだろう。露ほども教わっていないのに、どうしてそれを認識できるようになったのだろう。
そう、まさに霊たましいの本質とはそういうものなのだ。したがって、慾とはつまり後から付加されたものであり、それについて咎を負っているのも霊たましい自身なのである。というのも、そもそも霊たましいとは無慾なものだからだ。よって、聖書の中で心身の慾に関する記述を読むときには、むしろ慾の原因を指しているのだと思うがよい。というのは、霊たましいは造られたままの状態であれば無慾だからである。たしかに異教の哲学者やその後継者たちはこの事実を受け入れられない。だがわれわれは、神がご自分に似せて人間を造られた以上、人は無慾なるものとして造られたと信じる。ここで「ご自分に似せて人を造られた」というのは、もちろん体ではなく目に見えない霊たましいを指す。というのは、およそ像というものは原像から写し取るものだからである。いかなる像も、まずはその原像を目にしていなければ思い描くことすらできない。したがって、上述したように、霊たましいにはもともと慾が無いということを確信すべきなのだ。もしもこれに反論する人がいたとしたら質問しよう。ぜひとも答えてもらおうではないか。
質問 霊たましいとは元々いかなるものか。その本来の性質は、何かしら無慾で光に満ちたものなのか、それとも慾深くて暗いものなのか。
回答 霊たましいは、かつて福なる光に照らされて明るく清かったことがある以上、また元来の状態に戻るなり照らされて清まる以上、慾で動いた途端に本性から逸れているのだと断言できる(師父もそう主張している)。だから、たしかに慾のせいで動じてしまうとはいえ、後になってから慾に入りこまれたからには、生まれつき慾を植え付けられていたなどと言うのは理不尽なのだ。むしろよそ者に動かされており、生まれもった性質で動いているわけではないことは自明であろう。
それでも「霊たましいに慾がある」と言うのなら(たしかに体を伴わずとも、慾に動かされることがあるため)、いっそ飢えや渇きや眠気でさえも霊たましいの慾だと言わねばならない。なぜなら霊たましいは飢えや渇きや眠気のような身体的慾求においても、やはり四肢が切られたときや熱病や疾患にかかった時と同じように、体と一緒に苦しんだり嘆いたりするからである。なにせ人間の心身というのは、互いに苦痛を分かち合うようにできているのだ。現に、心理的苦痛を受ければ体も堪えるし、身体的苦痛を受ければ心も痛む。したがって霊たましいというものは、体が満たされると心地良くなるのと同じように、体が苦しむ時には共に痛むものなのである。光栄と国は神に世々に帰す、アミン。
第4訓話 霊たましい、慾、知性の清さについて。質問と回答
質問 霊たましいは、どういうときに自然な状態なのでしょうか。また、どういうときに反自然な状態であり、どういうときに超自然な状態なのでしょうか。
回答 霊たましいは、自然な状態にあるときには、見えると見えざる受造物を観ている。超自然な状態にあるときには、奮い立って存在のなかの存在である神性を観照しようとする。しかし反自然な状態にあるときには、慾の渦に突き上げられて動揺してしまう。かの聖大ワシリイが述べたとおり、霊(たましい)は本性にそって動いていれば高みへ昇ってゆくが、本性から逸れるなり地の谷に落ちることになる。実際、高みへ昇っているあいだは無慾であるにもかかわらず、生まれつきの階級からずり落ちるなり慾が出てくる。
だから、いわゆる「霊的な慾」と呼ばれている慾は、文字どおりに「霊たましいの慾」というわけではないのだ。飢えや渇きのような慾において霊たましいに咎はない。たといこういう身体的慾求が満たされない極限において霊たましいがよろめくとしても、真に咎めるべき慾との見境もなく「霊たましいにはもともと慾がある」などと言って霊たましいを咎めるべきではない。だいたいこういう目に見えない慾はおろか、あきらかに悪事に見えることでさえ神に赦されることがあるではないか。たとえば姦通の女をめとった預言者オシヤなどがその例だ。オシヤ以外にも、神への熱意から人を殺めた預言者イリヤや、モイセイに命じられて剣で親を殺した人々は、神に咎められるどころか報賞を受けたのである。とはいうものの、たしかに霊たましいは身体的本性を取り除いたとしても肉欲を抱いたり興奮したりするので、そういうのが霊的な慾だ、という人もいる。
質問 では霊たましいは、その希求心がどちらへ向かっているときにより自然な状態なのでしょうか。神聖なものに向かって燃えているときなのか、それとも地上的で肉的なものに向かっているときなのか。
それに、なぜ熱意を帯びるなり興奮するようにできているのでしょうか。しかもそれが自然な興奮だと言えるのは、一体どういうときなのでしょう。たとえば嫉妬や虚栄など肉欲によって興奮しているときなのか、それともそういうものとは正反対のものに発奮しているときなのか。どなたか答えられる人は答えてください。お言葉に従うことにいたしましょう。
回答 そもそも聖書は多くの意味をこめて記された書なので、使われている単語もそれ自体の意味で使っていないことが多い。たとえば、体に使う単語でもって霊たましいのことを述べていたり、霊たましいをさす表現でもって体のことを述べていたりする。しかも両者の違いを明確に区別しないまま、ただ知恵ある者が正しく理解するのに委ねている。だから主の神性ならではの用語で、つまり人性にはそぐわない表現でもって主の至聖なる「身体」のことを述べていたり、その逆に、主の卑しめられた人性にしか相応しくない単語でもって主の「神性」について述べていたりする。このため、神の言葉にこめられた狙いを理解できず、聖書を読んで立ち直れないほど罪を犯した人も多い。とかく聖書では「霊たましいに属するものは何々で、体に属するものは何々である」というように、厳密に用語を使い分けてはいるわけではないのだ。
したがって、次のように考えることができるだろう。もし徳に生きることが霊たましいの健康状態であるならば、とうぜん慾に動かされているときはその病的状態だということになる。つまり時と場合によって一時的に生じる慾という奴は、しょせん霊たましいの本性に後から入ってきて霊魂固有の健康状態を崩しているものなのだ。ということは、つまり一時的に生じる疾患よりも以前に、もともとは健康状態というものが本性に備わっていたということになる。そして、もしそれがその通りであるならば(そしてそう考えるのは理に適っているだろう)、霊たましいは、まさに徳を求めているときこそ自然な状態であり、一時的な慾に動かされているときには自然な状態ではない、と言い切れるのである。
質問 それでは、体に慾があるというのは理に適った捉え方なのでしょうか、それともただそう捉えられているだけなのでしょうか。また、体とつながりのある霊たましいにも慾があるというのは理に適った捉え方なのでしょうか。それとも本来の意味ではなく「霊的慾求」などと呼ばれているだけなのでしょうか。
回答 身体的慾求に関しては、それが本来の意味ではなくそう呼ばれていると言える人はいないだろう。しかし霊的慾求に関して言えば、もし皆が「霊たましいはもともと清い」ということを悟って認めることができるのなら、慾など霊たましいにとって毫も自然なものではないと断言すべきだ。というのは、まずは健康があり、病はその後からやってくるものだからである。それに、元来の性質が同時に善くも悪くもあることなどありえない以上、いずれか一方の性質がもう一方の性質に先立っている必要がある。つまり、ほかの性質よりも先にあった性質こそ本性だ、ということになる。なぜなら時に応じて生じるものはつねに本性から来るわけではなく、よそからやって来ると言われているからだ。それに時に応じて後から入ってくるものは変化するが、本性というものは変質したり変化したりしないからである。
人生に役立つような慾は、どれも神の賜である。体の慾も、体の成長に役立てるために備わっているし、その意味では霊たましいの慾も同じように役立つものである。しかし慾が役立つために備わっていればこそ、逆にいうと体は栄養失調になるなり弱りきって霊たましいに従うしかなくなるし、霊たましいも持ち前のものを捨て去るなり弱りきって体に従うしかなくなるのだ。これは聖使徒が「肉の欲するところは神゜に逆らい、神゜の欲するところは肉に逆らう、この二つのもの相敵す」と述べたとおりである(ガラティヤ5 : 17)。かといって、「われわれはそもそも神に罪慾を植え付けられたのだ」などと言って神を冒涜してはならない。神は、われわれの霊たましいと体に、それぞれ成長を促すものを入れておいてくださったのだ。ただし一方の本性が他方の本性に歩み寄るとき、その本性は固有の状態から離れて正反対の状態に陥ることとなる。そう、もし霊たましいがもともと慾を植え付けられていたのならば、なにゆえ霊たましいは慾から害を蒙るのか。もともと本性にあったものなのであれば、決して本性に害を及ぼさないはずだ。
質問 たしかに体の方は、身体的慾求を満たすことで成長したり健康になったりします。でも霊たましいの方は、なぜ霊的慾求といえる慾を満たすと害を蒙ってしまうのでしょうか。しかも体にとってきつい徳行をすると霊的に成長するのは、どうしてでしょうか。
回答 これまで生きてきた中で、「生来の性質は異質なものに触れると害を蒙る」という現象に心当たりはないだろうか。現に、いずれの本性もおのれに近い性質に近づくと喜びに満たされるではないか。でもあなたとしては「身体的本性に近いものは何で、霊的本性に近いものは何か」を訊ねたいのだろう。いいかい、本性を助けてくれるものこそ、本性に近いものなのだ。逆に害を及ぼすものは、その本性に異質であって外からやってきたものなのだ。
というわけで、もはや「体の慾」と「霊たましいの慾」が正反対のものであると判明した以上、少しでも体が救われて安らぐものは体に近いもの、つまり体に固有なものと考えてよい。しかし、霊たましいがこの身体固有のものと肩を組んだときに、これを霊魂固有のものだと言うことはできない。霊たましいに固有なもの(神゜)は、体に死をもたらすからである。もっとも、これは別の意味で霊たましいの特徴だとも言えるだろう。たしかに霊たましいというものは、まだ体の内部にいるうちは体の弱さや痛みから自由になれない。なにせ霊たましいの動きは神の測りがたい叡智によって体の動きと繋げられているので、体の痛みを共に痛むようにできているからだ。しかし、それほどにも体と連動しているにもかかわらず、やはり体とは異なる動きを持ち、体とは異なる意志を持ち、体とは異なる神゜を持っている。生来の性質は、別物になることはないのだ。それどころか体にせよ霊たましいにせよ、生まれつき罪へ走ったり徳へ向かったりして揺らぎやすいとはいえ、いずれも固有の意志で動いている。だからこそ霊たましいは体のことをまったく心配しなくなったとき、ついに丸ごと神゜になりきって自由に動きまわり、天上の悟りがたいことを思いめぐらすのである。もっともかくなる状態においてさえ、体に対して身体固有のことを忘れさせたりはしない。これと同じことが、逆の場合にも起こる。どんなに体が罪に堕ちている最中でも、霊たましいの思念は知性のうちで湧きつづけているのだ。
質問 いったい知性の清らかさとは何でしょうか。
回答 知性が清い人とは、悪を知らない人のことではない(そんな人がいたとしたら、ほぼ動物並みになってしまうだろう)。また、幼い児童のことでもないし、いかにも清そうに見える人のことでもない。むしろひたすら徳を実践した末に、聖なるものが見えてきたときに知性が清まったと言えるのである。また、想念の試練を受けなければ知性は清まらない。かりに想念の試練を受けずとも知性が清まるとしたら、それは肉体を着ていない身だということになってしまう。というのも、われわれの本性がご覧のとおりの性質である以上は、息を引き取るその瞬間まで、闘うことなく痛手を蒙ることなく生きていくことなどできっこないからである。ここでいう「想念の試練」とは、決して想念に負けてしまうことではなく、むしろ想念と闘おうとする決意を指す。
想念の動き 一覧
人の中で想念を動かしているのは、次の四点である。まずは生まれつき備わっている肉欲。次に、いろいろと見聞する世の事象を思い浮かべる感覚的想像。そして、過去に刻みこんだ記憶と心の嗜好。さらに、これらの原因を利用して慾へと誘う悪鬼の攻撃である。
よって、人は息を引き取るその瞬間まで、まだこの肉体における人生を生きているあいだは、想念と闘わずに生きることなどできないのである。というのも、考えてもみよ。人が世から去る瞬間までに、つまり死を迎える瞬間までに右の四つの原因の一つでも止めることなどできようか。あるいは体が必要物資を欲しからず、何か現世のものを求めずにいられることなどありえようか。もしもそんな状態を想像するのさえ憚れるのであれば(なにせ本性はそういう物資を必要としているため)、体を持った者である以上は、何人なんぴとたりとも当人の意志とは関係なく慾の影響下にある、ということになる。したがって、どの人も体を持つ人間として、常時はっきりうごめいている慾の一つや二つだけではなく、多くの慾から自分自身を守る必要があるわけだ。徳を積んで我慾に打ち勝った者は、たとい右に書いた四つの想念や攻撃にたじろくことがあろうとも、決して打ち負かされることはない。なぜなら力を帯びており、知性が福なることや神聖なことを思い出しては感激しているからである。
質問 知性の清らかさというのは、心の清らかさと何がどう違うのでしょうか。
回答 知性の清らかさというのは、心の清らかさとは全く異なるものだ。というのは、知性が霊的感覚の一つでしかないのに対し、心とは内なる感覚を司る総括的存在だからである。心こそ、根っこである。根が聖であれば、枝も聖なるものとなる。つまり、心が清くなれば、いかなる感覚も清まってゆくことが自明なのである。
知性は、汚れた生活をやめて聖書読解に励み、しばらく斎をして儆醒して黙修していれば、それまでの考え方を忘れて清くなれる。でも不変の清らかさを持つには至らない。というのも、すぐに清まることができる分、すぐに汚れてしまうからである。
いっぽう心は、しこたま困苦や欠乏を耐え忍び、すっかり俗世との交わりから離れ、世に対して死ぬことによって清らかさに至る。もし心が清らかさに至ったのであれば、その清さはつまらない何かで汚れることはなく、あからさまな挑発、つまり戦慄を覚えるような激戦に見舞われたとしても怖気づかない。なぜならば丈夫な胃袋を獲得し、病弱な人が消化できないような食物でさえも即座に消化できるようになったからである。ちょうど医者も言うように、丈夫な胃袋であれば消化しにくい肉料理も消化して、健康体に多くの力をもたらすからである。というわけで、人は短期間で少しの努力で清くなったときには、いかなる清さであろうともすぐに損ねて汚してしまうものである。しかしうんと苦労して長期間をかけて清くなったときには、許容量さえ越えなければ霊たましいのどの部分に攻撃を受けても怖気づくことはない。なぜならば、霊たましいが神に力づけられているからである。光栄は、霊たましいを力づけてくださる神に世々に帰す、アミン。
第5訓話 感覚と試練について
感覚を貞潔にして引き締めていれば、霊的に落ち着いて物事に魅了されなくなる。そして霊たましいがいろいろな感触を受け入れずにいれば、勝利は闘わずして君のものだ。もし怠慢に陥って敵に想念の突破口を与えてしまうのならば、もはや闘わざるを得ない。すると元来の、ごく単純でむらのない清らかさは乱れてしまう。なにせこの怠慢によって人類の大半、もしくは全世界の人々が本来の清らかな状態から外れていくのである。ゆえに世間で生活する人や世俗人と親しい人々は、悪習を知りすぎたせいで知性を浄めることができない。知性を元来の清らかさに取り戻せる状態にある人はほんの僅かだ。よって、だれしもつねに用心して感覚を守り、知性に邪念を入れないようにしなければならない。大いに覚醒して眠らずに警戒していなければ、清くなれないからである。じつに純朴でありきることこそ、すばらしい。
人間の性質として、神へ聴従しきるためには畏れを必要とする。神を愛すれば徳行も愛せるようになり、そのようにして善行に励むようになる。すべての土台には、神を畏れる心がある。畏れと愛を持てば徳行に励むようになり、徳行を積んだ後に属神的知恵が与えられるのだ。ぬけぬけと前者(畏れと愛)なくして後者(徳行や属神的知恵)を得られると言いのける者は、まちがいなく霊的滅びへの一歩を踏み出してしまった連中だ。まさに畏れと愛があればこそ、徳行や属神的知恵が与えられるからである。それが、主の道である。
兄弟に対する愛を、物とかに対する愛に替えてはならない。なぜなら兄弟は万物よりも貴いお方(ハリストス)を己れのうちに秘めているからである。偉大なものを得たければ、小さなものは捨てよ。高級なものを手に入れたければ、余計なものや安価なものは気にしないことだ。いつか死ぬ日に生きんがためには、今生において死者であれ。だらだらと生きるのではなく、修行して死すべく献身せよ。ハリストスへの信仰ゆえに致命した者だけが致命者なのではない。ハリストスの戒めを守ろうとして死にゆく者もまた致命者なのだ。ちゃちな知恵で神を侮辱しないよう、つまらない願い事はするな。光栄に与れるよう、祈るときには賢くあれ。賢い欲求に対して誉れをもらえるよう、妬まず与えられるお方には尊いものを求めることだ。
ソロモンは叡智を求めた。そして大いなる王(神)に賢く求めたために、叡智だけでなく地上の王国をも授かった。また、エリセイは師が手にしていた聖神の恩寵を二倍求めた。二倍も求めて、それが叶わずに取り残されることはなかった。
だが、イズライリ人はつまらないものを求めたので、天誅が下った。なにせ神のなさる畏るべき奇蹟に驚嘆する代わりに、腹を満たすことを求めたからである。ゆえに「ただかれらの慾未だ去らず、食のなおその口にある時、神の怒りはかれらに臨みて、その肥えたる者を殺し、イズライリの若き者を倒せり」(聖詠 77 : 30~31)となるほどの罰が下ったのである。
神の前では神に喜ばれるよう、堂々と神の光栄にふさわしい願い事を捧げよ。もし王に対して厩肥(肥料用の糞)を求めたりしたら、無礼な要求で愚かさを露呈して自分自身を貶めるだけでなく、王をも侮辱してしまうだろう。祈るときに神に対して地上の福を求める者は、そういう要求をしている。なにせ王(神)の高官である天使や大天使は、あなたが何を願って主宰に祈っているのか見ているのだ。そして土くれにすぎないあなたが肉体を捨てて天のものを求めている姿を見ては、驚いて喜んでいる。逆に、天のものを捨てて厩肥を求めている姿を見ては、がっかりするのである。
神が慮っていてくださるものを、まさにこちらから願うまでもなく与えてくださるようなものを願い求めたりするな。しかも神に愛されている敬虔な信徒はおろか、神を知らぬ者にまで与えてくださるものを求めたりするな。なにせ祈るときには「異邦人のごとく無駄事をいうなかれ」(マトフェイ 6 : 7)と言われているからだ。主は、「無駄事」とは体にまつわる事柄であり、異邦人が切に求めているものだと解き明かされた。まさに「何を食らい、何を飲み、(中略)何を着んと慮るなかれ。(中略)なんじらの天の父は」これらの物がすべてなんじらに必要であることを「知」っておられるからだ(マトフェイ 6 : 25, 32)、と。そもそも息子であれば父に対してパンを求めたりはせず、父の家にあるもっと高級で大いなるものを求めるはずだ。というのも、主は人間の知力が弱いため日々の糧を求めよと戒めたのであって、霊たましいが健康で完全な知恵を持つ者には次のように戒めたからである。「食べ物や着る物については慮るな。もし神が、言葉をもたぬ動植物のことを慮り、生命なき受造物のことまで慮っておられるのなら、いったいあなたがた人間のことをどれほど深く慮っていらっしゃることか」と。そう、だからこそ「まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらの物皆なんじらに加わらん」(マトフェイ 6 : 33)と告げられたのである。
もし神に何かを願い、その願いがすぐ聞き入れられなかったとしても悲しんではならない。なぜなら人が神よりも賢いわけがないからだ。時々なかなか神に聞き入れてもらえないことがあるのは、まさに求めた事柄を受けとる資格がなかったり、心の道が願い事にそぐわなかったり反していたり、まだその賜を受けられる水準に達していなかったりするからである。とにかく神の賜をたやすく入手すると駄目にしてしまうことがあるため、時期尚早に高度なものに触れてはならないのだ。なぜなら、たやすく入手したものほど失いやすいからである。だが心痛を伴って手に入れたものは、どれもこれも気をつけて大事に保とうとする。
喉が渇いていてもハリストスのために耐えよ。耐えていればハリストスの愛に潤されるだろう。快適な生活を目に入れるな。目に入れなければ神の平安に満たされるだろう。目に見えるものを断ち切れ。そうすれば属神的な喜びを得られるだろう。たいして神を喜ばせることができていないのであれば、飛びぬけた恩賜を求めたりするな。でないと、神を試す者のごとくなってしまう。人は生活形態に応じて祈らなければならない。というのも、地に縛られた者が天のものを要求することなどできず、世に追われている者が神聖なものを求めることなどできないからだ。なにせ本心は行動に出るものだし、そもそも人は打ちこんでいるものこそ祈り求めるものだからだ。偉大なものを求めている者は、つまらないものに追われることはない。
体に縛られていようとも自由であれ、そしてハリストスゆえに聴従できる自由人であることを証明せよ。また、純朴でありながらも徳を盗られないよう賢明であれ。何をするにしても謙遜を愛し、思い上がるなり引っかかる見えない罠から逃れよ。ただし苦難からは逃げるな、苦難をとおして真実を知るからだ。それに試練も恐れるな、試練をとおして尊いものを得られるからだ。ただ霊的試練には陥らないように祈れ、いっぽう身体的試練にはあらん限りの力をもって備えよ。というのも、身体的試練なくして神に近づくことはできないからだ。まさに試練のうちに、神聖なる安息が用意されているのである。試練となる誘惑いざないから逃げる者は徳からも逃げる。むろん肉欲をつつくような誘惑いざないではなく、苦難という誘惑いざないを意味して言っている。
質問 どうやって次の聖句に整合性を持たせましょうか。主は、いっぽうでは誘惑いざないに陥らないよう、「祈祷せよ、誘惑いざないに入いらざらんためなり」(マトフェイ26 : 41)と命じておられるのに、他の箇所ではむしろ誘惑いざないを受けて耐えることを促して「力を尽くして狭き門より入いれ」(ルカ13 : 24)とか、「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」(マトフェイ 10 : 28)とか、「わがためにその命を失う者はこれを得ん」(マトフェイ10 : 39)などとおっしゃったのです。
なぜ、こうしてあちこちで誘惑いざないを受けて耐えよと励まされたにもかかわらず、ここの箇所では「祈祷せよ、誘惑いざないに入らざらんためなり」などと命じられたのでしょうか。だいたい徳の道で困苦や誘惑いざないに遭わないことなどありましょうか。しかも「自分を滅ぼすこと」以上にむごい誘惑いざないなどないはずなのに、主はあえて「主のために自分を滅ぼすような誘惑いざないを受けよ」と命じられたのです。そうです、まさに「おのれの十字架を負いてわれに従わざる者は、われに宜しからず」(マトフェイ 10 :38)とまで告げられたのです。
このように、あらゆるところで誘惑いざない(試練)を受けよと命じておかれながら、なぜここでは誘惑いざないに「入らないように」祈れと命じられたのでしょうか。なにせ使徒でさえも誘惑いざないを受けるべきことを示して「われらが多くの艱難を経て、神の国に入るべき」(行実 14 : 22)と言い残しましたし、主ご自身も「世にありてなんじら患難を受けん」(イオアン 16 :33)とか、「忍耐をもってなんじらの霊たましいを救え」(ルカ 21 : 19)という聖句で、誘惑いざないに耐えるべきことを宣言されたではありませんか。
ああ主よ、ご教示された道を理解するには、どれほど知性を研ぎ澄ませておかなければならないのでしょう。まちがって意味を理解したが最後、つねに主の道の外にいることになるのです。主よ、たしかにあなたは、かつてゼヴェダイの息子とその母が主と共に王国に座りたいと申し出たときにも、ひどい誘惑いざないが待っていることを意味して「なんじらわが飲まんとする杯を飲むことを能よくするか、わが受くる洗を受くることを能するか」(マトフェイ 20 : 22)と問いただされましたよね。それなのに、どうしてここでは「誘惑いざないに入らざらんため」に祈れ、などと命じられたのでしょうか。どんな誘惑いざないについて「入らざらんため」に祈れ、と命令されたのでしょうか。
回答 要するにこういうことだ。信仰がぶれるような誘惑いざないに遭わないように祈れ。傲慢な悪鬼に釣られて、自分は頭が良いと思い上がってしまう誘惑いざないに陥らないよう祈れ。脳裏に思い描いていた邪念のせいで、もろに悪魔的誘惑に嵌まってしまわないよう祈れ。まさに貞操の守護天使が離れていかないように祈れ。かの罪深い炎との闘いに負けてしまったら、守護天使を去らせてしまうからだ。また、人を苛立たせて仲を裂いたり、人を裏切ったり疑ったりするような誘惑いざないに陥らないよう祈れ。人を裏切ったり疑ったりしたが最後、霊たましいはしんどい戦いを強いられることになる。しかし身体的な誘惑いざないに関しては、心底から受けて立つ用意をせよ。体のどの部分でも誘惑いざないに耐え、目に涙を溜めて守護天使に去らないでくれと祈ることだ。というのも、誘惑いざないを避けて過ごしているうちは神の摂理が見えず、神の前で大胆になれず聖神の叡智も学べず、心から神を愛せるようにならないからである。人は誘惑いざないを受けるまでは神に対して他人行儀で祈っているものだ。ところが神を愛するがゆえに誘惑いざないに入って揺るがずにいられれば、そのとき神に貸しがあるかのごとく、あたかも神の親友であるかのごとく神の前に立つことができる。なぜなら神の意志を遂行すべく、神の敵と戦ってその敵を打ち破ったからである。以上が、「祈祷せよ、誘惑いざないに入らざらんためなり」という聖句の意味するところである。
なお、うぬぼれているせいで恐るべき悪魔的誘惑に陥らないよう祈れ。むしろ神を愛したために神に助けられ、神の敵を打ち破ることができますように。また、ふしだらな邪念や行為のせいで、右に述べたような誘惑いざないに入らないよう祈れ。むしろあなたの神への愛が試されて、その忍耐のうちに神の力が光栄を受けますように。光栄と国は神に世々に帰す。アミン。
第6訓話 神の慈憐について。神がその慈憐によって大いなる高みから人間の弱さまでへりくだられたことについて。そして試練について
しかもよく考えてみれば、主はあまりにも憐み深くわれわれのことを慮ってくださるがゆえに、身体的試練についても祈りなさいと命じられたのである。なにせ人が土でできた体であるために弱く、誘惑いざないに遭うなり逆らえずに真実から逃げて打ち沈んでしまうため、そういう誘惑いざないなくして神に仕えうるかぎり、ふいに試練に打たれないで済むよう祈りなさいと命じられたのである。たとい高徳めがけて歩んでいたとしても、ふいに大きな試練に打たれて負けてしまうのなら、そのとき完徳に手が届くことはない。
そもそも霊たましいは試練という高潔な闘いに挑むことで生きるのだ。いやそんな闘いに挑むなんて怖くてできないと尻込みし、気の弱さをごまかす口実や教えを並べあげて自分自身や他人を欺こうとしてはならない。それこそ「祈祷せよ、誘惑いざないに入らざらんためなり」(マトフェイ 26 : 41)という聖句などを持ち出してはならない。というのも、そうやってうそぶく連中は「戒めを持ち出してひそかに罪を犯す者」と言われているからだ。というわけで、もしあるとき事が起こって誘惑に負け、やむなく主の戒めを犯してしまった場合(すなわち貞操を破る、修道生活を離れる、信仰を捨てる、ハリストスへの修行を止める、戒めを無視するなどした場合)、すぐに畏れをなして誘惑に雄々しく立ち向かわないのであれば、真実から離れ去って堕落することになる。
もうこれからは体の声には耳を貸さず霊たましいをひたすら神に委ねて、主の名によって降りかかってくる試練と闘おうではないか。そもそも思い出してみてほしい。われわれはどういうお方に守られているのか。われわれを守ってくださる神は、むかしエギぺトの地でイオシフを救われ、そのイオシフをとおして貞潔の模範を示されたお方だ。また、ライオンの穴でダニイルを無傷に守られ、火の釜で少年三人を傷なく守られ、イエレミヤを泥の穴より救い出してハルデイの陣営で憐れまれたお方だ。さらにぺトルを獄中から救い出され、パウェルをイウデヤの会堂より救い出されたお方である。つまり簡潔に言うと、いつでもどこでも忠実な僕に付き添って力と勝利を与えられ、苦境に置かれた僕をいくたびも守って艱難から救いつづけてこられたお方なのだ。ならば、きっとわれわれのことも力づけ、われわれを呑みこもうとする荒波から救ってくださるに違いない。アミン。
さらにマカヴェイ(旧約続編『マカバイ記』に登場するユダヤの民族的英雄)をはじめ、聖預言者らの雄姿を見よ。同じく心身もろとも危険な状況に負けないどころか勇敢に打ち勝った使徒や、致命者や克肖者や義者を見よ。われわれとしても、かれらと同じくらい悪魔とその手下に対して闘志を燃やそうではないか。右に列挙した聖人たちは、恐怖政治の下にありながらも律法や属神的戒律を定め、こっぴどい試練に打たれながらも義を貫いて世も体も捨てきった。そのため、すでにハリストスのご降誕以前に生命の書(天国の名簿)にその名を記された者もいるくらいだ。そして使徒も証言したとおり、われわれとしてもかれらの教えを忠実に守って教訓や励みとしてきたわけだが(ロマ 15 : 4)、それもこれも神に命じられたとおり神の道を悟って賢明になり、聖人の雄姿を仰いで奮い立ち、聖人の道を歩いて聖人に近づかんがためであった。ああ、神聖な言葉というのは、思慮深い霊たましいにとってなんと味わい深く響くことか。まるで体を養う食糧のように、霊たましいを養ってくださる。ちょうど植えたばかりの植物が雨水をふんだんに必要とするように、柔和な耳は義人伝を聞きたがるものだ。
というわけで、愛する者よ。ちょうど見えづらい両目を治す薬をつけるようにして、神の摂理を脳裏に刻み込め。太古から現在まで万物を守ってこられた摂理をいつも思い起こし、どうすれば神に喜ばれるかとくと考えよ。これまでの摂理から教訓を引き出して、いつどんなときでも霊たましいが神の大いなる光栄を思い起こして永遠の生命を得られるようにせよ。永遠の生命は、まさに神と人を仲立ちされた神人、主イイスス・ハリストスのうちにある。そもそも天使階級でさえ主の光栄の宝座に近づけないというのに、なんと主はわれわれのために卑しく遜られたお姿で現れてくださったのだ。まさにイサイヤが「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(イサイヤ 53 : 2)と告げたほど、へりくだったお姿で現れてくださったのだ。考えてもみたまえ。だいたい受造物の目では見ることのかなわない至聖なるお方が、なんと肉身をまとって万民の生命を救うご計画を成就され、浄化への道を開いてくださったのである。光栄と国は主に世々に帰す。アミン。
第7訓話 意図的に犯した罪と、つい犯してしまった罪、また、状況に追い込まれて犯した罪について
弱さゆえについ犯してしまう罪がある。いっぽう意図的に犯す罪もあれば、罪と知らずに犯してしまう罪もある。また、何かの拍子に罪を犯すこともあれば、延々と罪深い状態に嵌まったまま抜け出られないこともある。いろいろな罪の種類を分ければこんな風になるだろうか。いずれの罪も非難に値するとはいえ、その見返りとして受ける罰を比べてみると、より大きな罪とより小さな罪があることがわかる。厳しく断罪されるうえに悔改しにくい罪もあれば、逆に赦されやすい罪もある。
アダムとエヴァと蛇がよい例だ。三者とも、神から罪に対する報いを受けたとはいえ、それぞれ異なる度合いの呪いを受けた。アダムとエヴァの子孫であるわれわれも同じである。つまりどういった動機や執着心で罪を犯したかによって、受ける罰の重さが変わってくるのである。たとえば、罪を犯すつもりはなかったのに徳行を怠ったせいで罪にのめり込んだとしたら、罪の中にいるのが苦しいし受ける罰も重い。いっぽう必死に徳行に励んでいたのに誘惑に負けて罪を犯してしまった場合、その罪は情状酌量の余地があるため間違いなく赦されやすいし清めやすい。
たとえばだ。徳に励んで精進しつづけているときに、つまり、励んでいることが無に帰さないよう夜も眠らず、昼も重荷を背負い、徳のことしか頭にないというのに罪を犯してしまうことがある。いやいや知恵が足りなかったせいなのか、それとも徳の道にある障害や肉慾に負けたせいなのか、はたまた自由意志を試しにくる誘惑に足を取られたせいなのかは分からない。いずれにせよ心の秤がやや左傾して、体の弱さゆえ罪の一つにのめり込んだとする。そのとき、まんまと敵にやられた不幸を悲しんで嘆き、霊たましいを思って胸を叩いて嘆息をつくならば、そういう罪を重い罪だと言えるだろうか。
だがやる気もなく徳にも励まず、徳の道をすっかり手放し、すすんで罪の快楽にのめり込んだとする。より強い快感を求めてあの手この手を尽くし、奴隷みたく敵の言いなりになって体まで悪魔の武器として差し出し、もはや悔改して徳に近づこうとか、悪を断ち切って滅びの道から足を洗おうだなんてこれっぽっちも思っていなかったとする。こういう類の罪は、先述した罪とはまったく別物だ。
あるいは徳義の道にはよくあるのだが、つい滑って転んでしくじったとする。こういう罪もまた別物である。なにせ師父も言っているように、徳義の道を歩んでいれば負けたり躓いたりすることは避けられないからである。
いっぽう霊たましいが堕落しきった状態、つまりずたずたに罪にやられて孤独に陥っている場合などは別次元だ。あきらかにその状態にある身だと思う者は、堕ちてゆく最中でも神の父なる愛を忘れるな。ありとあらゆる罪過に陥ったとしても善に励むことを諦めず、これまでのように歩み続けよ。たとえ負けたとしてもふたたび敵との闘いに乗り出し、壊れてしまった家を毎朝一から建て直せ。そして息を引き取る瞬間まで預言者の言葉を口ずさむのだ。「わが敵よ、堕ちたわれを喜ぶな。たとえ倒れても、ふたたび起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」(ミカ7 : 8)と。最期の最期まで片時も闘うことを止めてはならない。息のあるかぎり闘って、惨敗の渦中にあっても霊たましいを敵に渡すな。たとい毎日ぼろ舟が難破して積み荷を残らず失おうとも、やはり積み続けて備えようとする手を休めるな。たとい借金をしてでも他の船に乗せてもらい、希望をもって航海せよ。いずれ主がその修行をご覧になり、難破の惨状を憐れに思って慈しみを垂れてくださるその瞬間まで、つまり敵の火矢を受けて立とうという勇気が降ってくるまで備えつづけるのだ。これぞ、神の教えてくださった賢慮というものである。これぞ、望みを捨てない賢い病人の姿である。すべて放り出して裁かれるよりは、よほど何かし損じて裁かれるほうがましである。だからこそ師父マルティニアンは、どんなに辛くても修行を止めるなと主張したのだ。そう、「たとえ義の道で休みなく闘うことになっても気を落とすな、背を向けるな、面目を失ってまで敵に勝利を譲るな」と諭されたのである。というのも子を愛する父として、はっきりと次のように述べたからである。
克肖者マルティニアンの助言
子よ。真に修行者として徳を求めているのであれば、そして霊たましいが熱く燃えているのであれば、ハリストスの前で知性を清く保ち、ハリストスに喜ばれることをしたいと強く希いなさい。というのもハリストスに喜ばれることをするためには、あらゆる闘いを耐えるしかないからだ。まさに慾や世との闘いに耐え、悪鬼の底知れぬ怨恨との闘いに耐え、奴らのあらゆる策略に耐えねばならない。激闘が長引いて休めなくても弱音を吐くな。長期戦になってもたじろぐな。敵に襲われてもひるんだり怯えたりするな。いわんやちょっと滑って罪を犯したとしてもいちいち絶望してはならぬ。というよりか、この険しい闘いにおいては、たとえ傷を負って面目丸つぶれになったとしても善い目的めがけた歩みを止めてはならないのだ。むしろひとたび選んだ道を突き進み、あこがれた誉れ高い品性を獲得せよ。つまり負け知らずの強い男として、たとえ傷口が血まみれになろうとも、敵にあらがう拳を断じて下げてはならないのだ。
これぞ、偉大な師父の教えである。こうも闘いつづけなければならないと聞いて肩を落としたり気落ちしたりしてはならない。修道士ともあろう者が、ひとたび立てた誓願を破って良心を踏みにじり、いろいろな罪へいざなう悪魔に手を貸すようになったら禍だ。そんな事態に陥ったら、もはや悔改の心でもって敵に盾突けなくなってしまう。いったいどんな面を下げて、神の畏るべき審判に立つつもりなのか。その日は、友が互いに清さを極めて再会する日。ところが友人らと道中で別れて滅びの道を歩み、克肖者のように清い心で大胆に祈れなくなってしまったとしたら、つまりまっすぐに天軍よりも高く昇って願いを叶えて返ってくる喜びの祈りを失くしてしまったとしたら、いったいどんな顔をして神の審判に立つのか。しかも最も恐ろしいことは、その日、つまり清く輝く体だけが明るい雲に運ばれて天国の門の前に置かれる日、かつて人生途上で離れ離れになってしまったのと同じように、またもやハリストスによって友人らと引き裂かれてしまうことだ。それもこれも、だいたい断罪されるようなことを地上でしてきたせいで、万人復活の日に「悪人は(最後の)審判に立つを得ず、罪人は(天上の)義人の会に立つを得ざらん」(聖詠 1 : 5)となるような事態を招いてしまったのである。
第8訓話 だらだら怠けている人々から自分を守ることについて。そのような人に近づくと、やる気を失って怠惰心が芽生え、不浄な慾の渦に呑まれてしまうためである。また、知性が要らぬ想念で汚れてしまわないよう、青少年との距離を保つことについて
人の悪口を言うまいと踏み止まる者は、心を慾念から守るだろう。心を慾念から守っていれば、つねに主を見ることができるだろう。つねに神に思いを馳せていれば、悪鬼を追い払ってその怨恨の種を抜き取ることができる。いつも霊たましいの動きを注視していれば、いろいろなことが見えてきて心から楽しめるだろう。内側に心眼をこらしていれば、属神的な曙を見る。思いが飛び回らないようにしていれば、心の中に主宰を見る。全受造物の主宰を見る清さを愛するのなら、だれの悪口も言うな。そして兄弟の悪口を言う人には耳を貸すな。喧嘩している人がいたら、その罵り合いを耳にしたばかりに霊たましいが命を失って死んでしまわないよう、耳を塞いでその場から逃げよ。苛立つ心は神の奥義を受け入れられないが、温柔で謙遜であれば来世の奥義を湧き出す泉となる。
というわけで、清ければ内面に天がある。自分自身の中に天使とその光を見、天使とともにおられる主宰を見るだろう。褒められるべくして褒められた者は害を受けないが、褒め言葉が甘く感じるようではいくら修行していても水の泡だ。謙遜であれば内面に主という宝を秘めている。発言に気をつけていれば決して口で失敗することはない。重い口は神秘を解き明かすが、すぐ話したがる口は造物主から離れていく。
善良な霊たましいは太陽よりも明るく輝き、朝な夕な神の啓示を観て喜んでいる。神を愛する人に従うならば神の奥義に満たされるが、間違ったことを平気でする者に従うならば神から離れて友にも嫌われる。口数が少なければ見るからに謙遜の風格を帯び、たやすく慾を支配できる。ひたすら神に没頭することこそ慾を殺す剣であり、その剣で慾を根こそぎにできる。ちょうど波立たない穏やかな海でイルカが泳ぎ回るように、苛立ちや怒りを鎮めた穏やかな心の海に、神の奥義や啓示が見えてくるのだ。
内面に主を見たければ、絶えず神を思って心を清めようと努めるものだ。そうやって磨きをかけた心眼で、つねに主を見られるようになるのである。知性は、神を記憶することを止めて世を思いめぐらすとき、ちょうど泳ぐのを止めて水揚げされた魚と同じようになる。逆に、人との会話から離れれば離れるほど大胆に神と対話でき、世の慰めを断てば断つほど聖神による喜びに与れる。したがって、修道士がしょっちゅう世俗人と過ごすのなら、魚が水不足で息絶えるように、その心も神という源泉を失って知的に動かなくなってしまうだろう。
修道士が世俗人と時を過ごして苦しんでいるよりも、世俗人が生活に追われて苦しんでいる方がましである。昼夜、熱心に神を探して心の敵を撃退していれば、悪鬼には恐れられ、神や天使には愛される。心の清い人は、おもに内面を思いめぐらしているものだ。まさに太陽のように聖三者の光を浴び、全能の慰むる聖神を空気のように吸う。傍にいるのは目に見えない聖天使。そして光よりの光、つまりハリストスを生命とし、喜びとし、楽しみとするのである。
そういう人は、いつも霊的に観照していて喜び、じつに太陽の光よりも百倍明るい自らの美しさに驚く。これぞ、イエルサリムにして「神の国」、主がわれわれの中にあると言われた王国なのだ(ルカ 17 : 21)。ただ心の清き者だけが、この神の光栄なる天雲へ入って主宰に会い、その光線を受けて知性が照らされてゆく。
いっぽう苛々して怒りっぽい者や、名誉や富を愛する者、大食いで低俗で我儘な者や、短気で強欲な者はみな、あたかも夜の暗闇を相手どって乱闘し、生命と光の領域の外にいるようなものだ。というのは、生命と光の領域というのは善人の分け前であり、心を浄めた謙遜な者にしか与えられないからである。人はあらゆる外面的な美を疎んじて厭わなければ、内面にある美を見ることはできない。すっかり世に背を向けなければ、神にまっすぐ視線を向けることはできない。自ら卑しめて遜る者は、神から賢さを授かる。自ら賢いと思う者は、神の叡智から離れる。おしゃべりをやめればやめた分だけ、理性が光に照らされて想念を見分けられるようになる。たくさん話していると、最も賢い理性でさえも混乱する。
世俗的な意味で貧しくなれば神において豊かになるが、富豪の友となれば神において乏しくなる。へりくだって貞潔に生き、発言に気をつけて心から苛立ちを追い出した者は、(確信をもって言うが)祈祷に立つなり霊たましいに聖神の光を見、その光に照らされて舞うことだろう。そして輝く光栄を見て楽しみ、自らも変容して光栄に肖るまで喜びつづけるだろう。神における観照以上に、汚れた悪鬼の軍を追い払える行為は他にない。
ある師父がこんな話をしてくれた。「ある日、座っていたら観照に没頭して、我に返るなり深く息を吐いた。すると目の前にいた悪霊がその吐息を聞くなりびくびくし、稲妻に打たれたように叫んだかと思いきや、追われるようにして逃げ去った」と。
この世を去る日を念頭におきながら、世の快楽にしがみつかないよう自制する者は幸いである。なぜなら臨終時には数倍に膨れ上がった幸福感になみなみと満たされるからだ。そうなれるのは、神から生まれて聖神に育てられた者。まさに聖神の懐に抱かれて活力を吸い、聖神の匂いを嗅いで喜んでいる。しかし世と世の安楽にしがみついて交流したがる者は、永遠の生命を得られない。そういう人については何と言えようか。心を引き裂く慰めがたい号泣で嘆き悲しむほかない。
闇の中にいる者よ、首を挙げよ。顔面いっぱいに光を浴びて、世の慾の支配下から抜け出すのだ。そうすれば父よりの光(ハリストス)が会いに来てくださるだろう。そして天使らに足枷を解いてあげなさいとお命じになって、ハリストスについて父のもとへ歩んでゆけるようにしてくださるだろう。ああ、どうしてわれわれはこうも縛られているのか。何に引っ張られて主の光栄が見えなくなっているのか。おお、この足枷を解き放ち、神を探し求めて見つけることさえできたならば。
人の本心を知りたくてもまだ神゜で見抜けないうちは、せめて頭を働かせて語調や生き方や仕事ぶりでその人を知れ。霊たましいが清くて無垢な生き方をしている人は、いつでも貞潔に聖神の言葉を発し、あたうかぎり神と自分自身を考究している。しかし霊たましいが慾にやられた者は、慾に突かれて言葉を発する。ゆえに属神的な議論に加わった日には慾によって考察し、不正でもって勝利を得ようとする。賢人はそのような者を初対面で見抜き、清い人はそのような者の悪臭を嗅ぎ分ける。
いい気になって無駄話ばかりしている者は淫行者である。そういう人に賛同して話に加わる者は姦通者であり、さらに交流までする者は偶像崇拝者だ。青少年との友情は、神が厭う淫行である。そのような者を治す薬はない。だが同情心から分け隔てなく公平に人々を愛する者は、完徳の域に達している。若者が若者を追いかけるとき、知者は嘆き悲しむことになる。だが老人が若者を追いかけるとき、その慾は若者の慾よりも臭い。たとえ徳について語り合っていようとも心は病んでいる。その若者が人々を離れてつつましく黙修し、羨やんだり苛々したりしないよう心を浄めて自己注視しているのであれば、即座に怠けた老人の慾を見抜くだろう。そして老人が年配よりも若者を好んでいるのを目にしたら、そんな老人とは力づくでも関係を断ち切って離れ去った方がよい。
取り繕って清く見せておきながら、じつは慾を満たしているような怠け者は禍だ。だが想念を清く保ったまま老年に至り、舌を制して善良に生きた者は、この世にいながら属神的知恵の実を満喫し、体から離れる時には神の光栄を受けるだろう。人と会っておしゃべりすることほど強く、聖神の火をかき消して成聖の道から逸らすものもない。もちろん神の知恵を増すような会話や、神に近づこうとするような会話は別だ。というのも、人はとくにそういう会話によって属神的に生きたくなり、慾や汚れた想念を忘れるからである。ゆえに、よろけて主の道から逸れてしまわないよう、属神的な会話のできる者以外には友や親睦者を持つな。ますます神を愛して神から離れないようにし、腐りきった「世への愛」に惑わされないようにしよう。
修行者の傍にいて交流させてもらえれば、たがいに神の奥義を分かち合って豊かになれるだろう。しかしやる気のない怠け者を愛するならば、ともに思考が浮ついて際限なく腹を満たすことになる。そういう連中は、友のいないところで食べることがしんどく思えて「ひとりぼっちで食らうやつは哀れだ。おいしくないじゃないか」などと言う。そしてたがいに宴会へ招き、あたかも借りを返すかのように支払いあう。こんな呪われた愛、ふしだらで不敬虔な時間の過ごし方を絶対にしてはならない。兄弟よ。こういった暮らし方に慣れた人々から逃げよ、そしてどんなに必要に迫られても彼らと食事をとるな。なぜならその食卓は汚れており、悪霊が給仕しているからだ。花婿ハリストスの友たるもの、そのような食事は口にしない。
しょっちゅう宴会を開く者は、人々の肉慾を満たしながら謙遜な霊たましいをも汚す。逆に慎ましい粗食を差し出す人は、それを食する者の霊たましいを清めてゆく。無教養な者は、ちょうど野良犬が肉屋の匂いに釣られるがごとく、美食家の食卓からくるおいしいご馳走の匂いに釣られてしまう。だが、いかなる香水や香油よりも香しいのは、昼夜祈っている者の食卓だ。神を愛する者は、高価な宝のごとくその食卓を慕う。
ぜひとも徹夜で主に仕えている斎行者のもとへ行き、その食卓で食生活を正してもらって自分の死んだ霊たましいを呼び覚ませ。というのは、斎行者のそばには愛すべき主がおられるからだ。主は斎行者を成聖され、斎行者の苦行をご自分のたとえようのない甘味へ変えてくださっている。それに加えて、主に仕えている天使らも属神的に斎行者に聖号を画し、その聖なる食卓にも聖号を画しているという。その様子をこの目ではっきりと見たと言った兄弟もいる。
造物主を遠ざけてしまうような甘味に対して口を閉ざした者は幸いだ。そして天より降って世に生命を与えるハリストスを糧とするならばもっと幸いだ。おのが田畑(心身)に御父の懐より降る「生命の慈雨」(尊血)を見届け、その慈雨を賜わる主を仰ぎ見る者は幸いである。というのは、主の尊血を飲むことで活気づいて心が花開き、喜び楽しむことになるからだ。そうやって主に養っていただいていることを悟ってからは、人々から隠れて独りきりで領聖するようになる。要らぬしがらみに捕らわれて主の光照を失ってしまわないよう、ふさわしからぬ者とは関わろうとしない。ところが食生活に致命的な毒(慾)を混ぜたが最後、友人なしではおいしく食べることができなくなる。すると、おいしく食べるために友達をつくるようになり、死体を食らう狼となる。浅はかな者よ、だらだら食べて腹を満たすだけでなく、霊たましいまで慾で満たしたいとはなんたる卑しさか。腹を自制できる者にとっては、右の警告だけで充分であろう。
斎行者からは芳香がするものだ。だから思慮深い人は斎行者と出会うなり心から喜ぶ。しかし美食家は斎行者を目にするなり背筋が凍り、何とかして一緒に食事しないで済むよう工夫を凝らす。
自制する生き方は神に喜ばれるが、あれもこれも欲しがる者からしてみれば見ているだけでもつらい。寡黙な者はハリストスに大いに褒められるが、悪霊に釣られて楽しんでいるお調子者からしてみれば近づくだけでもごめんだ。はたして奥ゆかしい謙遜者を嫌がる者など、その修行に縁もゆかりもない毒舌な高慢ちき以外にいるだろうか。そういえば、次のような経験談を話してくれた人がいる。
「人と会話をした日には、乾パンを3片か4片いただいているのですが、祈ろうとしてもなかなか知性が神へ向かわず、思いが神へ飛んでいきません。しかし、話し相手から離れて黙修すると、初日は乾パンを1片半食べきるのがやっととなり、二日目にはほんの1片しか喉を通らなくなります。さらに黙修が軌道に乗ってくると、せめて1片くらいは食べきろうとするのですが、どうにも食べきれなくなってしまいます。知性は絶えず大胆に神と語らい、あえて強いなくても曇りなく照らされて、神の美しい光にうっとりしているのです。ところが、黙修中に誰かがやってきて一時間でも話して行くと、その日には食事量を増やさずにはいられません。祈りの規定も何かしら諦めなくてはなりませんし、くだんの光を観照する知力が弱まってしまうのです」。
兄弟よ、聞いただろうか。孤独に耐えることがどれほど素晴らしくためになることか。どれほど修行しやすくしてくれる力が湧いてくることか。とにかく神のために黙修して独りきりでパンを食らう者は幸いである。なぜならいつも神と対話しているからである。光栄と国は神に帰す、今もいつも世々に、アミン。
第9訓話 初心者の振る舞いや規定、初心者に相応しいことについて
神に喜ばれる貞潔な振る舞いとは、下記のとおりである。
あちこちに目を向けず、つねに視線を前に向けること。無駄口を叩かず、必要最低限のことのみ話すこと。服は粗末なもので満足し、暑さ寒さをしのげれば十分とせよ。食事は満腹になるためではなく、体力を維持するために摂れ。何でも少しずつ食べ、これは嫌だとか、あれをもっと食べたいとか言って偏食しないように。徳の道では、判断力こそ肝心だ。酒は友といるとき以外、または病床に伏したり体力が落ちたりしたとき以外には飲むな。人が話しているときに遮ってはならない。愚か者みたく言い返さず、賢者のように寡黙たれ。そしてどんな場面でも最も卑しい者と思い、兄弟に仕える者となれ。人前では肢体の一部たりとも見せるな。やむをえぬ理由なくして他人の体に近づくな。いわゆる避けがたい理由でもない限り、この身に近づくことを誰にも許してはならない。あたかも死を厭うかのように、大胆な話し方を避けよ。眠るときにも貞潔な佇まいを保て、そうすれば守護天使の力が去ることはないだろう。どこで寝ることになろうと、なるべく人目につかないようにせよ。人前でよだれを出したりするな。食事中に咳をしたくなったら顔を背けて咳払いし、神の子にふさわしく貞潔に飲み食いすることだ。
無遠慮にも手を伸ばして、友に差し出されているものを取ろうとするな。もし旅人が近くに座っていたら「どうぞ召し上がれ」と一度か二度誘い、投げやりではなく丁寧に食事を差し出すこと。座るときは礼儀正しく控えめに座り、肢体の一部たりとも見せてはならない。あくびが出そうになったら、人に見られないように口を閉じよ。息を止めればあくびは止まるからだ。他人の僧房に入ったら、それが修道院長の僧房か、友人の僧房か、弟子の僧房であるかを問わず、そこに何があるのか見ようとするな。もし想念が「見ちゃえ」と迫ってきても自戒して逆らい、あちこち目を向けるな。というのも、この点において恥知らずな者は、こういう生き方を賜ったハリストスご自身や修道生活に縁がないからだ。友の僧房では、物のしまってある場所に視線を向けるな。おのれの僧房であろうと友人の僧房であろうと、扉は静かに開け閉めせよ。人の部屋へ入るときには突然入り込むな。まず外側からノックして許可をいただいてから、畏れ入りつつ入ることだ。
急用があるときでもない限り、あくせく歩いてはならない。善行においては誰に対しても聴き従え。ただし悪魔の業を行なうことにならないよう、所有欲や金銭欲や執着心の強い者の言うことに従ってはならない。だれに対しても柔和に語れ、すべての人を貞潔な目で見よ、どんな顔も見つめてはならない。道を歩くときには年上を追い越すな。もし同行者が後れを取ってしまったら少し前に進んだところで待て。待てないのは作法のない豚のようなものだ。もしも同行者が人と会って語り始めたら、しばらく待って急かすな。健康な者ならば病人に対して、「なすべきことはきちんとやっておきましょう」と優しく言うものだ。
他人の過失を目にしても、暴いてはならない。むしろこうなったのは自分のせいだと思うようにせよ。いかに卑しい仕事であってもへりくだって行ない、断ったり逃げ出したりするな。笑わなければならないときには、歯をあらわに見せないこと。女と話さなければならないときには顔を背けてそのまま話せ。修道女と会って話すことや顔を見ることを火のごとく恐れ、悪魔の罠と思って避けよ。神への愛が冷えて慾の泥で心を汚さないためだ。たとい修道女が実の姉妹であったとしても、他人の女と思って身を守れ。心の中で神への愛が冷えないよう、家族と近づくことさえ気をつけよ。
また、気の向くまま青少年と会って話さないようにせよ。悪魔と友情を結ぶようなものだからだ。親しい話し相手を作るのなら、つねに自己省察して神を畏れる者や、貧乏でも神の奥義に富む者に絞れ。自分の神秘的経験や修行や闘いをだれにも見せるな。どうしようもない例外の場合を除いて、人前で修道帽を被らないまま腰掛けてはならない。用を足すときは貞潔に足せ。それも守護天使に対して敬虔の念を持ちながら、神を畏れつつ用を足すことだ。たといそうするのが不愉快であったとしても、死ぬときまでそうするように努めよ。
実の母や姉妹といえども女と一緒に食事するよりは、致死量の毒を食らう方がましだ。実の弟といえども若者と一枚の布団の下で横になって寝るよりは、蛇と暮らす方がましだ。道を歩いていて、年上に「こっちへ来い、歌おうじゃないか」と言われたら素直に従っておけ。言われなかったら口をつぐんだまま心の中で神を讃美せよ。だれにも逆らわず、言い争わず、嘘をつかず、主・神の名によって誓うな。蔑まれても蔑まず、傷つけられても傷つけるな。身体的なことは体と一緒に滅びるがいい。ただ霊的なものが何かしら痛手を蒙らないようにすることだ。裁判を起こしてはならない。だが、裁かれるべきでない身なのに裁かれたときには耐えよ。世の何かに愛着を持たないようにしつつ、修道院長をはじめ高位の者には従うこと。ただしかれらとの近い関わりは持つな。なぜなら権力者との近しい関係は罠であり、怠け者を釣って滅ぼすものだからだ。
いつも食欲旺盛で腹いっぱいにしないと気がすまない者は、君主や高位聖職者のご馳走を食らうよりも焼け炭を呑みこんだ方がましだ。すべての人を憐れみつつ、だれからも相手にされないほうがよい。しゃべり過ぎないように気をつけよ。しゃべり過ぎると、神がよこしてくださる思考活動が心の中で途絶えてしまうからだ。飛びかかってくるライオンから逃れるように、教義にまつわる議論を避けよ。これについては相手が信徒であろうと未信徒であろうと関わらない方がよい。つい頭にきて霊たましいが迷妄の闇に陥らないよう、怒りっぽく口うるさい連中には近寄るな。霊たましいが聖神の働きを受けられなくなって邪念の巣窟とならないよう、傲慢な者と暮らしてはならない。人間よ、もし右の警告を守っていつも神を思うようにしていれば、じつに霊たましいのうちにハリストスの光を見、もはや永遠に闇に覆われることはないだろう。光栄と権能はハリストスに世々に帰す、アミン。
第10訓話 聖師父の話。その克肖なる言葉と、驚くべき生活
そういえば聖なる兄の僧房へお邪魔して、部屋の片隅で寝泊まりさせてもらったことがある。なにせ病床に伏したというのに近くに知り合いが他にいなかったので、神の名に免じて兄に看病してもらったのである。
兄はいつも夜になると定刻よりも早く起き、他の修道士たちよりも先に祈祷規程を行なっていた。ずいぶん長く聖詠を唱えていたかと思いきや、ふいに口をつぐんで突っ伏して百回かそれ以上、心が恩寵に燃やされるまま熱心に頭を地に打ちつけていた。しばらくすると起き上がって主宰の十字架に接吻し、ふたたび伏拝し、また立ち上がって十字架に接吻しては伏拝していた。このような習慣をずっと守ってきたというのだから、いったい一生の間にどれほど伏拝してきたのだろう。そもそも毎晩どれくらい伏拝していたかも数えようがないのだ。敬虔な愛と畏れをもって熱心に二十回ほど十字架に接吻しては、ふたたび聖詠を唱えていることもあったし、ときには全身を貫く熱い想いから、あまりに熱い炎に耐えきれず喜びに負けて(というのも喜びに堪えきれなかったため)賛嘆の声をあげていることもあった。だから私は、これほどにも神に向かって目覚めて修行できるものなのかと、その恩寵のすごさに驚いたのである。
さらに毎朝、一時課を終えるなり腰を掛けて読書していた。すぐにのめり込んで章をひとつ読み上げるまでに一度ならず首を垂れ、ときどき読んだ一文を噛みしめては両手を天に上げて神を讃美していた。年は四十歳くらいであった。食事はパサパサに乾いたものを少しだけ。そういう力量を超えた苦行のせいで全身が影のように痩せこけていた。こちらとしても、疲れきって指二本もないほど痩せこけた顔を見ていて可哀想になり、一度ならず次のように言って聞かせたのである。「兄よ、そのすばらしい習慣を続けるためにも、どうか修行しつつお体も労わってあげてください。せっかくこれまで属神的に生きつづけてきた日々が、暗礁に乗り上げて途切れてしまいませんように。つまり、もっと苦行を積もうとするあまりつんのめって、倒れてしまうことがありませんように。どうか何ひとつ喉に通らなくなる前に、適度にお召し上がりください。どうか疲れ切って身動きひとつできなくなる前に、努力しすぎることのないようお気をつけください」と。
憐み深い人だった。とても控えめな方で、喜んで憐みを施していた。生まれつき清い心の持ち主で、他人に優しく神において賢かった。清くて柔和なので誰からも慕われていた。兄弟に人手を求められたら共に3~4日働くことも稀ではなかったが、夕方には必ず僧房に帰っていた。いかなる奉仕にも長けていたからである。目上か目下かを問わず人々を深く敬っていたので、たとい入手した物が自分に必要な物であっても、それを求められたら「持っていません」とは言えなかった。そのうえ兄弟と働くときにも、ほとんど敬意から自らを強いているようであり、できれば僧房に留まっていたい様子だった。じつに驚くべき兄の生活と人々への接し方は以上のとおりである。光栄はわれらの神に世々に帰す、アミン。
第11訓話 年老いた長老について
また、立派に高徳を積んだ長老のもとへ出向いたこともある。私のことをこよなく愛してくださる長老で、口下手でも知恵と心が深く、恩寵に導かれるままに語られる方だった。つねに自己省察して黙修していらしたので、聖奉事に赴くとき以外は僧房から出られることは滅多になかった。
あるとき長老にこう話してみた。「父よ、こんな想念が湧くのです。『主日になったら教会へ行って門の前に座れ。そこで朝早くから食らってみせ、出入りする人々にけなされるがよい』と」。長老はこれに対して次のように答えてくれた。
「しかし世俗人をつまずかせる者は光を見ない、と書いてある。それに、この辺りで君のことを知っている人はいない。君がどんな生活をしているか知っている人はいないから、『修道士が朝から食べているぞ』と噂になるだろう。しかもここにいる兄弟たちは、初心者なので想念が弱い。君を信じて教訓を得ている兄弟も多いというのに、そんなことをした姿を目にしたらつまずいてしまうだろう。古代の師父があえてそのような行為をしたのは、次々と奇跡の業をなして有名になってしまったからだ。だからそうやって自分自身を貶めることで誉れ高き生活を隠し、思い上がる原因を取り除こうとしたわけだ。だからといって、君が同じことをしなければならない謂われなどあるまい。まさか『時期にかなった生活形態』があるということを知らないのか。さしてすごい生活をしているわけでもなければ有名でもない、たかが他の兄弟と同じように暮らしている分際ではないか。だからそんなことをしでかしたら自分のためにならないばかりか、他人にもよくないであろう。ひとえに偉大な完徳者のみが、そのような行為をしてもためになるのだ。なにせ徳行で鍛え上げて思うように意識を操れるようになったからである。でも中級者や初級者がそんなことをしたら百害あって一利なし、まだ大いに気をつけて意識を手なづけてゆく必要があるからだ。たしかに長老らは警戒期を生き抜いたため、どんなことでも好きなように役立てることができるだろう。だが未熟な商人(初心者)の場合、まわりの状況が激変すると大損失を蒙ってしまうものだが、小さな変化であればうまく乗って前進できるのだ。そして先ほども述べたが、物事にはふさわしい順序というものがあり、時期にかなった生き方というものがある。だから時期尚早に力の及ばないことまで手掛けたりしたら、何も得られないばかりか傷口を広げてしまう。もしけなされたいと思うのなら、自分からそう仕向けるのではなく、神の摂理によって顔に泥を塗られたときに喜んで耐えることだ。そして名誉を傷つけられようともうろたえず、けなしてくる相手を憎まないことだ」と。
この長老は青年期から晩年まで汗を流して、生命の木の実を味わった有能な方だった。この長老と、もう一度話す機会があった。そう、徳に関していろいろなことを教えてくださった後にこうおっしゃっていた。「そもそも汗もかかず心痛も伴わない祈りなど、流産した胎児と何ら変わらない。そういう祈りは霊たましいを伴っていないからだ」と。さらに「自分の意見を押し通そうとする論争好きは、ずる賢いうえに強引だ。そういう人には何も言ってはならないし、何も聴き入れてはならない。でないと苦労して得られた清さを失って、ただ心が悶々として訳がわからなくなる」と。
第12訓話 他の長老について
さらに、別の師父の僧房も訪ねたことがある。この聖人は来訪者に対してあまり門を開くことがなかった。しかし窓越しに私が近づいてくるのを見るなり「入りたいか」と聞いてくださったので、「はい、尊貴なる父よ」とお答えした。そして僧房内へお邪魔させていただいて、祈りの句を唱えてから座らせてもらった。色々と話をした後でこう聞いてみた。「ひとつ質問があるのですが……。じつは無駄話をしに来る人たちがいるのです。でも何も得られませんし何のためにもなりません。かといって『来ないでください』とも言うのも憚れます。しかも何とか定刻どおりに祈りたいと思っているのに、しょっちゅう邪魔されてしまうので悲しくなるのです」と。福なる長老は次のように答えてくださった。
「そういう暇人がやってきたら、少しばかり一緒に座って、その後で祈りたいという素振りをみせて叩拝してこう言いなさい。『さあ、もう定刻になりましたので共に祈りましょう。この祈りは後でしようと思ってもなかなかできない規程ですので、破るわけにもいきません。破ると後で困ることになるので、よほどのことでもない限り破ってしまうわけにはいかないのです。さて、今はどうでしょう。これといって祈りを後回しする必要はなさそうですよね』と。そして共に祈ってくれるまで、その人を去らしてはならない。もし『それならば一人で祈ったらいい、私はもうお暇する』と言われたら、伏拝して乞いなさい。『愛ゆえに、せめてこの祈りだけでも共に祈っていただけませんか。あなたの祈りから益を得たいのです』と。そして祈り始めたら、ふだん以上に長く祈るがよい。そのように振る舞っていれば、ああこの人は無駄なことが嫌いなので甘やかしてもらえないと分かり、君がいると言われる場所には寄りつかなくなるだろう。要するに、人の顔色をうかがって神の奉事を疎かにしないよう気をつけることだ。もし師父や疲れた旅人がやってきたら、そういう人たちと共に時を過ごすことは最も長い祈りの代わりになる。しかし、その旅人が無駄話を好む人だった場合には、できる限りもてなした上で、平安を祈って送り出しなさい」と。
ある長老はこう言っていた。「いやはや僧房で手仕事もして祈祷規程も完璧にこなせて、そのうえ困惑せずにいられる人がいるとは何ということか」と。そして驚嘆に値する言葉を放った。「私などは、現にちょっとばかり水を汲みに僧房から離れただけでも、いつもの習慣が乱されたような気がするものだ。その習慣をいくら立て直そうとしてみても、なかなか想念の良し悪しを分別できるようにならない」と。
第13訓話 ある兄弟の質問について
右の長老は、あるとき兄弟からこんな質問を受けていた。「よく何らかの物が、弱さゆえに必要になったり、任務上必要になったり、他の理由で必要になったりします。だからそれがないと黙修できないにもかかわらず、つい必要としている人を見ると可哀想になってそれを渡してしまうのです。しかも求められて差し出すことも少なくありません。いくら必要な物でも愛と戒めゆえに譲らずにはいられないのです。しかし後々、その物を失ったことで不安を覚えて想念が乱れてきます。すると、もはや黙修に没頭しているどころではなくなり、ときには黙修を諦めて同じ物を探すために出かけなければなりません。かりに黙修にこもったまま頑張れたとしても、しんどくて頭が混乱してきます。だから、どうしたらよいのか分からないのです。つまり黙修を止めてまでも兄弟のためになることであるならば実行すべきなのか、それとも依頼を無視して黙修に留まるべきなのか、どちらを選ぶべきなのでしょう」と。
長老は次のように答えていた。「たしかに喜捨とか愛とか慈悲とか、神の前で正しいとされる行為というものがある。しかしだ、よく聴きなさい。黙修者がそのような行為によって、もしも黙修できなくなって世間に気が向き、不安になって神への思いが陰るのであれば、もしも祈れなくなって思いが乱れ、聖書つまり思考を集中させる武器を捨てて警戒心が緩むのであれば、もしも今まで自粛していたのにふいに歩き出し、僧房に帰るなり俗世間を思い出すのであれば、もしも埋もれていた慾がうごめき、抑えていた感覚が解き放たれるのであれば、もしも一度死んだはずの世がまたもや復活し、唯一考えるべき天使の行いからずり落ちて俗世間に埋没するのであれば……、そんな正義とやらは滅びてしまえ。というのも、衣食住のために愛の責務を果たすことは世俗人の仕事であり、かりに修道士の仕事でもあるとしたら、それは中途半端な修道士や黙修できない修道士の仕事であるか、あるいはよく共住修道院に出入りして支え合って黙修している修道士の仕事だからだ。そういう者たちにとっては、人に喜捨とか愛や慈悲を施すことは素晴らしい行為であり、驚嘆に値する行為である。しかし、真に心身ともに世から離れて独居することを選んだ者には別の道がある。そういう者は孤独の中で祈りながら考え方を改め、およそ過ぎゆくものに対して死ぬ。そしてこの世のものを見ようとせず、この世のものに対する記憶からも遠ざかろうとする。ゆえに目に見える正義や身体的奉仕をしてハリストスの前で申し開きをする必要がない。むしろ使徒の言うとおり、おのれの「地にある」(コロサイ 3 : 5)肢体を殺すことでハリストスに仕えるべきなのだ。つまり成長できた最初のしるしとして汚れなき清い想念をハリストスに捧げ、身体的困窮や危険に耐えながら天国を待ち望むべきなのだ。とにかく修道士の生活というのは天使に等しい生活である。だから、天の務めを止めて世俗の務めに向かってはならないのである」と。
光栄はわれらの神に帰す、アミン。
第14訓話 咎められた兄弟について
あるとき、喜捨をしなかったことを咎められた修道士がいた。しかも、咎めてきた人に対して厚かましくも「修道士は喜捨をする必要がない」と言い返した。しかし、咎めた方はこう反論した。「喜捨をしなくてよい修道士は見るからに分かる。たしかにハリストスに面と向かって『見よ、われら一切を捨ててなんじに従えり』(マトフェイ 19 : 27)と言えるような人に、喜捨する義務はないからだ。つまり地上で何も持たず、身体的なことを行わず、目に見えることを何も考えず、何か持とうとすら慮らない者、また、人から何か貰っても必要最小限しか取らず、余った分には見向きもしないでまさに鳥のように生きる者は喜捨すべきではない。なにせ自分自身が必要としていないものを、どうやって他人にあげることなどできようか。しかし生活の煩いに奔走し、自分の手で働いて他人から手に入れている者ならば喜捨すべきことは言うまでもない。そしてもしそういう人が喜捨しようとしないなら、そんな無慈悲は神の戒めに背くことになる。というのも、しょせん内なる祈りで神に近づくこともできず、神゜で神に奉仕することもできない者が、明らかにできる務めすら疎かにするとしたら、救われる望みはどこにある。どう見ても無理な話ではないか」と。
いっぽう別の長老は「黙修しながら他人の生活まで気にかける者には驚かざるをえない」と言っていた。そしてこう言葉をつないでいた。「黙修するならば、黙修以外のことを思い悩んではならない。黙修にまで世俗の心労を混ぜることにならないよう、万事はそれぞれの場で尊まれるべきだ。というのも、多くのことに気を回す者は、多くの奴隷だからである。何もかも捨てて霊たましいの良き状態を気にする者は、神の友である。考えてみれば、世の中には衣食住に困っている隣人に施して愛を全うする者は多い。しかし、みごとに黙修しきって神への思いに没頭できる者は滅多にいない。ためしに施しをしたり、体にまつわる正義を行なったりする世俗人の中で、黙修者が神から授かった賜を一つでも得た者がいようか」と。そしてさらに言った。「あなたがもし世俗人ならば、ふつうに良い仕事をして過ごしなさい。もし修道士ならば、修道士ならではの仕事をして身を飾りなさい。もし両方の仕事を掛け持ちしようとしたら、両方ともうまくいかないだろう。修道士の仕事というのは衣食にまつわる心労から自由になり、祈りを献じつつ肉体を駆使して働き、絶えず心で神を覚えていることだ。こういう仕事を放ったらかして、世俗的な徳を行なって満足できるものかどうか自分の頭で考えよ」と。
質問 修道士が黙修という苦行を積んでいるとき、二つの業を同時に行うことはできるでしょうか。つまり神のことを思いめぐらしながら、同時に心の中で他のことを慮るということです。
回答 たとい黙修すべく何もかも捨てて霊たましいのことだけを慮っていたとしても、とうてい落ち度なく黙修しきれるものではない。もし世のことを思わずにいても黙修しきれるものではないのであれば、なおのこと他の事柄まで慮っていたら黙修などできるわけがなかろう。主は、人々の世話をして主に仕える者たちを世に残された。そして、ただ主の前で仕えられそうな者たちを召し出された。というのは、地上の王国のみに臣民の階級の違いがあるわけではないからである。たとえば地上の王国の場合、いつも王の傍に立って王の機密に参加している者の方が、外面的な業務に携わっている者よりも誉れ高い。これと同じことが、天の王への務めにおいても言えるのだ。つまり、いつも祈りながら神の対話者かつ側近となった者は、いかに世俗人が富や善行で神に仕えていようとも(もちろんこういう務めも大変重要ですばらしいものだが)、それとは比肩できない大胆さを身につけるのである。そうして天上と地上の恵みを得、万物に対して大いに力を発揮するのである。したがって、われわれは神に仕えきっているとはいえない世俗人を見本とするのではなく、歴代の修行者や聖なる闘士をこそ見本とすべきなのだ。それこそ美しく人生を送り、この世のものを何もかも捨てて地上にて天国を耕した方たちである。ひとたび決めたが最後、きっぱりと地上的なものに背を向けて、その両手を天の門に伸ばし続けた方たちなのである。
古代の聖人はこのような生き方をわれわれに残してくれたわけだが、それで一体どうやって神に奉仕していたといえるのだろうか。たとえばフィヴェイの聖イオアンといえば、「徳の宝」とか「預言の源」と称されるほどの聖人だが、はたして隠居しながら兄弟の衣食住を満たすことで神に仕えていたのだろうか。それとも、むしろ祈りや黙修によって仕えていたのだろうか。
もちろん、兄弟を助けることで神に奉仕していた聖人も大勢いることは確かだ。しかしそういう奉仕は、何もかも捨てて祈りに徹した者がなしとげた奉仕には敵わない。なぜなら黙修に成功した者は、ある意味それ自体で兄弟にあからさまな助力をもたらしているからである。つまり、いざという時に、われわれはかれらの言葉や文章に助けられ、祈ってもらって支えられているのである。そして、かれらにしてみれば、そうする以外の助け方は(いかに心の奥で人々の暮らしを慮っていたとしても)属神的には賢い助け方とはいえない。なにせ主は黙修者に向かってではなく、黙修せずに暮らしている人々に向かって「ケサリの物をケサリに納め、神の物を神に納めよ」(マトフェイ 22 : 21)と告げられたのだ。つまり「相手に属するものを与えよ」と言われたわけで、「隣人に属するものは隣人に、神に属するものは神に与えよ」とおっしゃったのである。ゆえに天使階級にて暮らす者には、すなわち霊たましいのことを慮っている者には、「世に属するもので神に仕えよ」という戒めは存在しない。つまり手仕事をせよとか、もらった物を人に与えよという戒めはないわけだ。だからこそ修道士たるもの、神から目がそれてしまう事柄について一切慮ってはならないのである。
もしだれかがこれに反論し、使徒パウェルを引き合いに出して「パウェルは汗水たらして働いた上に喜捨もしたはずだ」とでも言おうものならこう答えよう。パウェルは一人で何もかもできたのだ、と。しかし、パウェルと同じくらい何でもできてしまう「もう一人のパウェル」がいるとは耳にしたこともない。なにせそういうもう一人のパウェルがいるのなら、ぜひともそのお方を見せてくれ。見せてくれたらあなたの言いたいことも信じよう。それに神の摂理で起こったような奇蹟は、普遍的な務めの見本にしてはならないはずだ。しかも福音宣教をするとなれば、黙修とは逆の働き方をしなければならないではないか。もしあなたが黙修に励もうと思うのなら、一切合切生活のことを慮らないヘルヴィムのような者となれ。そして先代の師父が教えてくれたように、この地上には自分と神以外に慮るべき存在はないと思うことだ。だいたい心を鬼にして一定期間ただ祈りのみに専念しなければ、つまり神への善行であろうと生活のための善行であろうと、世を心配したくなる慈悲心を無理やり押し殺さなければ、心がぐらついて不安を覚えて黙修になど留まっていられたものではない。
ゆえに、美徳の言い訳のように見せかけて「もっと〇〇ことについて気にかけるべきではないか」という考えが心の静寂をかき乱してきたときには、ぜひこう言ってやるがよい。「愛の道はすばらしい。神のために行う慈善も立派だ。しかし私は神のためにこそ、そういう慈善をする気はない」と。ある師父は、修道士に「父よ、どうか立ち止まってください。神のためにあなたを追いかけているのです」と呼び止められたとき、「こっちだって神のためにあなたから逃げているのだ」と答えたという。そう、かの師父アルセニイは、神のために人を避け、霊たましいのためになることもそれ以外のことも一切話そうとしなかった。周囲を見渡せば神のために朝から晩まで口を開き、どんな訪問者でも受け入れている師父が身近にいたにもかかわらず、ひたすら沈黙して黙修するほうを選んだのである。そして、今生の海の波間にあって聖神と語らい、黙修の舟に乗って大いなる静けさのうちにこの海を渡り終えた。これは師父アルセニイのことを神に問うてやまなかった修行者らが、明らかに目にしたことである。かくして、「すべてに対して黙れ」という黙修の鉄則が生まれたのだ。かくなる鉄則があるにもかかわらず、もしも黙修中にひどく心がぐらつき、手仕事をして体をこき使い、だれかのことを気にかけて霊たましいを乱すのなら、なんたる黙修をしているのか自ら判断せよ。あれもこれも気にしながら神に仕えているつもりなのか、と。というのも、捨て切れない何かを持ったまま、つまり頭から離れない慮りを抱いたまま、黙修生活で成功しようなどとは口にするのも恥ずかしいことだからだ。光栄はわれらの神にこそ帰すべし。
第15訓話 黙修の長点について。知性の支配力と、いかに知性が様々な祈りの中でも考えうるかについて。祈りには、もともとどのような限界があるのか。人はいかなる限界まで祈りによって祈れるのか。たとえ「祈り」と呼ばれていても、どの限界を超えるとすでに祈りではなくなるのか
光栄は、人々に豊かに賜をくださる主に帰すべし。主は、肉体をまとう者(人間)が天使階級で仕えることを良しとされ、土くれにすぎない人間に奥義を語らう口を与えてくださった。しかもわれわれのように奥義を聴くに値しない罪人の心の盲まで解かれ、聖書や偉大な師父の教えを理解できるようにしてくださった。というのも、私自身も修行してきたとはいえ、こうして書いてきたことの千分の一でさえ体験的には知らないのである。とくにこの書物はあなた方の霊たましいを呼び覚まして照らすため、またあらゆる読者のために書いているのだが、もしや立ち上がってこうなりたいと思い、行動に移してくれる人が出てこないかと望んでいるだけである。
祈りによって得られる甘美というものは、祈りによって得られる観照とは別物である。観照は甘美に対して、成人が少年と異なるくらい高度なものである。ときに唱えている祈祷句が甘く感じ、同じ句を数えきれないくらい祈っていても次の句へ移れないことがある。しかもそれでも満足しきれない。また、ときに祈りから観照が生じ、その観照によって口で祈りを唱えられなくなり、驚嘆して体が釘付けになることがある。この状態を、祈りによる観照と呼ぶ。この状態は、いわゆる異象だとか象徴だとか、もしくは浅はかな者が言うように夢想だとかいうものではない。それにこの観照は賜の桁が違ったりいろいろな種類があったりするが、やはりまだ祈りの範疇に留まるものである。なぜなら知性がまだ祈りのやむ領域までは踏み込んでおらず、祈りよりも高度な状態には達していないからである。なにせ祈るときの舌や心の動きというのは、ほんの鍵のようなものにすぎない。祈祷者はその鍵で開いた後に、秘められた宝庫へ入っていくことになる。この宝庫へ入ったとき、どの口も舌も黙するしかない。そこでは、心という想念の弁護人も黙し、知性という意識の首謀者も黙し、思考という速くて恥知らずな鳥も黙し、それらの策略が押しなべて黙すことになる。そう、探し求めてきた者はここで立ち止まるのだ。なぜならば、家の主人(神)が訪れたからである。
第16訓話 清らかな祈りについて
師父によると、律法や戒めというものは、人がそれらによって「心の清さ」に至ったときに効力を失うという。祈りもそれと同じだ。どんな祈り方であろうと「清い祈り」に至ったときに力を持たなくなる。というのは、嘆いたり伏拝したり熱く願ったり甘く泣いたりといった祈り方はすべて、いま言ったように清い祈りを極限とし、人は祈りによってそこまでしかたどり着けないからである。そして清い祈りという極限を超えて以降、内面の清さに至るまでの間は、もはや祈ることも泣くこともなくなり、自由に考えることも願うことも求めることも、わくわくしながら現世や来世に対して何かを期待することもなくなる。だから、清い祈りの後にはもはや他の祈りはない、と言ったのだ。知性はこの限界点までしか、祈りの自由な動きによってたどり着くことができない。だからこそ、われわれは祈りの次元で修行しているわけだ。ただしこの限界点を超えた後には、すでに驚嘆こそあれども祈りはない。なぜなら、およそ祈りらしきものは止み、すでに何らかの観照が訪れるからである。そのとき、知性は祈りによって祈っているわけではない。
祈りというものは、どのような形で祈っていようともつねに動きのなかで息づいている。しかし知性が属神的動きに入るなり、すでに「祈る」ということはしない。たしかに「祈り」と「観照」は互いに生み出し合うものではあるとはいえ、それでも両者はやはり異なる行為である。ちょうど「祈り」が種まきのようなものであるのに対し、「観照」は刈り取った穂を束ねて積み上げるようなものだ。そのとき収穫者は、かつて自分の手で地面に蒔き散らしたわずかな種が、突如これほど見事な穀物の山になったのを目のあたりにして、その言いようのない直観に目をみはる。そして、あらゆる動きを失くしてたたずむのだ。なにせ祈りとは、そもそも願いや感謝や讃美を神にささげる動的行為を意味するからである。はたして知性が極限を超えてかの領域に入ってゆくとき、これらの祈願がどれか一つでも生じうるかどうか、より抜かりなく分析してみよ。これは真実を知っている人に問い質している。だが皆がこの点を見極めているわけではない。ただ祈りを観察しながら祈りに仕えた者、あるいはそうした師父に習った者、または師父から教わって真実を知っていて、師父の言葉に基づいて人生を送った者のみが見極めていることだからである。
ほぼ抜かりなく戒めと律法を守って霊たましいの清さに達した者など、幾万人に一人いるかいないかであろう。同じく、ものすごく気をつけて清い祈りに達してこの極限を突破し、かの機密にあずかった者も幾万人に一人いるかいないかだ。なぜなら、どうあがいても清い祈りにあずかれなかった者の方が圧倒的に多いからである。清い祈りにあずかれた者などごく少数のみ。さらにこの清い祈りの向こう側にある機密にまで達した者など、神の恩寵によって幾世代に一人いたかどうかという数に違いない。
祈るということは、つまり何かを願ったり心配したり希こいねがったりすることである。たとえば「現世の誘惑から救い出し、来世での試練からもお救いください」とか「師父の知恵を継がせてください」と求めることである。つまりそうやって祈願することで神の助力を得ているわけだ。祈りは、このような領域を超えない中で動いており、その清さや汚れは次の点によって決まる。もし願いなり感謝なり讃美なりを献げようとしたその時に、何かしら脳裏に余計な考えや心配事が思い浮かぶならば、その祈りは清い祈りでない。なぜなら知性は主の奉献台(つまり心、この属神的な神の奉献台)に汚れた生贄を持ってきたからである。ところが師父の至言をろくに解せないまま、師父のいう属神的祈りとやらを引き合いに出して「いや、心配事を抱えた祈りだって、属神的祈りの範疇だろう」と主張する人がいたとしよう。もし厳密に「属神的」という概念を突き止めるならば、しょせん受造物にすぎない分際が、いうなれば「属神的祈りでさえ、逸れてしまうことはあるさ」などと言いのけるのは冒涜というものだ。というのは、逸れてしまうような祈りは「属神的祈り」よりも次元が低いからである。およそ属神的祈りと言われている祈りは、あらゆる動きを超越した祈りなのだ。しかも辛うじて清く祈れる人がいるかいないかというときに、そのもっと上にある属神的祈りを持ち出すなど笑止千万ではないか。
聖師父は代々、およそ善き動きや属神的な営みをすべてひっくるめて「祈り」と名づける習わしがあった。そして師父だけではなく知恵に照らされた人々もみな、あらゆる優れた営みをほぼ祈りと同じものとして捉える向きがあった。そもそも「祈り」と「営み」といえば、両者が異なる行為であることくらいは自明の理ではないか。にもかかわらず師父たちは、属神的祈りのことを文脈にあわせて「道」と呼んでみたり「知恵」と呼んでみたり「知性の直観」と呼んでみたりしている。こうして師父たちが属神的対象について呼び分けている点に注意してほしい。というのは、名称が帯びる正確な意味というのは、この世の事物に裏付けられて確立するものであるが、来世の対象には真に正確な呼び名というものが存在しないからである。そこにはただ純粋な知恵があるのみで、この来世に関わる知恵はあらゆる名称よりも高みにあり、それは構成要素・像・色・輪郭など、およそ言葉で紡げる綾を超越したところに存在する。だから師父が物質界を超えた霊的知恵に至ったとき、そこで見たものを意味して気に入った名称を用いるのも、だれ一人として正確な名称を知らないからである。しかしながら、かの聖ディオニシイが「よく聴き手に分かりやすい比喩や文体を用いたり、ピタっとくる名称や慣用表現を用いたりすることがある」と述べたように、師父としても知恵を得たときには、その霊的思索を論証しようとして名称や比喩を用いるのである。とはいえ、われわれの霊たましいが聖神によって神聖な領域まで昇りきったときには、そういう分かりやすい論証も不要となる。それはちょうど属神的な霊たましいが、悟りがたく神に結ばれて神に似た者となって天の光を浴びて輝いているその時に、もはや修行するまでもないのと同じである。
というわけで兄弟よ。知性というものは、しょせん清い祈りという限界点までしか自分自身の動きを見分けられないのだ。この限界点へ達したが最後、もといたところへ戻るか、あるいはさらに突き進んで祈りを放棄するかしなければ、その祈りは「霊的祈り」とも「属神的祈り」ともつかない祈りのごとくなるだろう。まだ知性が動いているうちは霊的領域に留まることになる。しかし知性が属神的領域へ入るなり祈りも途切れることになる。なにせ聖人は、来世に踏みこんで知性が聖神に呑まれてゆくとき、祈りで祈るのではなく、すばらしいと讃えて光栄のうちに住みついて楽しませてもらっているからである。これと同じことが、われわれにも起こる。知性は来世の福を感じるや否や、自分自身とこの世のすべてを忘れ、もはや何かに向かおうする動きを失うのだ。だから次のように確信を持って言いきる人がいる。「人は、そもそも自由意志を働かせて徳をなしたり祈ったりする。まずは自由意志でこうせよと意識に働きかけたからこそ、体をつかって徳をなしたり祈ったり、思いのうちに徳をなしたり祈ったりすることができるわけだ。しかも「知性」という、この慾を支配する王ですらも、日頃から自由意志で操っている。ところがだ。こうして日頃われわれの意識や想念を作りだしている知性が、かの統治者たる聖神に掌握されたときには、われわれの本性から自由も奪われることとなる。そのとき、自由意志は聖神に誘導されこそはすれ、もはや自ら誘導することなどできなくなるのである」と。
このとき、つまり本性が自己統御力を失い、他力に誘導されてどこに向かっているのかも分からないとき、いったいどこに祈りがあるというのか。まさに、考えたいようにも考えられず、すっかり虜にされてどこで誘導されているのかも感じられないというその時に、いったいどんな祈りがあるのか。そのとき人は欲求を持たず、しかも聖書が証しているように体の中にいるのか外にいるのかも分からないという(コリント後、一二・二)。それに、それほど強く捕らわれて自分自身すらも認識できないような人間が、もはや祈ろうとすることすらできようか。だからこそ言っておく。属神的祈りで祈れるなどと大言壮語して、冒涜してはならない。まさに鼻高々と祈る者や無教養な者、また祈ろうと思えば属神的祈りで祈れるなどとうそぶく者が、そういう暴言を吐く。しかし謙遜に事を弁えている者ならば、師父のもとで本性の限界を学ぼうとするので、そんな不遜な考えに走ることはない。
質問 もしそのような言いがたい恩寵を受けた状態が「祈り」ではないならば、なぜ祈りという名で呼ばれているのでしょうか。
回答 なぜかと言うと、この恩寵は、たしかに人がふさわしく祈っているときに降ってくるし、ちょうど祈りに応えるようにして与えられるものだからだ。師父たちも、この誉れ高い恩寵は祈祷中以外には宿りようがないと言いきっている。でもなぜ「祈り」と呼ばれているのかと言えば、まさに祈ればこそ、知性がかの至福へ導かれるからであり、しばしば祈りながらその至福へ至るからである。師父たちも、祈祷中を除いてこの至福を受けられるような状態はない、と書いている。そう、あなたも聖人伝を読んで知っているだろう。よく聖人は祈りの最中に知性もろとも昇華したことを――。
しかしどうしてこの大いなる賜は祈祷中にしか与えられないのだろうか、と問うかもしれない。その理由は、人は祈っている時こそ他のどんなときよりも自己に集中しているからである。まさに神の声を聴こうとし、神の憐みを乞うて待ち望んでいるからである。端的にいうと、それは王門の前に立って王に乞い願っている瞬間なのだ。ゆえにそのような時に、乞願して呼び掛ける者の願いが叶うのは理に適っていると言えるだろう。なにせ祈りに向かっている時以外に、人が祈祷時と同じくらいの心構えで自己注視している時間帯などあろうか。はたして何かそういう賜を受けるに際しては、よほど睡眠中や労働中や怒気を帯びている時のほうが相応しいとでも言うのか。いかにも聖人を見よ。いつも属神的なことに励んで無為に時間を過ごさなかったとはいえ、そんな彼らでさえ祈りに向かえない時がないわけではなかった。身近に起きた出来事を考えたり、受造物を観察したり、そのほか実際にためになることを学んだりして過ごすことも少なからずあったわけだ。しかし祈りに立つなり心眼による観照をただ神へ向かわせ、おのが動きをすべて神へ向け、真心からひたすら熱心に神に祈願を献げていた。そしてそれゆえに、霊たましいがただ一つのことを慮っていたがゆえに、神の恩寵が降り注ぐのに最適な状態だったのである。
現にわれわれも日頃、司祭が心して神の憐みを祈りながら知性を一か所に集中させているとき、奉献台に供えたパンとぶどう酒に聖神が降ってくるのを見ているではないか。かのザハリヤも祈祷中に、天使がやって来て前駆イオアンが誕生するという予言を耳にした。また使徒ペトルも第六時に部屋で祈っていた際に、天から動物を乗せた布が降ってくるという異象を見て異邦人へ布教し始めた。さらに、コルニリイも祈祷中に、天使が現れて自分自身について書かれたことを耳にした。同じようにナヴィンの息子イイススも頭を垂れて祈っていた時、神のお告げを受けたのである。ちなみに古代の祭司のことも思い出しておこう。かれらは聖像箱の上に置いた盥たらいを見て知るべきことを知りえていたのだが、まさにどういう時に盥たらいをとおして神の異象を目にしていたのであったか。まさに年に一度のみ、イズライリ全部族の末裔がこぞって幕屋の外で祈りを献じている中、大祭司だけが至聖所へ入って突っ伏して祈りを唱えるという、慄きの瞬間ではなかったか。大祭司は、この慄くべき言いがたい異象の中で、神の声を耳にしたのである。おお、大祭司が仕えていたこの機密というのは、なんと恐ろしい機密であったことか。このように、聖人が目にした異象というのは、すべて祈祷中に起きた出来事なのである。
そもそもこれほど聖なる賜を受けるにあたり、神と語らうことになる祈祷時よりも聖なる時間が他にあろうか。人は祈りを唱えて神と語らうとき、ありとあらゆる思いを一点に集中させてただ神のことだけを思い、心も神によって満たされる。だからこそ、悟りがたいことを理解するのだ。なにせ聖神は個々人の力量に応じて働くものなので、まさに人が祈っていることの中から動因を借りて働くためである。ゆえに集中すればするほど祈りの動きは止み、知性は驚嘆の渦に呑まれて何を願い求めていたかも忘れ、知的な動きがどんどん深く陶酔していってこの世に存在しなくなる。そのとき、霊たましいと体の違いはなくなり、いかなる記憶もなくなる。まさに福なる聖大グリゴリイが「祈れているとき、それは知性が清いという証拠である。知性が清いだけで、驚くべきことに聖三者の光の分け前に与るのだ」と言ったとおりである。
さあ、人が祈って見晴らしが良くなったとき、いかなる分け前に与っているか分かっただろうか。この訓話の冒頭や他の箇所に書いてあることを読んで、それを確認できただろうか。聖大グリゴリイは、「知性は余計なことを考えなくなったときに清まる。それは天に咲く花のようなもので、祈祷中に聖三者の光を受けて輝く」とも言っている。
質問 いったいどんな時に、そのような恩寵に与ることができるのでしょうか。
回答 祈祷中だと言われている。知性が「古き人」を脱ぎ捨てて、恩寵に満ちた「新しい人」を着たとき、天の花に似た清らかさを自らのうちに見る。まさに、かのイズライリの族長が山上で神を見た折に「神の場所」(出エギペト 24 : 10)と呼ぶことになった、あの清らかさである。したがって、すでに述べたとおり、かくなる恩寵や賜のことを(まるで自力の及ぶ範囲にあるかのように)「属神的祈り」などと呼ぶべきではないのだ。むしろ聖神から送られてくる「清い祈りの産物」とでも呼んでおくべきものなのである。そのとき、知性は祈りよりも清いところにあり、より良きものを得たために祈りを止める。もはや祈りでもって祈るわけではなく、むしろ朽ちる世の限界を超えた理解しがたいことを観て感嘆し、およそ現世にあるものに対して無知となって黙りこむのだ。この無知こそ、最高の知と呼ばれている知である。まさに「祈りと一体となった無知に達した者は幸いである」と言われているところの「無知」である。われわれも神の独り子の恩寵によって、この無知に与ることができますように。あらゆる光栄と尊貴と伏拝は神子に帰す、今もいつも世々に、アミン。
第17訓話 霊的に深く観照したいとき、どうすれば事物を思いめぐらす肉的な想念を離れて観照へ沈むことができるかについて
より上にあるものは、より下にあるものには秘められている。そしてこれは、なにも上にあるものが幕のような何かに覆われていて、その幕さえ開けば秘められたものが見えてくるとかいう話ではない。およそ知能体(知能ある生命体。つまり天使や霊たましいや悪鬼)というものは、その特性を外から入手するのではなく、逆に自己内でどう動いているかによってその特性を決めている。つまり自己内の動きでもって、じかに原初の光に近づいていくこともできれば、いっそ他の階級の知能体のようになることもできるのだ。ここでいう「他の階級」とは、当然地位の違いからくる階級ではなく、むしろどれだけ清く受けとめて清い身であれるか、どれほど天上の暗示や力を理解できるかという能力の差異による階級という意味である。いずれの知能体も、おのれより下の知能体からは見えない。それも生まれつきではなく、徳の動きが違うから見えない。
何を言おうとしているのかというと、聖天使や霊たましいや悪鬼のことだ。天使は霊たましいからは見えないし、霊たましいは悪鬼からは見えない。単に生まれつき見えないだけでなく、居場所も違うし動きも違うので見えない。いかなる知能体も(肉眼で見える知能体かどうかを問わず)、知恵をつけなければ自分自身も見えないだけでなく、同じ階級にいる知能体同士も互いに見えない。だが、より下位の階級にいる知能体からは、その本﹅性﹅ゆ﹅え﹅に﹅見えない。なぜならば、霊的実体というものは身体的実体とは異なり、おのれの外にあるものを見ているわけではないからだ。むしろ霊的実体が互いを「見る」ということは、つまり自分が見ている実体の動きの内に、徳と動きでもって「いる」ということなのだ。したがって、同じ宿命を負う身として敬うべき知能体同士ならば、たとい互いに離れていたとしても、たしかに幻としてではなく真に本性のままの相手を見る。唯一、見ることができない対象は、全受造物の原因たる神だけである。神は唯一伏拝されるべき方として、かくなる差異を超越されたお方だからである。
悪鬼はひどく汚れているが、悪鬼階級の中では互いに見えないというわけではない。だが、おのれよりも上位にある二つの階級を見ることはできない。なぜなら、属神的直観というのは動きによる光であり、この光こそ見ようとする者の鏡となり目となるものだからである。だから動きが曇ったが最後、その知能体はより上位にある階級が見えなくなる。悪鬼同士が互いに見えるのは、属神的階級(天使や霊たましい)よりも肥っているからだ。
人の霊たましいの場合、汚れていて暗いうちは互いのことも見えなければ自分自身のことも見えない。だが、清めて古来の受造時の状態に帰れば、これら三つの階級をはっきり見るようになる。つまり下位階級と上位階級と、自分自身の階級にいる者同士が見えるようになる。しかも、天使や悪鬼や霊たましいが体をまとってくれたから見えるようになったのではなく、むしろそれらの本性がそれぞれの属神的階級にあるがままの姿で見えてくる。ところが「変身して見える形でもとってもらわない限り、天使や悪鬼が見えるわけがないじゃないか」と言う人がいたとしよう。しかしそう言っていること自体がすでに、心眼ではなく肉眼で見ていることを示している。肉眼で見るくらいなら、なにもわざわざ清めるまでもなかろう。なにせ汚れた人々でさえ天使や悪鬼を目にすることがあるではないか。ただ、そういう人たちは肉眼でしか物事を見ない以上、あえて清めるまでもないだけのことだ。ところが、霊たましいが清さに達したときには、汚れた人々とはちがって属神的に見るようになる。つまり本性の目で、知恵の目で、洞察眼で見るようになる。それに、霊たましいが体の中にありながら互いに見ることができると聞いて驚いてはならない。ここに真実の証人による明証があるからだ。まさに、福なる聖大アファナシイが『聖大アントニイ伝』の中で記したくだりである。
あるとき、聖大アントニイは祈祷中に、ある人の霊たましいが大いなる栄誉を受けて昇ってゆくさまを見た。そして、そのような栄誉に与った者を褒め称えた。ニトリアの福アンモンの霊たましいであった。しかし、ニトリアといえば聖アントニイの祈っていた山から徒歩で十三日もかかるほど、遠く離れたところにある土地だったのである。
この事例は、すでに先述した三つの階級があるということ、つまり属神的本性は離れていても互いに見ることができ、五感や距離に左右されないことを裏づけている。そしてこの事例にも書いてあるように、霊たましいは清まると身体的にではなく属神的に見るようになるのだ。なにせ身体的視力では目前のものしか見られないため、かけ離れたものは別の直観を利用しなければ見えないからである。
天使階級は数えきれないほど多く存在し、特権や階級の違いによって呼び分けられている。実際、なぜ「権天使」とか「能天使」とか「力天使」と呼び分けられているのだろうか。「主天使」と呼ばれているのは、とくに名誉ある存在だからかもしれない。アテネの主教ディオニシイが述べたように、そういう上位階級の天使らは数としては下位階級よりも少ないが、より多くの権力と知恵を持っており、より大いなる階級として他より隔てられている。なにせ階級が上がるごとに遠のいていって、かの強大なる諸天使をすべて超えた頭首、すなわち全受造物の礎たる頭首との一致に行きつくからだ。ここでいう頭首とは創造主のことではなく、神の奇蹟的創造のはじめにあった摂理のことである。なぜならほとんどの天使が、創造主や創造主の叡智に満ちた摂理よりも下位にあり、それがどれほど低いかと言えば、各々その足下の存在が彼ら自身に及ばないのと同じくらいに低い。「低い」と言ったのは、居場所の高低を意味しているわけではなく、むしろ隣りあった階級と比べてどれくらい知恵があるかで決まる上下関係を意味する。現に、聖書はこれらの属神的実体(天使)を9つの属神的名称で呼び分けたうえに、3つの等級に区分しているからである。
1等級に入るのは、大いに崇高で至聖なる「座天使」、多くの目を持つ「智天使」(ヘルヴィム)、6つの翼を持った「熾天使」(セラフィム)である。2等級には「主天使」「力天使」「能天使」が入り、3等級には「権天使」「大天使」「天使」が入る。上記の呼称にはヘブライ語で以下のような意味がある。熾天使(セラフィム)とは「温めて火をつける者」。智天使(ヘルヴィム)とは「知恵と叡智に富む賢者」。座天使とは「神のくつろぐ土台」。ちなみにこれらの呼称は、階級固有の働きをも示している。それゆえにわれわれは、「称えるべき者」として座天使と呼び、「どの王国にも権威をもつ者」として主天使と呼ぶ。「天空を整備する者」として権天使と呼び、「民族や個人を支配する者」として能天使と呼ぶ。「恐ろしい見た目をもつ強者」として力天使と呼び、「成聖する者」として熾天使(セラフィム)と呼ぶ。「知恵を帯びる者」として智天使(ヘルヴィム)と呼び、「眠らず護衛する者」として大天使、また「使者」として天使と呼ぶ。
神は、天地創造の第一の日、無言のまま9つの属神的本性を創られ、言葉によって1つの本性を造られた。つまり、光である。第二の日には天空を造られた。第三の日には水を造って集められ、植物を生えさせられた。第四の日には光を分けられた。第五の日には鳥と爬虫類と魚を造られ、第六の日には動物と人間を造られた。全世界は、東西南北に開かれている。始まりは東、終わりは西。右側が北で、左側が南。神は大地を隅々まで床のように敷き、いちばん高い天を皮でも張るように円天井のごとく立体的にした。いっぽう空(われわれの視界に入る空間)は、その最高天に接する輪のようにして天地をつなぐ役割を果たしている。海洋は空と地を囲む帯のようであり、その中には空まで手の届く高い山々がある。山々の向こう側では太陽が夜のあいだ過ごし、山々に囲まれた海は地表のほぼ四分の三を占める。光栄は、われらの神にこそ帰すべし。
第18訓話 肉体をもたない本性を見る直観について。質問と回答
質問 人が肉体をもたない者(霊)を見るには、どんな方法があるのでしょうか。
回答 人が生まれつきの知覚でもって、すうっと透きとおった霊体をありのままに見る方法は三つしかない。具現化して肥った相手を見るか、そっとかすかに相手を観るか、あるいは真に観照するか(つまり実体自体を観照するか)のいずれかである。人は具現化して肥った相手を見ているとき、感覚に牛耳られている。そっとかすかに相手を観ているとき、霊たましいでただ表面を見ているだけである。真に観照しているとき、必ず知力が働いている。人は意志と知力を駆使して、こうしてそっとかすかに観たり観照したりできるのだが、もとはといえばこうしようと決めるのは意志であるため、つまり意志によって知性が霊的に楽しんでいるということだ。そう、まさに意志が自由を生んでいるというわけだが、必要に迫られたときにはこの自由意志も押し黙り、おのが自由を用いずに直観の作用に任せることもある。あえて観ようという意志も真の知恵もないというのに、ただ直観の作用が示されてくるのだ。なぜならその気がなくても意識は一時的に起こる事柄を受けとる能力があるからである。われわれは天使と通じあうとき、これら三つの方法をとおして導いてもらい、人生を歩いてゆく手助けをしてもらっている。
ところが汚れた悪鬼ときたら、なにせ人の利益のためではなく人を滅ぼすために近づいてくるわけだ。でもわれわれの内に前者二つの方法しか作動させられないので、三つ目の方法で人を惑そうとしてもできない。なぜなら知性にとってしっくりくる想念を動かす力をまったく持ち合わせていないからである。というのも、たかが闇の落とし子の分際で光に近づけるわけがなかろう。かたや聖天使がこの力を帯び、人の想念を動かして照らすことができるのに対し、悪鬼はねじ曲がった思考の親玉かつ仕掛け役にすぎず、しょせん闇から生まれた私生児にすぎない。そもそも光ある者だからこそ光を与えられるのだが、黒ずんだ輩は闇しか与えられないのだ。
質問 なぜ一方には光が与えられて、もう一方には与えられていないのでしょうか。
回答 天使も悪鬼も教導者たるもの、まずは自己内でよく点検して調べて受け入れて味わってから、教える相手に知恵を提供している。まっとうな教導者(天使)は、身につけた健常な知恵に基づいて、物事の認識を正しく伝えている。洞察力に長けた清い知性で、すぐに何もかも素早く把握できるからである。ところが、悪鬼は迅速ではあっても光がない。迅速であるのと光があるのとはまったく別である。光を伴わない迅速さは、迅速な者自身を滅ぼしてしまう。光が真実を見せるのに対し、迅速さは真実の幻影しか見せられない。なぜなら光とは事物のありのままの姿を見せるものだが、それは生き方に応じて増えたり減ったりするものだからである。
われわれが物事の動きを認識しようとするとき、聖天使は知恵に基づいて認識させてくれる。つまりあらかじめ味わって悟った事柄を、われわれにも伝えてくれているのである。いっぽう邪な教導者(悪鬼)は、知っている範囲内でわれわれに物事の動きを思い描かせる。そうしないと、自分自身が体験したこともない正しい想念を、人の心に呼び起こさなければならなくなってしまうからだ。しかしすでに述べたように、かりにわれわれが学び得ることができたとしても、しょせん悪鬼ごときに真の観照を教えることはできない、という点は確信せよ。悪鬼は、かつてその観照を持っていたにもかかわらず教えようがないのだ。天使にせよ悪鬼にせよ、いずれもおのれの行動原理に基づいてあれこれ人のうちに呼び起しているにすぎない。ところが人の知性というものは、そもそも聖天使に助けられなくても学ばずして善に向かうことができるはずなのだ。これは事実だと思う。だから悪鬼が囁いてこなければ、われわれは悪を知ることもなく、悪に動くこともなく、知性もおのずと悪を行うことはできない。なにせ本性には善が植えつけられているのであって、悪は植えつけられていないからである。すべてよそ者にして外から入ってくるものは、それを知るためには何らかの仲介者が必要となる。だが事実として、内面で成長していくものはすべて教わらなくても本性にいくらか沁みこんでいる。そして本性というものがそういう性質であるならば、本性はおのずと善に向かい、天使による観照がなくても善において成長し、光り輝けるはずなのだ。とはいえ、それでもやはり天使はわれわれの教師にして、天使自身もまた互いに教師である。より下位にいる者は、より光を帯びていて寄り添ってくれる相手に学ぶものだ。そのようにして互いに上位者から学び、ひとにぎりの一級天使まで徐々に昇りつめてゆくのである。一級天使の教師たるものこそ、聖三者である。つまり最高階級にいる天使さえもが、自ら断言しているように、独学ではなくイイススという仲介者を教師として仰ぎ、イイススから学んだことを下の階級に伝えているのである。
知性は、もともと神聖なものを観照しようとする力が備わっていないのではなかろうか。まさにそういう不完全性を持っている点において、われわれは天使と等しい。なぜならば天使にも人間にも恩寵が働いているからである。天使も人間もこのような知力しかない以上、神聖なものを観照するようにはできていない。なぜなら神聖なものを観照するということは、他の事柄を観照するのとはまったく別次元のことだからである。まさに本性ではなく恩寵によってこそ、天と地にあるすべてを観照できるのだ。この本性では他の事柄ならば観照できても、天と地のすべてを悟ることなどできまい。
天使でさえ、ハリストスが藉身するまでは現在ほど聖なる奥義を観照したり直観できたりしたわけではなかった。しかし使徒の言うように、ついに言ことばが身を取られたとき、イイススによって天使に「門が開かれた」(コリンフ後 2 : 12)のである。だから、かりにわれわれが潔癖と言いきれるまで清くなれたとしても、天使に助けてもらえたのでなければ、とてもこの思考力ではかの「永遠の観照」(奥義の開示)への道を見つけたり知ったりすることなどできなかったはずなのだ(それに実際そのとおりであろう)。なぜなら、永遠の神からじかに啓示や観照を受けとっている天使ほどの知力を持ち合わせていないからである。第一、そんな天使でさえ啓示や観照というものを表象のうちに受けとっているのであり、赤裸々に一糸纏わず受けとっているわけではない。同じくわれわれも知力で啓示や観照を受けとろうとするとき、表象のうちに受けとる。というのも、どの階級も他の階級から受けとるときには、上から下へ伝授されるときの格差を重んじ、きちんと規律を守って受けとるものだからである。かくして、奥義は全階級へ伝えられていく。とはいえ、一等級に留まったまま二等級以下に伝播されない奥義も多い。なぜならこの一等級以外には、大いなる奥義を受け入れられる器をもった階級がないからである。しかし中には、一等級から出て二等級にのみ啓かれる奥義もある。でも二等級が啓かれた奥義を秘めて黙っているので、他の等級からしてみれば悟りようがない。もちろん三等級や四等級まで行きつく奥義もあるが、啓示というものは、そもそも聖天使でさえはっきり見えたりよく見えなかったりすることがあるものだ。
天使でさえそうならば、われわれが天使の助けなくしてそのような奥義を手に入れることなどできようか。むしろ聖人は、まさに天使から入手することで、奥義の啓示を感じとることがあるのだ。そして神が上位階級から下位階級へ啓示が受け継がれるのをお許しになり、しかもどうにかして人間の本性にまで行き着くことをお許しになれば、きちんと受けとれる方々のもとまで啓示が行き着くこともある。というのも、聖人は天使から観照用の光を入手し、学びがたい「光栄なる永在者」(神)という奥義までも観照するからである。そのうえ聖人同士も互いに奥義を分かち合っている。なぜなら「かれら」もまた「皆奉事する神゜(として、救われるべき人々のところへ)遣わされ」るからである(エウレイ 1 : 14 参照)。
しかし来世においては、右のような規律は無に帰すだろう。なぜなら、そこでは神の光栄なる啓示は、もう他者から受けることによって讃えたり楽しんだりするものではなくなるからである。むしろどのくらい献身してきたかに応じて、じかに主宰者から然るべきものを堂々と受けとるのであり、現世のように他者から賜を受けとるわけではなくなるのである。というのは、来世では教える側も教わる側もなくなり、自分の足りないところを他者に補ってもらう必要がなくなるからである。そこには、ただ唯一の与え主がおられ、受容力ある者にじかに授けてくださるのだ。そこでは天の楽しみを見出せる者が、神からじかに天の楽しみを受けとる。もはや教える側とか教わる側とかいう階級の違いは存在しない。あらゆる願望が一気に、ただ唯一のお方に集中するのである。
だからこそ「地獄では、愛の鞭に打たれて苦しむことになる」と言っているのだ。ああ、この愛による苦しみはなんと辛くむごいものであることか。というのは、人は愛に逆らって犯してしまった罪を痛感したとき、どんなに胸の裂ける苦痛よりもむごい苦しみを嘗めることになるからだ。「こんなにも愛されていたというのに、どうしてこうも罪を犯してきたのか」という悲しみが心を貫く。この悲しみが、考えうるどんな刑罰よりも恐ろしい。「罪人は地獄で神の愛を失うだろう」だなんて、とんでもない誤解である。人は真実に出会ったときに愛を覚える以上、隠されていた本当のことを知って愛を覚えることは(だれもが頷くように)だれにでもあるからだ。ただし愛には、影響力が二通りある。すでに人間関係で味わったことがあるように咎のある者を苦しませ、本分を尽くした者を喜ばす。だから地獄の苦しみとは、まさに「悔恨」なのだと思う。いっぽう天の子となった霊たましいは、愛に慰められて満たされるだろう。
質問 ちなみに「どんなときに罪が赦されたと分かるのでしょうか」と問われたことがあるのですが。
回答 その問いにはこんな答えがある。「心底から罪を憎みきったと感じ、従来とは逆の方向にしっかり踏み出したときだ。すると良心が、すでに罪を憎んだことを裏づけてくれるので、たしかに神に罪を赦されたという望みを置くことができる。使徒も言ったように、良心が責めないということが、罪の赦されたことを証明しているのだ(ロマ 2 : 15 参照)」。願わくはわれらも、父と子と聖神の仁愛と恩寵によって罪の赦しを得られんことを。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。
第19訓話 思弁で描く主日と安息日(日曜日と土曜日)のかたち。その比喩的な意味について
主日というものは、われわれが血肉をもって生きているかぎり把握できるものではない。真実を知ったあとに辿りつくような奥義を、とても捉えられるわけがない。現世においては、真の意味での第八日目(日曜日)など存在せず、安息日(土曜日)もない。というのも、かつて預言者が「神は第七日に、(中略)息やすめり」(創世記二・二)と書いたのは、今生の臨終後に訪れる「安息」を意味していたのだ。なぜなら、かの墓というのは体のことであり、体は世から来たものだからである。人間は、六日間のあいだ戒めを守って生活を営む。七日目は墓の中で終日過ごし、八日目に墓から出て行く。
比喩にあずかれる者は、ここで暦の日曜日ではなく「主日の奥義」を読み取る。同じく修行者も、暦の土曜日ではなく「土曜日の奥義」を読み取る。土ス曜ボ日タ(安息日)とは、あらゆる悲しみから憩い、不安を残らず取りのぞいた完全な安息である。というのも神は安息日に文字どおり休めと告げられたのではなく、ここで機密を与えられたのだ。真に比類なき安息日というのは、墓の中に入ってから迎えることとなる。墓こそ、心をかき乱す行為やしんどい慾などをきれいさっぱり忘れた安息を表わしている。人はみな墓の中で安息し、霊たましいも体も休ませるのだ。
神は、六日間でこの全宇宙の構成要素を組立てて自然界を整えられ、仕えさせるために自然界に絶え間ない運動を与えられ、それぞれ壊れる日まで止まらないようにされた。この止まらない力でもって、つまり原初の自然現象の力でもって、われわれの体をも造られた。ひいては自然現象に動きを止めることを授けなかったように、自然界から取ったわれわれの体にも仕事を休む暇をお与えにならなかった。そして人が仕事をついに手離してくつろげるのは体が原初状態へ戻る時、つまり、この世から旅立つ時とされた。アダムに「なんじは面に汗してなんじの食を食い」と言われたとおりである。われわれはこの「茨とあざみを出でさせる土」の上で、いつまで汗を流すのか。「なんじが取られし所の土に帰るときまで」(創世記 3 : 18, 19 参照)である。つまり、息あるうちは汗を流すことこそ、生を営むということの奥義なのである。
しかし主は、主ご自身が汗を流したあの夜以降、かの茨やあざみに悩まされた汗を、義をなして祈って流す汗に変えられた。神は、五千五百年あまりアダムが地上で汗を流して働くままに任された。なぜなら福なる使徒が述べたように「聖所の入る途のいまだ啓かれざる」(エウレイ 9 : 8)状態だったからである。だが世の終わりの日々を迎えて、その労苦の汗を祈りの汗に変えて自由の身になる戒めを授けに降臨され、ただ羽を伸ばして休むのではなく、まるっきり変容することをお許しになった。なぜなら、長期間にわたるわれわれの苦しみをご覧になって、慈愛をお示しになられたからである。
ゆえに地にて汗を流すことを止めるのであれば、茨を刈り取る羽目になることは避けられない。というのも祈ることを止めるということは、つまりもともと茨を生じさせる「地」(心)を肉慾化させる行動だからである。慾こそ、まさに体に蒔かれたものから萌え出ずる茨ではないか(ガラテア六・八参照)。アダムの姿をこの身にまとっているうちは、アダムの慾をもまとわぬわけにはいかない。なにせ地としては、地ならではの物を生じせないわけにもいかないからだ。そもそも土から生じた塵から、われわれの体は造られた。神の声が「なんじは、塵にして」(創世記 3 : 19)と証言されたとおりである。足元の地は、茨を萌え出でさせている。この知恵を帯びた「地」(心)は、慾を萌え出でさせている。
もしわれわれにとって主は、神秘的にも摂理の業においても模範であるならば、おまけに金曜日の第九時まで骨身を惜しまず汗を流され(これぞ最期まで働き切ることの奥義だ)、ようやく土曜日に墓に眠られたのであれば、もはや「人生にも安息日(土曜日)がある」つまり「慾から休める時間がある」などと豪語する連中はいったい何者だ。高尚すぎて主日(日曜日)のことなど口にするのも憚れる。われわれの安息日とは、つまり葬られる日のことである。墓の中で、われわれの本性はまさしく安息するに違いない。だが日々こうして「地」が生き延びているかぎり、この本性から茨を抜きつづけないわけにはいかない。ひとえにしぶとく抜きつづけることによってのみ、この茨は減っていくのだ。なにせこの「地」が丸っきり茨から清まることなどありえないからである。しかも少しでも怠れば茨がみるみる地を覆い、植えてきたものがやられ、流した汗が水の泡となってしまう以上、もはや毎日地をきれいに耕していくほかなかろう。抜くのを止めたが最後、茨がどんどん生えてきてしまうからだ。ぜひとも父と一体なる独生子の恩寵によって、この生えつづける茨から身を浄めてゆこうではないか。光栄は始めなき父と子と生命をほどこす聖神とに世々に帰す。アミン。
第20訓話 ただ自分自身のみを注視すべく僧房にこもった者が、毎日欠かさず思うべき有益なことについて
こんなことを書いて壁に貼り、いつも読みあげて忘れないようにしている人がいた。
「汚れた奴め、ずいぶん愚かに人生を過ごしてきたものだ。これではどんな目に遭ってもおかしくない。せめて残された日々のうち、今日くらいは気をつけて過ごせないか。ろくな善行もなく愚かなことばかりして徒らに過ごしてきたのだ。もう世の中がどうなったとか、人々がどう暮らしているかとか訊いたりするな。それに修道士の様子とか、修道士が何をしてどう生活してどれだけすごい修行をしているかとか、そういったことも一切気にかけるな。なにせ神秘的に世から抜け出て、ハリストスにおける死者となったようなものなのだ。これ以上、世と世にあるものに対して生きるな。そうすれば穏やかにハリストスのうちに生きられるようになるだろう。どんな暴言や侮辱を浴びても笑われても非難されても持ちこたえられるように武装せよ。何を言われようと『おっしゃるとおりです』と喜んで聞き入れ、苦労や苦難が相次いでもありがたく耐え忍べ。悪鬼の言いなりになった分際として悪鬼のよこす災難をも忍び、必需品に事欠いても潔く我慢して不運にも耐えよ。本当に必要ならば神が与えてくださると信じて、食糧が足りなかろうと涙をのめ。しょせん糞尿と化すだけのものじゃないか。万難を甘受しながら神に救われることを願い、つい逃げ道とか慰めてくれそうな人がいないかとか探したりするな。まさに『なんじの重任おもにを主に負わしめ』て(聖詠 54: 23)、つまりあらゆる杞憂を神に委ねて、誘惑を受けるたびに自分を責め、とことん自分のせいだと思うのだ。他人の悪事を見ても真似るな。傷つけてられても咎めるな。なぜならお前自身も禁断の木の実を味わって、ありとあらゆる慾を身につけた分際ではないか。しんどい不運だって喜んで受け入れよ。そうすれば、いま少しばかりわなわな慄ふるえても、後々きっと喜び楽しむことになるだろう。吐き気のするお前の名誉こそ禍のもとだ。あろうことか、その罪にまみれた霊たましいをよしよしと労わりながら、言葉と思いでもって片っ端から人を裁いてきたではないか。いい加減にしろ。こんな豚用の餌を今日まで食らい続けてきたうえに、さらに食らって生きつづけていく気か。汚らわしい奴め。どこに人間らしさがある。かくも愚かに過ごしておきながら、なおも人間社会に留まって恥ずかしいとも思わないのか。もし右に記したことを注意深くすべて守るのなら、あるいは神に助けられて救われることもあるかもしれない。もしも守らないのであれば、闇の国に入って悪鬼と暮らすようになるだけさ。鼻高々と悪鬼に盲従してきた身として当然の仕打ちだ。さあ、何もかも証言したぞ。胸に手を当てて考えよ。一生の間、その胸の中でどれだけ人を非難し、どれだけ冷水を浴びせてきたことか。もしも神がその人たちに対して『さあ、こやつに報いるために立ち上がれ』とでも命じようものならば、世界中の人々がお前のせいで忙殺されてしまうだろう。だからこそ、もう人を悪く思うのは止めろ。そして、降りかかってくる報いを耐え抜くのだ」と。
この修道士は、上に書いたことを毎日思い起こして、襲ってくる誘惑や苦難に対して備えていた。むしろそういう逆境を肥やしにして感謝できるようにするためである。ああ、われわれも人を愛する神の恩寵によって、降りかかってくる災難をありがたく忍んで肥やしにすることができたならば。光栄と権能は神に世々に帰す。アミン。
第21訓話 いろいろな事柄についての問答
質問 心が邪念に走らないようにするためには、どうしたら良いでしょうか。
回答 いつも叡智の道を歩み、人生の教訓にどっぷりと浸ることだ。思いが乱れないようにするうえで、これほど強い足枷はない。
質問 叡智を求める道に到達点はあるのでしょうか。どうなったときに叡智を学び終えたことになるのでしょうか。
回答 どこまで歩いていっても到達することなどありえない。なにせ聖人でさえ歩みつづけて理想には辿り着かなかったのである。叡智の道に終点はない。叡智を学べば学ぶほど、どんどん高く昇りつめ、やがては神に結ばれるだろう。これぞ、終点のない証拠である。なぜなら叡智とは、神ご自身だからだ。
質問 まず何をとおして叡智に近づけるのでしょうか。その出発点はどこにあるのでしょうか。
回答 まずは必死に神の叡智を希こいねがい、そう希いながら死ぬまでひたすら邁進することだ。しかも神を愛するがゆえに、必要となったら命を捨てることまで厭わない勇気だ。
質問 本当に知恵のある人とは、どのような人でしょうか。
回答 この人生に終わりがあることを真に理解した人だ。死という境界線を悟った人は、自分の犯す罪にも境界線を設けることができる。そもそもこれ以上に悟るべき知恵はない。つまり欲情に汚れた臭い部分を体に持たず、甘い慾で穢れた痕を霊(たましい)に残さず、ただ傷なくしてこの世を去ることのみ考える――これほど深い洞察があろうか。というのも、かりに万物の神秘的な本質を見抜こうとして思いを凝らし、観察して発明して知恵に富んでいたとする。ところが霊たましいが罪に汚れていて天国へ行ける確信を持てないまま、まんまと待望の港に辿りついたぞと思っているとしたら、世の中にこれほどの愚者もいまい。しょせん世間に認められたい一心で活躍してきただけなので、この世的な希望を見出したにすぎないからだ。
質問 真の意味で、だれよりもしっかりしている人とはどういう人でしょうか。
回答 一時的な苦難を穏やかな心で受け入れられる人だ。苦難の中にこそ、救いと勝利の栄冠が秘められている。そして、安楽を欲しがらない人だ。安楽には恥ずべき汚臭が潜んでいるので、安楽を得るなり年中ため息をついて過ごすことになってしまう。
質問 神に向かって歩いていたのに、誘惑に負けて善行から逸れてしまった場合、どんな痛手を蒙るのでしょうか。
回答 神に近づこうとするとき、苦しまずに近づくことなどできない。苦しみを避けているようでは義を貫けないからだ。だから、義を増し加えてくれる修行を止めるのならば、義を守りぬく修行も止めることとなる。すると、警備をしない宝庫のようになる。または、敵中にいて武器を奪われた戦士か、備蓄をもたない船のようになる。あるいは、水源を失った園のようになる。
質問 道理に明るい人とは、どういう人のことですか。
回答 世の快楽に忍びこんだ苦味をしっかり見出して、もはや快楽の杯を口にしなくなった者のことだ。日夜どうやって霊たましいを救おうか考えながら、世を去る日までひたすら歩みつづける者のことだ。そして五感の門を閉ざして世に振り回されないようにし、秘めた宝を盗られないようにする者のことだ。
質問 世とは、いったい何なのでしょうか。どうやったら世を知ることができましょう。そして世を愛してしまうと、どんな害を蒙るのでしょうか。
回答 世というやつは淫婦だ。この淫婦の美貌を慕って見つめる者は、目を奪われて恋をしてしまう。少しでも世を好きになって世に足元をすくわれた者は、死ぬまで世の手中から逃れることはできない。そして臨終の時を迎え、何もかももぎ取られて家から運び出されてはじめて、ああ、世とはまことに媚びへつらう詐欺師であったのかと気づくのだ。世が身にしみこんでいるうちは、世の闇からどんなに抜け出ようともがいても世の罠を見抜けない。そうやって世は、世に縛られた者たちを手中に引き留めておくことはおろか、世の縛りを断ちきった清貧の修行者、つまり世を超えた者でさえも引き留めておくのだ。周知のとおり、あの手この手で修行者を引き寄せては足元に落として踏みつけているわけだ。
質問 病気にかかって体がだるくなると、あれほど善を求めていた初心も揺らいで意志もぐらつくことがあります。どうすれば良いでしょうか。
回答 よく半分だけ主に従っていって、もう半分は世に残っていることがある。心も現世のものを断ち切れずに自己分裂を起こし、前を見るときもあれば後ろを見るときもあるという具合だ。こうして自己分裂を起こしながら神の道に近づこうとする人々に対して、かの賢者は「二心をもって主に近づいてはならない(シラ 1 : 28)。むしろ蒔きながら刈り取る者となって主に近づくべきだ(シラ 6 : 19 参照)」と助言したのだと思う。ところが世をきっぱり断ち切れず、怖いとか悲しいとか泣き言を言って自己分裂を起こし、知性というよりか想念でもって後ろを振り返り、どうにも肉欲を捨て切れない者がいる。だから主は、そういう人の心理を踏まえて、その弱まった意識を払いのけようとして、「人もしわれに従わんと欲せば、(まずは)己を捨てよ」(マトフェイ 16 : 24)と明言されたのだ。
質問 「己を捨てよ」とはどういう意味なのでしょうか。
回答 そもそも十字架に昇る決心をした者は、ただ死ぬことしか頭にない。もはや生きて帰ることなど夢にも見ずに十字架に昇っていく。「己を捨てよ」という言葉を実践したい者も同じようにすると良い。なにせ十字架とは、いかなる苦難も呑みこむ覚悟をきめた意志だからである。主も「この世で生きたいと願えば、真の生命を失うことになる。この世で『我がために』自らを失えばこそ、あの世で自分自身を得るのだ」(マトフェイ 10 : 39)とおっしゃって、なぜ己を捨てるべきなのか教えられた。つまり「ひたすら十字架の道を歩みつづければこそ、あの世で自分自身を得られるだろう」と告げられたのである。
もし修行者が再びこの世のことを慮るのならば、かつて世を出て苦難に身を投じたときに抱いていた望みを捨てることになる。というのも世の事柄に心を砕いている以上は、神へ向かう苦難に近寄れなくなってしまうからだ。それに、世のことを慮っていると「福なる生命」をめざす修行から徐々に離れていき、世への思いが膨れあがり、いずれ完全に打ちのめされてしまう。しかし、神への愛ゆえに「我がためにその生命を失」おうとする者は(マトフェイ 10 : 39)、きれいに傷なく永遠の生命に入っていくだろう。「我がためにその生命を失う者は、これを得ん」(マトフェイ 10 :39)とは、そういう意味だ。まだここにいる間に、すすんでこの世に対して霊たましいがとことん死ぬようにせよ。そしてこの世の命に対して自分を捨て切ることができたとき、主にこう告げてもらえるだろう。「かつて約束したとおり、あなたに永遠の生命を与えよう(イオアン 10 :28)。そうやってまだこの世で息をしている間でも、言ったことを実証してみせるだけなく来世の福楽も確証させてみせよう。人はこの世の命を軽んじたときに永遠の生命を得るのだ。そのように身構えて修行に取り掛かれば、難しそうで辛そうに思われたことのすべてが取るに足らないものとして目に映るようになるだろう」と。なにせそういう思いで武装していれば、たとい死の危険が身に迫ってこようとも不戦勝のまま苦にも感じないからだ。ゆえに、骨の髄まで心得ておけ。来世の福なる生命を求めて現世の人生を憎まないかぎり、次々と見舞ってくる苦難や悲哀に耐えきることなどできないのだ。
質問 以前の習慣から抜け出して、清貧や修行生活を学んでいくためにはどうすればよいのでしょうか。
回答 楽しくだらだらと過ごせる環境にいるうちは、身体的欲求を満たさずにいることを体が許さない。体にとってだらけたくなるものを何もかも遠ざけないかぎり、知性もそういう欲求を断つことなどできない。というのも、いつも快楽や喧騒を目の前にし、朝から晩まで楽な生き方を見つめていたら、自分だってそうやって生きたいと強く思うようになり、つい釣られて興奮してしまうからだ。ゆえに贖罪主は、主に従いますと誓った者に対し、いみじくも無一文になって世から出でよと戒められたのである(マトフェイ 19 : 21)。なぜなら、人はだらけたくなるものをことごとく退けてはじめて、物事に取り掛かることができるからである。主ご自身でさえ、悪魔との闘いを始めるにあたり、まず人気ひとけなき荒野にて戦われたではないか。そしてパウェルも、ハリストスの十字架を受け入れた者へ向かって「われらは彼の辱めを担いて、営の外に出でて、彼に就くべし」(エウレイ 13 : 13)と呼びかけ、町から出でよと勧めている。なぜなら、主は郊外で苦しまれたからである。というのは、世と世の万事から離れればこそ、よりすみやかに以前の習慣や生き方を忘れて、長いことそれに振り回されずに済むからである。ところが、世と世にあるものに近づくなり、知力が弱まってしまう。ゆえに救いの道においては、どうすればうまく修行を闘い抜けるのかを、よくよく把握しておかなければならない。つまり、僧房内は貧しくして物をわずかしか置かず、楽になれるものが何一つない空っぽな状態にしておくことなのだ。なにせ遊惰をもたらす原因さえ取り除いておけば、「内なる闘い」と「外なる闘い」による双方攻撃をくらう危険がないからである。ゆえに、身の周りにだらけたくなるものを置いていない者は、慾を刺激するものを置いている者と比べて勝利しやすい。なぜなら慾を刺激するものを置いている者は、二重の修行を強いられているからである。生活必需品に事欠いたところに住んでいる者は、食欲もたやすく軽んじられる。食欲に程よく応えるべき時刻が訪れても、食い意地を張って食べるのではなく、せめて少しだけも食べよと体を強いる。むしろ食事なんぞ取るまでもなかろうと思いつつ、美味しいものを味わうために食卓につくのではなく、体を維持するために食事を摂る。そういう奮い立った心持ちでいれば、じきに憂いも悲しみもない想念のまま修行できるようになる。
かくして、熱心な修行者ならば即刻すべてを振り払って後ろを振り返ることなく、闘いを挑んでくるものから逃げ去るべきだ。闘いを強いてくるものとは交わらず、目をくれることさえ自制し、できるかぎりお近づきにならないように逃げることだ。これは胃袋に関してのみ言っているのではない。およそ修道士の自由意志が試される闘いや誘惑のすべてについて言っている。なにせ神へ向かうにあたって自制すると誓ったはずではないか。まさに女の顔を見つめないこと、美しい顔立ちを見ないこと、そして何に対しても慾を貪らず、贅沢をせず、お洒落な服装を見ないこと。さらに世俗人の暮らしぶりを目に入れず、世俗人の言葉に耳を貸さず、世俗人に好奇心を抱かないことである。慾とは、およそこういうものに近づくなり大きな力を得て、修行者を弱らせてその考えと目論見を変えてしまうからだ。何がしか良いものを見れば、よしっと奮い立って善を行いたくなるものだ。ということは、つまり逆に良くないものを見るならば、見ているだけで知性が虜にされやすいことは言うまでもない。そもそも黙修者が知性で修行すべきであるのに大したものも得られずに、ただ無闇に闘う修行だけに終始しているとしたら、それ自体がもはや大いなる損失ではないか。わざわざ穏やかな状態から、すすんで混沌状態へ嵌まっているからである。それに少しでも気を緩めている場合だろうか。ある長老など百戦錬磨の修行を積んだ身でありながらも、女みたいに髭のない青年を見たときに、想念を傷つけては修行が水の泡になると思って、僧房へ立ち入ってその青年に接吻することさえ憚ったのである。賢明にも「今夜ここに何か似たものがあると思うだけで大損害を蒙る」と考えた。そして入室せず青年にこう言ったのである。「これといって恐れているわけじゃない。だが、みだりに闘いをおびき寄せる必要があろうか。知性は何か似たものを思い出すだけで良からぬ思いに濁ってしまう。この体には、あちこちにおとりが隠れている。だから大いに闘わなければならないし、自分を守らなければならないし、おとりを介して迫りくる闘いを少しでも和らげる必要がある。逃げればこそ、闘いから救われるからだ。ところが闘いを呼び起こすものに近づくなり、必死に善に向かおうとしていようとも危険状態に陥ってしまう。人は、いつも目にしているものを欲しくなるからだ」。
地中には隠れた薬草がたくさんある。でも、夏には暑くてどこにあるのか分からない。ところが、ひんやり潤った風が吹くようになると、どの薬草がどこにあったのかが判明する。人間も同じだ。黙修して恩寵の温もりを浴びて自制しているあいだは、多くの慾から解放されて穏やかでいられることがある。ところが、この世の事柄に乗り出すなり、いかに慾が次々と立ち上がって頭をもたげることか目のあたりにするのだ。ことに安楽の匂いを嗅ぎとったときにそうなる。こんなことを話しておくのも、まだ体にいて息の絶えないかぎり、だれ一人として自己過信しないようにするためである。そして汚れた生活へ誘うものからことごとく逃げて遠のけば、修行上かなり闘いやすくなることを示しておきたかったからである。ふと思い出すだけでも恥ずかしくなるような事柄はつねに恐れるべきだ。良心の声を踏みにじったり侮ったりしてはならない。要するに、しばらく荒野に身をおこうではないか。そしてこの身に忍耐力をつけさせようではないか。とはいえ、どこに身をおいていようとも関係なくいちばん大事なのは、闘いをもたらすものから遠のこうとすることだ(たといそれがどんなに悲しくても、遠のくことができれば怖れるものは一切なくなるため)。欲求を満たすものさえ傍になければ、欲求が湧き起こったときに罪に陥らずに済むからである。
質問 あらゆる娯楽を捨てて修行に入ったとき、いかなる点から罪と闘い始めたらよいのでしょうか。そして、どのようにして闘い始めていったらよいのでしょうか。
回答 罪や欲求と闘うには、「まず儆醒(目を覚ましていること)し、斎せよ」と言われている。とくに内面で生じる罪と闘う者はそうすべきだ。儆醒して斎をする者こそ、見えざる戦いを闘っている修行者の中でも、ひときわ罪や欲求を憎んでいることを示している。まずは斎から始めて、斎が乗ってきたら儆醒の修行をするとよい。
斎と儆醒
一生好んで斎と儆醒に向き合う者は、貞潔の友となる。人は満腹して寝過ぎれば、淫欲が燃えてあらゆる愚行に走ることになる。逆に、斎して徹夜して日夜身体を磔にし、甘い眠りに逆らって奉神礼にて儆醒していれば、聖なる神の道を歩んで徳を積み重ねていく足場ができる。そもそも斎とは何か。斎とは、諸徳の砦にして修行の始まりだ。まさに自制者の冠にして童貞者の華であり、節操の美である。ハリスティアニンは、斎から歩み始めて操を守りやすくなり、祈りやすくなって知恵がつく。まさに斎によって黙修を学び、ありとあらゆる善行を知ってゆくのだ。ちょうど健康な目が光を見たがるように、賢く斎を守っていると祈りたくなる。
斎を守り始めると、知性で神と語らいたくなる。というのも、斎をしている体は一晩中床の上で眠ることなどできないからだ。斎して口を封じるなり、傷感することができるようになって心から祈りが湧き出ずる。表情は憂いて下品な想念も遠のき、楽しそうな眼差しも消えて、肉慾や無駄話を敵に回す。これまでだれ一人として、聡明な斎行者が劣悪な欲求の奴隷になった姿を見たことはない。よく判断して斎を守っていれば、あらゆる善が身につくようになるだろう。ただし斎に手を抜けば、善かったものが全部ぐらつくことになる。なぜなら斎とは、われわれが食事する際の注意事項として最初に与えられた戒めであり、この戒めを破ったせいで人間という受造物の先祖は堕ちてしまったからである。しかし最初に打ちのめされた点であればこそ、その点から神の法を守り始めていけば、神を畏れつつ立ち上がっていくことができるのだ。
救主もイオルダン川で世に現れたとき、まさに斎をすることから始められた。というのは、洗礼を受けられた後、聖神に導かれて荒野へ行かれ、40日と40夜も斎をされたからである。救主の後塵を拝した人々も、まずは斎から修行し始めたが、それもこれも斎こそ神に与えられた武器だからだ。だから、斎に手を抜く輩は咎められても当然である。法を造った方(神)でさえ斎をしたというのに、法を守る側が斎をしない謂われなどあろうか。そういう甘い考えだったからこそ人類は斎を守るまで勝つことができず、悪魔に負けっ放しだったのである。しかし、この武器を身につけるなり悪魔の力をぐいっと弱めることができた。まさに主イイスス・ハリストスが、斎の教導者として最初に悪魔に勝ち、われわれの本性の頭に最初の勝利の冠を被せてくださったのである。だから悪魔はわれわれに襲いかかろうとしても、この武器を持っている人を見るなり恐れをなし、かつて荒野で救主に負けたことをはっと思い出して肩を落とし、神が人類に与えたこの武器を目にしているだけで身を焼かれるのだ。これほど強い武器が他にあろうか。ハリストスの名のために空腹になることほど、大胆に悪魔と闘う気になれるものが他にあろうか。というのも人は悪霊の軍に取り囲まれたとき、斎をして体に苦労をかければかけるほど希望が持てるからである。斎という武器を装備した者は、いつも覇気に富んでいる。なにせ熱い預言者イリヤも、神の法を究明すべく全力を懸けていたとき、まさにこの業、つまり斎をしていたからだ。斎をしていると聖神の戒めを思い出し、旧約の律法とハリストスの恩寵が結びつく。斎に手を抜く者は、ほかの修行にも手を抜いてだらしなくひ弱で、そうやって気が弱りはじめた悪い兆しを見せて敵に勝たせる隙を与えている。なぜなら武装もせずに裸一貫で修行に向かうようなものだからだ。そんな姿で闘ってみたところで勝てるわけがない。だいたい肢体が斎による空腹からくる熱気を帯びていないからだ。斎とは、そういうものである。斎している者は理性が揺るがず、どんなにひどい慾に見舞われようとも迎え撃つ用意ができている。
かの致命者たちは、神からの知らせや友人を通してあらかじめ自分の処刑日を知っていた場合、致命の栄冠を待ち受けながら夜中なにも口にしないことが多かった。そして夕方から明け方まで奮い立って祈りに向かい、聖詠を唱えたり聖歌を歌ったりして神を讃栄し、結婚式にでも行くかのように喜び楽しみながらその時刻を待った。斎をしている身で剣を受けるためである。よって、目に見えない致命へ召されているわれわれも、聖なる栄冠を受けるために目を覚まし、指一本でも瞬き一つでも棄教する兆しなど敵に見せないようにしようではないか。
質問 ただ斎や儆醒を守っているはずなのに、静けさを感じない人も結構いますよね。しかも多くの場合、慾も収まらず想念も穏やかにならないのはなぜでしょうか。
回答 兄弟よ。霊たましいに秘められた慾というのは、体に労苦をかけるだけでは治せないのだ。身体的修行だけでは、五感をとおして四六時中湧き起こってくる想念を抑えることはできない。もっとも身体的修行をしていれば、慾にも溺れず悪魔にもやられずに済むのだが、平安や静けさまで霊たましいにもたらされることはない。というのは、身体的修行をしながら黙修も守ればこそ、つまり意識がしばらく外部からの刺激を受けず叡智の中で動くようになればこそ、霊たましいも無慾になって「地にある肢体」(コロサイ 3 : 5)も滅び、想念も鎮まるからである。人は、あらゆる交際を絶って浮ついた想念を一蹴して自分自身に集中しないかぎり、おのれの慾を認識できない。聖ワシリイの言うように、黙修こそ、霊たましいを清めてゆく出発点なのだ。というのも、人は五感が外の刺激に触れず、気が外に散らなくなってはじめて、頭も外界をめぐる楽しみから定位置に戻って落ち着き、心も内面にある霊たましいの思いを探求したくなるからだ。そうやってうまく黙修に留まることができれば、少しずつ霊たましいを清めてゆけるようになる。
質問 外にいながらも霊たましいは清められないものなのでしょうか。
回答 日々、木に水をかけていたら根っこが乾くことなどあろうか。毎日、盛りつけていたら器が空になることなどあろうか。もし清さというものが、気ままな生活や習慣を避けることであるならば、自ら、ないし他人とともに旧習に染まったまま五感で悪習を味わっている者は、いかにして霊たましいの浄化など期待できようか。いかにして霊たましいを悪習から清めて外敵に見向きもせず、せめて自分自身を見られる日が来ようか。来る日も来る日も心を汚すのならば、いつ穢れを落とすことなどできようか。だいたい敵軍に太刀打ちできない分際なのに、よりによって敵地に入ってひっきりなしに戦況報告を受ける身となったら、心を浄めている暇などあろうか。そんな戦闘状態で、どうやって霊たましいに「なんじに平安」などと告げられよう。敵地から離れることさえできれば、はじめは少しずつ内面をかき乱していた波が収まっていくだろう。そもそも川上にて水を堰き止めないかぎり、川下で水が尽きることはないわけだ。だからこそ黙修に身を置けば、人は霊たましいの慾を峻別でき、霊たましいの奥に隠れていた英知を見抜けるようになる。そのとき「内なる人」も属神的な事柄に目覚め、霊たましいの奥に隠れていた英知が日に日に芽吹いていくのを感じるだろう。
質問 霊たましいの奥に隠れていた英知を見出したとき、どういう兆しがあるのでしょうか。はっきりこれだと言えるしるしは何でしょうか。
回答 強いずとも涙があふれ出てくるという恩寵に与ったときだ。なぜなら知性が身体的事柄から属神的事柄へ移る際、つまり慾の状態から清い状態へ移る際に出てくるものが涙であり、涙があたかもその境界をなしているからだ。人は、涙の賜を得るまでは「外なる人」のみで修行しており、属神的に生きる人が内に秘めている現実を何ひとつ感じていない。というのも、もしこの世の身体的なものに目もくれず、本性に備わる境界線を越えることさえできれば、すみやかにこの涙の恩寵に出会うからである。その涙は神秘的生活をしていく最初の段階で流れ出し、人を完全な神の愛へ導いてゆく涙である。人は上達すればするほどこの涙の恩寵に富み、延々ととめどなく涙を流しているうちに、やがて飲食物と一緒に涙を口にするようになる。
これぞ知性が世を離れて、かの属神的な世界を感じたといえる確かなしるしである。でもこの涙は、この世に近づけば近づいた分だけ渇いていく。そして知性がすっぽりこの世に埋まるなり渇ききってしまう。涙が渇ききったとき、それは人が慾に埋没してしまった証拠なのだ。
涙の区別について
泣いて悶え苦しむ涙もあれば、泣いて元気づく涙もある。心底から罪を悔いて泣くときは、体も悶え苦しんでやつれる。そういう涙で泣いているときは、霊たましいの最高司令部(知恵)でさえ傷を受けることがある。しかも、まずはこの涙の段階に入らざるをえないわけだが、しかしこの段階に入ることによって、より優れた次の段階へ入る門が開くのだ。その門を開いた先には喜びの国が待っていて、そこで憐みを頂くことになる。この段階における涙は、もはや思慮深く流す涙である。つまり体を美しくして元気づけ、強いずとも自ら溢れ出てくる。しかもただ人体を元気づけるだけでなく、人の見た目も変わっていく。というのも、「心に楽しみあれば顔色喜ばしく、心に憂いあれば気塞ぐ」(箴言 15 : 13)と言われているとおりだからだ。
質問 ちなみに使徒の言うところの「霊たましいの復活」とは何を意味するのでしょうか。使徒は「なんじらもしハリストスと共に復活せしならば」(コロサイ 3 : 1)と表現していますが。
回答 使徒は他の箇所で「暗闇より光の照ることを命ぜし神は、われらの心を照せり」(コリンフ後 4 : 6)とも告げていることから、「霊たましいの復活」とは「古き人」を脱ぎ捨てることであることが分かる。まさに神が「我なんじらに新しき心を与え、なんじらのうちに新しき霊を置く」(イエゼキイリ 36 : 26)と告げられたように、「古き人」のかけらも残ってない「新しき人」に生まれ変わることこそ「霊たましいの復活」なのだ。というのは「古き人」を脱ぎ捨てたとき、われわれのうちで聖神がハリストスを形づくり、叡智を啓いて神を知らしめてくれるからである。
質問 黙修の力とは、(端的に言って)どういう点にあるのでしょうか。
回答 黙修すれば外側の感覚を殺し、内側の動きを呼び起こすことができる。でも外側の用事に忙しくしていると、これとは逆の現象が起こる。つまり外側の感覚が目覚めて、内側の動きが殺されてしまうのだ。
質問 どうして異象や啓示を受けることがあるのでしょうか。なぜ異象を得ている人よりも努力を積んでいるというのに、異象など得られない人もいるのでしょうか。
回答 その理由はいろいろとある。まずは全人類に役立つように神が配分されているためである。または弱い人が慰めを受けたり、奮い立ったり、学んだりできるようにするためである。そもそも異象や啓示とは神の憐みによって授かるものである。たいてい異象や啓示を受けるような人というのは、次の三種類のどれかにあてはまる。ほとんど悪意を持たない純朴な人か、完璧な人か聖人か、あるいは神への熱意に燃えてすっかりこの世を捨て、世を離れて目に見える援助を一切期待せずに神に従った者だ。こういう者は、その排他的環境ゆえに恐怖に襲われたり、飢えて死にそうになったり病気になったり、状況が悪くなったり苦難に見舞われたりして絶望に陥りそうになることがある。ゆえに、もしそういう隠遁者には慰めが与えられて、かたや隠遁者よりもよほど努力しているのに慰めが与えられない人がいるとしたら、その一番の理由は、どれだけ清いか汚いか、まさに良心の清さの違いによるわけだ。それに加えて、次のような理由があることも確かである。人は、もともと人間的な慰めや何かしら目に見える慰めを得るなり、異象や啓示などの慰めは得られなくなると言われている。むろん例外として全人類に役立つために神に配分されることもあるにはあるが、いまここでは隠遁者の話をしている。よって、この原則は次の聖伝によって裏づけられるだろう。ある師父が慰めを得ようとして祈っていたら、「そうやって人々と語らって癒されているだけでも十分ではないか」と告げられたのである。
さらにこの師父と似たような師父も、独りきりで隠遁していたときには常に恩寵に慰められていたというのに、世に近づくなりその慰めを得ようとしても得られなくなったという。なぜこれまでどおり得られなくなったのか知りたくて、「主よ、まさか主教職ゆえに恩寵が取り去られたのでしょうか」と尋ねたところ、「いや、そうではない。神はただ荒野で生きる者たちのことを気にかけて、あのような慰めを与えているのだ」と告げられたのである。というのも、概して目に見える慰めを手にしていながら、恩寵の慰めまで得ることは不可能だからだ。もちろん先ほども触れたように例外として、神のみぞ知る理由によって、秘められたご計画に基づいて分け与えられることもあるわけだが。
質問 「異象」と「啓示」とは同じものでしょうか。それとも違うものでしょうか。
回答 違うものだ。しかも明らかに違う。ただ二つともしばしば「啓示」という言葉で言い表してしまうこともある。なぜなら異象を観ていると神秘が見えてくるため、どんな異象も啓示と呼ばれてしまうのだ。しかし、啓示のことを異象と呼ぶことはできない。啓示とは、おおかた認識できるものを指し、知性でとらえて理解できるものを啓示と呼ぶ。いっぽう異象とは、どんな手段であろうと把握できるすべてを意味するため、たとえば表象とか予象とか、古くは旧約時代に見られるように深く眠っている時とか覚醒している時とか、細部まではっきり観ることもあれば幻のうちにおぼろげに観ることもあるのだ。だから異象にあずかった者自身も、目覚めて観ていたのか夢で観ていたのか判別できなかったこともあるくらいである。そこでは助言を耳にすることもできたし、何らかの予象が観えることもあった。ときには面と向かって明らかに対面し、一問一答できたりしたこともあった。観えた相手は尊厳を帯びた天使で、啓示を作りだしていた。そしてそのような異象は、どれもこれも荒野など特に人々から離れた場所で生じたのである。居場所自体からは他に何の助けも慰めも得られなかったため、隠遁者はそういう助けや慰めを必要としていたのである。他方、啓示とは知性で捉えるものだ。清ければ受け入れやすくなるものだが、ひとえに完徳の者や理解できる者のみに与えられる。
質問 心の清さに至った場合、どんな兆しがあるでしょうか。はたして、いつの日か「心が清くなった」と認識できるものなのでしょうか。
回答 どの人も良い人に見えて、どの人も汚れなく見えたとき、真に心が清い状態になったと言える。というのも、まず「善き目は悪を見ず」(ハバクク 1 : 13)という心の状態に至らなかったら、使徒の「たがいに人をもって己より優れりとせよ」(フィリッピ 2 : 3)という心境をどうやって実現できようか。なにせ、どの人を見てもひとしく「己よりも優れている」と真心から感じることができなければならないのだ。
質問 清さとは何でしょうか。そして、清さの極みとはどういう状態でしょうか。
回答 清さとは、世間ではふつうとされる「慾をとおしたものの見方」を忘れることである。では、「慾をとおしたものの見方」から解放されて、その部外者となるためにはどうしたらよいか。まさに原初に賜っていたように純朴になり、もともと本性が帯びていた柔和さに至って赤子のようになることである。ただし赤子の欠点はもたず、悪意を一切もたない心である。ここに清さの極みがある。
質問 そのような高みに上ることなどできるのでしょうか。
回答 もちろんだ。というのも、現にそういう水準に至った者がいるではないか。師父シソイもそういう水準に至って、さきほど摂ったばかりの食事について「そういえばもう食べただろうか、まだ食べてないだろうか」と弟子に訊いたほどだった。他にもそういう原初の純朴さに至った師父が、ほぼ赤子並みの無邪気に至って世のことをすべて忘れ去り、領聖前に食べようとしたところを弟子に止められて、赤子みたく弟子に介助してもらって領聖したことすらあるではないか。しかし世から見ると赤子だった師父も、神の前では霊的に完璧だったのである。
質問 修行者は静かな僧房で黙修しているとき、何について思いめぐらすべきでしょうか。そして、どんなことを絶えずしていれば、空しい想念が知性に入り込んでくるのを防げるでしょうか。
回答 僧房で死者となろうとする者が、何について思うべきかなどと訊ねるか。霊的に熱心に目覚めている身であるならば、ひとりきりで自分自身と向き合っているときに何をしたら良いかなど訊ねるまでもあるまい。修道士が僧房にいるとき、泣くこと以外にどんな仕事があろう。泣くのを止めて違う想念で過ごしている暇などないはずだ。それに、涕泣よりも優れた課題などあろうか。修道士がそこに独りでいること自体、人間的な喜びからかけ離れた墓の中にいるようなものであり、修道士の活動とはまさに涕泣だと教えている。それに修道士という呼称の意味も、泣けと言って諭している。なぜならこの呼称は「嘆く者」、つまり「心に哀傷を負う者」という意味なのだ。だから聖人はみな涙を流しながら今世から来世へと移った。もし聖人ともあろう方々が泣いていたのなら、そのうえ来世へ移る日までいつもその目に涙が溢れていたのなら、いったいだれが泣かずにいられよう。修道士は泣くことで慰められる。そもそも完璧に勝ち抜いた聖人がここで泣いていたというのに、傷だらけの身で泣くのをやめたりしたらどんな目に遭ってしまうことか。目の前に横たわる死者を見て「むしろ私こそ罪に殺られた死者だ」と自覚する者ならば、泣いて何を思うべきかなど教わるまでもあるまい。なにせ全世界よりも大切な霊たましいが、そのあなたの霊たましいが、こうして罪に殺られて目の前に横たわっているというのに、どうして泣かずにいられようか。だから、われわれも人里離れて辛抱強く黙修に留まろう。黙修に留まっていれば、きっと涙を流せるようになる。頭の中で頻繁に、どうか涙を与えてくださいと主に祈ろう。というのも、このとびっきり優れた賜である涙の恩寵を手にすれば、恩寵に助けられて清さに至ることができるからだ。しかもそういう清さに至ったのであれば、もはやこの世を去る瞬間までその清さが無くなることはない。
かくして、心の清き者は幸いなのだ。なぜなら、途切れることなくこの恩寵の涙で楽しんでいるからである。そしてこの恩寵の中でいつも主を見ているからである。目から涙がこぼれ落ちるか落ちないかというときに、すでに祈りの高みにあって主の啓示を観るに与り、涙を流さずに祈ることもない。これこそ、主が「泣く者は幸いなり、かれら慰めを得んとすればなり」(マトフェイ5 : 4)と告げられた聖句の意味である。人は泣くことによって、心の清さに至るからである。ゆえに主は「かれら慰めを得んとすればなり」と告げただけで、その慰めがいったいどんな慰めなのかわざわざ説明されなかった。というのも、いみじくも修道士が泣いて慾の峠を越えて「清い心」という平野にたどり着ければ、おのずとこの慰めに包まれるからである。したがって、もし現世で慰めを探し求める者が「清い心」という平野に達して、現世では得がたい慰めを見出したのであれば、その時こそ、まさに泣き尽くすとどんな慰めが待っているのか、心が清いとどんな慰めに与ることになるのか目の当たりにするだろう。なぜなら絶えず泣く者は、慾に思い悩まされることがないからだ。ただ無慾になった者だけが、涙を流して泣くという賜を授かる。さらに言っておくと、しばらく泣き嘆いただけでも無慾に近づける上に、知性も慾の記憶をさっぱり洗い流して自由になれるのだとしたら、はたして日夜この業に賢く励んでいる者は、いったいどれほどの状態に至るのであろうか。だから、この業に全霊を投じた者以外に、涙がもたらす助力を知っている者はいないのである。聖人がみなこの入口に寄ってたかるのも、ひとえに涙で門を開いて慰めの国へ入っていけるからである。そして慰めの国へ入るなり表象をとおして啓示を受け、救いをもたらす至善なる神の跡を観ることになる。
質問 ただ、体力がなくて絶えず泣くことなどできない人もいるではありませんか。そのような人は知性を守るために何をすべきでしょうか。無為にしているせいで慾が暴れ出してしまわないようにするためです。
回答 もし修行者が人里離れた所へ隠遁し、その心も世に埋もれていなければ、よほど任務を怠る無精者でもないかぎり、霊(たましい)が慾の渦に悩まされることはない。こと聖書の研究に勤しんでいれば、聖句の意味を探しながらいささかも慾に悩まされずにいられる。というのは、聖書を深く理解して心に埋め込んでいくと空しい想念が逃げていき、もっと聖書を読んで知の糧にしたいと思わずにいられなくなるからだ。そしてこの世の生活には目もくれず、取り組んでいる業があまりにも楽しくて、索漠とした荒野の静寂の中で空しいことを思わなくなる。そうすると自分自身のことも本性のことも忘れ去り、まるで有頂天になった人のように現世をまったく振り返らず、ひたすら神の偉大さを思いめぐらして没頭してこう言うのだ。「光栄は聖なる神に帰し、神のなす奇蹟に帰すべし。その御業はなんと偉大にして驚くべきことか。なんという高みまでこの罪深い身を昇らせてくださったことか。おかげでこんなにも素晴らしいことを学び、どんどんすごいことを思えるようになってこの胸が躍っていることか」と。こうして昼夜御業を思って感嘆しながら陶酔し、あたかも復活後の生命をすでに味わっているのも、ひとえに黙修がこのような恩寵を強く呼び寄せるからである。なにせ黙修のおかげで知性が安らいで、知性が頭の内に留まれるようになったのだ。そして黙修者らしい生き方を忘れなくなったのだ。というのも、義人や修行者のいただく来世の光栄や福楽を思い描きながら万人の復活を思いめぐらしていると、現世によせる思いや追憶など跡形もなく消え去るからである。
そしてこの陶酔に満ち足りて、ふたたび来世から今生きている現世に観照を移すと、究めがたき神の摂理や善慮を見届けて「ああ深いかな神の富と智慧と知識や、その定めはいかに測りがたく、その道はいかに究めがたき」(ロマ 11 : 33)と驚嘆する。というのも、はたして神がかつて、こんな素晴らしい時空をどこか別の時空に整え、そこに理性的存在(天使や人間)を住まわせて終わりなく生かそうとしたことなどあっただろうか。なぜ神はこのような前段階といえる世界を造り、全世界を広げてこれほど豊かに満たし、いろいろな種属や生物をふんだんにこしらえて慾の誘因の入る余地も与え、生物がそれによって成長したり克己したりするようにされたのだろうか。それにしてもなぜ、まずは現世にわれわれを置いてこの世で長生きしたいと思わせておきながら、あるとき突然死によってここからもぎ取り、しばらく無感覚で動けない状態にしてこの人間という像を打ち砕かれるのか。つまり遺体を粉々にして土と同化させ、人体が原型をとどめないほど朽ちて消えるのに任せたのだろうか。そして、いったんそうしておいた後で、さらに崇高なる叡智が定めた時、つまり神が欲された時、神のみぞ知る新しい像に変えてわれわれを呼び起こし、いまとは違う新しい状態へ連れ出されるのだろうか。しかもわれわれだけがその新しい状態になることを願っているのではない。現世を生きる必要のない聖天使さえも願っているのだ。聖天使は飛びぬけた本性で限りなく完全にちかい存在なのに、われわれ人類が腐敗から立ち上がり、塵から起き上がって生まれ変わるのを待っている。というのも、われわれのせいで入口が閉じて入れなくなってしまったため、新時空の門がいつか開かれるのをずっと待っているのである。いずれ今流れている時空の構成全体が木端微塵に砕け、人間の本性も原初の状態に立ち返れば、ついにこの受造物(天使)もわれわれと共に、重たかった人体が軽くなるのを見て安らぐだろう。使徒も「それ受造物は甚だ慕いて、神の諸子の顕あらわれを待つ。すなわち受造物自らもまた敗壊の奴どより解かれて、神の諸子の光栄の自由に入いらんこと是これなり」(ロマ 8 : 19, 21)と言ったとおりである。
まさにこのような眺望から、黙修者はさらに知力を働かせてこの世が造られる以前に何があったかを思うだろう。そう、何一つ造られた物がなく、空もなければ地も天使もなく、存在を得たものが一つとしてなかった時代のことを。そして神がただ仁慈であるがゆえに何もなかったところから一気にすべてに存在を与え、どの受造物も神の前で完璧な形で現れたことを思うだろう。そしてふたたび知性でもって全受造物に目を向け、神の造った作品の比類なき美しさと智慧を注視し、考えれば考えるほど舌を巻くのである。
なんという奇蹟か。神はなんと捉えがたい高みにて摂理して動かされていることか。なんという驚くべき巨大な力が受造物に働きかけていることか。どうやってこの数えきれない多様な受造物を次々と無から有に導き出されたのか。しかも、なぜまたその受造物を木端微塵に打ち砕かれるのか。この見事に調和した世界の構造を根底から崩し、この美しい自然をぐちゃぐちゃにし、このきちんとした年月・昼夜の移り変わりや、年をきざむ季節の移ろいを叩きつぶされるのか。さらに、土から萌え出ずる多様な花々をずたずたにし、この立派な都会の建築物や華麗な宮殿を吹き飛ばし、この奔走する人々と「人が生きていること」自体を打ちのめし、この世に生まれて息を引き取るまで苦労を負い続けた人生を押しつぶされるのか。そしてこの見事な秩序が突如止まって異なる時空が訪れたが最後、だれも以前の時空にあった受造物について思い起こすことはなく、人の容姿も思慮もことごとく変り果てるという。人の本性すらも、この世のことやそもそも自分がどんな状態だったか覚えていない。なぜなら知性は次世の状態を観照するのに夢中になるため、いまさら血肉との闘いに戻る余裕などなくなるからだ。というのもこの時空が崩壊するとき、ほぼ同時に次の時空がやってくるのである。そのとき、だれもが口をそろえて言うだろう。「ああ、子供たちに忘れられてしまった母よ。これまで生み育てて教えてきたというのに、子供たちが一瞬でよそ者に取られ、生んだ試しもない石女の実子となり果ててしまったとは。さあ石女よ、いまこそ『妊まず、生まざる者、楽しめ』(イサイヤ 54 : 1)。なにせ地がなんじのために生み育ててくれた子供たちを、その懐に抱けたのだから」と。
ここまで思いめぐらした挙句に、きっと自問自答するに違いない。「この時空は、あとどれくらい持つのだろうか。そして次の時空はいつ始まるのだろうか。あとどれくらいの間、建物は現状のままびくともせず、身体は土くれを含んだままなのか。次はどんな生命が待っているのだろうか。この本性はどんな形で復活し、どんな仕組みとなり、どんなふうに新しい受造物へ移り変わっていくのだろうか」と。そして、そうこう考えているうちに歓喜に至り、感嘆のあまり言葉を失って立ち上がっては跪き、とめどなく涙を流して感謝と讃美を神に献げるだろう。ちょうどこれまでにも叡智の御業を見抜いた人々が神を讃美してきたように――。
ああ、このような状態にあずかった者は幸いである。こういうことを日夜考えている者は幸いである。こういった事柄を生涯思いめぐらしている者こそ幸いなのだ。かといって、黙修し始めたばかりの段階で、どうもまだ知性が浮ついてしまうせいでこういう観照力がなく、右記したような神の大いなる奇蹟まで昇りきることができなかったとしても、がっかりして黙修生活の静けさから離れたりしてはいけない。というのも、農夫でさえ種まきをする時点では、種を蒔いてすぐ実がたわわにつくのを目にするわけではなかろう。種まきをするとなれば、途方に暮れたり粉骨砕身してくたびれたり、友人や家族と離れて汗を流さなければならないことだってある。でもそういうことを何もかも耐え抜けば、やがてしかるべき時が訪れるなり飛び跳ねて喜び祝うことになるだろう。まさに汗水垂らして手に入れた属神的な糧を味わい、黙修の内から思慮が出なくなった時に喜び祝うことになるのだ。なにせ黙修に耐えて思いめぐらしていればこそ、心には底知れぬ深い満足感が生じ、知性は言いがたい驚嘆に至るからである。とにかく黙修を耐え忍ぶ者は幸いである。なぜなら目の前で神聖な泉が湧き出すからである。その泉を飲んで楽しみ、昼夜いつも飲み続け、いずれこの過ぎゆく人生の最後の一息をつく瞬間まで、ひたすら飲み続けることになるからである。
質問 黙修して修行しているときに最も重要なこととは何でしょうか。黙修生活において完徳に至ったと分かるのはどんなときでしょうか。
回答 絶え間ない祈りに与ったときだ。というのも、人は絶え間なく祈るようになったとき、あらゆる徳の高みへ昇り、もはや聖神の住処となるからである。この慰むる者(聖神)の恩寵を確実に得なければ、絶え間なく自由に祈ることなどできない。なぜならよく言われているように、聖神が宿るなり人が祈っているというよりも聖神自身が人のうちでいつも祈るようになるからである(ロマ 8 : 26 参照)。こうなると、寝ても覚めても霊たましいのうちで絶えず祈るようになり、食べていようと飲んでいようと寝ていようと仕事していようと、たといぐっすり熟睡していたとしても、心から香高い蒸気のごとく祈りがやすやすと昇っていくのだ。そうなるともはや祈りを手放さず、たとい見た目では黙っているように見えても、つねに見えない形で奉神礼を挙げていることになる。というのもある捧神者が述べたように、清い者の沈黙とは、祈りだからだ。なぜなら聖なることを思いめぐらしており、その思いも考えも柔和な歌声となって、見えない形で見えない神を讃美しているからである。
質問 属神的な祈りとは何でしょうか。どのようにして修行者はその祈りに与れるのでしょうか。
回答 人は抜かりなく汚れなく清まると、霊たましいが聖神の働きを領うけて動くようになる。しかもそのような聖神の働きにあずかるのは何十万人に一人いるかいないかだ。それは神秘的な来世の状態にして来世の生き方だからである。本性も昇華していった末、まったく動かくなって現世を忘れて機能しなくなる。霊たましいも祈祷して祈るのではなく、むしろ感覚的にかの時世の属神的事柄を捉えるようになる。その事柄は人知を超えているため聖神の力なくして捉えられない。これぞ祈りによる動きや探求ではなく、知性による観照なのだ。もちろん祈りから始まった観照であることは確かだが……。というのも、この観照やそれに似たものを通してすでに完全な清さに至った人が数名いる。そして先述したように、かれらは内なる動きで一時も祈りから離れることはなかったし、聖神が降ってきたとき常に祈っている状態であった。そしてこの祈りから聖神に導かれて属神的直観と呼ばれる観照へ昇ったのである。というのも長々と祈ってみたり、延々とつづく奉神礼に立ったまま参祷してみたりする必要などなかったのだ。ただ神を思い出すだけで充分であり、思い出したかと思いきや神への愛に捕らわれていた。といっても、決して公祈祷に立つことを怠けていたわけではない。むしろ公祈祷で参祷すべきときには参祷し、参祷後も絶え間なく祈っていた上に、なおかつ定刻が来るなり祈祷に立ったというわけだ。
というのも周知のとおり、聖アントニイなどは九時課の祈祷中に、知性が昇華したのを感じたというではないか。他にも、手を挙げて立って祈りながら四日間も有頂天のままだったという師父もいるし、そういう風に祈りながら強く神を思って没頭し、神を愛するあまり恍惚に至ったという師父も多い。人が、罪を殺す主の戒めを守り、内面でも外面でも罪を脱ぎ捨てたとき、このような状態に与ることができるのである。主の戒めを愛し、きちんと主の戒めを活かしたいならば、人間的な諸用事から自由になる必要がある。つまり体を脱ぎ捨てて体の外に出ることだ。ただし体自体を脱ぎ捨てよという意味ではなく、いわば体の基本的欲求を脱ぎ捨てて、飲み食いとはかけ離れたかたちで生きなければならないという意味である。いつも法を定めた方(神)の生き方に倣って生活し、主の戒めを指針として暮らしているならば、その人の内に罪の居場所はなくなるだろう。だからこそ主は、戒めを守る者の内に住処を作る、と福音書において約束されたのである(イオアン 14 : 23 参照)。
質問 次々と聖神の賜を授かった末に、完徳に至るのはどういう時でしょうか。
回答 完全な神の愛に与ったときだ。
質問 どのような徴候によって、そのような愛にたどり着いたと分かるのでしょうか。
回答 神への思いが募るなり、心も神への愛に目覚めて目から涙が止まらなくなったときだ。なにせ愛する相手を思い出すと涙が出るのは自然なことだろう。神を愛しつづける者が涙に乾くことがないのも、いつも神を思う材料に事欠かないからである。すると睡眠中も神と対話するようになる。というのも、ふつう愛していればそんな風になるものであり、修行者がそのような領域に至ったということは、つまり完徳に至ったということである。
質問 たとえば苦労してへとへとになるまで闘った後で、傲慢な想いが入りこんできたとします。つい、あれだけひどい苦労に耐えて、よくぞ見事に徳行を成しとげたものだと思ってしまったからです。このような場合、どうやって傲慢な想いに打ち勝ったらよいでしょうか。傲慢の想念にやられてしまわないようにするためです。
回答 ちょうど木から落ちる枯れ葉のように神から落ちていく自分を認識したとき、霊たましいの力量を悟ることだろう。あれほど闘って徳を身につけてこられたのは、はたして自力によるものだったのだろうか、と。だが実際には、日頃からただ主に助けてもらってきたにすぎず、うかつにも妙な思いを抱いたせいで主に助けてもらえず悪魔と一対一で闘わされたが最後、おのれの力量、というか惨敗ぶりや四苦八苦ぶりがあらわになっただけのことなのだ。というのも、いつも修行者を支える神の摂理があなたにも寄り添ってくれていたのであり、神の摂理こそ聖人を守って力づけているものだからある。つまり人は、いかなる身分であっても神のために修行したり致命の苦痛を耐えたり困難を忍んでいれば、まさに神の摂理の力によって勝てるのだ。この事実は火を見るよりも明らかにして疑う余地はない。第一、このような本性でありながら、どうやって肢体に生じる快感に打ち勝つことなどできようか。快感に負ければ無念な思いをするに決まっているのに、手強い相手でなかなか抗おうにも抗えない。しかも快感に打ち勝ちたいと熱望しているにもかかわらず、なぜ快感に襲われるなり克服できない人たちがいるのか。克服できないどころか、毎日のように身体的快感に負けては辛酸を舐め、傷ついた霊たましいのことを泣いては無力感に陥っているのか。そういう人たちもいる中で、なぜあなたはこんなにも抗いがたい体の要求を楽々と持ちこたえ、取り乱さずにいられるのか。そしてこんなにも痛みに弱く、爪の裏を茨でちくんと刺されるのすら耐えがたい体が、鉄斧で切り刻まれようとも、あらゆる苦痛で肢体を打ちのめされようとも忍んでめげず、ふつう感じるようには苦痛を感じずにいられるのか。もし本性の力以外の他力が外からやってきて激痛を退けているのでなければ、こんなことが可能となるわけがなかろう。いやはや神の摂理について語り出した以上は、ここでしっかり霊たましいのためになる話をしておこう。まさに、闘う人を称える話である。
あるときフェオドルという青年が、迫害に遭って全身痛めつけられていた。「痛みを感じたでしょうか」と訊かれてこう答えたという。「打たれ始めたときは痛いと思いました。でもしばらくすると青年のような方が来て、汗を拭いてくれました。闘っているこの身を力づけて、苦しみを和らげてくれたのです」と。ああ、神の慈悲はなんと限りなく深いことか。神のために苦行を耐える者は、どれほど神の恩寵に寄り添ってもらえることか。恩寵に寄り添ってもらえるお陰で、神の名のために喜んで迫害を耐え忍ぶことができるのだ。
というわけで、人間よ。あなたのことを慮っていてくださる神の摂理に対して感謝の念を忘れてはならない。たといあなたが主の道具のようなもので明らかに勝利者ではなかったとしても、現に主があなたをとおして闘ってきてくれたおかげで勝利者の一人と思われているのだとしたら、どうしてつねに主の力を乞わずにいられようか。主の力でこれからも打ち勝って称賛を受け、神を讃えたとして何がいけないのか。いったいどれほど多くの修行者が、この恩寵に対する感謝の念を忘れたせいで高度な生活や修行から転落したことか、まさか知らないわけでもあるまい。神のもとには人々のためにいろいろな賜が用意されている。だから受けとれる賜にもいろいろとあるわけだが、それは受けとる側の水準に合わせて与えられる。大小いかなる賜も高級で素晴らしい賜だが、その賜が誉れ高ければ誉れ高いほど、受領者に求められる水準もより高くなる。これと同じことが、われわれの授かった修道士という賜にも言えるのだ。つまり「神に献身して徳に生きる道」という賜もハリストスの大いなる賜の一つなのだが、どうも恩寵のおかげで人里離れて神に献身できるようなったことを忘れてしまう者が多い。ひとえに神の恩寵に選ばれたおかげで、このような賜にあずかって神に献身できる身になったというのに、その事実を忘れて傲慢と自己過信に陥ってしまうわけだ。本来であれば、神のおかげで人里離れて奥義を知ることができたことに絶えず感謝し、恩寵に助けられながら清く生きて属神的に神に仕えるべきところを、われこそは神に慈しみを垂れてみせたのだなどと自負してしまうのである。そして、そんなふうに考えているので少しも震えおののかないどころか、かつて先人が同じ考えに陥った途端に尊厳を失ったという話を聞いても、つまり自負のせいで築き上げてきた栄誉の高みから瞬く間に主に落とされたという話を聞いてもびくともしない。ゆえに、汚れに手を染めて堕落していき、ほぼ家畜に成り下がって恥ずべき行為に溺れてしまうのである。なにせおのれの力量を弁えず、恩寵をくださったお方を常に記憶していなかったからである。それに恩寵のおかげで奉仕して神の国へ入れたことや、恩寵のおかげで天使のように生きて神に近づけたという事実を忘れてしまった以上、神に天の生活(修道生活)から追い払われてしまうのだ。そして黙修とかそういう生き方を後にしてはじめて、いかにこれまで本能にも悪魔の抵抗にも悩まされずに敬虔に生きてこられたとしても、それが自力でできた生活ではなかったと思い知るのである。自力でなかったどころか、すべて神の恩寵の力だったからである。そのうえ(これは世間には測りがたく理解できないことかもしれないが)、どれだけ長いこと恩寵のおかげで負けずにこられたか思い知るのである。当然いつも守り抜いてくださる力が、しっかり寄り添って助けてくださってきたわけだ。それなのに、この力を忘れてしまうのなら、使徒の言葉どおり「彼らは神をその思いに存するを願わざりしによりて、神は彼らを、戻れる心を抱きて、不当なることを行うにわたせり」(ロマ 1 : 28)となるだろう。要するに、土くれの分際にすぎないわれわれが、もし属神的な修行へ呼び寄せてくださったお方のことを忘れてしまうのなら、当然、その迷いに見合った恥を被ることになるのである。
質問 とつぜん思いきって共同生活を捨てた人が、よき熱意からひと気ない荒野に引きこもったせいで、欠乏のあまり飢えて死んでしまったとかいう話はないでしょうか。
回答 神は動物を造るときでさえ、まずは棲み処を用意して霊智なきものが生きられるように気遣ってくださった。であれば尚のこと、とくに試すわけでなく素直な気持ちで神に畏れ従っていこうとする者を軽視されるわけがない。おのが意志をことごとく神に献げきった者は、もはや衣食が足りるだろうとか病気にならないだろうかとか思い煩わない。それどころか隠遁して細々と生きようと思っているので苦難なんぞ恐れやしないのだ。むしろ清い生活ゆえに世界中から見放されることを快い甘味と捉え、丘や山に入って自分を弱らせつつ霊智なき動物とともに放浪者のごとく生きる。少しは体を休めろよとか、よほど汚れた人生の方がましじゃないかと囁かれても屈しやしない。そしてとうとう死にそうになったとき、どうしても神における清い生き方を失いたくなくて泣きながら祈りつづける。そのとき、神の助けが降ってくるのだ。光栄と栄誉は神に帰すべし。願わくは、われわれも主の清さのうちに守られて聖神の恩寵によって成聖されんことを。そして主の清さのうちに、主の聖なる名が讃栄せられんことを。今もいつも世々に、アミン。
第22訓話 貧窮を恐れる体は、罪の友となることについて
貧窮を恐れる体は罪の友となる、と述べた師父がいる。体を極限まで追い込んだら死んでしまうと叫ぶ者は罪の友となるということだ。だからこそ、聖神はあえて体が死ぬように仕向けてくるのだ。というのも、体が死ななければ罪に勝てないことを知っているからである。もし主に住みこんでもらいたければ、体を神に仕えさせて聖神の戒めにそって働き、使徒のいう「肉の行い」を避けて霊たましいを守ることだ(ガラティヤ 5 : 19 参照)。体で罪を犯せば肉慾の行為にとろけてしまい、そうなると聖神の宿る余地はない。なにせ斎をして体をしずめて弱めればこそ、霊たましいでしっかり祈れるようになるからである。しかし黙修のひどい欠乏にあえいで死にそうになると、よく体からこんな頼りない声が聞こえてくる。「ちょっとくらい気を抜いてふつうに生きさせてくれ。もうしっかり生きられるようになったじゃないか。これでもさんざん苦しめられて色々な試練に耐えてきたのだぞ」と。そして同情心から体への苦しみを解き、いくらか休ませてあげたが最後、それほど長く休んだわけでもないのに徐々に甘い言葉で囁いてくる。しかもこの囁きはかなり強力なため、荒野から出るまで追いかけてくるだろう。「だいたいさ、世の近くにいたって立派に生きることはできるよね。だってかなり修行を積んできたじゃないか。だから、いままで規則を守りながら俗世にいたってきちんと生きられるはずさ。そう、ほんのちょっとだけでいいから試してみないか。もしやってみて気に入らなかったら荒野に戻ってくればいい。まさか荒野が消えてなくなるわけでもあるまい」と。こんなたわごとを信じるな。たとえひどく頼み込まれても、あれやこれや約束されても信じるな。体は言ったことを守りやしない。もし体の要求に応えようとするならば、ひどい堕落に陥って二度と抜け出せなくなってしまうだろう。
次々と試練に見舞われて落ちこんだときには、「また恥ずべき汚れた生活をしたいのか」と自分に言い聞かせるといい。そして体が「自分自身を殺すことは重罪だ」と口答えしてきたら、こう言い返してやれ。「ふしだらに生きられないから自分を殺すのだ。ここで死んでおけば霊たましいが真の死を見ることはない、つまり神の前で死ぬことはない。いっそ清さゆえにここで死んだ方がましだ。世間で忌まわしく生きることよりもずっとましだ。だいたい罪を犯してしまったから、あえてここで死ぬという道を選んだのだ。主に対して罪を犯してしまったからこそ、自分で自分を痛めつけるのだ。神から離れた人生に、なんの価値があろうか。天国へ入る望みから遠のいてしまわないよう、この苦しみに耐えていくつもりだ。この世でひどく生きて神を怒らせたりしたら、そもそも生きている意味がどこにある」と。